【アフリカ大湖地域の雑草たち】(28)

思いやりは無用の長物

大賀 敏子
 
 本稿は、コンゴ動乱をテーマにした先行の10稿(『アフリカ大湖地域の雑草たち(17)-(19)、(21)-(27)』(それぞれオルタ広場2022年5-7月号、9-11月号、2023年1-2月号、4-5月号掲載(末尾のリンク参照))の続きである。
 
I 国連軍は攻撃する軍隊 
 活動原則の変更
 
 1961年2月21日、ニューヨークの国連安保理は、国連コンゴ活動(ONUC)について、4つめの決議(S/4741)を採択した。コンゴに派遣されてから半年あまり、「自衛のとき以外は、武力は行使しない」という原則に変更が加えられた。「必要なら、最後の手段として、武力行使も可」、つまり、たとえ攻撃されなくても、攻撃をしかけてもよい(military initiativeの許可)こととなった。決議案はセイロン、リベリア、アラブ連合三者の共同提案で、結果は賛成9、反対0、棄権2(ソ連とフランス)だった。
 決議は「国連に対し、内戦(civil war)をくい止めるため、すべての適切な策をただちにとることを求め」、適切な策とは「停戦のアレンジ、軍事行動の停止、衝突の回避、必要であれば最後の手段としての武力行使など」とある(註1)。
 ときはルムンバ元首相の殺害が公表された直後だ。この大きな犠牲がバネになって、国連軍はそれまで以上に活躍できるようになったのだろうか(PKO活動原則については、オルタ広場2023年4月号拙稿参照)。
 
 (註1)決議S/4741Aの趣旨
 元首相らの殺害という情報を受け、コンゴで報復が起き、かつ内戦と流血がさらに拡大すること、及び、国際平和と安全を脅かしていることを深く懸念し、内戦へと事態が進展している旨を示す、1961年2月12日付けの事務総長特別代表報告(S/4691(カタンガ州情勢だけに言及したもの(筆者註)))に留意し、
 パラ1 国連に対し、内戦をくい止めるため、すべての適切な策をただちにとることを求める。適切な策とは、停戦のアレンジ、軍事行動の停止、衝突の回避、必要であれば最後の手段としての武力行使などである。
 パラ2 ベルギーやほかの外国の軍人と民兵(military and paramilitary personnel)と政治アドバイザーであって、国連指揮下にない者は、ただちに撤退・退去させよ。
 パラ3 関係国は、これらの人材が自国からコンゴへ出発するのを防がねばならず、また、自国領土を通行させたり便宜を図ったりしてはならない。
 パラ4 ルムンバらが死に至った状況についてただちに中立な調査をし、犯人を処罰すること。
 パラ5 先行の安保理決議と総会決議を再確認する。
 (決議はAとBに区分されており(筆者註))Bで、「コンゴ議会を開くように要請する」「コンゴ国軍が規律と統制を立て直し、内政に干渉しないよう要請する」で、このために全加盟国がそれぞれ協力することと求めている。
 
 ふたつの否決された決議案
 
 この決定の直前、上程され否決された別の決議案がある。それはソ連提案で、国連軍を撤退させるものだ(賛成はソ連のみ、反対8、棄権2(セイロン、アラブ連合))。これをもって、ひとまずONUC継続が決まった。
 さらにもう一つ、この同じ会合で葬られた決議案がある。これもセイロン、リベリア、アラブ連合三者の共同提案で、コンゴの政治的リーダーたちに対する不当逮捕や暴行を、ONUCの力で止めさせようとするものだ。
 セイロン、リベリア、アラブ連合の三国は、1961年の安保理非常任理事国だ(註2)。共同提案とは、これら三国のみならず、安保理メンバーではない、当時のアジア・アフリカ諸国が水面下で交渉しまとめた意見だと考えてよい。当時、国連に対しいま以上に期待があったとすれば、それはこれらの国々のホットな思いのためだ。
 これら二つの決議案のうち、前者はソ連の「ダメもと」もあっただろうが、後者は、事件―つまり、元首相の殺害のような重大な出来事―に、正面から対応しようとするものだ。であるのに、なぜ否決されてしまったのか。
 本稿では、この否決に焦点を当てて書く。
 
 (註2)
 1960年非常任理事国は、アルゼンチン、セイロン、エクアドル、イタリア、ポーランド、チュニジア
 1961年非常任理事国は、セイロン、チリ、エクアドル、リベリア、トルコ、アラブ連合
 
 II 話し合っているうちに人が死んでいく 
 殺人を傍観しているだけ
 
 上記のように意思決定するのに、安保理は実に3ヶ月を要した。
 始まり(1960年12月7日安保理913会合)は、ルムンバ元首相が逮捕された(モブツ陸軍参謀総長指揮下の国軍によって)直後だが、まだ生きていた。話し合いが継続しているうちに、元首相は殺害された。さらに、元首相のほか、抗争しあうそれぞれのグループの要人たちが、それぞれの政敵に拘束・拘留され、多かれ少なかれ暴行を受けていた。顔がはれ、片眼をつぶされ、破れたシャツに後ろ手に縛られ、足を引きずりながら歩くコンゴ人リーダーたち……
(写真「このころ殺害された代表的な人たち」)。
画像の説明
写真1(AFPから転写):Patrice Lumumba(右から2人め、髭の人物)、1961年1月17日、エリザベートビルで殺害された
画像の説明
写真2(NY Timesから転写):Jean-Pierre Finant、親ルムンバ・元ルムンバ内閣閣僚、1961年2月20日ころ、バクワンガで殺害された
画像の説明
写真3(Wikipediaから転写):Alphonse Songolo、反ルムンバ。スタンレービルで拘束・暴行され、片眼失明。2月20日ころ殺害された(The Guardian, 23 February 1961による)

 セイロン代表の発言がわかりやすい(1960年12月10日安保理917会合、パラ26)。
 「略奪、強奪、暴行が横行し、殺人さえ起きているのに……(国連軍は)何もせずに突っ立っているだけだ。国連軍は法と秩序の維持に当たっているはずなのに、逮捕、投獄されていくのを見ているだけだ。これでいいのか」
 実際、国連軍は、これら政治犯の逮捕に協力せず、かと言って、逮捕を止めもせず、ましてや逮捕された人を救け出そうともしなかった(事務総長報告S/4571)。中立・不偏を堅持し、国内政治抗争に関わってはならぬ―これは厳命だった。
 
 はっきり指示してくれ
 
 「何もせず突っ立っているだけの国連軍」を、ハマーショルド国連事務総長はこう説明した。
 「(総会か安保理に)伺いたい。私、あるいは、国連軍に「take the initiative in military action(攻撃をしかけること)」を、これまで一度でもお許しになりましたか」「答えはノーです」「なんならこれまでの議事録を復習なさってください」(1960年12月16日総会950会合、パラ103-104)
 「執行措置(enforcement measures)を執るにはその旨の決定が必要」だが「(ONUC創設直後の)8月時点から、憲章41条・42条マンデートはいただいていない」「(執行措置を執れというのなら)総会も安保理も相応の責任を担ってほしい」(1960年12月13日安保理920会合、パラ73-97)
 さらにこうも言った。
 「私がお願いしているのは、マンデート拡大や新たな手段ではない。私がはっきりお願いしているのは、あいまいな指示は止めてくださいとうことだ」(1960年12月17総会953会合、パラ181)
 国連職員にとって、加盟国はクライアントだ。
 
 コンゴ問題ではない、国連問題だ
 
 話し合いの目的はシンプルだった。国連の力で政治犯たちを釈放させ、その人たちで議会を再開してもらおう、国連の力で議会を護衛し、コンゴ人自身に国政を決定してもらおう、そうなるまでの間、国連の力で、コンゴ国軍も諸外国も手を出さないようにガードしよう。
 しかし、事務総長にあいまいではない指示を出すのは、まったくシンプルでなかった。なぜなら、目的をどう達成するか話し合うと、コンゴ政界のどの勢力を支持すればいいのかという、本質の問題に突き当たってしまうからだ。東西に分裂した加盟国を前に、事務総長は端的に言った(註3)。
 「当初(1960年7月)は満場一致だったのに、9月以降、とくに、コンゴ国連代表についての議論(オルタ広場拙稿2022年10月号参照)以降、国連総会は深く分断されてしまった。アフリカ・グループもだ。事務局が分断したのではない」(1960年12月17総会953会合、パラ197)
 「議案は「コンゴ情勢」だが、お気づきのとおり、本当の問題は「国連情勢」にあると言った方がよいのではないか」(1960年12月17総会953会合、パラ159)
 安保理では結論が出ず、議論は総会に移った。総会は年末ぎりぎりまで話しあった。しかし、上程された案(決議案A/L.331(ガーナ、インド、インドネシア、イラク、モロッコ、アラブ連合、ユーゴスラビア共同提案)と、これに対しやや穏健な決議案A/L.332(イギリス、アメリカ共同提案))はいずれも採択されなかった。
 ただし、この時点では、いずれの提案も「武力行使可」とは明言していなかった。もっとも、水面下にはあったのだろうが。
 
 (註3)
 このとき国内は大きく分けて4派が抗争中だった。①カサブブ・モブツ派、②ルムンバ派、③チョンべ派、④カロンジ派である(地図(The New York Times, 1 January 1961とWikipediaから転写)参照)。

画像の説明
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 ①はレオポードビル(いまのキンシャサ)中央政府を担い、国連代表権(1960年11月22日、総会決議A/1498(XV)、西側多数の支持)を持つ。②はアントニオ・ギゼンガの指導の下、オリエンタル州スタンレービル(いまのキサンガニ)に、レオポードビルから遷都したという立場(ソ連・東側が支持)、③、④はカタンガ、南カサイで、それぞれ銅・ウラン、ダイヤモンドという豊かな資源で諸外国をひきつけながら、国際的に認められていたわけではないが、いずれも分離独立を宣言していた。議会は停止中、行政は委員会内閣(1960年10月11日-1961年2月9日)が、ONUC技術協力チームとベルギー人のアドバイスを受けながら担当していた。
 
 安保理・四つの事例
 
 仕切り直しの安保理は1961年2月1日に始まった(928会合)。開催を依頼したのは、反ルムンバのカサブブ大統領(1月24日付けS/4639)とルムンバ支持の途上国(セイロン、ガーナ、ギニア、マリ、モロッコ、アラブ連合、ユーゴスラビア(1月26日付けS/4641))双方だ。
 事務総長は改めて経緯を説明した。つまり、武力を使って攻撃をしかけてくれと依頼されたことは確かにあるし、そうしていれば成果をあげられたかもしれないが、マンデートがなかったのできなかったのだ、と。次の四事例を挙げた(928会合、パラ86-88)。
 〇カサブブ大統領の依頼。スタンレービル(ギゼンガ配下)に拘束された政治犯を釈放せよ。国連が協力しないなら、他に軍事支援を依頼するしかないと脅した。
 〇ベルギー政府の依頼。オリエンタル州とキブ州(ギゼンガ配下)の自国民を救ってくれ。ギゼンガ派はルムンバ釈放を求める交渉材料に、ヨーロッパ人の生命の安全を使おうとした(1960年12月9日付け事務総長報告S/4590)。
 〇(時間的には前後するが)ルムンバ首相の依頼。分離独立を宣言していたカタンガを、国連軍を使って制圧せよ(1960年8月15日付けS/4417/Add.7)
 〇そして、ルムンバ支持の多くの国が、ルムンバ逮捕の後、国連軍を使って、釈放させよと依頼。
 このとき元首相すでに死んでいたが、公式には未発表だ。それでもうわさが世界中に広がっていたため、事務総長にとっては、この4番目の事例が最大のプレッシャーであったのは疑いない。それでも、さまざまな事例をバランスをとって列挙したのは、あくまでクライアントへの気づかいである。
 
III 浪花節にもかかわらず
 ついに死の発表
 
 この直後、ルムンバとルムンバ派要人(Finantら6人)の殺害の知らせが立て続けに届けられた(それぞれ、1961年2月13日カタンガ州政府発表、2月20日安保理会合での事務総長口頭報告)。上述の、結局は否決されてしまう決議案が緊急に上程されたのはこのときだ。「政治的リーダーたちの不当な逮捕、追放、暗殺」を防ごう、そのために「必要なら、最後の手段として、武力行使も可」というマンデートをONUCに与えようというものだ(註4)。上述のように、決議案は、セイロン、リベリア、アラブ連合の共同提案だ。
 セイロンとアラブ連合とは異なり、リベリアはルムンバ支持を明確にせず、東西中立を維持していた。にもかかわらず、リベリアも提案に名を連ねたのはなぜか。ルムンバの死は、他の要人たちとは比較にならぬ、別格の大事件だったためだ。「帝国主義と植民地主義の蛮行」「UNはルムンバを見殺しにした」と報道される論調からもうかがえるように、有力国の関与は、会議では明言されないまでも、周知でもあった。
 しかも、ニューヨークの代表者たちにとってはどうだろう。粗削りだがやる気満々の、あの長身で若い首相は、つい半年前、自分の隣に座っていたではないか……安全な会議室で、ぬくぬくと話し合いをしているだけでいいのだろうか、という気分が流れていたとしてもおかしくない。
 
 (註4)セイロン、リベリア、アラブ連合共同提案の否決された決議案S/4733/Rev.1の趣旨
 1961年2月18日付け事務総長特別代表の報告(S/4727)及び2月20日の安保理での事務総長発言―レオポードビル、カタンガ、南カサイでの残虐行為と暗殺について、緊急に安保理の注意を促すもの―に留意し、
 パラ1 コンゴの政治指導者たちへの不当な逮捕、追放、暗殺を強く非難し、
 パラ2 ただちにそのような行為をやめるように求め、
 パラ3 コンゴの国連に対し、暴行を防ぐためにあらゆる可能な策をとるよう求め、暴行を防ぐために必要なら、最後の手段として、武力行使も可、
 パラ4 犯罪者を特定し処罰するため中立な捜査をすることを決意する。
 
 冷酷
 
 しかし、国際交渉は冷酷だ。感情や思いやりは役に立たない。
 この提案が結局は否決されていく、そのありさまをたとえて言えば、こんな感じか。完全に葬ってしまう前に、まだ生きている身体の部分部分を一つ一つ切り落とし、弱らせていくような。
 アメリカが、淡々と、修正案を出した。暴行・乱暴はお互い様だから、ルムンバ派への暴行のみならず、反ルムンバ派への暴行を斟酌し、「スタンレービルにも言及」しようと。対する提案国は、「全世界が(ルムンバ殺害に)ショックを受けているところ」なのに、アメリカ修正案では趣旨が一般化され、決議のねらいが薄められてしまう(942会合、提案国セイロン発言パラ147)と反論した。
 この箇所だけ、つまり、アメリカ修正案だけ採決にかけらた。賛成票は多数あったが、ソ連が拒否権でブロックした(賛成7(チリ、中国、エクアドル、フランス、トルコ、イギリス、アメリカ)、反対3(セイロン、ソ連、アラブ連合)、棄権1(リベリア)。
 
 武力行使条項は削除されたが
 
 ここで中国(台湾)代表が口を開いた(2月21日、941会合)。「最後の手段としての武力行使可」条項についてだ。「武力行使は極端な手段であり、憲章に逆行するように感じ、賛成しかねる」(パラ102)。
 これまで概ね静かだったうえ、この短い発言だけではその政策的真意を推しはかるのは難しいが、中国は該当箇所(武力行使について)だけ採決にかけることを求めた。
 結果は、可決に必要な賛成票を得られず、また、中国の反対(拒否権)もあり、ここでの武力行使条項は、葬り去られた(賛成5(セイロン、チリ、リベリア、ソ連、アラブ連合)、反対1(中国)、棄権5(エクアドル、フランス、トルコ、イギリス、アメリカ)(パラ129))。
 興味深いことは、フランス、イギリス、アメリカの三国は棄権、つまり、必ずしも「武力行使可」に反対しなかったことだ。支持する勢力を武力攻撃するのは許さないが、反対勢力を攻撃するのならかまわぬ、ということか。
 
 子供を殺すのは止めよう
 
 いよいよ決議案全体が採決にかけられる直前、リベリアが「アフリカ代表として言いたい」と挙手した。
 「昔話を思い出した。二人の女性が、とある子供について、自分こそ母親だと主張して争い、裁判に持ち込んだ。非常に難しい審査で、ならば子供を二つに分けたらいいだろうと裁定された。一方の女性は合意したが、他方は子供が殺されてしまうことを思えば、もう一方の女性に任せるのも致し方ないと、自分の主張を取り下げた。こうして、誰が母親かわかったという」
 争うばかりに子供を殺してしまっては、元も子もないという趣旨だ。浪花節である。
 アタマを冷やす時間をとろうというリベリア提案を受けいれ、会議は、ごく短い休憩をとった後、再開された。そして、採決、かくて、決議案は否決された。常任理事国の拒否権のためではない。可決に必要な7の賛成票を得られなかっただけである(賛成6(セイロン、チリ、エクアドル、リベリア、ソ連、アラブ連合)、反対0、棄権5(中国、フランス、トルコ、イギリス、アメリカ))。
 前日午前10時30分から始まった会議は、日付が代わり、未明4時20分になっていた。
 
IV ナイーブなのではない
 大きな報道
 
 こうして安保理は「内戦を予防するために、最後の手段として、武力行使も可」を決めた。これは、「国連に新たなマンデート」「国連の役割拡大」と大きく報道された。
 しかし、このおかげで、国連軍が「事件に対応」できるようになったのであろうか。答えは否定的だ。これまで書いてきたように、そのための決議案は別にあり、それは否決されたのであるから(The New York Times 1961, “U.N. Chief Appeals for More Troops to Bar Congo”, 22 February)(Department of Political and Security Council Affairs, Repertoire of the Practice of the Security Council: Supplement 1959-1963, ST/PSCA/1/Add.3, page 113)。
 
 何も決まっていない
 
 採択された決議について、ソ連代表は、賛成はしないものの棄権し、拒否権を発動しなかったことをこう説明した。「チョンべとモブツを攻撃することになり、肯定できる決議だ。ただし、もし国連軍がこれを、正当政府(ルムンバ派)の攻撃に向けるのなら、決議違反と見なす」(942会合パラ195)。
 イギリス代表は、賛成はしたものの「敵対しあうコンゴ部隊どうしの衝突を防ぐ目的にかぎる」もので、「国連が政治的決着をつけさせるものではあってはらなぬ」と解釈を述べた(The Times 1961 “U.N. to use Force in Congo if Necessary Mandate for Mr. Hammarskjold”, 22 February 1961)。ソ連発言よりオブラートに包んではいるが、趣旨は共通だ。政治抗争の行方、言い換えれば、コンゴをコントロールするのは東なのか西なのかという、いちばん大事なことは、なにも決まっていないということだ。
 
 危険な先例
 
 ソ連と同様に棄権したフランス代表は、国連軍の武力行使にお墨付きを与えるのは「perilous precedent(危険な先例)」となると語った。
 現にアルジェリア情勢が焦眉の課題だったためらしい。ベルギーがコンゴでとことん手を焼いている様子は他人事ではなく、この意味では、まだ植民地を抱えていたイギリスも同様だ(the Guardian 1961 “Security Council’s Decisive Vote: Attacks on Hammarskjold Stoutly Repelled”, 22 February 2022)。
 武力と経済力と、せっかく確保している拒否権を使って、思いどおりにできるものならしたい。しかし、それは、南の国々を敵に回すという大きな危険をはらむ。ときに国連加盟国は99ヶ国、五大国を除いた、残り94票を操ることを模索するほかないのである(The New York Times 1961 “Congo Mandate – New Role for U.N.”, 26 February 1961)。
 本来国連は平和の使者であるはずだ、それが攻撃をしかけるなどあってはならぬ……というナイーブな気持ちだけではなかっただろう。
 一方、当事者のコンゴは、この決議に猛反発した(別稿にゆずる)。
 
 おまけ
 
 もう一つ提案があった。リベリアの提案で、次はコンゴで安保理を開こうという。みんなで現地に行って状況がより良く分かれば、「モラルの力がわき、決議の実施を前進させるだろう」(942会合、パラ246)という動機だ。
 憲章では、ニューヨーク本部以外の場所で会合を開くこともありうるとしている(28条3.安全保障理事会は、その事業を最も容易にすると認めるこの機構の所在地以外の場所で、会議を開くことができる。)
 アメリカ代表が、その場合には輸送を負担してもよいと応じ、ソ連も肯定的だった。ただし、ソ連をはじめいくつかの国が、レオポードビルのカサブブ政権を公式コンゴ政府と認めていないのだ。コンゴに行くとは、ではどのコンゴに行くのかから話し合わなければならなず、そもそも無理な話だ。案件は議長あずかりとして将来の話し合いに託されたが、もちろん実現しなかった。
 このエピソードから伝わるのは、コンゴから届く情報は、流血と混乱だけではなかったということだ。一般論として、植民地での植民者の生活クオリティは低くはないし、ましてやコンゴには、チーズとワイン、焼きたての香ばしいパン、新鮮なトロピカル・フルーツと常夏の青空といったイメ―ジもあっただろう。でなければ、ニューヨークの人たちがわざわざ行ってみようと考えない。
 
 最後に筆者感想
 
 人が殺されているのに国連兵は見ているだけでいいのか、かと言って、平和の使者であるはずの国連軍が攻撃をしかけるなんて……と、書き始めの動機は単純だった。しかし、当時の議事録、国連文書、メディアなどを参照しながらまとめてみると、わかりやすいとはお世辞にも言えないものができてしまった。
 国連には確かにメリットは多々ある。その一方、交渉・会議という仕組みは、シンプルな意図とは似ても似つかぬ最終生産物をもたらすこともある。「それが外交のダイナミズムというものなのだ」とは、国連での元上役の口ぐせだった。外交経験豊かな彼はそれでよいだろう。だが、筆者を含め名もない雑草たちは、国連に期待したいのに、ぜんぜんわかりやすくない。いったい誰のための国連なのか分からなくなることがある。
 
 ナイロビ在住ライター・元国連職員

編集部注:過去の記事はこちらから。
・アフリカ大湖地域の雑草たち(17)「1960年の国連安保理
・アフリカ大湖地域の雑草たち(18)「ベルギー統治時代のコンゴ」
・アフリカ大湖地域の雑草たち(19)「国連職員のクライアント」
・アフリカ大湖地域の雑草たち(21)「相手の実力」
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・アフリカ大湖地域の雑草たち(23)「生涯感謝している」
・アフリカ大湖地域の雑草たち(24)「国連のきれいごと」
・アフリカ大湖地域の雑草たち(25)「誰が問われているのか」
・アフリカ大湖地域の雑草たち(26)「武力をつかって平和を追求する」
・アフリカ大湖地域の雑草たち(27)国連をダメにしたくない
(2023.7.20)
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