【アフリカ大湖地域の雑草たち】(24)

国連のきれいごと

大賀 敏子

本稿は、コンゴ動乱についての先行する六稿『アフリカ大湖地域の雑草たち(17)(18)(19)(21)(22)(23)(それぞれオルタ広場2022年5月号6月号7月号9月号10月号11月号掲載)』の続きである。

I ルムンバ初代首相の殺害

ブリュッセル市ルムンバ広場

 コンゴ(いまのコンゴ民主共和国)のパトリス・ルムンバ初代首相の在職は、1960年6月30日の独立から2ヶ月ほどだった。失脚、逮捕、投獄の後、翌1961年1月17日に政敵の手によって殺害された。35歳だった。
 殺害へのベルギー政府の関与について調べるため、イニシアティブをとったのはベルギー議会だ。議会の調査委員会は、事件から40年後の2001年11月、「政府に道義的責任がある」とする報告書をまとめた。
 ブリュッセル市は、2018年6月30日、14世紀の歴史的遺産が残る中心部で、コンゴ系住民が多い一画を「パトリス・ルムンバ広場」と改称した。歴史認識の更新に60年近くかかった。
 さらに、ベルギー裁判所も動いている。遺族の訴えに対し、殺害は戦争犯罪であったと判断が示され(2012年12月)、生存中の被告に対する審理が進行中である。
 ルムンバの事件はいまもまったく終わっていない。

外国政府の関与

 ルムンバの死は、ベルギー政府ばかりか、アメリカ・イギリス両政府の意向にも沿っていたと伝えられている。
 「(ソ連との接近のため)ワシントンは警戒し、ルムンバはアメリカ政府とベルギー政府によって、カタンガの政敵の手中に送られ処刑された」(Aljazeera “Nation cursed by its wealth”, 31 October 2004)
 「CIAは、ルムンバなど……の外国要人の暗殺を計画した」(The New York Times “The C.I.A. and Lumumba”, 2 August 1981)
 「独立したばかりの国の正当に選出された首相が殺害された。これは、ベルギーとアメリカ両国を満足させたことが立証されている」(The New York Times “Books of the Times; Lumumba, the African Castro or a Dazzling Ray of Hope?”, by Richard Bernstein, 3 August 2001)
 「当時、コンゴMI6幹部だった女性によると、民主的に選ばれたコンゴの初代首相が拉致、殺害されたのは、イギリス・インテリジェンスの冷戦活動のひとつだった」(The Guardian “MI6 ‘arranged Cold War killing’ of Congo prime minister: Claims over Patrice Lumumba's 1961 assassination made by Labour peer in letter to London Review of Books”, 2 April 2013)
 「1960年当時の外務省職員(後にMI5の責任者)が二つの提案を示し、『殺害することで(ソ連に近づきすぎている)ルムンバを排除する』案が好まれた」(BBC “Licence to kill: When governments choose to assassinate”, by Gordon Corera, 17 March 2012)
 主要メディアから拾ったものだが、枚挙にいとまがない。

UNホームページでも

 さらに、国連ホームページには次のような情報が掲載されている。
 「ソ連に軍事支援を求めたルムンバに対し、CIAは(1960年)9月初頭、暗殺と反ルムンバ策をとるようにオーソライズされた。ところが、国連兵が首相公邸を護衛していたため、CIAの試みはなかなかうまく行かなかった」(UN News, Character Sketches: Patrice Lumumba by Brian Urquhart)
 当時の国連職員(ブライアン・アークハート(1919-2021年、イギリス人)が退職後、個人の資格で書いたものだ。
 国連が発信するから正確だと言うのではない。国連事務局は独立した民間のメディアではない。とある情報を公表することについて、理由を示して反論する加盟国が一つでもあるなら、それにかかわらずに当該情報を公表するメリットがないかぎり、事務局は公表を控える。これは政治力や資金力にかかわらない。すべての加盟国はクライアントであり、そもそも加盟国こそ、国連という仕組における主権者、いわばオーナーだからだ。
 開示済みの情報でもあり、周知のことだという判断もあったのだろうが、アメリカ政府は、つまり、これを間接的に認めたのと同じだ。

II ルムンバという人

昇る

 ルムンバは1925年カサイ州で生まれ、キリスト教宣教師の私塾で初等教育を受けた。オリエンタル州スタンレービル(いまのキサンガニ)の郵便局で働いた後、1957年、首都レオポードビル(いまのキンシャサ)でビールを販売していた。政敵であったカタンガ州のモイゼ・チョンべ代表が、植民地時代なりに「裕福で良い出自」だったのに対し、ルムンバは庶民性があった。
 1958年10月のMNC(Mouvement National Congolais)結成が本格的な政治活動の始まりだ。国内ではベルギー人に服従しない運動を呼びかけ、国際的には同年12月ガーナで開かれたAll African People’s Conference出席などを通じて、ガーナ首相エンクルマをはじめ、大陸各地との横の連携を深めた。
 1959月11日1日に逮捕され6ヶ月の刑を受けた(扇動罪)が、独立準備を話し合うベルギー・コンゴ円卓会議(1960年1月20日-2月20日)のため、急遽釈放されブリュッセルへ飛んだ(写真)。ルムンバの釈放と参加がなければ会議をボイコットするというコンゴ代表団に、ベルギー側が譲歩したものだ。
 円卓会議でルムンバは、分裂の危険を抱えたコンゴ代表団をみごとにまとめ、6月30日の独立という合意を勝ち取った。同年5月22日の国政選挙で選出され、初代首相となった。
 ケニアのジョモ・ケニヤッタ、ザンビアのケネス・カウンダらも同様だが、反植民地運動の指導者にとって、「釈放組(prison graduate)」の経歴は、ある意味で勲章だ。

画像の説明
写真:1960年1月26日、ブリュッセルで、獄中縛られて両手首に受けた傷を見せるルムンバ。UN Newsから転写

落ちる

 9月5日政変で公職を追われ、3ヶ月ほど首相公邸で国連軍(ONUC)のガードにあった後、11月27日、再起を図ろうと脱出したが、12月1日、カサイ州北部でコンゴ国軍に逮捕された。翌年1月17日、Thysville(コンゴ最西部に位置するコンゴ州の都市、いまのムバンザ・ヌグング)の獄舎から、カタンガ州エリザベートビル(いまのルブンバシ)に移送され、同日、カタンガ州治安部隊により、ベルギー人傭兵の見守るなかで殺害された。硫酸で遺体は隠滅された。ほかの要人2名も同じ扱いを受けた。
 死亡の事実は1ヶ月近く伏せられ、カタンガ州政府の発表は2月13日だ。ルムンバら3名は脱獄し逃亡を図ったが、付近の住民に殺害されたという内容だった。しかし、これは受け入れられず、とうに殺害されていたと確信する人が圧倒的だった。エリザベートビルは外国人も多い大都市だ。商店、飲食店、娯楽施設などを出入りしていれば―たとえば、ベルギー人傭兵たちが、あたかも大きな仕事が一段落したかのようにくつろいでいる―自ずとわかることだった。

世界中で反応

 死亡が発表されるや否や、国内はもとより諸外国でも、デモ隊がベルギー公館を、それがなければアメリカ公館を取り囲んだ。ニューヨークの国連本部でも、抗議行動で負傷者が出た。ソ連と東側ブロックはベルギーとNATO諸国を非難し、たとえば、キューバのカストロ首相は、「帝国主義と植民地主義、帝国主義的利権の操り人形が実行した蛮行」と言った(The New York Times, 15 February 1961)。
 国連安保理は緊急な対応を求められた。ソ連と東側は、ONUC撤退と「ルムンバを見殺しにした」ハマーショルド事務総長の辞職を求めた。これは入れ替わりに、堂々と東側の軍隊がコンゴに入ることを意味する。なんとしてもそれを避けたい西側は、ONUC強化とともに、たとえばコンゴを信託統治に置くといった、新しいマンデートを提案した(この結果採択された決議については、別稿にゆずる)。

本当に共産主義者だったのか

 確かにルムンバはソ連・東側の援助を受けていたが、ほんとうに共産主義者であったのかどうか。たとえば、独立直後(1960年7月)、アメリカ人ビジネスマン(Edgar Detwiler)を相手に大規模開発プロジェクトの契約に調印したことさえある(契約は後に撤回された)。
 ルムンバがわざわざ国連軍を依頼したのは、それが武力でカタンガを制圧すること期待したからだ(1960年7月12日付け書簡)。ところが、どちらにも加担しないという国連の中立原則につきあたり、思いどおりにならなかった。かくてソ連の支援を求めざるを得なくなり(同年8月15日)、これが「アフリカのカストロ」になりかねないと西側の工作を本格化させた。
 「ハマーショルド国連事務総長の方針が、ルムンバの失脚を早めた」
 上述のベルギー議会報告書はこう指摘している。

ありがちなジレンマ

 ルムンバの家族についての情報がある。父親の死亡時、3人の子供たち(10歳、8歳、5歳)はカイロで、アラブ連合共和国(エジプト)外務省高官夫人がケアしていた。一方、前年の10月から11月ころ、ONUC兵とコンゴ兵が公邸前でにらみ合い、通学が妨害されたという報告もある。子供たちのカイロ移転は、あらかじめ計画されたものではなく、緊急対応だったようだ。
 ルムンバが安全を冒してまで公邸を脱出したのは、政治的目的とともに、乳児(女児11月20頃に死亡)を郷里に埋葬したいという個人的目的もあった。遺体はジュネーブからレオポードビルに搬送されていたという記録から、ルムンバ夫人はあらかじめ出産のためにスイスに渡航したのではないかと推察される。
 公職では国内の治安と秩序を語っても、自分の家族には国外の、より確かな安全を与えたいとする。ジレンマが手に取るようにわかる。いつのまにリッチになってしまったのだと、殺されていなければ批判されたかもしれないが。

III 抗争と国際情勢

4派に分裂

 ルムンバが死に至るまでの半年ほどの情勢を概観しよう。 
 国内の抗争は、①カサブブ・モブツ派、②ルムンバ派、③チョンべ派、④カロンジ派の4派にわかれた(地図参照、The New York Times, 1 January 1961から転写)。①は暫定的ではあったが中央政府(委員会内閣1960年10月11日-1961年2月9日)を担い、西側の支持を受けていた。②はスタンレービルを拠点に、ソ連・東側の援助で力をつけていた(指導者はアントニオ・ギゼンガ)。③、④はカタンガ、南カサイで、それぞれ銅・ウラン、ダイヤモンドという圧倒的な経済力とベルギーに支えられ、国際的に認められていたわけではないが、いずれも分離独立を宣言していた。この間、大統領令により議会は停止中である。
61_01_01 NY Times congo 4 groups map

外国人がごったがえす

 コンゴ情勢をを全世界が注目していたというのは、けっして誇張ではない。
 ニューヨークの国連総会は、1960年11月22日決議(1498(XV))で①のカサブブ大統領がコンゴ代表者であるとしたが、これは西側と旧フランス領アフリカ諸国の支持があった。これに対し東側ブロックのほか、ガーナ、ギニア、マリ、モロッコ、トーゴ、アラブ連合共和国、アフリカ域外からはインド、インドネシア、セイロン、ユーゴスラビアなどは、多数には至らなかったものの、ルムンバ内閣にこそ正当な代表権があるとの立場を堅持した。支援国の応援もあり、②のルムンバ派は、ルムンバの釈放なくばオリエンタル州のベルギー人(推定人口は1500~2000人)を人質にとり、殺害すると圧力をかけた。一方、ベルギー正規軍は順次撤退したものの、ベルギー人専門家や技術者はコンゴへ帰還し、さらに、そのほかの外国人が、4派それぞれと手を結び、それぞれの思惑のために入ってきた。
 コンゴ全土に配置されていた国連兵は20000人に近く、さらに、アジア・アフリカ諸国の代表者からなる国連和解委員会(Conciliation Committee)⋆も活動していた。加えて、諸外国の外交関係者や技術者、メディア特派員、フリージャーナリスト、ビジネスパーソン、そして銃を担った民間人(傭兵)たちが、この熱帯の国で、文字どおりごった返していた。

⋆ 国連特別総会決議1474(ES-IV), 20 September 1960に基づき、1960年11月5日に設置され、1961年1月3日コンゴに到着。構成国は、エチオピア、ガーナ、ギニア、インド、インドネシア、リベリア、マラヤ、マリ、モロッコ、ナイジェリア、パキスタン、スーダン、セネガル、チュニジア、アラブ共和国連合。

IV 急転した事態
いつまでも放っておけない

 いつまでも元首相を投獄しておくわけにもいかない。人道的に扱え(つまり、乱暴・拷問するな)、正当な裁判を行えという声が、人権保護団体(典型的には国連事務局)から盛んにあがった。うるさいと無視できず、12月23日(27日という情報もある)には、国際赤十字委員会の医師がThysville獄舎で面会し、健康を確認することを許したほか、クリスマスにはディナーが供されたという。かと言って、公判を開こうものなら、それは演説の機会になり、さらに人気が高まってしまうだろう。
 そんなとき、牢獄の兵士たちが反乱を起こした(1961年1月13日)。目的は待遇改善だったが、これは関係者をあわてさせるには十分だった。大衆運動に発展し、カサブブ政権の崩壊とルムンバの再起につながらないとも言えない。関係者というのは、国内勢力ばかりではない。ルムンバにいなくなってほしいと望むすべての勢力だ。
 ことは緊急を要した。

とるものとれたから

 さて、だれが手を下すのか。この悪役を引き受けたのが、カタンガ州のチョンべだ。もちろん、タダではない。
 上述のように殺害は1月17日だったが、州政府の発表は、中央政府で新内閣(イレオ暫定内閣)が発足した翌日だ。このタイミングは偶然ではなく、チョンべは取るべきものが取れたからだと伝えられる(The Observer “Tshombe of Katanga”, 19 March 1961)。
 さらに、この時のカタンガ州は、軍事的な準備を着実に整えつつあったのではないか。この年の9月、国連軍はカタンガを攻撃したが、よく訓練された兵士と最新鋭兵器に大敗した(9月13日、Operation Morthor)。主力は白人傭兵たち(ベルギー、フランス、北ローデシア、南アフリカ)だったと言う(この戦闘については、別稿に譲る)。

国連は恥を知れ

 州政府は、犯罪者の処罰は国内問題であり「国連が関知することではない」と表明し、遺体の引き渡しは、バンツー民族の伝統に反するし、抗争を再燃させかねないと拒絶した。さらにムノンゴ同州内相(チョンべの右腕)は、国連事務総長に宛てた声明の中で、こう述べた(S/4688/Add.1、13 February 1961)。
 「国連は恥を知れ」「大国が絡んでいるときは思慮深く身を低くするが、相手が弱小国だとその怪しげな権威を振りかざすのか」
 うるさく関わってくるのは「我々がブラックだからだろう」とも。
 「人民の同権」「諸国間の友好関係」「世界平和」「人種、性、言語または宗教による差別なく」「国際協力」「大小各国の同権」……国連憲章にある。国連職員であろうがなかろうが、これらを普遍的な価値だと確信し、わずかなりとも国連という仕組みに期待をいだく者にとっては、聞かなかったことにしたいような言葉だ。
 チョンべは引き受けた悪役を演じていた。具体的文言まではすり合わせていなくても、ルムンバの死に国連を介入させるなという方針では、チョンべを支持する主体がいくつもいたことは、上述のとおりである。
 経済力、政治力、軍事力の前では、国連が金科玉条のように掲げるゴールはきれいごとにすぎぬと、リマインドされているのだろうか。

元国連職員ライター・ナイロビ在住

(2023.1.20)
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