【アフリカ大湖地域の雑草たち】(18)

ベルギー統治時代のコンゴ

大賀 敏子

 ◆ 先輩にもの申す

 誰かが約束を破り、損害を被ってしまったので、補償と原状回復を求めるために話し合いに行くとする。約束不履行が相手の方なら、たとえ年上や先輩だったとしても、礼儀はわきまえるが、堂々と臆せずに臨むだろう。ところが相手が非を認めず、それどころか「悪いのはそちらです」と主張し、かつ、それを周囲の人たちに公言したとしたらどうだろう。つい、むっとしてしまう。話し合いのゴールと情勢判断をあくまで冷静に保ち続けるには、賢さと忍耐が求められる。

 ときは1960年7月、場所はニューヨークの国連安保理だ。独立したばかりのコンゴ共和国(今のコンゴ民主共和国、本稿ではコンゴと呼ぶ)の一部、カタンガ州にベルギー軍が侵攻したことを受け、安保理は、コンゴに軍事支援(国連軍)を提供する決議を採択した(7月14日決議143 (1960))。数日後の7月20日、初めてコンゴ代表が議席についた(第877会合)。トマス・カンザ国連代表、およそ30歳だ。議案の当事者だからという特例で招聘されたもので、コンゴはまだ加盟国でさえなかった。一方の当事者であるベルギー(ウィグニー外務大臣、当時50代)も招聘されていた。ベルギーは、安保理メンバーではなかったが、1945年の51原加盟国のうちの一つだ。
 議事録に残されているやりとりが、印象深い。

 ◆ 情報戦

 コンゴ代表はベルギー軍の即時撤退を主張したが、いきなり本題に入るのではなく、ほとんどのコンゴ人にとっては「ベルギーは親しい友人だ」と始めた。いわゆる外交儀礼だ。
 これに対しベルギー代表は、在留ベルギー人の安全と財産をまもるという緊急事態に直面し、軍事行動はやむを得ないものだったという。この主張を補強するために、昼夜を分かたず執務机に届いているという外電の束を議席に持ち込み、読みあげた。子供の見る前で母親がコンゴ兵に輪姦された、女性が髪で引き回され暴行された、医師が銃で脅され医療行為ができず、けが人が命を落とした、など。

 今でいう、情報戦だ。インターネットもソーシアルメディアもない時代、コンゴ人はなんと残酷なのだろうと印象づけるには、国連の会議場は役に立つ。
 コンゴ代表にとっては、国家主権、領土保全、国際法遵守など理屈は全部あるのに、予想もしていなかった非難を受けたと同様だ。しかし、見事に受け流した。
 「大臣閣下は外電や書簡をお示しになることができます。しかし、コンゴの同胞たちは文字が書けないのです。ベルギー軍に占拠されどんな目に遭ったか、話させれば言いたいことは山ほどあるでしょう」(パラ130)

 貧しい国にとってニューヨークに外交官を送るのは、たいへんな負担だ。旅費と滞在費をひねり出し、決められた日時に席につくだけでやっとで、あらかじめ発言要領を準備するゆとりも、そのための補佐官もなく、大枠の方針は指示されていたにしても、具体的には即答、自作自演だったことだろう。演説の仕方や外交手腕を見習えるような、先輩もいなかっただろう。おまけにカンザ代表にとってはニューヨークの初舞台だった。
 審議の流れは、コンゴ側が圧倒的にまさっていた。安保理は、コンゴを支援するために、さらに二つの決議をあげた(7月22日決議145、8月9日決議146)。

 ◆ 残虐

 「同胞たちは、言いたいことは山ほどある」とは、どういうことか。
 1884-85年のベルリン会議で、コンゴはベルギーに割り当てられた。当初のベルギーの統治は、イギリスやフランスが行ったような、行政官を置いて制度を動かし統治するという、いわゆる植民地経営とはやや異質だった。「残酷で人種差別に満ちた欧州アフリカ植民地政策のなかでも、とりわけ残酷だった」(The Guardian “A century after millions died in Congo, attitudes (and street names) are changing”, 23 November 2019)という。

 国連人権理事会に2019年に提出された報告書(Working Group of Experts on People of African Descent on its visit to Belgium from 4 to 11 February 2019)には次のような趣旨がある。

 コンゴ自由国(1885-1908年、レオポルド二世の私有地)は、ベルギー通商(とくに天然ゴムの産出)を支えた。1900年前後をピークにし、懲罰のための現地労働者の手首切断が横行した。ベルギー統治下の80年間で殺された人の数は、1,700-2,500万人ほどと考えられている。コンゴ人がベルギーに「輸入」(1897年、最初の267人)され、人間動物園として展示された。人間動物園は1958年まで続いた。1959-62年の間、白人を父、アフリカ人を母とする、推計20,000人の子供が、ブルンジ、コンゴ、ルワンダから強制的にベルギーに送られた。文明化するという目的だ。

 国連の報告書は一般に、あちこちの反応とバランスを気にかけるので、あっさりしている。人権団体やメディアは、ベルギー統治のさまをもっともっと雄弁に克明に報告している。

 ◆ 急ぎすぎの独立日程

 独立に先立つ、1960年1月から2月にかけてベルギーの首都ブリュッセルで、コンゴ代表者とベルギー政府の間の円卓会議が開かれた。すぐにでも独立を希望するコンゴと、準備の時間をとりたいベルギーとの間で、独立は同年6月30日とすると妥協が成立した。それまでの半年弱は、国政選挙の計画と実施を含め、なにごとも両者で協議して決めることになった。協議とは言え、実質的にはベルギー側の作業に当てる時間だ。

 円卓会議の結果を報じるなかで、ニューヨークタイムズ社説は、こう論じている。「コンゴ人には政治参加の経験がほとんどない」「独立日程は性急に過ぎる」
 これに対し、ベルギー政府報道官が「コンゴ人はアドバイザー資格で政治参加してきている」「ベルギー政府は、コンゴ支援のため1960年50億フラン(1億ドル)の予算を組んだ」と反論している(The New York Times “African Transitions”, 31 January 1960, and “Future of Belgium Congo, Emerging Nation Declared to Have Participated in Governing Area”, 1 February 1960)

 ◆ 文字を知らない

 独立時の首相のパトリス・ルムンバは、キリスト教伝道者の私塾で読み書きを習った。仲間の指導層も同様で、全般に教育レベルが高いとはいいがたい。対比のために言及すると、ケニアのジョモ・ケニヤッタ初代大統領やその周囲には、イギリス留学経験を持つグループがいた。これとコンゴとは、やや事情が異なる。
 カンザ国連代表が「同胞たちは文字が書けない」というのは、額面どおり、そのとおりの意味と言ってよい。同代表自身はベルギーで大卒学位をとったが、歴史上最初のコンゴ人だとのことだ。

 学歴は低くても有能な者はいくらでもいる。ヨーロッパに留学さえしていれば、すぐれた指導者である、というわけでもない。しかし、国を運営し、国民の福祉をまもるには、行政、外交、軍事ばかりでなく、通商、金融、医療、教育といったそれぞれの分野に人がいて、それぞれの仕事をする、そんな社会の仕組みが必要だ。当時のコンゴ社会にそのようなノウハウがあったのかどうか。

画像の説明
  1960年7月25日、国連ニューヨーク本部、左がルムンバ首相~UN Photoから
  (筆者註:右はカンザ国連代表と思われる)

 ◆ ぜひ居残ってください

 これは、円卓会議の最終日の、ルムンバのこんな発言からもうかがえる。
 「いまコンゴにいるヨーロッパ人たちは、ぜひ、居残って若い国コンゴを助けてください」」「財産と安全は必ずまもります」(The historic days of February 1960 - 20 February Closing Session of the Belgo-Congolese Roundtable Conference)
 80年もの間、ベルギーが国を取り仕切ってきた。だから、あわてて追い出すつもりはなかった。というか、出て行かれたら困る。むしろ資金と技術の援助を受け取りながら、ゆっくり着実に国づくりを進めた方が得策だ。

 彼はこうも言った。
 「過去のミステイクは忘れましょう」
 ほどなく、ベルギーの撤退を安保理の場で訴えざるをえず、それでも祖国が混乱と紛争のただなかに置かれることになることは、まったく知らなかったころだ。もちろん、自身が翌年に惨殺されることも。

 ◆ どんどん弱さを露呈する

 こうしてコンゴの国際社会へのデビューはかっこよかった。しかし、ほどなく弱さを露呈し始めた。
 カンザ国連代表は、8月にはニューヨークから姿を消した。政治抗争が激しくなり、別の国連代表が立てられたためだ。政治抗争の裏には東西の影響力があった。それでなくても人材不足なのに、せっかくの人材を有効に用いることができなかった。

 やがてコンゴのイメージをさらに下げてしまう情報が、安保理の公式文書でも報告されるようになった。ハマーショルド事務総長は、コンゴ兵による暴力を、非難もせず誇張もせず、たんたんと報告する中で、こう言っている(1960年9月9日、安保理第896会合)。
 「コンゴ軍部隊のなかには、この2ヶ月(筆者註:独立して以来)給料をもらえず、食べ物さえ支給されていないものもある。となるとどうなるか、詳しく述べるまでもないでしょう」

 ◆ 反動の60年代

 1961年、パトリス・ルムンバ殺害とコンゴ動乱は、1962年、南アのネルソン・マンデラ逮捕、1964年、同終身刑判決、1965年、ローデシア(後のジンバブエ)のスミス政権(少数白人)誕生と、おおむね同時代の出来事だ。白人支配の巻き返しという、一連の共通する流れが背景にあったとみるアフリカ史専門家もいる(Prof. Thandika Mkandawire, The Conversation “Mandela’s death marks the end of Africa’s liberation struggle”, 6 December 2013)。

 反対意見もある。ジンバブエは独立していないし、南アにはアパルトヘイト体制という特殊事情があったが、コンゴは独立していた。独立していた以上、混乱の原因は、汚職、内戦、財政の破綻といったミスマネージメントに由来するのだ、いわば自己責任だと。しかし、それだけだろうか。

 本稿を執筆中、ベルギーの現国王がコンゴ民主共和国を訪問(2022年6月)し、統治時代についてあらためて遺憾の意を示した。遺憾の意では不十分だ、謝罪すべきだという意見もあるが、歴史的訪問である。

 (ライター・ナイロビ在住)

(2022.6.20)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧