【アフリカ大湖地域の雑草たち】

お兄さんと弟―アフリカ大湖地域の雑草たち(22)

大賀 敏子

 本稿は、コンゴ動乱についての先行する三稿『アフリカ大湖地域の雑草たち(17)(18)(19)(21)(それぞれオルタ広場2022年5月号6月号7月号9月号掲載)』の続きである。

国連のことは心配するな

「いつでもわからないことがあれば私に相談しなさい」
「弟よ、私たちはこのゲームを始めてしばらくになる。帝国主義者と植民地主義者をどう扱えばいいか、もはやわかっている」
 1960年9月12日付け、コンゴ(当時のコンゴ共和国、いまのコンゴ民主共和国)のルムンバ首相に宛てた私信で、差出人はガーナのクワメ・エンクルマ大統領だ。51歳のエンクルマは、コンゴの若き指導者(35歳)に、政敵を追放したり、国連軍(ONUC)を撤退させたりするのは、慎重に時期を待てとアドバイスを書き送った。「弟よ」というのは親愛の情の表れで、血縁関係があったわけではない。
 コンゴは6月30日の独立からわずか2ヶ月で、カサブブ大統領とルムンバ首相が互いに罷免しあうという憲政の危機を迎えた(9月5日)。この手紙は、ひとたび拘束された(9月12日)首相のブリーフケースから押収されたもので、こうも書かれていた*。
「国連と安保理のことは私に任せなさい」

*一時期、手紙の正当性が疑われた。しかし、新聞報道(The Guardian “”Black Colonists Renounced” Mobutu spokesman on alleged letters from Dr Nkrumah – Advice to M Lumumba”, 29 September 1960; The New York Times “’Nkrumah’ Letter Guided Lumumba”, 9 October 1960; the New York Times “Ghana Publishes 8 Congo Letters - Reveals Nkrumah messages to Lumumba to Counter Interference Charges”, 25 November 1960)によると、ガーナは最終的にはこれを認めたとある。

■世界を振り回した

画像の説明

 ガーナは1957年3月イギリスから独立した。サブサハラアフリカ(サハラ以南の地域)の先駆けだ(エチオピア、リベリアを除く)。エンクルマ初代首相(のちに初代大統領)は、反植民地主義を旗印に、世界でもっとも影響力ある指導者の一人となったが、1966年2月のクーデターで失脚した(地図参照:ウィキペディアから転写)。
 1960年当時のガーナは、安保理メンバーではないし、潤沢な資金力があったわけでもない。いわゆる大国ではない。しかしエンクルマは、アフリカとアジアの国々を政治的に動員できれば、国連をコントロールすることに勝算ありと考えた。
結果的には、南の国々の一致団結はかなわず、ルムンバ首相の失脚も防げなかった。しかしガーナはコンゴ情勢に、エンクルマ大統領はルムンバ首相に、それぞれ大きな影響力を与えた。ガーナが、コンゴを通じて、いっとき世界をふりまわしたとも言えるかもしれない。

■ガーナとコンゴの特別な関係

 両者の親交はいつから始まったのだろうか。1958年12月、ガーナは首都アクラでAll African People’s Conferenceを開いた。これに出席したルムンバは、エンクルマから大きな思想的影響を受けたという。なお、当時の記録には、このほか、北ローデシアのケネス・カウンダ(後のザンビア大統領)、ケニアのトム・ンボヤ(後に暗殺された)などの名も並ぶ。
 コンゴ動乱の発端は、ベルギー侵攻に伴うカタンガ州分離独立の動き(1960年7月11日)だ。ガーナは、いち早く単独で軍隊を送ろうとしたものの、ハマーショルド国連事務総長との電話会談を経て、ひとまず安保理の動きを待ったという経緯がある。そして、最初の安保理決議採択(7月14日)のわずか3日後、すでにコンゴに到着していたONUC兵4135人うち、770人がガーナ兵で、ガーナと立場を合わせていたモロッコ(1250人)を加えると、ほぼ半分となる勢力だった(7月18日現在)。もっとも参加国が増えるに伴い、後にこのバランスは変わっていった。
 ルムンバ首相は、カタンガ州や首都レオポードビル(今のキンシャサ)といった要所には、他のどの国でもない、ガーナ兵の配置を希望し、この旨、事務総長に「指示」した。事務総長はこれに対し、国連軍を指示できるのは安保理だけで、ホスト国の言うなりに動くわけではないとし、国連の中立とは何かについての激論につながった(8月中旬)。
 さらに政変のさなか(9月15日)、身の安全のためにルムンバ首相が緊急避難したのは、ガーナ大使館(ガーナ軍兵舎という情報もある)だ。これも個人的で特別な信頼関係を表すものだ。

■最初の戦闘

 平和のために来た国連軍と、依頼したホスト国との間で、攻撃しあい、戦死者を出すことになるとは、いったい誰が予想しただろうか。しかし、11月21日、それは起きた。場所は、よりにもよって、ガーナ大使公邸である。
誰がコンゴの正当な代表者なのか分からない混乱のなかで、大統領は、首相を支持するガーナの動きを内政干渉であるとし、その外交官の国外退去を求め(10月4日)ていた。これは、11月19日、48時間以内の退去命令(最後通牒)となった。しかし、ガーナ外交官(Nathaniel Welbeck)は、出国のために空港に向かう代わりに、公邸にたてこもった。Welbeckは独立前からのエンクルマ腹心の部下である。
 ONUCは外国公館を護衛する役割を担っており、これに対しコンゴ国軍が差し向けられた。どちらが先に発砲したかについては、相矛盾する記録がある。夕方から明け方まで続いた戦闘で亡くなったの兵士の数は、ONUC側(チュニジア兵)7名、コンゴ側は数えきれないとのことだ。
 これ以降、コンゴ国軍による国連への暴力が激しさを増した。平服の国連職員が、女性も含めて、拘束・逮捕され、職員たちの車や住居が襲われたといった記録がある。

■ルムンバ再起をめざすが

 当のルムンバ首相は、ONUC兵に護衛され安全が確保されていた。もっともこれは、影響力も支配力も行使させないための「自宅軟禁」だと、ONUCを批判する見方もあった。
 このころになっても、首相の主張はニューヨークの国連本部に届き続けた。ガーナの国連代表が、ガーナ政府の立場として文書を出し続けたためだ(11月7日、11月27日)。国連の使い方には、様々な方法がある。
 戦闘の数日後、首相は官邸から脱出した(11月25日)。24時間体制のONUC兵がいながら、なぜそれが可能だったのかには諸説ある。支持基盤のスタンレービル(コンゴ北東部、今のキサンガニ)に向かい、再起を図るためだったが、この行動は、国軍による逮捕、やがて、ニュースを知った人々を震えさせるほどの拷問、惨殺へとつながった。

■カサブブ大統領の勝利

 熱い戦闘がおきるなか、地球の反対側のニューヨーク国連総会は、11月22日、決議を採択した(1498(XV))。「コンゴ(レオポードビル)代表者の信任状について」というい表題で、コンゴの正当な代表者はカサブブ大統領であるという趣旨だ。
 カサブブかルムンバか、一見国内問題にしか見えないことがらに、なぜ総会が決定を下したのかについては、議事進行規則のうえでの理由がある。
 国連の会議に参加する各国の代表者はすべて、「確かにこの人が我が国の代表です」と示す、それぞれの国家元首または外務大臣からの書面(Credentials信任状)を提出する。すべての信任状を一つ一つ審査するのは、全体会議(この場合は総会)の下の信任状委員会(Credentials Committee)の仕事であり、全体会議は信任状委員会の審査結果を受け、これを審議し、承認(または非承認)する。通常は、全参加国をひとまとめにして扱う。
 コンゴはこの時、カサブブ大統領が指名した国連代表とルムンバ首相が指名した国連代表という、相矛盾する二人の代表者をたてていた。コンゴ自らが決着をつけるのを待たず、総会がわざわざコンゴ一国だけをとりあげて審議、決議採択したのは、そのこと自体が政治の結果である。

■アフリカの分裂赤裸々に

 99加盟国中、カサブブ支持に賛成53、反対24、棄権19、投票しなかったのが3である。賛成は米英仏など(日本を含む)の西側であり、反対はソ連と東側ブロックのほか、ガーナ、ギニア、マリ、モロッコ、トーゴ、アラブ連合共和国(エジプト)、さらにアフリカ域外からはインド、インドネシア、セイロン、ユーゴスラビアなど非同盟の盟主が並んだ。
 西側に歩調を合わせた53の中には、多くのアフリカ諸国があった。カメルーン、チャド、コンゴ(ブラザビル)、コートジボアール、ダホメイ、ガボン、マダガスカル、ニジェール、セネガルといった、まさにこの1960年に国連加盟したばかりの国々だ。
 アフリカは一致団結できなかった。投票結果は、この現実を数字で、赤裸々に示すものだった。小さな国が大きな国に立ち向かうには、一致団結するのがもっとも有効であり、かつ、そのことを知らない国は一つもなかったであろうにもかかわらず。
 ちなみに、棄権した19ヶ国のなかにはビルマがあった。非同盟、植民地解放とけっして無縁ではなかったが、慎重な態度を示した。ときのビルマ国連大使は、これから約1年後(1961年)のハマーショルドの死後、国連事務総長の任を引き継いだウ・タントである。

■踏んだり蹴ったり、泣きっ面に蜂

 反対票を投じた国々は、ONUCからの撤退を通告した(12月12日付け、セク・トゥーレ・ギニア大統領公電、12月7日付け、ユーゴスラビア国連大使書簡など)。さらにカサブランカに集まり(モロッコ国王モハメド五世が招聘した会議、1961年1月3-7日)、その立場を公式に宣言した(モロッコ、アラブ連合共和国、ガーナ、ギニア、マリ、アルジェリア(暫定政府)、リビア、セイロン)。ユーゴスラビアは国連事務局に金銭的補償を求めた。
 事務総長以下、国連職員たちはどんな思いだっただろう。現場はいっこうに改善しないなか、より多くの国からより多くの兵士を募りたいが、すでに国連財政は深刻なひっ迫にあった(財政面については、別稿にゆずる)。兵力を出す国、撤退する国、資金を出す国、出し渋る国、補償を迫る国などなど、事務総長と国連職員にとっては、これらすべてが大事なクライアントだ。どれも軽くは扱えない。
 さらに、事務総長は組織の責任者である。国連職員への被害について、外にはなかなか知られないが、内部からの批判を受けなかったとは考えられない。
まさに、踏んだり蹴ったり、泣きっ面に蜂という思いだったのではないか。

■アフリカ・イン・世界

Nkrumah dance

2022年9月、イギリスのエリザベス女王の訃報に伴い、印象的なモノクロ写真が公開された(写真、出典:BBC)。1961年11月ガーナ訪問のときのスナップで、ダンスの相手はエンクルマだ。ガーナの英連邦での立場を象徴的に示したこの出来事に、ソ連との接近を懸念する西側は、ひととき留飲を下げたという。
「国連には用はない、アフリカの将来はアフリカ人が決める」
 1960年11月、後にタンザニアの初代大統領となったジュリアス・ニエレレが、独立準備のためイギリス政府を訪れ、メディアの取材に応じたものだ(タンガニーカの独立、タンザニア連合共和国(ザンジバルとの合邦)の成立は、それぞれ1961年と1964年)。彼はこうも言った。「イギリス軍は完全撤退すべき」だが、「アフリカに強大な軍事力は必要ない。どのみち超大国に攻撃されたらかなわないのだから」(The Observer, “Commonwealth and Foreign Affairs - Nyerere Describes Federation Plan”, 20 November 1960)。当時進行中のコンゴ情勢を正確に追っていなければ、出てこない発言だ。
 流血と混乱を歓迎する指導者はいない。それぞれの者が、それぞれの場所で、繊細な国際バランスを切り抜けようと、それぞれの制約のなかで、知恵を駆使していた。歴史を学ぶ醍醐味は、結果を見て、誰が賢く誰がダメだった、と評論することではないだろう。起きた出来事をできるだけ正確にとらえ、巻き込まれた人たちの葛藤や悩みを、少しでも共有しようとすることにあると筆者は思う。

ライター・ナイロビ在住
(2022.10.20)
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