【ジェンダー】

いま女性の役割の再構築を目指してできること(10)

高沢 英子


 これまで日本の近代化に伴って、明治期の後半から大正にかけて、女性の公正な人権獲得および、社会での男女平等に向かって、進んだ考えを持って行動した勇気ある女性たちの苦闘の歴史に多くの紙幅を費やしてきたが、日本の場合、それ等の路線も明治後期には次々と思わぬ紆余曲折を辿り、明確な意識をもって女性問題を考察し、近代日本社会に向かって主張しようとした勇気ある女性たちの多くが、結局孤独な戦いを強いられる結果に終わっている。彼女たちは男性社会からは疎外され、男性社会の都合のいいように生きる「良妻賢母」を唯一の理想と教え込まれ家族制度に組み込まれて育成された悧巧な女性たち、社会構造からいっても後者のほうがずっと合法的に生きやすく安定していることを習得した中堅層の女性たちを、いまさら目覚めさせ、ともに闘い創造して行こうとする意欲を持たせることなど到底叶わなかった。
 平塚雷鳥たちの「太陽宣言」も、意識改革というよりは、男性社会にも奇抜な発想として興味本位に取り上げられるにとどまり、結果的には女性は家庭を守り、国家有為の人材養成に力をかし、キッチンを這いずり回る忍従の生活を、見方を変えれば輝かしい使命と信じ込むよう躾けられ、天命として受け取ることを余儀なくされたまま生きてきた。昭和期に入っても、女性の立場はほぼ100%依存状態のままにとどまり、夫はあくまでも主人であり旦那様であり、妻は家内とか、愚妻の域にとどまっていた。

 戦時中のことであるが、私はある婦人雑誌で、高名な作家が「アメリカやイギリスでは妻のことをベターハーフと呼んでいる。ベターとは比較級で、よりよい、という意味であるから、それならば夫のほうは、より悪いということになる。概して英米というのはそういうつまらぬ男たちのいる国だから問題とするに足りない」という趣旨のことを書いているのを読んで、変な理屈を言うおじさんだと思ったことを記憶している。
 ともあれ、こうしてせっかく芽生え始めたよりレベルの高い近代意識改革の試みも片っ端から、まず慎重に、次いで巧妙に、のちには威丈高に摘み取られ、次第に軍事国家として形成されてゆく社会体制の中で、自立を目指す試みは悲惨な頓挫と挫折を繰り返して地下に消え、地域社会や同性からも孤立し、互いに同朋として仲間として手を結び合うという連帯意識などは芽生えるはずもなかったのである。具体的にこうした事例は、手元にある資料だけでも膨大な数に上り、ちょっとやそっとでは紹介しきれない。

 歴史的に見れば、明治中期から太平洋戦争終結まで数十年の間に、わが国では多くの人権論者や学者、女権論者と政治権力側との熾烈な戦いが繰り返され、権力による弾圧の歴史があった。
 そして明治末期から大正、昭和にかけて、日本政府は革新的な社会主義運動すべてを抹殺することに全力を挙げた。民権運動家幸徳秋水らに対する大逆罪告発による処刑事件(明治43〜44年)、大正初期の加藤孝明内閣による「治安維持法案」施行。さらにそれは学者の世界にも及び、昭和期にはいってからは、東大新人会の解散命令、京大教授の河上肇の辞職追い込み、共産党の大検挙、プロレタリア作家小林多喜二の検挙虐殺、東大教授美濃部達吉の天皇機関説攻撃と辞職、などのあと今度は、1936年(昭和11年)2月26日、周知のように決起した陸軍青年将校らによる3名の重臣銃殺という事件すら起こっている。すでに前稿(116号)で一部紹介したように、男女ともにおよそ政府の方針や、さらにそれより強力となりつつあった軍部に反する声を上げるものは片っ端から検挙投獄、力による制圧で、声を立てずに暮らすことを強いられた。
 こうした日本の歪んだ成長戦略は、しかし今に始まったことでもなく、日光東照宮の「見猿、聞か猿、言わ猿」の三猿は、こうした御政体に対する身の安全策を日本人に骨身に沁みるまで教え込む象徴的な役割を担っている、と思うとともに、いまさら日本人のお上思考の歴史の長さと根強さを考えさせてしまう。

 これは取りも直さず、現代にいたるまでの日本の市民運動の大きな弱点と言えるが、それを掘り崩すのは容易な技ではない。女性問題に限らず、プロレタリアを中心とした市民運動や人権運動が、労働組合や、地域共同体の中でのそれぞれ個別の活動にとどまり、社会全体の大きな波として社会変革の力になることはなかった。こうした日本独自の体質が変わらない限り、日本の社会はいつまでたっても市民が生き生きと幸せにくらす社会にはならないのではないだろうか。
 田舎育ちではあるが、物心つくころから、あの時代の様々な様相をつぶさに見て覚えている。比較的早熟だったせいもあり、いろんなことを見聞きし、考えてきた。父も祖父もどちらかといえば反戦思想の持ち主で、わたし自身、別に自慢でも何でもないがひ弱な体で、軍国少女には決してならず、またなれもしなかった。第一次大戦末期、日本では政府とその御用機関と化した報道は自分たちの冒した取り返しのつかない過誤を国民の前に隠蔽することに狂奔していた。その過誤は非常にゆっくりじわじわと国民の心をも蝕み、恐ろしいまでのマインドコントロールで人心を変えむしばんでいた。

 昨年来の日本の政治状況を見ていると、いずれにしても、安倍政権の数の力を恃んで一切の反対意見に耳を貸そうとしない強引なやり方を見ていると、そぞろ寒気がして、戦前の不幸な時代を思い出さずにいられない。

 本稿は主としてこうした事象を女性問題に限って検討する予定で準備を進めていた。しかしこれを最後に、ひとまずこうした理論的実践活動の掘り起こしとその歴史的意味の考察を打ち切る。女性の社会進出が戦前に比べ比較にならない目覚ましさで成し遂げられつつあるにもかかわらず、意識の底流に残存する矛盾や不合理から噴き出すハラスメントがあとをたたないのはなぜか。これも所詮経済効果優先と目先の成果を追うにとどまるやり方による結果なのではなかろうかという疑問がぬぐいきれない。
 日本人はものを考えない国民と批判され、エコノミックアニマルと揶揄されるのもまた、こうした一連の動きを分析されての結論ではないか。成熟しきらないうちに、先進国と足並みをそろえて近代化路線にふみこんでしまったつけが、今大きな混乱をもたらしている。
 考えられるのは、いまだに変革できない政治の未熟であり、民主国家の形を整えたものの、相互の自覚と思慮が育っていない結果、選ばれる政治家たちの資質がお粗末過ぎるのではないか。では天皇制国家だったとき、今より良かったであろうか。
 歴史をしっかり見据えれば結論は明らかである。

 こうした事態を打開するために何よりも大切に思えるのは、次世代を担う国民の教育ではないか。しかし今の日本の教育現場のありさまは、到底そんな重責を担える力を持っていない。痛ましい犠牲になるのはいつも子供たちである。今年になってすでに2件も起こった取り返しのつかない少年の悲劇。
 担任の教師の子供の心を扱う心情の貧寒さ、そんなことまでして平然としている加害者やその周辺の大人たち。連日の報道に胸つぶれる思いをしたのは私だけではないと思う。「申し訳ございません」ですむことではない。いじめなどと一口に括って、いいものだろうか。ことが起こるたびに人が人を傷つけたり、死に追いやったりするという最も卑劣な行為は許せない、と、大人たちはなぜはっきり言えないのか。平素からなぜ教えられないのか。声を上げる教育者がいないのが恐ろしいが、もっと恐ろしいのは政府の教育軽視の姿勢と、現場や保護者に対する労多くして喜びの少ない過重な押し付け体制である。国民は、君が代斉唱や国旗掲揚などによる愛国心養成などという相も変らぬ姑息で本質を忘れた愚かしい押しつけを、いつまで甘受しなければならないのだろう。

 今こそこうした人間性抜きの形式で人の心を縛ろうとする浮薄な似非教育の排斥に立ちあがり、真の市民としての自覚に従って行動する決意をもって互いに連携し、人間として共に手を携え支え合うより建設的、生産的な社会を築くために、国民的な運動に立ちあがるべきではないか。非合理なことには「ノー」と言える大きなうねりを、作り出す手がかりはないものか、そしてそれはなぜできにくいのだろうか。翻って考えてみると既成社会のしがらみは強固で、変革は容易ではないかもしれない。教育格差を益々広げ、学ぶ機会を持てず、心をうつろにしてゆく子供ばかりが不幸なのではない。学べる階級の子供たちの塾競争の激しさは、さらに目を覆うばかりの有様である。この子供たちも決して人間らしく育てられて幸せとは言えない、と小学生の孫を持つ身として私は断言できる。
 もしかして、母性でもある女性がいまこの国でできることはないだろうか。荷重競争に子供を追いやり、倫理意識も共感意識も育たないうつろな若者たちをこれ以上増やさないために何かできないだろうか。
 欧米の流れも参照しつつ考えてみたいと思う。

 (筆者は東京都在住・エッセースト)


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