【視点】

劣化する政界、遠のく民意

羽原 清雅

 今の国会は安保3文書、敵基地反撃能力の扱いなどが論争点になる、と注目しているのだが、どうもそうはなっていない。歴史が大きく変わっていく出発点になろうとしている重要な時期に、残念だ。国会の論議は、論点が分散して、いっこうに深まらない。そのために、沖縄周辺の軍事施設や配置などは国民的な意思表示もないままにどんどん進み、また政府が「同志国」と認めた途上国の軍に軍事的資機材の提供、インフラ整備を無償で提供することまで、議論もないままに決められた。軍事予算についても、子ども家庭庁の設置に伴う事業についても、財源や具体的内容の決められないままに進められている。論議のうえでの多数決はあっても、論議する事実関係が示されないままに決定されるような事態は滅多にあるまい。

 権限を持って方向を決める首相、与党政治家らの、国民への配慮や将来展望の明示の足りなさ、説明不足の姿勢が目立つ。「権力」行使の可否を論議するのが国会ではないのか。与党内は本当に全員が右へならえ!なのか。流れに抗して、問題提起する人材はいないのか。

 また、率先すべき野党はどうか。不合理な権力のありようを指摘し、より望ましい方向を示し、国民の納得をより多く確保する機能を果たしているのか。政権の座には程遠く、追及する準備や研究、政党外部からの知恵の導入、そうした機能の構築が弱いままだ。

 ロシアの不当なウクライナ侵攻に刺激されるような中台関係の緊張、北朝鮮の挑発的軍事訓練のなかで、日本の軍事強化路線が議論なく進められるままでいいのか。強烈な単一的な流れだからこそ、国民の前に多様な発案や思考が示され、論議が交わされるべきではないのか。

 このような状況にがっかりしつつ、政治記者として垣間見てきたかつての政治家のあれこれを思い出す。とくに、政党という組織の一員として、その組織の決定なり方向に沿わず、
 あるいは異なる思いから別の主張、行動に打って出るような事例があった。力ある側に逆らうことは、再起不能の政治生命に関わる。それでも、厳しい岐路に立って、おのれの考えを述べ、わが道を行く。今は、そうした緊迫の第一歩を踏み出すかどうか、の岐路にあるのだ。
 それはやはり、政治家としての日ごろの思考と理念、そして覚悟の有無ではないか。

 戦前の象徴的な人物をあげれば、軍部の跳梁、国家総動員法、泥沼化する日中戦争などに非を説き続けて、議員除名とされた斎藤隆夫がいた。
 戦後は、世相の総体が自由化され、そうした姿が見えにくくもなっており、それはそれでいいのだが、国民のために長期的な展望に立ち、言うべきことを言う人物が少なくなったのも事実だ。覚悟を持ってもの申す。高い理念を持って発言する。大を恐れず、欲に溺れず、正義を追う。有権者に媚びず、信じるところを語る。そのために、日常的に研鑽を積み、広く、長い視野を鍛え、姿勢を正す。そこに、流れに棹差し、反旗を振り、異を唱えることにもなる。そうはいきにくいのも現実ながら、しかし、政治家として選ばれた以上、多少はそうあってほしい。
 政治記者を長く続け、比較的多くの政治家を見せてもらうことができた。スケールは小さく、狭い中ではあるが、印象の浮かぶ人物を上げたい。そのうえで、昨今の政治家の沈滞ぶりにも触れてみよう。

 *対中国交渉の努力
 政治記者になりたての頃、学校の大先輩川崎秀二の案内で松村謙三に1,2度だが、話を聞けた。高齢で車いすに乗せられていた。戦後の岸信介に代表される官僚型政治を批判して、そばで川崎が新人記者に言葉を添えてくれた。その縁があって、のちに親中国派を代表する古井喜実に会うことができ、その弟子格の政治記者から転進した田川誠一たちを知ることができた。
 党内の新中国派はわずか10人足らず。吉田、鳩山、石橋、岸、池田、佐藤の6政権にわたり、中国側との交渉を続け、その間、党内の台湾派議員から「国賊、火あぶりの刑だ」などの批判を浴び、中国との激しい応酬のもとで交渉を重ねていた。この取材に関わることはなかったが、古井や川崎、田川といった周辺から裏話を聞くことができた。新聞記者交流を実現したことが、のちの日中関係改善に大いに役立ち、民間の細い結びつきが少しずつ双方の誤解、非難を和らげ、相互理解の基盤になったことを今も痛感している。
 別の立場で日中関係改善に長く寄与したのが宇都宮徳馬。石橋湛山の流れにあり、古井との接近はほとんどなかったが、対中関係ばかりではなく、米国などとの議員交流に努めて側面から寄与し、世論喚起にも影響を持った。「一匹狼ではない。支援は多くの国民だ。」といい、中国訪問時には佐藤政権などの批判は一切することがなかった。がなり立てる右翼の宣伝車に向かい、自ら抗議する場面もあった。
 このひと握りの政治家の言動は、あるべき日中の本来の姿に向かう真摯なもので、言い表しがたい政治への誠実さを感じた。決然、といった歴史に学ぶ姿のようにも思えて、これは彼らの亡くなられるまで交流させてもらったことは幸運だった。

 *保利茂の決断
 もうひとつは、やや小さな話になるが、印象的だった。
 佐藤栄作内閣成立に尽力し、長く官房長官、幹事長として支えた保利茂の存在。密使としてのキッシンジャー訪中、ニクソン大統領の訪中と、にわかに米中関係が進展するなか、日本政府はこの当然の展開に慌てた。国連では、中国の国連加盟を阻止する動きがあり、日本はその反対の旗頭でもあった。
 このとき、佐藤首相・総裁のもとで党幹事長を務めていた保利が、台湾重視に徹した佐藤に対して異論を持った。保利は田川誠一を通じて東京都知事美濃部亮吉に書簡を託し、日中関係改善の意向を示した。世界の潮流が中国受け入れに動く中で、保利の秘かな工作はささやかでしかなく、その託した書簡の内容も「中華人民共和国が中国を代表する唯一の政府」であることが明白ではなく、結果的にも周恩来首相から返却されることになる。
 さらに佐藤首相は、自民党内でも政治問題化していた台湾の国連残留を狙う逆重要事項指定の共同提案国になることについて、これを支持、保利は最後まで説得したものの果たせなかった。このとき、筆者は幹事長番としてつぶさに見ており、保利の打ち込む姿に真の「政治家」を見たような印象がある。
 ただ、周首相から書簡を突き返され、首相説得も実らなかったが、保利の歴史のなかでの処断は、確かなものだった。のちに中国に招かれ、周としっかり握手に至ったことはその証明だったように思う。

 *松野頼三のこと
 その保利茂と吉田政権以来、行動をともにしていた松野頼三が、三木武夫政権の際に保利と決別し、三木擁護の強い支えに転じたことが思い起こされる。これも自民党内の派閥的なもつれにすぎないが、ただ政略的にたけた保守主流派の松野が、傍系的小派閥の三木の政治姿勢に感化され、本気で支えた事実は見逃せない。政治部配属直後から松野取材を担当し、夜な夜な松野、保利たちがマージャンに興じることの多かったのを現認していたので、三木への傾斜は半信半疑だった。
 ただ、「三木さんのねばりと口説き、そのエネルギーというものは歴代の総理の中でまさにピカ一で、類を見ないものがある」として、「三木おろし」に走る福田派、保利系との縁を切って、三木側に立った。自民党内事情の中でも、大きな変事だった。松野を近くに見続け、次第に本音の変化だと思うようになったが、そのころには松野は幹事長候補の座からも外され、さらに離党し、落選することになる。だが、当人は三木との政治行動に悔いを漏らしたことはなかった。

 *与謝野馨の変身
 もう一例をあげたい。
 与謝野馨の場合、である。自民党政権下で文相、通産相、官房長官のあと経済財政関係などの閣僚を重ねたあと、民主党の菅直人政権下で経済財政、税制などの特命大臣に就任した。野党から政権に就いた民主党の動きは心もとなく、とくに経済事情の厳しさに手を貸さねば、との思いからだった。当時、この対応は変節とされ、自民党以外からも叩かれたが、彼としては党派にこだわるべきではなく、ただ経済を立て直さねば、の一心だった。
 政党政治である以上、批判があっても当然だっただろう。彼は真剣だった。ただ、短期政権で成果の一端が見えなかったことを惜しんだ。彼が中曽根康弘の秘書になったころ、筆者の同僚記者が与謝野と同窓だったことで紹介された。議員としての成長ぶりを見続けており、この党派を超えた決断を秘かに歓迎したものだった。

 *議員の堕落
 これまでの事例は、単なる思い出話のつもりではない。
 最近の政治家の不甲斐のなさ、不勉強、国民の意思を代表すべき国会への無責任な認識など、民主主義が地に落ちたかと思わせる事例が続く。あえて愚かしさに触れておく。
 参院法務委で、裁判所職員定員法改正案に立憲民主党は反対を決めていたが、同委の筆頭理事牧山弘恵石川大我、それに社民党党首、しかも弁護士の福島瑞穂の3人が与党とともに賛成した。「不注意でした」と言うが、その程度の議員なのか。かつて小川友三なる参院議員が予算案について、本会議で反対討論に立ったが、賛成票を投じて議員を除名された。議決の参加は、それほどの重い責任があったのだ。
 また、立憲民主党の小西洋之は放送法問題で内閣府特命相高市早苗に対して、特ダネでもある総務省文書を示して追及、これに対して高市は「怪文書」「捏造」「質問しないで!」などと発言。ところが、その小西は憲法審査会の毎週開催に反対し「サルがやること!」と反対、筆頭幹事を更迭された。その愚かしさ、どっちもどっちである。
 さらに、参院当選後一度も国会に出ず、海外在住で逮捕逃れを続けて議員除名となったガーシーなる男。そんな人物を擁立したNHK党では、いったん辞任した立花孝志と後継の大津綾香がカネをめぐって党首の座を争う始末。
 前述の覚悟を見せた政治家の時代が、ここまで地に堕ちたか、と思わせる。

 さらに言うなら、こうした低落ぶりの一因は、衆院小選挙区制の1区1人公認制、参院の衆院追従・自立的個性のなさ、政党幹部の公認権限の肥大化、つまり候補者の選定の失敗、2世3世など世襲優先のシステム化、幹部らの民意に対する甘えと覚悟のなさ、といったぬるま湯を放置しているところから出ている。
 野党もまた、構造的にもろく、掛け声ばかりで政権を作り上げる意識と機能構築の意欲がない。かつてのイデオロギー優先の姿勢は脱したものの、幹部をはじめ議員に「政治とは何か」がわかっていない。
 選挙制度の改革に手を付ける以外に、現状から抜け出す策はないのではないか。

                        (元朝日新聞政治部長)

(2023.4.20)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧