■≪コラム≫
【宇宙にもっていく本】戦争と平和~哲学と科学
5)久野収著:『平和の論理と戦争の論理』
5)久野収『平和の論理と戦争の論理』(一九七二年)岩波書店
戦中派の著者(一九一〇年生まれ、学習院大学哲学科の先生)による戦後雑誌への投稿(『世界』一九四九年から『展望』一九七〇年までの約二十年)を中心にまとめたものであり、ある意味、第二次世界大戦に翻弄された戦中派の平和論とも言える。
(一四)には「二つの平和論」として、エラスムスとカントが取り上げられているのでそれらを踏まえれば、アインシュタインの平和論までの途中経過を展望することもできる。
世界の問題に目を向ければ、(四)米ソ共存の含む諸問題、(五)二つの平和主義―戦争抵抗者インターナショナルの活動、(八)原水爆と倫理、(九)日本における平和理論と平和運動、(十)原子力の社会史―バートランド・ラッセルの思想と行動、(十一)憲法第九条と非武装的防衛力の原理、(十五)核の傘にかわる非武装防衛力、(十六)十五年戦争の意味をめぐって(戦中派による総括)である。詳しい平和問題戦後史年表(四五~七一年)も巻末に添えられている。半藤一利『世界史の中の日本史』平凡社も貴重である。
これまで見てきたように、平和問題は決まって王たちや政治家たちによって蹂躙されてきた。歩兵は常に大砲の餌食であった。エラスムスが言うように、「人間にとって戦争ほど大きい不幸は無い」というのも、今なお世界的真実である。
6)村田充八著:『戦争と聖書の平和―キリスト者からの問いかけ』
6)村田充八『戦争と聖書の平和―キリスト者からの問いかけ』
阪南大学叢書110、晃洋書房
村田充八教授は関西学院大学社会学部を卒業、イギリスやアメリカの大学に研究留学した学者である。
一章「忘れてはならない歴史とキリスト者」、二章「戦争と聖書の平和」、三章「否定の論理なき社会」、四章「平和の原点と遠くない戦争」、五章「世の生きづらさと福音の希望」、六章「平和を願う祈りと暮らし」である。
一章は戦前の日本社会の問題を取り上げるが、その後の章はすべて戦後の日本社会の問題を追求したもので、その問いかけは一つ一つ非常に重い課題である。
古くは内村鑑三の「主義の腐れ易き社会」(『万朝報』一九〇〇年九月)がある。戦後日本では「主義が腐らない」のであろうか。
聖書の平和とは何であろうか? 私は単純に「平和をつくり出す人たちはさいわいである。彼らは神の子と呼ばれるであろう」(マタイ福音五-九)を思い出す。更にこの言葉 は「敵を愛し、迫害する者のために祈れ(五-四四)と続く。
この言葉は「木寺本」の冒頭にもかかげられている。
原始キリスト教の時代から、戦争はしばしばキリスト者たちの集団に問題を投げかけた。兵土はどうすればいいのか? 木寺簾太著『古代キリスト教と平和主義』(立教大学出版会、二〇〇四年)は紀元三一三年までのキリスト教非公認時代の歴史を取り扱った力作である。
(2024.5.20)
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