【オルタ広場の視点】

<永田町余話> 菅首相へのある「遺言」

菱山 郁朗

 保守政界の内情に精通し、最近まで活躍されていた政治評論家の中村慶一郎氏が、10月29日に自宅で亡くなった。86歳だった。御縁があって亡くなる直前までお付き合い頂いた。早稲田大学政経学部卒業後読売新聞の政治記者となり、三木武夫番を担当し、三木に請われて総理秘書官となった。

 1975年1月4日、総理番記者であった私は、三木が伊勢神宮参拝に出発する日の朝、東京駅の新幹線で氏と初めて会った。白い記章を胸に、誇らしく晴れやかだった。その後、ラジオ日本の報道部長を経て政治評論家となり、日本テレビのコメンテーターも務め、分かりやすい解説には定評があった。

 昨年夏復刊された氏の著書『昭和政争<1> 闇将軍・角栄最後の1000日』(講談社刊)は、中曽根康弘政権の下で、“闇将軍”田中角栄が主導した、激しい派閥権力闘争の舞台裏を活写している。

 この中で氏は「田中は人事の決定権を握り、堂々と政権の奥の院まで入り込んできた。田中の政治信念は、とにかく「数は力なり」ということである。そこには、質の側面が二義的なものとして横に置き去りにされがちであった。しかし、高度成長期を経た時代潮流の中で不思議だったのは、田中の政治手法には誰もが抗し得えなかったということだ。福田赳夫や三木武夫ら反主流リーダーが、結束して戦っても結局は、田中の力の前には破れたということである」と指摘した。

 84歳になられた中村氏に連れ添って、一緒に永田町に足を運ぶようになったのは、二年ほど前からである。四ツ谷駅の改札口で待ち合わせ、タクシーで国会へと向かう。事前のアポ取りや入構手続きは私が担当した。有力な政治家らを議員会館の事務所に訪ね、天下国家を論じた。政界とのパイプが太くキャリアも豊富なので、氏の発する言葉に政治家たちは、じっと耳を傾けている。この永田町巡りは、氏は月刊誌のインタビュー、私は大学の講義用の資料に、それぞれ活用した。

 昨年の暮れ、自民党の石破茂元幹事長に会うと、「安倍晋三総裁が4選を目論むようなら、岸田文雄政調会長と手を組んで政治の刷新を図ったらどうか」と発破をかけた。石破は険しい顔で黙って聞いている。反安倍首相を貫いた氏ではあったが、安倍に近いとされる北村経夫、阿達雅志両参院議員を訪ねると、「二人はとても有望な政治家だ。是非また会いたい」とエールを送った。

 コロナ禍に見舞われ、外出自粛を強いられる日々が続いていたが、6月の初め頃まで二人で何度か永田町には足を運んだ。そして炎暑の夏が終わるや、安倍首相の病気辞任という想定外の事態が起きた。

 政局は大きく動き、久しぶりに自民党の派閥の多数派工作による権力闘争となる。だが、老練な二階俊博幹事長が主導し、両院議員総会による総裁選では、結果が見えていた。石破は敗れ、菅義偉政権が誕生した。

 それからしばらくしての9月末、氏から電話が入った。「菅(首相)のことはよく知っている。彼に会って直接いろいろ進言したいことがある。彼は聞く耳を持っている。何とかアポを取ってくれないか。官邸でもどこへでも行く」ということだった。

 取り敢えず「了解しました」と答えたものの、現職首相にアポを取ることは、生易しいことではない。それに菅首相とは、多少の言葉を交わした程度で、さほど親しい間柄でもない。議員会館の部屋の番号と秘書の名前は確認したが、そこから先の作業は、全く進まないまま10月26日の臨時国会の召集日を迎えた。
 その日の朝私は、氏にお詫びの電話を入れた。すると「分かった。直接俺が電話してみるよ」と言うので、議員会館の部屋と電話番号、秘書のK氏の名前を告げた。

 その後、氏から「菅に一番伝えたいことは・・・」と続けてこんな言葉が返ってきた。「石破は欠点もあるが、真面目で勉強家だ。正論を吐き、見識がある。彼のような政治家を、自民党は見殺しにしてはいかん。菅には石破の言い分を聞き入れるくらいの度量を持って政権運営に当たって貰いたい。このことを強く促したいんだ」。亡くなる三日前のことだった。

 首相に直接会って「天下国家のために、言うべきことを伝えたい」という、氏の熱く切なる願いに、私は応えることが出来なかった。悔やんでも悔やみきれない。

 中村氏は政治記者、総理秘書官、ラジオ局報道部長、政治評論家、テレビコメンテーター、森喜朗内閣官房参与、国民新党候補者、月刊言論誌の論客・・・多彩な経歴を持ちながら、常に政治と向き合い、記者魂と憂国の情が、身に沁みついていた。

 穏健なリベラル保守の立場を貫いて時に政治家に直言する、気骨溢れる政治ジャーナリストであった。冷酷・非情な権力闘争の修羅場に身を置きながら、人柄は熱くて優しい。最後の電話で聞いた「菅首相に伝えたい」と言い残した言葉には、実はもう一つの重要なキーワードがあった。

 それは「政治には、『寛容な精神』と『人間愛』が必要なんだ!」というものだった。この言葉の意味するところは普遍的で、深くて重い。数多の政治家の表も裏も目の当たりにしてきた中村氏は、菅義偉という政治家の人間性や弱点を、見抜いていたのであろうか。その上で、氏は敢えて菅首相に直接会って、「寛容と人間愛」を強く求めたかったに違いない。  (文中敬称略 肩書は当時)

 (元・日本テレビ政治部長)
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