【日本の歴史・思想・風土から】

諏訪大社の歴史と御柱の大事な意味

林 郁


 諏訪大社の本拠、信州諏訪盆地には諏訪湖の南岸に上社=前宮と本宮、北岸に下社=秋宮と春宮の4つの社が座す。全国の諏訪神社は全神社の20パーセントで、新潟県1,522社、長野県1,112社~九州鹿児島県118社など広域に在る。
 諏訪本拠の諏訪神は、先住民系「守矢神長官」が祀る古代自然神「ミシャグチ」(御左口など当て字多々)と出雲から来た「タテミナカタ」=建御名方命の伝承が重なっている。

 高天原政体の国譲り要求に出雲の大國主命と長子の事代主命は応じたが、次子建御名方命は抵抗して闘う。かれは天孫族の強軍に追われ、須羽の湖に至り、この山地から出ないことを誓う。(古事記上巻、712年)

 出雲族は諏訪湖河口下、天龍川岸で先住土着民との最後の闘いを制し、和議を結ぶ。殺し合わず共存することを誓い、先住モリヤ(洩矢→守矢)を神長官として古祭祀を託し、出雲建御名方一族は政治民生など司ったという。
 出雲族は稲作とタタラ鉄の技術をもっていたが、未知の山地での食料や薬草、寒冷地の住まいの確保は急務であり、先住者の援けが要る。(和議交渉の言語はすぐ通じたのか? 出雲の独特の言葉は今でも判りにくい方言であり、筆談のない時代、身振り手振りで話したのだろうか)

 最後の闘いの跡は天竜川を挟んで洩矢神社と藤島神社(出雲族は藤づるで闘ったというお宮)として現存し、どちらにも御柱が建っている。出雲から難路を流浪した先がなぜ山間の諏訪だったのか?は諸仮説あり。出雲からの同行者の人数・女性の数など正確な伝承はない。

 721年に諏訪は「治外法権の流罪国」に指定された。古事記(712年)の出雲建御名方命の記述は短く、後年に記されたもの。それ以前に女帝持統天皇・第41代(645~703年)(天智天皇の娘)は須波(すわ)風水の神に天候不順鎮静祈願の勅使を出している(日本書紀)。夫の天武天皇期に陰陽五行・風水で車山(霧ヶ峰主峰)を祭祀の聖地にすることを企てたが、明日香から遠い難路のため果たせなかった事を民俗学の吉野裕子が易経、道教研究書で論考している。
 科野=信濃の枕詞「みすずかる」は、原野に根を張るクマ笹や河岸に茂る葦(ヨシ)など刈って進む山地難儀の象である。「科野路はいまの墾道(かりみち)刈株(かりばね)の足踏みしむな履(くつ)はけ我が夫(せ)」万葉集。

 女帝斉明天皇37代(35代皇極天皇重祚・594~661)は、道教(5世紀に成立)の信仰あつく(道教亀形石造物遺構が明日香に現存)、蝦夷平定軍を出し樺太に至り、朝鮮半島の百済と交流した。その百済は新羅+唐の連合軍に敗れ、斉明天皇没後、子息が百済の遺臣軍を援けて唐+新羅連合軍と海戦し、「白村江」で敗れる。大敗して引き上げる船に百済遺臣の生存者を乗せ、続く難民も受け入れた。九州~明日香だけでなく、後続の渡来流民は科野に大量に送られた。高句麗も滅び、百済以外の渡来人も増えた。

 渡来帰化人は馬の道や牧場を拓き、百済仏教を信じ、仏教は善光寺にもつながる。仏教伝来は「日本書紀」では552年とされる。「上宮聖徳法王帝説」で538年「百済の主明王、仏像、経教、僧等を奉る」。

 伝説では「大国主命が若いとき越の糸魚川翡翠を求め、越の女王奴奈川姫(高志沼河姫)を妻問いし断られ、ついに結ばれて生まれた子が建御名方命」ということで、糸魚川から遡上し穂高を経て松本、塩尻、隣地の辰野から天龍川を遡上し諏訪湖に至る道は「翡翠の道・塩の道」といわれ、諏訪湖周辺の古墳群から糸魚川翡翠の勾玉類が事実出土している。

 建御名方命は八坂刀売命(ヤサカトメノミコト)と結ばれ、厳寒の諏訪湖が結氷して隆起する氷線「御神渡(おみわたり)」は上社の男神が下社の女神のもとに通う道と伝えられてきた。

 考古学研究の先鋭故藤森栄一(諏訪市1911~1973)によれば。稲作とタタラ鉄技術をもつ出雲族少数派が諏訪盆地に定住したのは軍事と経済の転換期の古墳後期末で、8世紀初めの馬具の大量出土は大和朝廷勢力も山間に入っていた証だという。馬は経済や軍事方式を大きく変えた。(藤森栄一は、弥生期の銅鐸がことごとく地下に埋められた謎を調査究明し、小部落連合から強力な政治新体制への変換を論考。さらに縄文時代の稲作を論考したが縄文時代狩猟説学者達から長年否定され、没後、藤森栄一説が実証され、今は常識となった)。先見の藤森栄一諏訪大社研究によれば、小数の出雲族は先住多数民や大和族や渡来人と共生して当地の政(まつりごと)の長となった。その「和の共存の誓い」がいつの世でも大切なのだ。

 山に囲まれた盆地にアイヌの地名や伝承もあり、そこに難民や渡来民が来た初期は、言葉も習慣もいろいろ。原始アニミズム、シャーマニズム、インドの仏教→中国大陸、朝鮮半島→倭、ペルシャのゾロアスター教→中国大陸、道教、儒教、景教など多様な文化や宗教が共存する象は、ヤオヨロズ(八百万)であり、共通普遍は「自然摂理」だった。大自然~険しい山岳や古木森林や水への畏敬と天災の畏怖、自然の恵み(動植物や大地)への感謝、その祭が自然信仰の「御柱」である。

 自然信仰・石と樹に降りる「ミシャグチ」は守矢神長官と諏訪神に守られ、「御柱」は七年式年(まる6年)ごとに深山の神木を曳いて里に建てる【民の和の結集古式祭典】として途切れることなく続いてきた。今も、先ず自然神のミシャグチを降ろしてから諏訪大社の年200回もの行事がとり行われる。

 この地の奈良時代の史跡は湧水を中心に縄文~弥生~土師器と複合しており、修験者、行者の道もあり、平安初めには仏教と習合し「諏訪大明神」となった。桓武天皇が山道で出会った諏訪大明神は「梶の葉の藍摺り衣」だったと伝えられ、上社下社とも紋は梶の葉である。

 仏教と在来の神が融合する「本地垂迹」は栄えた。しかし武力崇拝の時代になると、抵抗神(レジスタンスの英雄・建御名方命伝説)が武運信仰となる。木曽の源義仲の乳兄弟今井兼平と兼平の妹巴御前の諏訪神社との縁により、義仲軍に加勢した諏訪人脈も京に上って、敗れ、自決もあり、諏訪神社も危機に陥る。その後、鎌倉幕府が「南無諏訪大明神」を軍神として支援。下社御射山(奥霧ヶ峰)と上社(原村)に円形12段競技場を造り、流鏑馬や遠駆けや相撲大会で士気を高めた。元寇襲来、諏訪神の神風(暴風)によって蒙古の2度の侵略を防いだと伝えられる。(昭和の大戦で日本大本営は「神風」迷信を大喧伝、神風特攻隊も悲惨に。日本帝国は惨敗した。)

 信仰の原点「和の共存の精神」より戦勝祈願が優位になったのだ。それでも無辜の民は無病息災、安産や快気や開運、五穀豊穣を祈願する。室町時代は内紛が生じ、戦国時代には神事及び「御柱」は女人禁制となる。武力の男優位、「家父長制」の強化は神事行事にも及んだ。女は下働きに押し込められていく。
 隣国の武田信玄の諏訪夕姫略奪婚で勝頼が生まれ、信玄は諏訪明神を厚く信仰し「諏訪法性の兜」で勝ち進む。没後、勝頼は長篠の合戦の暑さで父の形見の法性の兜を脱いで家臣に預けた直後戦死したと逸話は伝える。(法性=万有の真理という仏教の語。諏訪法性の兜はいま「諏訪湖博物館」にあり、白く長いヤクの毛の兜は実戦不向きに見える。人形浄瑠璃や歌舞伎「武田勝頼を慕う八重垣姫が法性の兜を捧げて諏訪湖を渡る」本朝廿四考で有名になり、後年、兜に装飾が加えられたのではないか)

 織田信長は諏訪神社を焼き払い、下社は古文書も焼失した。悲憤の信徒は「南無諏訪大明神」と唱えたという。信長は火炎の中で死ぬ。

 『諏訪大明神絵詞』など神長官守矢家(日本でもっと古い神長、天皇家よりはるかに古い家系図が伝わる)が守ってきた古文書は、歴史解明に役立ち、諏訪神社を守る「諏訪大祝(おおほうり)」の重職も伝わり、徳川家康の命で復興が始まった。江戸期に立川流の龍の彫刻社殿の下社が完成し、秋宮境内の脇には全国の有名神社を模した小さな社が縦列に並ぶ。諏訪大社には旧暦「神無月」がない。全国の神々をもてなす出雲の「神在月」に合わせている。

 明治初年、政府の廃仏毀釈令により、上社を守護した「神宮寺」は徹底破壊された。国宝の宝を失い、地元真言宗照光寺などが「千手観音」「十一面観音」をかろうじて避難し守ったが、神宮寺は地名として残るのみ。「国家神道令」で1872年「官幣大社」にされ、武運戦勝祈願の大社となる。日清日露戦争の出征参拝、さらに満州事変~日中戦争~アジア・太平洋戦争と戦火は激しく拡大し、大勢の兵士の出陣、日の丸の歓呼の見送り、戦死者の遺骨が増えた。

 1944(昭和19)年の御柱は男不足のため女子の曳行でかろうじて保たれた。
 御柱は大木の見立てから6年間の山中神事の務めがあり、それは出征しない老男が担ったが、山出しの曳行~1ヵ月後の里曳きには人員が要るので女性禁制は言わず、勤労奉仕に動員されていた女学生や婦人会が出て曳行した。秋の各地氏神の小宮御柱には学童も動員された。下社山出しの「木落し」を年配の下諏訪町長が指揮し、木の下敷きになって亡くなった。その碑を見ると、私は戦時下の空腹小児だった辛さを思い出す。

 アジア太平洋大犠牲の果てに日本は惨敗。戦後1951(昭和25)年の建て御柱に「平和祈願」「永久平和」の垂れ幕が下がったことを私は鮮明に記憶している。以来、御柱の曳行を欠かさず。新しい日本国憲法による「政教分離」の戦後に成長した私は、御柱は政治権力に侵されない「自然信仰」と「協同と再生」のハレの行事として友人たちと愉しく参加し、2016年は下社共綱を曳いた。名人の木遣りに合わせ一本を2千人~3千人で曳くパワーは元気のもと。里曳きの若い女性の長持連の力業や女太鼓の揃い打ち躍動に新しい時代を感ずる。

 若いころは諏訪古部族に関心をもち、ご神体とされる上社「守屋山」と下社「御射山」を訪ねた。上社神長官守矢家のすぐ上方に明日香の「石舞台」に似た古墳があり、神木タタエの古木があり、林間の坂に磐座巨石「おふくろ石」があり。1991年守矢家敷地内に同郷藤森照信の独創的な建築「神長官守矢史料館」が開館。4回訪ね、古代の宝物や武田信玄、真田昌幸の書状など見た。

 ユダヤ関係の人が訪れ「守屋山はユダヤのモリヤであると説いた」話も聴いた。いちばん古い上社前宮に「御頭祭」という祭祀があり、童男生贄の伝承など謎がある。それはイサクであり、イスラエルの「失われた10支族」の一つが紀元前にこの地にたどり着いた、古代ユダヤの衣冠や儀式と日本神道のそれは極似しているという説である。各地にいろんな人種や多様な文化が溶け込み、日本の文物や文化も海外に渡った。一方的ということはありえない多面重層の歴史をそこに見る。

 上社の故宮坂清通禰宜から「諏訪大社には特異な神事が多く、そのたくさんの神事を間違いなく伝える日々の努力」を聴いたのは民俗学の吉野裕子さんに同行した1975年。当時「易経」を学んでいたので、古代祭祀を陰陽五行で解読した吉野裕子書を読破したが、易経だけに収斂できない歴史のダイナミズムに私は関心をもつ。

 宮坂清通禰宜のご子息宮坂清「諏訪八剱神社と手長神社」宮司は、個人的「祝詞」を上質和紙に書いてくださった。のりとは音読のリズムが身にしみ文語の意味が解るから有難い。長年御神渡りを早朝観察し占う役を務め続ける宮司さんゆえ「厳冬の湖上は寒くないですか」と訊ねると、宮坂清宮司は「寒く感じません。夜明けの清々しさが身心にしみ甦る感じは喜びです」。自然摂理に従うのが「占」。「地球温暖化で完璧な御神渡りが少なくなったことが心配です」

 手長神社は急坂の上にあり、御柱は狭い急峻の石段を駆け上る。木遣りの声も綱の張りも気合そのもの、曳き着けた時の歓声は森に木魂(こだま)する。
 下社御射山からの裏道には黒曜石の露頭があり、岩壁から湧水が流れ出る細道は黒曜石で埋まっている。青森三内丸山や北海道の遺跡の矢尻が霧ヶ峰・和田峠産黒曜石だという記録を見て、古代人の果敢な行動距離に驚嘆する。尖石や井戸尻の縄文の華麗な土器や土偶を眺め、創った人々の暮しと願いを想う。

 古代人の「気」の力が御柱に引き継がれ、戦乱の時代も途切れなく続いたのだが。テレビの出現で「木落し」や「川渡り」だけが奇祭としてクローズアップされるようになり、時間管理が厳しくなったので、私は木落としの見物はせず。奥山の早朝の引き出しから曳行し、木落坂の上で綱から離れ下山する。

 友人のお宅で地産ご馳走を頂き、建御柱を身近に見た高揚感も忘れがたい。春の山出し・里曳き、秋の鎮守の森の小宮御柱、家の小さな御柱もあり、式年にお金を使い果たす。終わると「再生」に向かう。のだが、ライフスタイルは多様化している。御柱休暇に海外旅行を楽しむ人もいる。身内の永眠で祭無縁の人もいる。クリスチャンの友人は「お宮の横に住んでいても参拝しないの」「神道を強制されないから此処で暮らせるのね」

 近年は仏教の若手住職副住職で御柱の乗り手になる人もいる。当方菩提寺照光寺の故宮坂宥勝師(真言密教と空海の学者)から私は「仏と神の融合」を聴いた。自然破壊の物質文明を乗り越える生き方としての平和融合論であった。
 宗教は原点に帰り、真の【平和】を受け継ぐこと、それが【命】である。

 (作家)


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