【自由へのひろば】

被ばく医師・肥田舜太郎が語る福島と広島(1)

山口 光男


 皆さん、こんにちは。私は、1945年8月6日、広島で原爆を経験した内科医の肥田舜太郎です。

 2011年3月11日に、巨大な地震が東日本を襲って、東北を中心に死者や行方不明が約2万人という大変な災害が起きました。その上、福島第一原発でメルトダウンが起きて、大量の放射能が漏れ出てしまって、その量は、広島原爆をはるかに超えていると言われます。
 そして、事故は今もまだ終わっていません。事故当時よりは減ってはいるものの、毎日、原発からは放射能が漏れ出しており、汚染された大量の水が太平洋に流れ出しています。福島県だけでなく、250キロ離れた東京でも、局地的に高いホットスポットがいくつも観測されています。
 また、ドイツ気象庁のデータによれば、放射能は東日本だけではなく西日本にも及んでいます。アメリカの環境省は、3月15日以降にアメリカ本土でウラン235の値が上昇したということを公表しています。南半球のオーストラリアでも検出されているということで、福島の膨大な放射能が世界中にばらまかれたことは、もう間違いがありませんね。
 私たち日本人は、程度の差こそあれ、「爆心地」の近くに住んでいることになりますから、その影響からはどうやっても、逃れられないということになるでしょう。

 この事故のあと、私が被爆した医師だということから、多くの人から被ばくについて相談を受けました。最初は、子どもたちに現われた初期の被ばくの症状についてでした。下痢が止まらないとか、口内炎が出たとか、喉が腫れて痛いなどと。そして、多くのお母さんが心配していたのは子どもの鼻血でした。鼻血がずっと続いて止まらない。そのうち親にも同じ症状が出てきたと、東京や神奈川、静岡、山梨などから寄せられました。
 これはどうして起きたかというと、体の粘膜は放射線の影響が最初に出る場所の一つなんですね。だから、鼻の粘膜をやられた子どもたちには鼻血が出て、口の粘膜をやられた子どもたちには口内炎が出来たんです。非常にわかりやすい話なんです。
 福島原発事故後に起きたこういう子どもたちの症状は、広島や長崎でも、直接に原爆を浴びていないのに、時間が経つにつれて大勢の人に現われてきた症状と同じでした。放射能を体の中に取り込んで起きる内部被ばくによるものだったと思われます。だから、私がこの事故の話を聞いた時に最初に思ったことは、「これから広島・長崎と同じことが起きるのではないか」ということでしたね。それは、原発から出た放射能が広島・長崎で使われたウランやプルトニウムと同じものだからなんです。

 広島や長崎では、そういう被ばくの症状が現れた人が、50年、60年たってからがんや白血病などになってどんどん死んでいます。被ばく者が60年以上も生き延びているといっても、その間も健康で過ごせたわけじゃなく、しょっちゅういろいろな病気になって、医者にかかったり、入退院を繰り返しながら生活してきたんですね。
 ですから、福島原発事故後に政府が「直ちに人体に影響はない」と繰り返し言ったことには、強い憤りを感じています。「後になって影響が出るかもしれない」ということを付け加えなければならなかったのに、そのことにはまったく触れなかったからです。

 60年以上も前の原爆のことですら、その影響があったか、なかったかということで今でも問題となっているんですが、そのために、2000年に入ってから、被ばくしたのに原爆症だと認めてもらえず、病気になって苦しい人生を送ってきた人が集団で裁判を起しています。私は、その現場を知っている生き証人として、そういうことが、福島でも繰り返されるかもしれないと、強く心配しているんです。

 特に、子どもたちについて十分な注意が必要なんです。これは政府や東電ですら認めていることで、子どもたちは大人よりも何倍も放射線に対して弱いんですから、真っ先に守らないといけません。
 だから私は、せめて乳幼児と小学生と中学生は、国が責任を持って原発から出ている放射能が止まるまでは、強制疎開させる。これが正しい処置だと。そのことを、政府のいろんな関係者やいろんな政党にお願いしました。しかし、どこも相手にしてくれませんでしたね。そういうことを言うと、「福島の復興の足を引っ張る」「応援すべきときに、強制避難など口にすべきではない」といわれる。で、結局、国は何もしませんでした。

 自分で疎開出来る人はいいんですよ。でも、疎開したいのに出来ない人がいっぱいいるんですね。私の話を聞きにくるお母さんたちは、本当に真剣に質問してくるんです。明日からこの子をどう育てるといいんですか。明日からどうやって生きて行ったらいいんですかって。私が被爆者でありながら、95過ぎても元気に生きていて、こうやってしゃべっていますからね。そういう期待が大きいんです。

 私もそういうお母さんたちに、具体的に役に立つことを言わなくちゃいけないと、いろいろ考えたすえに、それまで被爆者の方に言ってきたことを言うことにしました。
 あんまり病気をしないで長生きするには、昔から言われているように、よく寝て、よく噛んで食べて、ちゃんと出すとか、太陽と一緒に起きて、太陽が沈んだら寝るとか。体に悪いことはしない。夜更かしをしない。タバコもやめるとかね。面倒くさかろうが何だろうが、そういう努力をして、毎日一生懸命に生きると。それを聞くと、みんな明るい顔になって帰って行くんですね。

 それから、絶対に自分や自分の子どもだけ助かろうというのは間違いだと。今やれることは自分の子どもやその子ども、またその次の子どものために、地球をきれいにしておく。原発はやめる。核兵器はなくす。放射線被ばくに関するかぎり、この二つはあなたの責任なんだ、やりなさい、と話すんです。
 そういう中で、もし、子どもに鼻血が出たとか普段と違ったことが起きた時には、必ず記録をしておくことが大切だと。どうしてかというと、本当の放射能の怖さは、いつ、どんな影響が出るか、分からないからなんです。今被ばくした人が、すぐにがんになるわけじゃない。それよりも困るのは、その前に慢性の変化が起こってくることなんです。記録を残しておけば、先々何か問題がおきた時に、遡って調べることができる。放射能の影響と関係があるかどうかを判断するうえで、非常に役に立ちますから。

 それから、次に広島の原爆のことをお話します。
 私はさまざまな偶然が重なって、軍医になりました。1917年の1月1日に広島で生まれて、銀行員だった父の転勤で、その後、大分や東京、横浜、大阪などを転々としていましたが、27歳の時、原爆が落とされる前の年の8月に、現役の軍医として広島陸軍病院に赴任しました。
 そのころ、戦争は絶望的でした。口にこそ出さないものの、勝てるなどと思っている人は軍隊の中でも一人もおりません。大本営が発表する「勝った!勝った!」の報道は、みんなウソだというのは、はっきりわかっていましたから。陸軍病院ですからね。傷病兵が中国戦線から引き上げてくるんで、最前線の状況は当然耳に入ってくるんです。どの兵隊に聞いても、全滅ですとか、師団長以下戦死しましたと言うばかりで、勝った話なんて一つもありません。だから、この戦争はこてんぱんに負かされて、もうすぐ終わるというのはわかっていました。そうした中で、8月6日を迎えたんです。

 その日、私の所属していた陸軍病院は、爆心地から約600メートルの所にありましたから、原爆が投下されて、中にいた598人のうち、3人を除いて全部即死しました。私も本当なら仲間や入院患者たちと一緒に即死していたはずですが、偶然、爆心地から約6キロのところにある戸坂(へさか)村というところにいて、助かりました。
 その日の夜明け前、大体2時ごろだったと思うんですが、知り合いの農家の孫で、6歳の子どもが夜中に心臓弁膜症の発作が起きたというんで、おじいさんに往診を頼まれて、その家に行っていたのです。私の一生の運命を変えた往診でした。
 夜中に治療をして、朝、目をさましたのが8時でした。子どもの隣に寝ていて、農家ですから、雨戸が開け放たれて青空がよく見えました。少し寝坊をしたんで、急いで帰ろうと思って、子どもをもう一度診て、異常のないことは確かめたんですが、また発作が起きるといけないので、鎮静剤を打っておこうと思って、小さな注射器を取り出して準備をしました。針先を空に向けて、中に入った空気を抜いたんですが、そのとき、ちょうどB29が1機、市内の上空の高いところを飛んでいるのが見えました。

 このころ、B29は広島にも毎日何機も来ていましたが、1発も爆弾を落とさないんです。だれもが不思議がっていて、「広島にはどういうわけか爆弾が落ちない」と言っていたんですね。後で調べたら、実は、アメリカは広島を原爆用にとっていたのです。2年前に、日本に原爆を使うと決めていて、春には広島に落とすことを決めていた。戦後、原爆の威力を調査するためにも、無傷のままにしておきたかった。広島の平たい地形とかを考えて、いの一番の候補地にしていたそうです。

 だからこの時もたった1機ですから、気にも留めずに子どもの手を取って注射をしようとしたんですね。その瞬間にレーザーのピカッというようなものすごい閃光を浴びました。同時に、体の外に出ているところが非常に熱かったんですね。それで驚いて、両手のひらで目を覆って、畳の上にぺたっと伏せました。
 しばらくじっとしていたんですが、音もしないし、何も起きないので、そのままそおっと手を緩めて、光の来た広島のほうを見ると、ちょうど原爆の爆発した直後に出来る火の球が出来るところが見えたんです。青空に、これは見た人は本当に少ないと思うんですが、指輪を横たえたような火の輪が出来ました。その真ん中に白い雲が少しできて、それがどんどん大きくなって、その火の輪の中に中側からくっついたんですね。それと同時に、それが太陽のようなものすごく大きな火の球になりました。不謹慎なことですが、それは見たことのないほど美しかった。金、銀、赤、緑にキラキラ光って。その下の市内は見えないんですが、海が見えていた。きのこ雲が出来はじめた最初から、私は見ていたんです。

 で、何しろ非常に恐ろしい。はじめて見る巨大なものですから、腰が抜けたようになってずっと見ていました。そうしたら、私と広島との間に山並みがあって、その上に突然、黒くて横に長い雲のようなものが出てきたんですね。同時に、火の球の上はどんどん雲になって昇っていくし、火の球の下はそのまま火柱になって、よくきのこ雲、きのこ雲って言いますけど、できた時は雲の下は火柱だったと思います。で、その火柱を背景にして出た黒雲が山を越えて、私のほうへ押し寄せて来たというか、渦をまいて村の中に流れ込んできたんですね。すぐ下にあった小学校の屋根の瓦が、木の葉のようにばあっと舞いあがったんですが、そのつむじ風にすくわれて、家の中を飛ばされました。
 そのとき、大きな農家の屋根がはがれて、泥が崩れ落ちてきたんですね、藁ぶき屋根から。その泥の中に子どもと二人で埋め込まれたんですが、そこから子どもを引っ張り出して、表に出て土の上に子どもをおいて、泥だらけの胸をはだけて聴診器を当てようと思ったら、どこかへ行っちゃってないんです。それで、私の耳の中も泥が詰まっていましたから、それを取って子どもの心臓の上に耳を当てて心音を聴きました。病気の心音ですけれど、ちゃんと動いていたんです。
 で、安心して、裏山の畑に行っていたおじいさんに大きな声で、「ここに子どもを置いとくよ〜。子どもは大丈夫だから〜」と言って、自転車を借りて、村の中を抜けて、広島へ走ったんです。

 その道で、はじめて被爆者に出会ったのですが、荷車がやっと2台すれ違う程度の砂利道で、何かがひょいと出てきたんです。まったく人間には見えなかった。全体が真っ黒で、裸の胸から腰から無数のぼろぎれが垂れ下がり、だらりと前に突き出している手先からは黒い水が滴り落ちている。異様に大きな頭。人間なら目のあるあたりの場所が二つ、まるで饅頭みたいに腫れあがっている。鼻がない。顔の半分ぐらいまで腫れあがった上下の唇。焼けただれた頭には、まったく毛がない。その人がだんだん私のそばまで近づいて来るんで、私は飛びかかられると嫌だから、自転車をそこに置いて、後ろに下がっちゃったんですが、その人は私の自転車にけつまずいて、倒れてしまったんです。
 「ああ、悪いことした、この人は人間だった」と思って、そばへ寄って、「しっかりしてくださ〜い」って言って、医者ですから本能的に脈を取ろうとして、手を取ったらびっくりしました。全部赤むけのずるずるなんです。それから、ぼろだと思ったのは、よく見たら人間の生皮がはがれてぶら下がっていたんですね。滴り落ちていた黒い水は血でした。
 ずいぶん後になって分かったことですが、原爆の熱線は地上で6千度に達したと言われています。ぼろだと思ったのは、その熱線で生皮が焼かれて、ペロッとむけてしまって、爆風ではがされてしまったんですね。
 もうたまげて、生まれて初めて見ますから、「しっかりしてくださ〜い」とか言っているうちに、ぴくぴくとけいれんを起こして動かなくなりました。私がはじめて見た広島の被爆者の最後の姿でした。

 手を合わせて拝んで、また走って行こうと思ったら、もうその後は同じような人がずうっと来るんですよ。これではとても道を行くのは無理だと思って、土手の上の道路から川に飛び込みました。水が腰から下ぐらいあって、歩いて広島へ下って行ったんです。
 心は焦るし、気持ちは恐ろしい。向こうは真っ赤な火の柱ですからね。急いで、川の中を下って行って、ここから先が広島市というところで、川が二つに分かれる。その分かれ目に入る辺りから煙が這って来て、ろくすっぽ見えなくなったんですが、大風が吹いて水をまくりたてるんで、頭から水を浴びながら、橋の下を通ったときに風が変わって、煙が晴れて目の前が見えてきました。

 まず見えたのは真っ赤な火です。向こう岸は石垣になっていて、その先に家がべったりあるんですが、全部、燃えてる最中でした。
 その燃えている民家の中を抜けて、今、真っ赤に焼けたばかりの人が裸で川にたくさん飛び込んでくる。そのまま流されていく人もいる。気がついてみると、もういっぱい川の中を歩いているんです。みんな幽霊みたいに手を前にたらして、どの顔もこの顔も猛烈に焼かれて、すごい顔ですよ。それでも生きて歩いている。この地獄から逃げ出そうとしているんですね。
 ひょいと川の中を見ると、女の人が髪をたらして、仰向けの姿で流されてきました。上半身裸です。おっぱいがあるから、女の人だということは分かりますが、焼けて恐ろしい顔をしていました。忘れられませんね。川底を流れて行く、小さな赤ん坊の死体もありました。川の中は、もう死体でいっぱい。
 しばらくそこにいたんですけど、市内へは入れないし、何もできないんで、死んでいく人らに手を合わして、悪いけど、そこから引き返して、戸坂村までまた川を上りました。

 見覚えのある戸坂村に入る道の手前のほうに来ると、もう這って来る人、歩いて来る人でいっぱいなんですね。死骸も幾つかあります。その上をみんな乗り越えて入って来るんですが、私もそこへ行かざるを得ないから、死骸を踏まないように注意して入って、入るとすぐに小学校があって、その角に役場がありました。役場の屋根は飛んでいるし、コの字形の小学校が半分は崩れてない。残っているほうも屋根が半分飛んでいるという状態です。校庭はもう足の踏み場もないぐらい、人が倒れているんですね。

 そこには、ちょうど広島陸軍病院の分院を翌日、7日の日から開業するという予定で来ていた同僚の軍医が3名と看護婦が10名、衛生兵が10名ぐらいいたんです。病院を疎開せよという命令が出て、戸坂村の小学校に分院を作ったばかりでした。
 で、すぐ治療活動をするというんですが、そこには人間だけが来てましたから、治療道具が何もないんで、村にあるいろんなものをもらって、応急の手当てがはじまりました。医者は翌日には15人になったんですが、焼け石に水でしたね。
 応急手当といっても、火傷にチンク油を塗るのと、体中に刺さっているガラスを抜くのが最初の手当てでした。そのうちに日が暮れてきて、軍医で相談して、翌日は、お前は死んでいる人間と生きている人間を見分けて、死骸を片付けろと。私はその見分け役を受け持ったんですね。これは辛い仕事でした。
 歩いて行きますと、いっぱい倒れている人が、全部私を見るわけですよ。助けて欲しいというように。私は直接原爆に遭っていないので、綺麗な格好をしてますからね。でも、私は一目見て、この人は助かりそうな人だとか、駄目だとかを見て、駄目な人は、「この人は駄目、この人も駄目」と言うんですね。そうすると、村の60過ぎのおじいさんが二人で担架に乗せて運んでいく。

 そういうことをしながら、私が今でも忘れられない人がいるんですね。それは私が、この人はもう駄目だから、目をそらそうと思ったけど、そらし損なってつい目が合ってしまって、その人のそばにしゃがみ込んだんです。この人は若い兵隊で、ざんぎり頭で、全部焼けてました。だから見るも無残な顔なんですが、私がしゃがむと、ちょうど私の目の前に顔があるわけですよ。私の目をじいっと見るんですね。それは獣のような感じです。とても人間の目とは思えない。ちょうど私の右手のところに左のほっぺたがあったんですが、丸く少し焼け残っている所があったので、そこに私はそっと手を当てて、「しっかりしろ」とか何か言ったんですね。そしたら、その恐ろしい目がすうっと軟らかい光になって、人間の目に変わったんです。そして、何か僕に言いたそうに、口が動いたような感じがしたんですが、表情も何も分かりませんけど、そうしたら、そのまますとんと頭が落ちて亡くなりました。

 そういう地獄みたいな中で、自分に何が起こったかというのを分かる人は一人もいないんですよ。何かしてたら突然ピカッと光って、どしゃっとたたきつけられた。気が付いてみたら、周りにいた人間がおばけみたいだった。あんたも血が出ていると言われてびっくりして触ると、血が出てると。だから、自分が何でこうなったのかというのがわからないんですね。分からないまま、死んでいくわけですから、死ぬ前は恐怖心なんです。それで私に会ったから、助けて欲しいのか、何かしてほっと和んだときに亡くなったんだと思うんです。

 私はその時以来、たくさんの死骸を見ましたが、人間があんなにも無残に殺されていくということの中で、何もできない医師というものの情けなさを、本当に毎日毎日味わいました。
 後の記録によると、人口わずか1400人の村が、4日目の朝には2万8000人になっていたそうです。だから、村の中はあらゆる地べたに、空き地に人が寝ていました。爆風で壊れた家という家に、火傷をして血だらけの負傷者がぞろぞろ上り込んで、座敷に倒れてしまい、恐ろしさに逃げ出したその家の人が途方に暮れていたそうです。
 
 3日目辺りから、びっくりすることが起こったんですね。看護婦が見て回っていて、突然、「軍医殿〜、熱が出ました!」と叫ぶんですね。私たち医者が熱と聞いてぞっとするのは、広島は赤痢とチフスの伝染病がよく起きていたところなんです。そんな中で一人でもチフスが出たら大変なことになりますから、熱と聞くと一番ぞくっとして飛んで行くんですね。そうすると、焼け爛れた人間がぽっぽっぽと湯気を出していて、体温計で測ると、41度を超えました。水銀柱の目盛りの上を超えた熱というは、広島以外で見たことありません。
 それで、熱が出ると、すぐ鼻と口から血が出るんです。目尻からも出ます。鼻と口から出るのは普段もありますけど、目尻から出るというのは見たことないんですね。うろうろするうちに、熱は出るし、血は出るし、でも、どうしていいかわからない。
 そのうちに、焼けてない白く残った肌に紫色の斑点が出ました。鉛筆のお尻に紫色のインクを付けて皮膚に押し付けるとできるような斑点で、紫斑(しはん)と言うんですが、重症の血液の病気のときに、末期になると、それがいくつも出てくる。

 それから熱が出ると、例外なく医者はみんな扁桃腺を診るんですが、相手の顔に近づけて口を開けると、「うえっ〜」と、顔が向けられないくらい臭いんです。これは医者しか分かりませんけど、人間の生身が腐って行くときの臭いなんです。口の中を診ると扁桃腺ものどの粘膜も真っ黒で腐っている。
 そして、そのうちにその人が頭を触りますと、触った手の下の毛がすうっと取れるんです。毛が抜けるというのは、櫛を入れると何本か抜けるっていう、そういうのですが、あのときは、苦しいから手を頭にやるんだと思うんですけど、そうやった瞬間にその人の手に、女性だと真っ黒にぐわっと毛が付いて来る。見ると、その後がつるつるなんです。びっくりしていると、みんな毛が取れちゃうんですね。これがあの時に急性に起こった脱毛です。後になって、これは毛の根元にある毛根細胞が放射線でやられたため、毛が毛孔に立っているだけになっていたと知りました。だからすっと取れたんですね。こんな脱毛は世界でも見た人はいないと思いますね。

 そういう症状で、最後に亡くなる前は必ず大量に血を吐きました。胃袋や、肺からどおっと出るんですね。お尻、肛門から出る。女性は前のほうからも出る。血液の止血能力がなくなって。後で分かったんですが、放射線がそういう影響を与えるわけです。当時は不思議だ、不思議だしか何も分からなかった。油断していると、みんな、寝ているむしろが血の海になるんですね。
 目の前で、そんな訳の分からない症状でどんどん死んでいく。熱が出て、扁桃腺が腐って、紫斑が出て、そして毛が抜けて、大量に出血して、突然死んでいくなんていうのは、聞いたこともないし、見たこともありません。何でこんな死に方をするのか分からない。どうしたらいいかもわからない。医者であることが怖くなっていきました。医者はみんなただただ、うろうろするだけでした。この症状が「放射能の急性症状」だったと、後から知ることになります。

 その中で、たしかあれは、6日目ぐらいだったと思うんですが、必死に訴えて死んでいく人がいるんですよ。
 苦しい中で、私の服をつかんで、「軍医殿、わしは何で死ぬんですか〜。わしはピカを浴びとらん。後から入ったんじゃ」と。つまり原爆がもう爆発した後に、周りにいた軍隊が救援で入った。警察官、それから消防の人、そういう人が真っ先に助けに入ったんですね。その人たちの中から、そういう死人が出たわけです。すり傷や何かありますけど、焼けていなくて、同じ症状で死ぬんですね。いろいろ診ている軍医が、ピカを浴びとらんのに死ぬよ、と言う、みんな。この兵隊も3、4日目に死にました。毛が抜けて、血が出て、口が臭くなって、同じ症状です。この人こそ、ずっと後で分かるんですが、原爆が爆発したあとで市内に入って被爆した、いわゆる入市被爆者で、内部被ばくによって亡くなった最初の人でした。

 ピカを浴びていないんだから、火傷の無い人がこんなふうに死ぬはずがない。医者として訳が分からないんで、途方に暮れるばかりでした。それで、街の中に何かが残っていて、それに触れたから病気になったんだと、常識でそう推測しました。そうするとこの病気はうつるんだ。伝染病だと。もし本当に伝染病なら、誰もかれも死ぬことになるかもしれない。だとしたら大変なことだと。みんなと相談した結果、とにかく、死体を解剖してみることになりました。伝染病なら腸を見ればわかる。そこで伝染病棟に勤務していた私に、やれということになったんです。深夜に誰もいない林の中で、まだ戦争中なので電灯が使えないのでロウソクだけを頼りに、解剖しました。それで、伝染病ではないようだと分かったんです。病気の正体は放射能だったんですね。 (次回につづく)


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