【コラム】中国単信(32)

私たちは今、何をしているのか?

趙 慶春


 以前、日本で競輪選手が公道で練習中、違法駐車の車に衝突して死亡するという事故があった。
 中国でも2016年初頭、違法駐車の車のために一人の人命が失われるという、なんともやりきれない事故があった。その事故とは——

 ある高層ビルの屋上から飛び降り自殺を図ろうとする人物に対し、現場に到着した救助隊が救助用エアーマットを路上に急遽、用意した。ところがビルの壁際に違法駐車の車があり、エアーマットをビルの壁に密着させることができずに、エアーマットが行き渡らない。そしてあろうことか自殺者はエアーマットのない部分に落ちてしまったのである。

 日本のテレビでもこの「死亡事故」は取り上げられていたが、中国では大きな反響を呼び、日頃から目に余る違法駐車に怒りを抱いていた人びとの、違法駐車批判の声が一層高まった。中国の都市部ではこれほどまでの自家用車の氾濫を行政部では予想できず、駐車場の整備は遅れ、個人車庫設置の法規化も進んでいないため、路上を車庫代わりにするのはごく当たり前になってしまっている。歩道にまで乗り上げて違法駐車させるだけでなく、多少広めの中央分離帯にまで駐車させている者さえいる。

 しかし、今回の「救助失敗」の原因を作った違法駐車は、単純な違法駐車批判では済まされないだろう。写真で見る限り、その違法駐車の乗用車は小型で、せいぜい1000キログラム程度。この程度の重量なら、数人がかりなら持ち上げて移動できただろうに。多数の救助隊員が駆けつけながら、なぜ人力で車を移動させなかったのだろうか、という素朴な疑問が涌いてくる。それというのも以前、日本では、乗客が電車とホームの間に挟まれた時、沢山の乗客が一斉に数十トンある電車をかしがせて乗客を救出したではないか。

 おそらく人力で車を移動させようとか、あるいはその他の緊急解決策を思いついた人はいたはずである。ただ中国人的な発想からすると、積極的にやろうとはしないだけなのだ。救助隊員はマニュアル通り、救助用エアーマットを設置する、それが自分たちの仕事という認識がある。したがって車の移動は交通警察か、管理会社の仕事なのだから、敢えて「余計な仕事」はしない。なぜなら車が破損などしてその責任を取らされるなどしたらたまらない、と考えるからである。
 こうした中国人的発想をみごとに言い当てているジョークを紹介しよう。

 ある人(グループ)が一所懸命穴を掘っている。
 そのあと、ある人(グループ)が、一所懸命その穴を埋めている。
 一人の通行人が不思議そうに訊いてみた。「何をしているの?」
 「木を植えるんだよ。こっちは穴を掘る仕事担当なのさ」——穴を掘っている人が答えた。
 「木を植えるんだよ。こっちは穴を埋める仕事担当なのさ」——穴を埋めている人が答えた。
 通行人はわけがわからないというように「じゃ、その植える木は?」
 「あっ、穴に木を運び入れる人は今日は休みを取っているんだ」——穴を掘る人と穴を埋める人が同時に答えた。

 しかし上記のような「事故」もジョークも、決して中国人の専売特許でないらしいことを、筆者の体験として日本でも知ることになった。

 最近の日本は、来日外国人の増加で案内板や宣伝ポスターに外国語の表記が書き入れられているものがずいぶん増えてきている。ある時、警察関係のポスターで中国語の表現に誤りがあることに気づいた。どうするか一瞬迷ったが、明らかに間違っていたので、ポスターを張り出している交番に入り、誤りを指摘して、正しい表現をその場にいた警官に教えた。ところが対応した二人の警官の反応は、ほぼ無表情、無反応といってよかった。この二人の警官が何を思っていたのか、もちろんわからない。少なくともこのような事態に対する対応のマニュアルを持っていなかったことは確かだろう。

 筆者はその「無反応」ぶりに呆れて、それ以上何も言わずに交番をあとにした。その結果は、ポスターの中国語の誤りは直されることはなかった。

 ポスターが訂正されず、そのまま貼られ続けたということは、交番の警官は然るべき部署に報告しなかったか、報告しても然るべき部署からは無視されたに違いない。ただ然るべき部署(広報を扱う部署か)に報告が届いていれば、何らかの動きは取られたと思うので、やはり交番の警官が無視した可能性が高い。でももっと意地悪な観測をすれば、広報担当部署の責任問題になるので、握りつぶしてしまった可能性がないわけではない。

 いずれにしても筆者は余計なことをしてしまったに違いない。同じ警察機構とはいえ、部署によって大きな壁が築かれていて、他の部署について一切口出ししないという風潮は日本の組織にもあることは知っていたつもりだが、それをみずから体験することになった。

 また同じく日本で、大学の教員の無責任ぶりにも呆れて開いた口がふさがらなかった事例を一つ。無論、大学の教員がすべてそうだと言うつもりはないし、むしろ特殊な例だとは思うのだが。

 その教授は2年生と3年生対象の科目では、それぞれ2科目、合計4科目の授業を担当していた。4科目とも同じ分野で、関連性もある。しかし科目の名称が異なり、対象学年が異なれば、当然、授業内容や授業到達目標も異なるはずである。ところがこの教授は4科目ともまったく同じ内容でおこなっていたのである。

 学生から批判が起きるのは当然で、この教授のこうした授業方法はすでに数年間に及んでいて、授業中見せるビデオも同じなら、レポートのタイトルさえも、数年間変わっていないというのである。この教授の例は、官僚主義的労働パターンよりさらに無責任で、先ほどの中国のジョークを嘲笑してなどいられないように思う。

 実は似たような話はわれわれの周囲にはいくらでも転がっている。社会という、いわば共同の生活を営む場にいるかぎり、また企業などの組織で生きていくかぎり、私たちはその時々に、他人を思いやる気持ちの大切さを言い、責任感の大切さを言い、管理者の素質の重要性を言い、相互のコミュニケーションの大切さなどを言い続けもし、耳にもしてきている。

 それもこれも誰もが気持ちよく共同生活ができ、仕事が順調に動いていくようにとの思いからだが、今回のような事例を知るたびに、官僚主義、形式主義、自己中心主義などがますますはびこり、暗澹たる気分に落ち込みそうになる。

 食事中も、歩いているときもスマホから目を離さず、たとえ恋人と一緒の時でさえも恋人の顔を見つめるより画面を操作することに夢中になる人間たちが溢れてきているこの時代、私たちはもう一度、自分たちは今、いったい何をしているのか、みずからに問いかけなければならないのではないだろうか。

 (筆者は女子大学教員)


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