【沖縄の地鳴り】

沖縄戦に殉じた荒井退蔵に見る「死」の周辺

羽原 清雅

 1945年6月、日本の敗戦直前、沖縄は本土を守る砦として、20万余の死を招いた。20万余の死は、一人ひとりのあがきや苦しみ、それに親族、知人らの悲しみを大量に残した。
 ここで取り上げるのは、当時の沖縄県警察部長として、その上司にあたる県知事を支えた人物だが、肩書や任務、業績などを離れて、「個」の「死」として見ていきたい。職務には触れざるをえないが、普通人の「死」の一例として見つめたい。戦火のもとでの個々の人々は、その記録もないままにただ埋もれていく。ただ、この警察人の死には、若干のたどれる資料が残されていたことで取り上げることができた。
 それは「名誉の戦死」といった靖国的礼賛ではなく、むしろそれに抗する「死」の現実である。その人物は、沖縄戦の終わる直前、沖縄県知事島田叡(あきら)とともに散った同県警察部長荒井退蔵という。

 *荒井退蔵の生い立ち
 荒井退蔵(1900-45)は、栃木県芳賀郡清原村(現宇都宮市上籠谷町)の農家に生まれ、宇都宮中学(現宇都宮高校)を卒業。高千穂高等商業学校(現高千穂大学)を出て、23年に警視庁巡査になると同時に、明治大学専門部(夜間)に入学。もともと成績は優れていたが、27年には超難関の高等文官試験に合格、同年に警察を所管する内務省に入省する。
 都内の署長を経て満州の警察部、さらに福島、山口、長野、福岡各県で、警察、特高などのほか、神社、徴兵、学務、などの広い経験を持つ。福井県官房長(副知事格)だった1943(昭和18)年7月、米軍襲撃のリスク高まる沖縄県警察部長(現県警察本部長)に任命される。
 当時の警察といえば、軍部についで権力を笠に着て威張りがちの職場であったが、荒井は苦労が身についたものか、民間人に理解のある穏やかな人柄だったという。内務省関係の功績調書などに美辞麗句の礼賛が記されているが、摩文仁に向けて逃げ惑う県職員、警察官たちの言動を記録した「鐵の暴風」(沖縄タイムス社刊)に掲載された荒井の言動を見ると、その人となりが読み取れる。

 *待ち受ける沖縄の苦境
 荒井の沖縄着任時、つまり43年7月の戦時情勢は、太平洋戦争に取り組む日本軍の崩壊の時期だった。4月に連合艦隊司令長官山本五十六の戦死、5月にアッツ島玉砕、7月にはキスカ島撤収など、陸はもちろん、各地の海戦、航空戦でも苦しみ、火の手はじりじりと沖縄に迫ってきていた。
 翌44年3月、南西諸島防備のための第32軍が設置され、航空戦に対処するための飛行場建設に県民の動員が急がれて、その任務は警察に託された。サイパン島玉砕の7月になると、10万県民の県外疎開が閣議決定され、その作業も警察にまわってきた。
 強気のデマの大本営発表を信じる県民は「本当に沖縄まで攻めて来るのか」「どうせ死ぬなら故郷がいい」として九州や台湾への疎開にのろうとしない。周辺の海域はすでに、米戦艦が結集していた。荒井は全警察署長の会議で督励、地元で講演、座談会などを開かせ、まず警察官の家族を疎開させた。やっと疎開の機運も出た8月、疎開児童を乗せた「対馬丸」が米潜水艦の攻撃で沈没、子どもたちを中心に1400人余が死ぬ事件が起きた。海の危険から、県外疎開は本島北部に代わった。米軍は島を封鎖、そこを陸海空から攻めて殺戮した。
 県内外への疎開の実施、残留県民の避難と安全策、防空・警備体制の強化、食料の確保と増産、軍需への供出など、通常の警察業務を超える仕事が重なった。
 しかも荒井の苦労は、時の泉守紀知事が在任1年半のうち3分の1は県外に逃げて、県政全般の指揮が荒井に求められたうえ、知事からは疎開にも反対されたのだった。この実態は、当時の報告書につぶさに残されている(「昭和二十一年島田沖縄県知事荒井沖縄県警察部長死亡一件・復刻版内務省原議資料綴」荒井紀雄編)。

 10月10日、本島は米軍機が7、8回、延べ900機による空爆を受けた。那覇をはじめ焼け野原となり、県民全体が衣食住をはじめ日常の生活に苦しむことになった。この大空襲が沖縄戦の前触れだった。この日々の苦労の先に、「本土防衛」の犠牲という死が待ち受けていた。今でいう「国民の生命と財産を守る」ための犠牲を、沖縄県民に課せられたのだ。
 荒井たちは、疎開ばかりではなく、防空体制や警備体制の強化、食糧の増産、軍需の供出など兵站の役割を負わされもした。「天皇の軍隊」のためであり、「本土の捨て石」のためだった。一億玉砕が言われるなかで、それに疑問などは出ず、一途に信じ込まされていた。

 *島田叡県知事の登場
 1945年1月末、島田叡が大阪府内政部長から沖縄県知事に異動を命じられ、着任した。死を覚悟しての転勤だっただろう。島田知事と荒井警察部長の自決する半年前である。
 島田知事は荒井より1年後の生まれで、兵庫県八部郡須磨村(現神戸市須磨区)出身。旧神戸2中(現兵庫高校)、三高(現京都大学)、東京帝大法学部出身のエリートとして内務省入り。中学では、第1回の全国中等学校優勝野球大会(現在の甲子園での高校野球大会)に出場し、東大でも野球部で活躍した。25年の内務省入りにより、荒井の2年先輩となる。主に警察畑に在職、この点でも荒井と共通して通じ合うものがあっただろう。
 前年10月10日の米軍の10・10大空襲(死傷904人、罹災5万3346人)で、本島の主要部の都市機能はすでに失われていた。そのようななか、島田はまず、不在の多かった前知事との間で不調だった軍部との関係を改善、また台湾に飛んで食糧難となっていた米を入手、県民の信頼をとり戻そうとした。
 当然、荒井は望ましい相談相手にり、二人三脚で態勢立て直しに努めることになった。

 米軍は3月25日慶良間諸島に入り、1週間後の4月1日には本島北谷村に上陸、艦砲射撃、空襲に加えて陸からの攻撃にかかり、「鉄の暴風」と言われるほどの殺戮道具を無尽蔵に駆使した。本来なら、日本軍はここで敗戦を認めるべきだった。だが、「天皇陛下のため」「(一億玉砕も覚悟の)本土を守る砦」とする沖縄軍は、逆に県民総動員を指令、とことんまでの抗戦の方針によって、多くの生命を無駄に失わせた。

 県庁はすでに焼失、一時宜野湾に移転したが、4月の米軍上陸後は首里城下の地下壕に入り、さらにそこから3キロほど離れた繁多川の壕(那覇市真地)に移った。知事一行は、そこも危険になって、軍の決めた島南部への逃避行となった。
 ・繁多川壕(那覇市真地)           4月25日-5月27日
 ・志多伯壕(八重瀬町=野戦重砲隊の壕) 5月27,28日
 ・大城森壕(糸満市大里、同市兼城、照屋の記録も)5月29日-6月3日頃
 ・轟壕(糸満市伊敷=県庁活動を停止の最後の地)  6月3,4日頃-14又は15日
・摩文仁壕(糸満市=島田、荒井最期の地)   6月11日または14、15日ー26日
 壕の生活は厳しかった。日中は米軍の間断ない空、海、陸からの猛攻撃で、夜しか身動きが取れない。移動するのも夜間のみ。豪雨が多く、炎天の季節に入っていた。食料、水は乏しく、風呂もない。壕内は狭く、寝る場がやっと。雨水、湧水がたまる。壕内に掘ったトイレはあふれかねず、その臭気のうえ蒸し暑く、全員が病気寸前の状態が続いた。
 そのようなそのようなそのような日々が2ヵ月以上続いたのだ。県の幹部にしてこうした状況だから、まして一般の県民多くの現実はさらに厳しかった。

 *「死」までの経緯
 死に追い詰められた島田知事と荒井警察部長の動きを追う。
 筆者(羽原)は、荒井の亡くなった日がマチマチ、死に至る場所は不明、という各種の記録をたどりたかった。
 当初の報告書には、6月22日の日本軍最後の総攻撃で部隊は全員戦死、軍司令部員とも亡くなった、との見方がある。翌1946年3月28日付の時事通信の報道では「6月21日に健康を害していた荒井警察部長がまず青酸カリで自決。24日に島田知事が自決」とある。この記事は3月21日、熊本市に出向いた県嘱託で元沖縄新報の記者が、元那覇地検検事正池田九郎、郷土防衛軍にいた島田明から聴取した内容によったものらしい。また46年8月2日付の県内務部長による内務省警保局長あての報告書には、荒井について「6月23日ごろ」になっている。「6月25日」と臨場感を込めた推測を盛った小説風のものもある。
 一方、ウイキペディアは「6月26日?」と記すなど、「26日」とする記録も少なくない。
 混乱のなか、しかも生存者のいない状況下ではやむを得ないのだろう。むしろ、先に触れた荒井紀雄の編纂した内務省関係の文書を見ると、主要幹部のこととはいえよくトレースし調査した、と思わざるを得ない。

 結論的には「6月26日」と言えるようだ。具体的で信ぴょう性が高かった。
 というのは、この文書綴の中に、死の直前まで島田、荒井と行動を共にした陸軍薬剤中尉大塚康之の「証言」記録があった。2人の死から1年後の46年6月、岡山県笠岡に引き揚げていた当時38歳の大塚に聴取した内容が、岡山県内務部長名で内務省官房に報告されていた。
 報告書の言葉遣いを尊重しつつ、読みやすく引用しておこう。

 ・6月11日ころ、長官(島田県知事)は摩文仁の軍の壕に移ろうとするが、牛島軍司令官の壕は狭く、余裕のある司令部軍医部の壕に入る。
 ・6月18日ころ、長官は軍司令官に最後の挨拶に行く。「沖縄が敗れたら自分は長官だから軍司令官と共に自決する」と常に言われていた」。
 ・軍としては、摩文仁付近が陥落したら、沖縄北部の国頭<くにさき>支隊(約3000名)に合流、最期の一戦を交える計画で、警察官等も大部分支隊に合流すべく移動した。長官も合流の機会を窺っていたが、敵が近くにあり、壕から出られなかった。
 ・6月21日、日本軍(最後)の総攻撃があり、翌22日午前4時牛島司令官は自決した。
 ・島田、荒井は壕で国頭支隊合流の機会を待ったが、その機会なく、26日島田、荒井、軍医部の松島中尉ほか兵2,3名が合流すべく壕を出た(午後10時ころ)。爾後消息不明となった。
 ・<大塚中尉の推測>島田はいつも本島が陥落したら自分は生きてはいられぬから自決する、とつねに言っていた。牛島軍司令官が自決したので、その後は青酸カリをつねに用意していた。自分に「これを飲めば死ねるか」と尋ねられたので、青酸カリが風化しているかもしれないので、それだけではダメかも、と答えたが、「それでは拳銃の方が」安全だ」と言っていた。壕の中で自決したものもあったが、あとの者が死体の処置に困るので、あるいは壕から出られたのは既に自決する決心ではなかったか。その後、国頭支隊の生存者に話を聞くと、摩文仁から来たものは一人もいないと聞き、支隊へと壕を出た者は全部やられている。以上の点から、長官は摩文仁を出られると間もなく自決されたと思う。

 荒井もまた、気持ちが通じ、苦しい壕内の生活を共にした島田知事とともに死を決意していたと思われる。大塚中尉によると、「その頃<26日以前>、荒井警察部長は非常に下痢で衰弱が甚だしかった。国頭支隊までは約10日を要するので到底駄目だとは思った」と述べている。

 また、7月17日には内務省人事課長から、県内務部長宛に、荒井死去の日について「6月23日」でいいのか確認を求める電報が送られて、この文面には「荒井未亡人は知事殉職の日と同日に殉職したるものとの認定を希望」とも記され、家族の意向を伝えている。
 そして7月末には、最終的に「6月26日殉職」が決まった。丹念な作業、と感心したが、それは荒井の叙勲を決めるための書類作りであることが数通の電報、上司への手続きの書類から読み取れた。大塚の証言通りに確認されたことは、なによりであった。

 
 *「死」をめぐる戸惑う風評
 猛攻撃の中を逃げまどい、混乱と目撃者のいない状況下では、さまざまな風評が流れる。
この記録もぜひ残しておきたい。
 本島北部の医院にいた19歳の看護婦は、なぜかフィリピンに連行され、1945年10月に帰国すると島田知事の「生存説」を口にする。だが、彼女は摩文仁陥落前にフィリピンに出ていたので、事実無根と分かった。
 軍司令部の副官部に「島田明」なる人物がいて、この名が米軍の生存者調査名簿にローマ字で書かれており、これが誤解を生むことになったようだ。
 また、45年11月の毎日新聞大阪版に島田知事の拘禁説が出たり、沖縄から復員した福島の旧軍人が荒井警察部長の生家を訪れ「荒井に会った」と語ったり、いずれも誤りなのだが、遺族を混乱させたのだった。

 先に触れた薬剤中尉だった大塚によると、遺体がわからなかった理由として①服装がみな国民服で、当時将兵は地位を示す「襟章」を外していた、②摩文仁付近には約2万もの戦死者がいた、③米軍は、見つけた遺体は必ず穴を掘って埋めていたが、島田、荒井らの遺体捜索にあたって発掘まではしなかった、などを挙げている。
 大塚が無事に復員したのは、6月29日に軍医部長と摩文仁の壕を出て海岸沿いに北上中、軍医部長は戦死、大塚は米軍に捕まり収容されたからだ。46年3月に内地岡山県に帰還していた。

 *「自決」の場はどこか
 内務省の記録を編纂した荒井紀雄は、県警察部長荒井退蔵の子息である。
 筆者はたまたま、沖縄復帰50年を機に戦前戦後の沖縄の格差・差別の問題を追っており、ひと言だが、退造に触れていた。そんなときに、同窓の仲間から「退造さんの親類筋の荒井俊典君は、われわれの大学、学部の同期だよ」と言われ、紹介してもらった。この原稿を書きたいと思ったのも、実はそんな私的な関わりが後押ししてくれている。

 今年2022年7月8日、久しぶりに摩文仁の丘に向かった。退造の消えた場所をただ知りたかった。本島南端の広大な平和祈念公園の中央部に、島田たち県庁職員を祀る「島守の塔」が大きく聳え、すぐ隣に荒井出身の「栃木の塔」が山地に向かって設置されている。
坂道を挟んで向かい側には紺碧の海が広がる。心の和む、戦乱を忘れさせる風景である。
 この「島守の塔」上方の山地に壕があった、と当時の生存者が見当をつけたという。4、50段あろうか、石段を登ると「沖縄県知事島田叡、沖縄県警察部長荒井退蔵 終焉の地」と彫られた慰霊碑が建つ。
 子息の紀雄はたまたまの縁で、生前の大塚から手紙をもらっていた。それによると、最後の居所となった軍医部の壕は小さな粗末な壕で、「雨が降ればしばらくしてぽとりぽとりと雫が落ち奥の方はいつも濡れていたので簀の子を敷いての生活」「死が迫っているという悲壮感もなく全く平静だった」
。ただ、壕のさらに地下には広めの鍾乳洞があって、22日の最後の総攻撃の日、戦闘に関係のない県庁職員らは皆出て指示する方向に行け、との軍の命令があり、島田、荒井のほかに大塚や軍医部長ら37人は残留することに。「このうち生存帰還したのは4名だった」。
夜以外は壕内に隠れていて、「一日中、戦車のキャタピラーの音がしていたが、何をしているのかも全く判らないままだったが、・・・・昼のキャタピラーの音は摩文仁の丘の上まで一日で道路を作った、その音だった。これには米軍の物量に驚くばかりだった」。
 島田知事、荒井警察部長の世話にあたっていた官房主事仲宗根玄広、巡査部長(のち警部補)仲村兼孝の2人も壕の外に出ることになり、命を落とすことになった。
 荒井紀雄は「知事と警察部長は自決の決意で壕を出て海に入ったのではないかと思う。知事は6月19日、沖縄脱出のため別れを告げる野村毎日新聞那覇支局長に『(自決の方法は)海に入るさ・・・・
ぼくはみにくい死にざまを人に見られたくないからね』と微笑して語ったという」と記している。
いまは壕のあともなく、また自決の場がどこかもわからない。ただ、大塚の手紙や、野村記者の話を信じるしかないが、気持ちは落ち着く。
        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 戦争によって、プラスを得る者はいるのだろうか。
 ひとたび戦闘を想定すると、軍備を増強し、自衛は先制攻撃に代わり、国交や交流を断ち、相手国とその国民を軽侮憎悪し、無理な大義名分を立て、食料確保の策もなく、戦火を開く。
そして軍人も民間人も大量に死に、負傷して家族周辺を悲しみに追い込み、国土やさまざまな蓄積を破壊し、無駄な復興に取り組む。ひとたび動き出した戦争想定の道は止めようにも止まらなくなる。
 旧日本軍の中国やアジア侵略、ロシアによるウクライナ戦乱が、その歴史を証明する。
 荒井退蔵の短い生涯もまた、その虚しさを教えている。

<参考文献>
  ・戦さ世の県庁 荒井紀雄  私家版
  ・昭和二十一年島田沖縄県知事荒井沖縄県警察部長死亡一件 荒井紀雄編 
限定10部刊行(国立国会図書館所蔵)
  ・沖縄の島守を語り継ぐ群像 田村洋三    悠人書院
  ・群青の墓標        横家伸一    文芸社
  ・鐵の暴風         沖縄タイムス編 同社
  ・朝日新聞、毎日新聞    各縮刷版
  ・近代日本綜合年表(第4版)        岩波書店
  ・沖縄「格差・差別」を追うーある新聞記者がみた沖縄50年の現実
  ・日本の戦争を報道はどう伝えたかー戦争が仕組まれ惨劇を残すまで
               いずれも 羽原清雅 書肆侃侃房

(元朝日新聞政治部長)

(2022.9.20)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧