【投稿】

有閑随感録(22)

矢口 英佑

 編集者が原稿を一冊の本として刊行するまでにはそれなりの時間が必要で、この仕事では駆け出し者の私には、原稿受け取りから3カ月で、などという芸当はとてもできない。
 この期間内で刊行するためには著者の姿勢も大きく関わる。著者校正の段階で校正にかける時間にもよるからである。また、その本の刊行時期が定められていて、時間との勝負になっているかにもよる。そのほか、組み版会社や印刷、製本会社での仕上がり速度も関わる。たとえば、現在、取引しているある組み版会社などは、原稿を入れると翌日には校正ゲラとして出てくるというところもある。

 しかし、なんと言っても原稿を割り付けたりする初期段階での編集者の能力と決断力が大きい。いただいた原稿にざっと目を通して、どのような本の形にするのか、文字の大きさ・種類、見出しの付け方、行取り 文字空け、文字の段落、ゴシック等々をたちまち決めて、さっと割り付けを終えてしまう熟練編集者は、原稿を読みながらすでに割り付けを頭の中で済ませてしまっているのだろう。

 しかし、私はそうはいかない。
 要するに一連の作業が繋がっておらず、バラバラでそれぞれが個別の作業になってしまっていることは否めない。私も原稿を読みながら誤字や脱字、文章表現でひっかかる箇所などにはチェックを入れていくが、割り付けの指示まではとてもできない。本にした時のイメージが私の中でつかめていないからだ。

 くだんの熟練編集者とは、論創社の社長のことなのだが、その集中力が凄い。編集作業に取り掛かると食事はもちろんお茶なども一切口にせずに、まさに没頭という言葉がぴったりする。声をかけるのが憚られる雰囲気があたりにただようのである。いつだったか「お茶も飲まないようだが」と訊いたことがあって、「そうした動作を途中で入れると集中力が途切れる」というのがその答えだった。
 確かに作業を見ていると、行取り、文字空け、文字の大きさ、改丁、改頁、ゴシック等々の指定が実にスムーズに流れていく。とはいえ、150~200枚前後になるゲラを処理するにはそれなりの時間を要する。

 私などは割り付け作業に数日かかってしまうこともあるのだが、社長の場合はたいてい数時間で終えてしまう。割り付けに迷う者と迷わない者との差と言ってしまえば、そうなのだが、やはりそこには長年の経験によって〝こう指定すれば、こういう形になる〟ということがはっきり見えているのはまちがいない。
 ひるがえって私が割り付けに数日もかかってしまうのは、割り付けしながら体裁のイメージがパッと浮かばず、そのたびに頭の中でイメージを描いて確認するということをしているからである。

 「編集者は職人」とは社長の言葉。確かに職人とは、長い間に身につけた熟練した技術を持つ人で、機械ではできない生身の人間の手で産み出すのであるから、社長はまさに職人なのだろう。そうだとすると私などは、弟子入りを許されたばかりの雑用だけをやらされる奉公人というところだろう。

 ところで先日、ほぼ1年前に決まっていたある大学での社会人講座の講師を務めた。まさか今のようなコロナウイルスの蔓延状況になるなどとは予想だにしていなかった時期に決まっていたため、当然、教室での講義のはずだった。しかし、大学での通常授業も軒並みオンライン授業に変更になってしまい、私の講座もオンライン授業へ変更になった。

 オンラインの形式は幾つかの手法から選択することになっていて、私はユーチューブで流すことにした。だが、いくら長年にわたって大学の教員を務め、講義には慣れているとはいえ、オンラインでの形式は生まれて初めて。その意味では職人からいきなり徒弟にされたようなもので、すっかり浮き足立っていたようである。あとから自分の講義中の映像を見てそれがよくわかった。

 なにしろ相手の顔も、様子もわからない完全な一方通行で、それはわかっていたつもりなのに、教室での講義しかおこなったことのない者には精神的にとにかく落ち着かない、不安定感につきまとわれ続けたと言っていいだろう。
 教室での講義でも一方通行感はあるのだが、たとえ寝ている学生、おしゃべりしている学生がいても、それを目視できるわけで、急遽、話の内容を変えたり、声のトーンを変えたり、敢えて沈黙の数秒間を置いたりすれば、学生の目をこちらに向けさせることができたものである。

 しかし、今回の講義形式では、時間いっぱい、ひたすら話し続けるだけで、受講生の反応を見ながら講義を進めることができず、講義終了後の疲労感が非常に大きいことも初めて知った。さらに映像は正直なもので、緊張しきって余裕を失った自分の顔や落ち着かない体の動きは、我ながら呆れるばかりだった。そして、もう二度とこうした形式の講義はやりたくないと思った。

 だが、よく考えてみると、私が定年で大学という職場を去って、すでに2年半以上が過ぎていた。その間、1年に何回か多少、講義めいたことは担当してきたものの、職人(私は大学教員も一種の職人と見なしている)としての技量は確実に落ちていたに違いない。聴く者からすれば、話の内容は無論のこと、話し方も話の進め方も極めて重要な要素で、その技量が落ちれば、聴く者を惹きつけることはできない。

 最初はオンラインなどという人生初体験の授業形式が講義を満足ゆくものにできなかった要因と思ったのだが、実はそうではなく、私の職人としての技量が落ちていたからなのだということに気がついた。
 熟練した技術を維持し続けるためには不断の積み重ねが必要なことを、今回の授業形式から教えられ、私自身、自分に落第点を付けざるをえないと思っている。
 それだけに論創社社長の職人ぶりはなかなかみごとと言うしかないようである。

 (元大学教員)
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