【コラム】槿と桜(12)
暑気払い
今年は例年にも増して酷暑の夏が続いています。日本全国がまるでゆで釜に入れられたようで、東京でも8月10日までに猛暑日が10日間もあって、日中の最高気温も37.7度にまで昇った日も。こうなると「暑い」ではなく「熱い」という漢字で書きたくなるほどです。
この暑い夏を乗り切るため、日本では「打ち水」や日よけ、目隠し用の「すだれ」、コンクリートへの直射日光を遮り、照り返しや蓄熱を防ぐ「すのこ」などが少しでも涼しく過ごす方法として伝統的に用いられてきていて、まさに生活の知恵だと思います。
また食べ物では夏の風物詩と言っていいのが「かき氷」です。これは韓国にもあり、子どもや若い人たちには人気があります。確かに食べるといっぺんに汗がひき、涼しさを身体の中から感じることができます。でも食べ過ぎには要注意でしょう。
最近では宣伝効果もあってか、夏バテ対策に甘酒が人気商品になっているようです。ブドウ糖やアミノ酸、ビタミン類が効率よく吸収できて、飲む点滴とも呼ばれているようです。でも実はこの甘酒、日本ではすでに江戸時代から庶民の間ではよく知られた夏バテ防止飲料だったようです。
日本に来て初めて甘酒を見たときは、韓国のマッコリに似ていると思いながら、こわごわ飲んでみると、ドロッとして甘みがあって、抵抗なく飲めたことが思い出されます。今では韓国からの来訪者には日本を知ってもらう一つとして、目にとまればこの甘酒を勧めることにしています。
ところで暑気払いとは、暑い夏に体を冷やす効果のある食品や、その効能があるとされる漢方や薬などで、体中の熱気を取り除こうとすることですから、決して冷たい物だけとは限りません。例えば夏野菜の苦瓜(にがうり。ゴーヤ)、南瓜、胡瓜などにはビタミンC、カリウム、カロチンなどが含まれていて、利尿作用や疲労回復、夏バテ予防効果などがあるとされています。韓国でもやはり夏場にはこうした野菜がよく食卓に並びますが、苦瓜は韓国野菜にはなかったように思います。少なくとも私が韓国にいたときは、目にしたことのない野菜でした。余計なことですが、日本へ来て初めて食べた苦瓜独特の苦さが好きで、私は夏場はよく食べます。
一方、暑いからこそ熱い食べ物でという考え方は、日本では考えられないほど韓国では定着しています。韓国人はよく「以熱治熱(イヨルチヨル)」と言います。漢字を見ればおわかりのように「熱いもので熱さを鎮める」といった意味ですが、暑さからくる食欲不振に熱い料理を食べて解消しようというわけです。
日本でも夏バテ解消として土用の丑の日の鰻がよく知られていますが、韓国でも同じような考え方があって、「土用の丑の日」に当たるのが「三伏(サムボック)」と呼ばれるものです。
「三伏」は、毎年7月から8月にかけて、夏至から3回目の庚(かのえ)の日が初伏(チョボック。초복)、4回目の庚の日が中伏(チュンボック。중복)、立秋が過ぎた最初の庚の日が末伏(マルボック。말복)になります。ちなみに今年は初伏は7月13日、中伏は7月23日、末伏は8月12日でした。毎年3回ありますので、三伏といっています。
それではこの3つの三伏、つまりそれぞれの「伏の日」(伏日、ポンナル)に何を食べるのかと言いますと、日本でも知られている韓国料理の一つ、参鶏湯(サムゲタン)です。もう1つは、こちらは日本の方にはほとんど馴染みがないと思いますが、補身湯(ポシンタン)と呼ばれるスープ料理です。
参鶏湯(サムゲタン)は、韓国の代表的な鶏肉料理の一つで、若鶏の内蔵を取り、そこにもち米・栗・ナツメ・高麗人参などを入れ、長時間煮込んだ料理です。現代の韓国人は「伏日」だけでなく一年中、好んで食べます。じっくり煮込んだ肉は柔らかく、箸で骨から簡単に外せてしまいます。滋養たっぷりのスープには高麗人参の香りも染み込んでいて、なるほど身体に良さそうだと誰もが思うのではないでしょうか。ただし、とても熱いですから、食べながら大汗をかくことは間違いなく、だからこそ食べ終わった後の爽快感はなんとも言えません。
さてもう1つの韓国の名物料理、補身湯(ポシンタン)ですが、これは犬肉のスープです。
こう聞いただけで日本の方は逃げ出してしまう人がほとんではないでしょうか。実は私もダメなのですが。
ただ日本でも縄文時代から江戸時代に入るまで犬食の習慣はあったようです。江戸時代になると武士階級では犬食が禁止され、さらに5代将軍徳川綱吉の「生類憐れみの令」で、日本人には動物を殺すことを避けようとする気風が次第に広がっていったと言われています。特に徳川綱吉が“犬将軍”と呼ばれたことでもわかるように、犬が「将軍家の守り神」とされたことで、犬食が食生活の中から消えて、犬は食料ではなく愛玩物となっていったようです。
この「補身湯」の「補身」とは、栄養価の高いものを摂取して身体を強健にするという意味です。つまり犬肉は古くから滋養強壮によいことが知られていたのだと思います。
「伏日」の「伏」という漢字は、人偏に犬です。これは人間が犬のように腹ばいになった姿を表した文字だと言われています。暑さを乗り切るための栄養補給と暑気払いを兼ねた「伏日」は、熱い物を食べるという行為(その際に犬の肉が食材として用いられた)が先にあって、そのあとで名(伏日)が付けられたのではないかと私は見ています。これも推測ですが、鶏肉を使ったサムゲタンは、犬肉忌避の韓国人もいたことから、時が遅れて食べるようになったのではないでしょうか。したがってせめて名前だけでもというのでしょうか、「補身湯」ではなく、1980年代半ばからになりますが「栄養湯(ヨンヤンタン)」、「サチョルタン」などと呼ばれるようにもなりました。
ところで滋養補給料理として、参鶏湯と補身湯だけが伏日の料理ではありません。伏日に食べられる料理として、日本と同じように「鰻(チャンオ)」があります。ただ韓国では塩や醤油ダレ、あるいはコチュジャンダレなどで調味され、鰻のかば焼きとはかなり違います。
そのほか「タッカンマリ」という鶏をまるごと煮込んだ水炊き料理があります。これをニンニクたっぷりの辛味ダレで食べます。
そして日本の方にいちばん抵抗なく食べられるのが「海鮮鍋(ヘムルタン)」ではないでしょうか。イカ、エビほかの魚介類たっぷりの海鮮鍋は、おいしいスープで栄養満点です。ただしスープの辛さは半端ではなく、熱いだけでなく辛さも加わって、2倍の暑気払いになる感じです。
韓国では「伏日」が近づくと、一部の動物愛護団体が「伏日廃止」を唱えるようになってきています。理由は「補身湯」にあることは言うまでもありません。人間の食生活は時代とともに変わります。その意味では滋養強壮の食品は以前よりずっと増えてきて、しかも簡単に手に入るようになっています。
ですから「伏日」だから何がなんでも「補身湯」と思っている人も、異なる滋養強壮食材に挑戦してみたらどうかと私は思っています。多少時間はかかるかもしれませんが、韓国からいずれ犬食の習慣が消えていくのではないかと見ています。韓国人の食生活は明らかに変わって、バラエティーに富んできていますし、食材も豊かになってきているからです。
でも食生活習慣としての「伏日」は是非とも続いて欲しいと願っています。「以熱治熱」は、韓国人の生活の知恵として定着していますし、素晴らしい韓国流の暑気払い方法として生活に馴染んでいるからです。
まだまだ暑い日が続きす。滋養豊かな「熱い料理」をたくさん食べて、この夏を乗り切ろうと考える今日この頃です。
(筆者は大妻女子大学准教授)