【視点】

時代は移っても—変わらぬ本質と、変わる政治

羽原 清雅

 ここに68年前の新聞の社説がある。ふと読み始めると、時代感覚が乱れてくる。
 まずは読んでいただきたい。             

 「近視眼的な武器輸出」 
 <中東地帯における国際紛争の一当事国であるシリアに対して、武器を輸出しようという話がもち上がっている。輸出しようという問題の武器は、アメリカ軍規格に基いて製造した砲弾である。アメリカ当局も日本の砲弾輸出に同意を表明していると伝えられる。
 ことは、相当具体的に運ばれているようだが、紛争の当事国に武器を輸出するということ自体が重要な外交上の問題であると同時に、貿易政策としても、それはあまりにも近視眼的なやり口といわざるをえない。
 ほんの少し先のことを考えてみるだけでも、武器輸出ということが決して賢明なものでないことがわかろう。
 最近、アメリカ駐留軍からの発注が減り、兵器産業が苦境にあえいでいることは事実である。武器メーカーとしては、おぼれるものはわらをもつかむといった切羽詰まった気持ではあろう。大商社があえて「死の商人」を買ってでることにも問題はあるが、そもそもこうした問題がおきた根本には、政府の外交、貿易政策に、どこかすき間があるということではあるまいか。たくましい商魂が、そこにつけ込んだともいえる。
 外国はシリアに対して武器輸出をやっているではないか、国内で兵器産業対策が確立されていないのに、輸出だけを抑えるのは片手落ちだ、というのが、武器を輸出してもよいではないかという論拠となっている。
 しかし、仮りに問題を貿易の面に限って考えてみても、目先の輸出利益をかせぐことはできたとしても、日本製の武器で諸国民の血が流されるということは、やがて日本商品の恒久的市場を開拓する上に重大な邪魔者になりかねない。
 そうしたことからくる後味の悪さというものを、われわれ日本人は、すでに朝鮮戦乱の際にも知っているはずである。
 貿易の本格的伸長を図ろうと心から願うならば、このような微妙な国民感情の動きというものを、軽視できない場合のあることを忘れてはならぬ。シリア問題の如きは、まさにそうした部類に属する事例であると考える。
 財界人の中にも、こうした問題について、これを重大に考えている向きが存外少ない。政府も、輸出申請が出てから態度を決めればよいなどと、のん気なことをいっている。
 政府は、世間さえ問題にしなかったら、兵器輸出を承認してもよいという下心があるようだ。全く安易な考え方であるといわねばならぬ。
 眼前の小利に惑わされず、この際、確固たる国策の決定を急がねばならぬ。>

 憲法から抜けられない これは1956(昭和31)年4月22日の朝日新聞の社説である。たまたま別件のデータを探すうちに出くわしたものだ。筆者(羽原)は当時、高校生の頃だった。縁故疎開、学童疎開を経て、クラスの殆どが貧窮の家庭の小中学校で育っており、当時はまだ平等感の強さがあった。
 戦後10年ほど経った当時は、朝鮮戦争勃発(1950年)、講和、日米安保両条約の調印(51年)、内灘基地問題の深刻化や朝鮮の休戦協定(53年)、第五福竜丸のビキニ被災、防衛庁・自衛隊の発足、そして吉田茂から鳩山一郎政権の交代(54年)、社会党の左右統一・自民党の結成(55年)など、なんとない不穏な状況が続いていた。
 だが、そのころまでの教育の主眼は、新憲法の男女同権、主権在民、平和主義、戦争放棄などの「理想」を身につけることにあったように思う。だが、ぼつぼつ読み慣れてきた新聞報道で知る現実の社会は、まさに戦争に向かい、軍事的な殺伐さがあり、戦犯や戦争推進的な面々が相次いで社会復帰してきていた。そうした現実と理想の違いは理解できず、何か変だ、という思いが離れなかった。
 これが、新憲法定着を望み、戦前を反省する新世代層と、米国側の押し付け憲法として怒る旧時代の指導者など守旧層との分断の時期だったことに気付いたのはもう少し後のことだった。後者のものの見方が次第に主流になっていった。
 それでもまだ、憲法の理想像が抜けない。足りない部分のあることもわかりながら、だ。現実を追うことの多い40年に及ぶ新聞記者になってからも、現実を受け入れつつも、どうも違和感が消えない。

 約68年間の落差 この武器輸出の問題は、いままた同じような事態を抱える。社説の触れたシリアの問題がどのような雑報記事をもとに取り上げられたか紙面を繰ったが、見当たらなかった。だが、こうした流れが具体化しないことを願う基本姿勢はわかる。
 昨今の紙面ならどうか。このような未確定、未然の状況なら、まだ取り上げないのではないか。そうした流れが事実化し、確定化しかけてから取り上げることになりがちだ。
 昨今の動向は速く、追いつきにくい事情もあるだろう。だが、紙面に登場するころには、すでに容易には修正、撤回できないほどに進んでいる。根回し、権力への追従と納得が進み、浮上してからの論及では、遅いのだ。
 潮流化の気配が出たり、政府や国会議員らの間で静かな動きがほのかに見え出したりする時点での、問題の所在を紹介する報道や論評がやはり乏しい。世論が問題視するには、時期が短か過ぎる。
 この社説を見て、昨今の報道、論調にそんな印象を感じた。

 今、武器の輸出は公認状態になった。武器輸出は堂々と具体化し、正当化されたが、しかし、中東情勢は変わっていない。死に追い込まれたごく普通の人々の姿は変わっていない。むしろヒトラー独裁のもとで600万の命が奪われたユダヤ人が、弱い立場に置かれたパレスチナの人々に対し第2のホロコーストに及ぶ。さらに、有り余る国土を持つロシアが、狭い隣国ウクライナに攻め入り、旧日本軍の中華民国、満州侵略同様の非を繰り返す。

 社説は単なる「論」、報道は「単なる事実の列記」「現状紹介と解説」ではあるまい。
 ごく一般的なものの見方で言えば、さまざまな事象に「本質を見失うな」「人命第一」という姿勢が込められているはずだ。時流に乗って、多数派につけばいい、バランスよく解説を書けばいい、ということではあるまい。
 かつて先輩記者たちは戦争体験を経て、本質を見抜く社説を書いたもの、と感じる。自省を込めて思うのだ。

 日中正常化に思う ふと思い出したのは、日中国交回復と小選挙区制度のことだった。
 中国建国から23年を経て、1972年に日中復交が実ったその年の田中内閣下の衆院選で、推進役を果たした古井喜実と川崎秀二は落選した。二人は、松村謙三、田川誠一、そして宇都宮徳馬らひと握りの面々とともに、吉田、鳩山、石橋政権時代に日中関係の復活に動き、池田首相をはさむ岸、佐藤政権下では徹底抗戦して日中間の絆の再現を主張し続け、両国関係の改善の第1歩を築いた。両国の一部から非国民扱いされ、法匪呼ばわりされながらも、復交が正道だという信念を貫いた。両国の主張に違いはあっても、隣国の歴史や利害からすれば融和の道を求めるべきだという「本質」が政治家としての信念だった。
 だが選挙区は古井、川崎を国会から放逐した。選挙結果を見た地元では、「民意」というものは、ときに見誤るものだ、悪い選択だった、という反省が流れた。
 ひと握りの政治家たちについて、単に目先の現実派とは違って、頑固な理想派なのだ、と分けるわけにはいかない。あえて言うなら、現実に目を奪われ敵対状態にこだわるか、歴史的、地政学的にも、また将来を見定めてあるべき方向を読み取るか、に分けて考えるべきだろう。どちらが正しいか、ではなく、政治家としてあるべき方向はどの道筋か、相手国の主張との違いをどう受け止めるか、の考え方の違いだろう。
 政治家には目先の利害ではなく、そういう長く、広い視点で考えて行動してほしいのだ。

 ただ、彼ら少数派が一途に信念を主張できたのは、同一の政党の複数議席を認める「中選挙区制」内で、同じ党の同憂の士ともどもに当選できたからだ。現行の「小選挙区制」ではこのような少数の仲間が国会に送られてくる可能性はきわめて少ない。
 現に「政治家とカネ」の問題について反省などを発言しようとする議員はほとんどいない。1選挙区に1候補者、それを決めるのは政党幹部、とあれば、政党の有力者の意向に忠実、ないし黙従する方が現実的で、おのれの利益に近づける。
 現行の選挙制度では、同じ政党内で、多様な意見や異論を述べたり、同じ立場や発想で連携したりする余地は乏しい。もの言えば唇寒し、である。
 単一の結論だけが共有され、数としての「多数派」が容認され、国民有権者が比較検討して選ぶ自由を奪われている。選挙制度は怖いものなのだ。

 引きずられる安保3文書 それはそれとして、最近の納得のいかない現実は少なくない。
 大きな疑問は、2022年末に政府の示した安保3文書と、その扱いである。
 そのひとつ、「国家安全保障戦略」は今後10年間の国防、つまり軍事体制のありよう、わかりやすく言えば軍事体制の強化について10年間はこれに縛られることがうたわれている。
 第2の「国家防衛戦略」では目標について5年間を想定、防衛(実は軍事体制)の目標と具体的な手段を示す。
 さらに、第3の「防衛力整備計画」で、毎年の装備の数量や経費などを決めて、毎年度の予算として要求して具体化される。防衛予算に計上される武器関連の問題ばかりではなく、さまざまな事象が「数」がもの言う国会で決められていく。

 選挙制度が「2大政党による政権交代」の仮説を掲げ、「もの言わぬ議員」の数をそろえた多数党に有利な結果をもたらす。
 では、野党はどうか。取って代わろうとする立場ながら、将来社会のあるべき姿、あるいは具体性ある政権構想などを示せず、その機能もできていない。候補者もそろえきれず、野党間の共闘もできない。現政権に対して、なにを改め、なにを断念するか、などの説明も不十分だ。
 先に触れた少数派の日中関係推進の政治家群は、国会に出た以上、信念に基づいた言動に終始していた。信念をひたすらに説明して歩いた。今、彼らがいたらどうするか。当然、非は非、として、少数者の意見だとしても恐れずにものを言い、有権者に語りかけていただろう。

 約70年前の社説の説いた「武器輸出」問題に戻ろう。
 明らかに武器輸出は「専守防衛」の方針を逸脱している。日英伊3国で共同開発中の次期戦闘機を米国など15ヵ国に輸出できるようにする。殺傷兵器を各国に提供するのだ。
 このように、憲法のもとにあるべき政府が、憲法改正の検討に取り組むことはいいとしても、憲法違反すれすれの言動をしたり、解釈改憲をもって軍事的適用などを拡大したり、憲法の示す本来の道筋を曲げようとする意図が強烈に打ち出されている。

 そればかりではない。日米連携の軍事的な統合作戦司令部を設置する計画が令和7年3月までに実施される。
 また、日本は原子力潜水艦の開発には組しないといいつつ、米英豪3国の安保協力のための「AUKUS(オーカス)」との連携を強めようとしている。
 さらに、フィリピンとの安保協力の動きも活発で、自衛隊の派遣、日比両国の同盟化の構想も進められている。中国の台湾攻略がありうる、との想定のもとに、先手を打つ構えでもある。
 そして、日米両政府は防衛装備品の開発、生産、整備などについて協議するために「日米防衛産業協力、取得、維持整備の定期協議(DICAS)」を始めた。ミサイルの共同開発、米軍艦船や航空機整備、その供給網の対応策などを協力し合おうとの狙いだ。

 政府は台湾有事を前提に、沖縄周辺に軍事施設を急ピッチで増強している。中国による被害者は日本という前提で、沖縄各地に避難壕を設けたり、島民の本土への疎開までが検討されたりしている。政治のあり方が歪んではいないか。本来なら、緊張関係をほぐすために、政治はまず中国と激しい外交交渉をし、日本が米国グループの側にあるにしても、中台関係について話し合い、あるいは日中間の緊急時のパイプ活用策を検討するなど、対決ではない話し合いをすべきなのだ。首脳らがしつこく往来し、それぞれの立場を話し合い、緊急時や想定外の事態を協議し、「万一」を避ける理解を持ち合う努力をすべきなのだ。それが、本来の「政治」のなすべき仕事ではないのか。軍事化を進めるに比例するかのように、外交関係を薄めていく姿は尋常とは言えない。

 日本に主体性はないのか。そう思う。
 このような日本の軍事体制の強化は、ほとんどが米国の路線に追随しており、その「同盟」関係は米国の露払い役になるための機能のようにも見える。日米地位協定による基地問題などをはじめ、米軍基地をはじめ民間各地にまで広がるPFAS問題などにしても、なぜ日本の主権として対応策を主張をしないのか。米軍上位、国民二の次、でいいのか。
 沖縄県民が一斉に立ち上がったのは、米兵による幼い子どもたちへの暴行事件があって初めて、政府が辛うじて対米発言をしたくらいに、国民の立場でものを申したことはないのだ。
 
 話を戻すと、安保3文書に示された内容は、こうした軍事化路線を受け入れることを前提に作られている。3文書を見ていくと、表現に強弱はあるにしても、多くの点ですでに両国間で打ち合わせができており、これに沿って着々と進められていることが読み取れる。
 ある部分は、3文書に示された計画以前に報道されたものもあるが、この文書が容認されて以降に公表されたものも多い。
 こうした点に対して、国会ではどれほどのエネルギーを持って論議されたのか。60年代の安保条約改定の国会論議に比べれば、打って変わって平穏である。野党の非力、不勉強の責任でもあるが、議論不十分のままにエスカレーター式に具体化されていく。
 そのことは、沖縄など南西諸島での軍事体制強化の現実を見れば、明らかである。
 
 中国を敵視する。中国が台湾を脅かし、いずれ日本をターゲットにする。だから、軍事体制を固め、沖縄周辺を守るのだ、という発想が定着しつつある。
 国民の前に安保3文書を示し、国会論議も通過し、民主主義の手続きは終わった。「悪いのはどっちだ」と開き直る。
 そして、中国との対話は遠のき、外交も身を引く。民間の交流も弱まる。
 本当にこれでいいのか。米国との関係は大事だ。だが、小国日本にとっては身近な中国も大切だ。一方への過度の傾斜ではなく、少なくとも主体性を保持し、堂々とものが言える関係を取り戻さなければなるまい。

 70年前にもなろうとする先人の社説の意義をあらためて感じている。

                       (元朝日新聞政治部長)

(2024.6.20)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧