■【オルタ広場の視点】

教育行政は難しい―14年間の教育委員の経験から

羽原 清雅

 都内ある区の教育委員の任期が終わった。気付いてみると、14年間も携わっていたことになる。関わった教育の結果が、これからの子どもたちにどのような影響をもたらすことになるのか、若干の責任を感じないでもない。
 わずかな経験に過ぎず、大きな風車に挑むドン・キホーテのような気分だが、思いつくままに残された印象を書いてみたい。現状の教育のありようをすべて支持するわけでもないし、あれこれ批判があるわけでもない。ただ、これでいいのかなあ、との思いは残る。

 *学校教育と女性起用 小中学校40校、養護学校1校と14の幼稚園があり、年間その半分を訪問する。朝から昼過ぎまで、ほぼ全学級を回る。教育長を含めて6人の教育委員の構成だが、医師、弁護士といった多忙な職種の委員もいて、各校毎回の参加は2、3人。
 ちなみに、教育長は2代続いて女性という時期があった。教育委員も5人から6人に増えた際に男性が増えて女性は1人のまま、その後2人になったがまたも1人になり、筆者の交代でやっと再度の2人になった。日本の家庭と教育は概して女性に依存してきており、「人材がいない」というよりも、男性による人探しが不十分か、スカウトの間口を狭く考えているためだろう。本来、このポジションは、男女半々を通常化すべきなのだ。

 学校訪問では、400円前後を負担する給食を兼ねて校長、副校長先生の説明を聞き、校長、副校長候補である指導主事たちを含め、それぞれが印象などをコメントする。授業を抱える現場の先生が参加できないのが惜しい。また、概して当面する苦労や課題よりも、学校を支援してくれる地域協働学校など、抽象的か、良い話の紹介が多い。
 委員たちへの教委事務局のサポートぶりもいいし、教育行政の公務員も丹念である。あえて言うなら、参加して学校の実態になかなか触れられない委員も多いのだから、学校現場の悩みを含めて実態をもっと報告したほうがいい。世の中、そんなにいいことばかりはないし、プロの感覚とは異なる感性や視点はむしろアマチュアの委員側にあるのだから、率直に学校現場のレポートをすべきだろう。専門家の自信が、偏狭な「孤城」を築いてはなるまい。

 各校とも、文科省、東京都の指針に基づいての教育を徹底させているが、地域の環境によって個性もあるし、課題も違う。当然、成績や進学への保護者の姿勢にも差があり、生活環境への考え方にも違いがある。校長や先生がその全体像をうまくとらえているかどうか、この点は一人ひとりの子どもの生活環境、素養や才能を掌握するうえで大切なことでもある。
 先生になる人材は、教育への意欲、指導能力に恵まれており、そのキャリアアップの機会もある。また、私学と違って、数年ごとに各地の学校に転勤するので、さまざまな地域の子どもの実態を経験し、多様な校風、土地柄を体験する。同一校に長く在職する私学とは異なる。

 ただ時折、厳しい関門を超えて就任する先生は、優れており、順調に成長してきているために、平均以下の学力や問題を抱える子らの状況や環境への理解が行き届いているかな、といった疑問を、その言葉や対応に感じることもある。「個人情報」への立ち入りには限界があるが、子どもたちの家庭状況を内々に掌握し、理解を広げておくことは教育の土台になり、学習・授業への第一歩なので、その修練に格差があり、課題だ、と思うこともある。
 資質の向上、子どもとの付き合いの難しさはここにある。しかし、総体としての先生像は頼もしいし、不安を感じることはない。

 *義務教育の姿勢 教育を受ける権利と義務、これを実感することも多かった。子どもたちは当然、親の経済力、生活環境、ときにその教育歴に影響されるので、もともと「格差」を背負って育ってきている。教育は、その前提から始まる。
 だが、教育現場は対等平等の理念のもとで、各人の持てる能力、才能を引き出し、伸ばさなければならない。義務としての6年、3年を終わらせ、順次上級学校に送り出し、あとは野となれ、というわけにはいかない。素養の発見、芽生えの起動、成長の刺激、努力の修養、そしてより上級へのバトンタッチである。

 学校の扱いは集団の対応が多いが、本来の教育は一人ずつである。優れた教育プロは、数字や統計でものを説明するとき、「平均」で考えがちになる。そこに、教育の落とし穴が生まれる。
 子どもに親の生活の投影、各人の個性差のあることを理解していながらも、束ねた平均値で考えがちになるために原点を見失うのだ。1学級の員数を少なくする狙いは、先生の過重を減らすためではなく、個々の子どもの特性を見つけ出すためである。

 子どもたちには、障害、外国籍、貧窮、家庭崩壊など教育上の課題が多い。予算上の限界はあるが、戦後の厳しい中で育ってきた者には、教育行政の面倒見は感心するほどに望ましい。総体では、その通りだろう。問題は、個々別々に対応できているか、最低の教育を受けられる状況が確保されているか、という点である。これに100点はなく、悠久の努力課題である。要は、その覚悟の上の努力なのだろう。基本は個である、という自覚を持ち、「平均」値的発想に陥らないことである。「成績のいい子」づくりを重視する優秀思考も当然あるが、本来は各人が将来、経済的にだけではなく、素質才能を生かし、またルールやマナー判断ができて社会に生き、かつ社会的になにを果たしていけるか、だろう。

 *教育と福祉の接近 義務教育が普遍的に行われるためには、格差ある社会を極力平均化していかなければならない。戦後の貧しい時代には、だれもが貧しく、生活格差を感じないという妙なメリットがあった。終戦後の中学校の学級は、進学3、夜学1、就職1に鮮明に仕分けても、保護者たちにも差別とかの違和感を持たれなかった。
 だが、今は貧富のみならず、障害も多様化するなど、これらを均していく努力が求められる。筆者は委員時代には、貧しく、環境に恵まれない子どもたちの存在が、とくに気になった。

 ただ幸いにも、この区の行政は人手も増やし、予算措置にも配慮し、個々の子どもへの心遣いも良好だったように感じていた。欲を言えばキリはなく、コロナ後の不安もあるが、望ましい努力は続けられると思っている。
 そのような姿勢で重要なのは、教育全般を福祉の施策がしっかりと裏打ちしていくことだろう。幼児期はとくに大切で、幼稚園や小学校はもちろん、中学でも福祉行政と綿密な連携がとられるシステムが日常的に稼働できていなければならない。福祉の目は地味で、目立つことも乏しいが、その対象となる人々はもっと見付けだしにくく、むしろ隠しがちであることを知っておきたい。

 *総合教育会議の存在 区全体の行政と教育行政は、一応切り離されている。教育委員は議会の同意を得て区長の任命を受けるが、拘束されることはない。委員は、政治的中立性、継続性と安定性、地域住民の意向の反映という3点の姿勢を求められ、首長から独立して、合議で決め、住民の意思決定を守らなければならない。
 委員と首長との協議の場としては「総合教育会議」があって、年に2、3回話し合いが行われている。首長の行政側も、教育長を“座長”とする定例的な委員側も、各自が穏やかに意見を述べ、多数決なしの合議制で納得第一の運営であることを、筆者は評価している。

 ただ、首長は政党に所属することが多く、かりに強い自己主張の持ち主が、その意に沿う教育委員候補を半数以上そろえて、議会も多数与党が同調するような場合はどうか。そのような事態を考えると、現行の制度は弱く、その首長の目指す方向にもっていかれる可能性がある。つまり、総合教育会議が形がい化し、その発言内容は言いっぱなし、“座長”格の教育長も当然逆らうことはできず、委員会は多数決ででも首長の意向を具体化しかねない。もちろん、これは単なる仮定である。

 言いたいのは、区民の選ぶ首長が政治的中立性を重んじ、教育行政の側も中立、かつ継続性と安定性を尊重し、また地域有権者も議員たちも、壊せば壊れやすいシステムだということを知って、その機能を大切にすることである。
 改めて言うが、現状の区と教育の行政は双方、懸念されるようなことは一切なく、理解し合える良好な関係にあることを報告しておきたい。

 *先生の働き方改革 先生方の長時間にわたる勤務は、コロナ禍のもとでも、質を変えながらも続いている。緊急下ではやむなし、と思わざるを得ない。ただ折角、働き方改革が進められようとしたところでの、いったんの挫折は残念だが、やむをえまい。

 先生方の仕事は、準備を踏まえた授業だけではなく、子どもの生活周辺の見守り、部活動、保護者対応、学校行事の準備や取り組み、日々の授業ぶりなどの記録つくり(週案など)、校内外の研修や打ち合わせなど多岐にわたる。しかも、英語、プログラミング、タブレット指導など、新たな必要不可欠な仕事も増えてくる。得手不得手もある。年代による慣れ不慣れ、といったこともある。したがって、自分の研究や趣味、家庭での役割などに食い込まざるを得ない。教師としての情熱だけでは支えきれないような日常、と感じる先生が出ても不思議ではない。
 そうしたことは結果的に、子どもたちの教育にとってはマイナスになる。子どもたちの教育について「ゆとり」の重視が言われた時代があったが、今は先生に「ゆとりを!」といわざるを得ない。そうした不安感からだけではないが、先生の精神的障害などによる休職者は少なくない。

 働き方改革によって、既定の労働時間枠に収まる可能性は、今後もほぼあるまい。どの仕事についても、当初の3、4年間は不慣れからくる不調や遅さ、習得の苦労、心理的不安定などが重なり、予想以上に「時間」がかかるものだ。だが、事態は年代を問わずに負担をかけている。手を抜かない限り、「就労時間内」では一日は終わらない。先生の意識の改革や部活動の指導支援などで改革の芽を出そうとしていることはいいが、予算的制約や代行指導者の優劣などの課題もある。

 多くの先生の表情は明るく、楽しげに見えている。その内面もそうであるのか。
 保護者の理解と協力、地域の協働学校の支援など、名目と目標はあるが、実態は必ずしも効果があがっているとはいえない。先生集団には、苦渋や本音を漏らさず、いい面のみを見せたい傾向もある。良し悪しでもある。各校のリーダーたちは定年まじかな人も多いのだが、身を切りつつも、本音の改革に取り組む責務があるだろう。教育行政マンはもちろんのことである。

 *個人と社会と 自立する「個人」を作ることが、教育の責務である。だから、しっかりと学び、しっかりと訓練し、立派な人間たれ、という。そのために、おのれに自信を持てるように、自己肯定感を持て、という。異論もあるまい。
 ただ、その発想に欠けるものがある。自分を自分で鍛える、それは大切なこと。しかし、自分を肯定するとしても、それが独りよがりや、マイペース、うぬぼれ、孤立などに陥ってはなるまい。戦後社会の土台となってきた憲法は、確かに個を認め、個をなによりも重視してきた。

 しかし教育として、自己肯定感を持たせようとするなら、それは「社会」と一緒に指導すべきなのだ。おのれを認める作業は、おのれの中で醸成できるものではなく、社会生活のなかで人々のありようを見、社会のルールを感じ、そこにあるおかしさや矛盾を知り、そうした中で社会に学び、社会の可否を覚え、おのれを磨いていく。自分自身の持ち前の個性を第一としながら、磨いてくれるのは社会全般である。
 つまり、個人第一、あるいは個人と社会が五分五分というのではなく、個を大切にし、個を育てるための教育だからこそ、「社会」をセットとして謳っていかなければなるまい。教育学者の一部は、理念として自己肯定感の醸成ばかりを取り上げるが、それは現実離れし過ぎている。

 *パソコン教育の課題 2021年度から、小中校の児童生徒一人ひとりにタブレットが配布され、いずれは家庭に持ち帰れるような状況が見込まれる。デジタル教科書の普及も進んでいくだろう。海外の先進国に後れを取っている日本は、取り組みを急ぐ必要に迫られている。

 ただ、そのプロセスの心配もある。まず、機械への個人差。すでに、子どもたちの取り組みを見ていると、概して堪能に扱っていることがわかる。だが、子どもによっては上達していないケースがあって、まだ格差がある。家庭で教える者がおらず、機材もない子もいる。つぎに、個々の先生にも熟達かどうかの差があって、指導にムラが出かねないことだ。また、機材の自宅持ち帰りが可能になった場合、家庭内での活用ができる環境にあるかどうか。必要なコーチがいるのか。これらは、いずれ慣れて定着することではあろうが、当分は十二分の貧乏性が必要だと思われる。

 大きな懸念は、タブレットなどパソコン系の機材の活用は、ともすれば提供される情報に「受け身」になりがちになる点。すでに、本を読まなくなって読解力が落ち、その結果思考力が身につかない、といった傾向にも表れている。情報が手に入りやすくなるというメリットの一方で、その情報の正誤可否の判断ができること、情報を正しく判断して使いこなせること、情報を多様に入手しようとする努力や工夫が薄れないこと、などの教育も心掛けてもらいたい。メリットとデメリットは裏表であり、その結果が出てくるのは相当の時間を経てからであり、そのことを念頭に置いて指導に当たってもらいたい。

 *教科書をめぐる懸念 在籍中、何回かの小中校の教科書採択の作業があった。現場の専科の先生の評価、学校長たちの調査委員会、教育学者も入る審議委員会という3段階での評価をもとに、各教育委員が意見を述べて、採択の教科書を決めていく。全社の年次ごとの各教科の本が対象なので、すべてに目を通すことはできない。委員各自がそれぞれの専門に近いジャンルや関心のある教科書を借り出して、ピックアップして読み、委員会に臨むのだが、その会議は長時間で数回に及ぶ。
 教科書の良し悪しは、子供たちの学びの蓄積と将来の素養にもかかわるので、きわめて重要な責務だ。しかし、かつての教科書に比べると、年々極めて優れた内容になり、指導面での工夫も凝らされ、今の子どもたちがうらやましいほどである。
 とはいえ、全体的に、このままでいいのか、と思われることもある。いくつか挙げてみたい。

 1> こなせるボリュームか 教科書が充実すると、どうしても大きめの書になり、ページ数が増え、分冊されて、各学年、各教科とも次第に重くなる。小学生はランドセル、カバンが重くなり、メディアに問題視される。
 それはそれとして、限られた授業時間にこの分厚なものを使いこなせるのか、という問題がある。しかも、学習指導要領では、「主体的、対話的で深い学び」とうたう。子どもたちがそれぞれ自分の意見を言って、みんなに聞いてもらい、その聞いた相手の意見にナルホドと感じた部分を修正して、最終的に自分の考えをまとめる。つまり、そこで一段階成長する・・・そんな民主主義のプロセスは時間を惜しんではできない。

 だが、現実は教科書の膨張だけではなく、英語、道徳、プログラミング授業など、新たな授業は増える一方である。一定の時間という一升瓶に1.5升分を詰めろ、というようなものだ。しかも悩みは、どの教科内容も必要なもので、教えておきたい。とはいえ、子どもの努力と授業時間には一定の制約がある。じっくり考える子や、ゆっくり進む子を残して、できる子中心に先行することでいいのか。それが、義務教育といえるのだろうか。文科省のせいにするつもりなどはない。ただ、必要を残し、削るならどこ、といったバランスのありようは考えてほしい。

 2> 実践重視の国語 国語の教科書を見ると、実社会向けの文書の作り方などが取り入れられて、小説や物語など文学傾向のものがやや減った。どちらも必要である。ただ、本を読まない、という傾向に拍車をかけて、昨今の課題になった国語の読解力はさらに落ちるのではないか。社会に出る実践的な準備は必要だが、それを国語の授業に振り向けて、経済界の求める実務人間育成に寄与し、文化的な基礎となる素養を犠牲にしていいものなのか。長期的な懸念である。
 ついでながら、プログラミング教育も必要だが、全員に必須なものなのか。このような技術は堪能なタイプと、そうではないものがあり、分業化した社会においては選択的な能力開発でいいのではないか、と思う。

 3> 英語教育のありよう 小学校低学年の英語の授業は見ていて楽しい。全員の声が大きく、楽しそうで、からだが跳ねるように取り組んでいる。いかにも英語が身について、先々の生活でも生かしていきたくなるだろうな、と思える。一方、中学校に行くと、下を向き、声も細々と聞こえず、いかにも楽しそうでない子どもが増えている。
 その違いは、小さい子たちは勉強としての英語ではなく、楽しめるコミュニケーションのツールの扱いである。中学生になると見事に使う子どもも少なくないが、逃げたい表情の子どもも目につく。中学校では、受験のノルマ感があり、先生の授業運びに愉快、楽しさが消えているケースも多い。興味の湧かないところに進歩はない。

 教科書の工夫は見事に変わり、単に文法や単語の列挙ではなく、楽しめる工夫や実際に使う楽しめるいざないがある。むしろ、問題があるなら教え方だ。ネイティブの外国人による指導の時間も増えているが、これにも子どもたちを誘い込む技量ある人材と、単に表面的に教えている感の人物がいる。まして、日本人教師には、後者型が多く、この対応策が課題だろう。

 4> 都会での理科学習 大都会にあるわが区の子どもたちは、理科と社会の成績が芳しくない。社会は、コンビニ、交通網、人々の流れもあって、さまざまな現象に興味、関心を持ちそうだが、社会構造のスケールの大きさに呑まれて、取り組みのきっかえがつかめないためか。
 逆に、理科については、自然との触れ合いが幼児期から少なく、不思議とか「なぜ」とかの誘いが乏しかったからだろうか。理解する能力があっても、惹かれるものがなければ前進しない。
 人工構造物に包まれて育った子どもたちには、親の育ったはずの郷里の縁すら少なくなって、自然とつきあえて、興味を誘い出す場面に遭遇しないままに育ってしまったからなのか。

 いずれにせよ、何とかしなければなるまい。ひとつは、都市向けの教科書と、自然豊かな土地柄の教科書と二通りを作るようにしてはどうか。手元に自然があるところでは「なぜ」を、都市部では自然というものの存在からアプローチさせていく。そんな幼稚なことで、伸ばせるようにも思えないが、とはいえ自然がどのようなものかという興味を持ってもらわなければ、ノーベル賞への道は閉ざされてしまう。先生の教授法とともに、とても心配である。

 5> 戦前教育と異なる道徳の授業 国家、天皇、上に忠、親に孝といった、かつての国民を束ねるための道徳の授業は消えた。授業の名称は同じだが、その内容や指導理念はまったく変わり、人間はいかに生きていくか、といった「あれかし」の姿を各自が考えるものになった。

 初めていくつかの授業を見せてもらって「いいね」の印象を持った。戦前風に変質しそうな気配はなく、当分このままでよさそうだ。やさしさ、助け合い、自分と友達とのかかわり方、いたわりなど、多岐にわたる具体的、かつ日常的な題材から、自分ならこうする、といった考えを引き出す。そして、それぞれが授業内で「自分なら」の考えや理解、立場を話す。そして、ほかの子どもたちの見方、考え方を聞いて、ディスカッションして、もう一度自分の意見を修正する。そんな授業風景である。

 ただ、この授業は時間を要する。気長でなければならない。また、リード役の先生が意見の可否、ベストアンサーなどを持ち出して、一定の結論に導くようなことがあってはならない。そのような授業にはなっておらず、どの先生もリード役の術を心得ているようだった。
 問題というなら、教科書の内容はどれもなかなかいいのだが、項目の数が多すぎる。短い時間に、すべてをこなすノルマが課せられたら、ディスカッションの時間を端折って一定の結論に持ち込みかねない不安はある。また、教科書の内容に、文科省が面倒な指針を打ち出すようなことがあれば、要警戒だろう。

 一人の自立した人間として、社会にどう対応するか。それは、各人の豊かな判断力に任せなければならない。そのような角度の多い見方を蓄積することが、本来の教育の課題なのだから。

 *SDGsの導入 昨年9月に、初のSDGsサミットが国連本部で開催されたあたりから、この問題は、メディアや出版などに頻繁に取り上げられるようになった。SDGs(エスディージーズ)とはなにか。Sustainable Development Goals.。「持続可能な開発目標」と訳されている。
 貧困、飢餓、質の高い教育、ジェンダー平等、クリーンエネルギー、国・人の不平等克服、気候変動対策、海陸の豊かさの保持、平和と公正といった17の目標を、2030年に向けて達成していこう、というものだ。

 経済の発展、高い教育水準、言語や文化などの一体的共有はある程度は確保されているものの、小さな島国の日本は世界に向ける目が狭くとどまりがちになり、国際的な視野が実感的に広がりにくい状態に置かれている。
 したがって、このような地球規模のあるべき方向性、目標を、将来を担う若い人たちが、公平公正な立場で学ぶことはとても望ましい。また、「社会はどのようにあったらいいか」という未来への理想を、過去の流れや現実の障壁を踏まえながら考えていく、非常に望ましい構想である。  
 狭く、おのれの周辺ばかりに目を奪われることなく、あるべき将来に思いを馳せながら受ける教育を広げたい。これからの子どもたちに、スケールの大きな夢を抱いて進んでもらいたい。そのように感じている。

 じつは、昨夏の中学校の教科書採択時に、これを地理や社会だけではなく、英語でも取り上げた教科書があった。ただ、教科の内容に結びつけるという意識の見られる教科書会社はその一社のみで、掲載こそしたものの、活用性を取り込むまでの姿勢を見せた社は皆無だった。合議制の教育委員会では、筆者の主張は認められなかった。少数意見を再度チェックしよう、SDGsが狙うものはなにか、を見てやろう、との姿勢が欲しかった。なにしろ、教科書審査担当のプロですら、エスディジーエスと発言しているほどだったのだ。

 *最後に 教育の問題は、皆一人ひとりが学校経験を持ち、子どもを通わせ、それぞれに意見を述べられる下地がある。したがって、それぞれの立場から、担任の先生や学校自体を批判し、風評を流し、あるいはとにかくお世辞風に「立派な学校」「新校舎、制服がいいわ」とほめるなど、自在である。進学進路への思いも様々にあるだろう。それはそれで、自由であっていいと思う。
 ただ、願わくは、身近な学校のことにとどめず、新教科書採択、学習指導要領、教育関係法規や制度などが変わるときに、子どもたちがその影響下で10年、20年後にどのように育ちあがっていくか、を考え、関心を持ってほしい。国や自治体に任せるだけではなく、教育のありようを広く、大きく見ていってほしい。

 私学には伝統の校風、教育理念がある。比較的恵まれた環境の子どもたちがそろってもいる。公立校の良さは、あらゆる階層の子どもたちがいて、貧困も富裕も、勉強はともあれ特別の技能才覚の持ち主がいたり、当面のガキ大将がいたりする。多様な人間の生き方に触れて、知らず知らずに社会のありようが身につき、刺激や広さを学ぶだろう。
 公私いずれの学校にせよ、それぞれの良さがある。要は、子どもたちの視野をより広く、大きく育てていってほしい。

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 ちなみに、筆者は教員の資格を持たない。私立大学で10年間、授業やゼミを担当した程度。義務教育についてもアマチュアに過ぎない。ただ、めったにない教育行政の姿を垣間見せてもらったので、“卒業”報告をひと言述べておきたかった。

 <元朝日新聞政治部長>
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