【追悼】仲井 富

仲井 富さんの想い出

トミさん、天国は良いところですか?

田中 やすゑ

 2月15日。トミさん、永遠の眠りにつかれたのですね。そんな大事件が起こっているとは夢にも知らず、生協の冷凍食品を冷凍庫にしまいながら、いつまで命は続くのか、と思い巡らせていました。もったいない話です。もっと楽しく有益な生き方を探さなければ!
 よく考えると、人間は60年で賞味期限が切れるのに、医療の進歩で生かされている。薬づけで生きていても希望は持てない。日に何歩歩くかを目処に自分を鍛えて生き甲斐にする人も多いけれど、もう少しましな生き甲斐を模索しています。
 トミさんは腸が破れていて、手術のためICUに入り、20日くらいの闘病の末、昇天ーーーですって。91歳なら、年相応でしょうか。
 手塚治虫の作品に永遠の命を授かった人間が出て来ます。老いさらばえて山の頂上に立ち、誰も居ないのを嘆くこともなく、立ち尽くす。
 永遠の命も辛いことです。
 それより、トミさん! 天国は良い所ですか?
 私も彼も彼女も、みんな、行きますよ。待っててね。
 ※(目黒区で、通学路に車が走るのを阻止したいと、女性数人で「反自動車バリケード連盟」を作って車の走行をストップし話題となりましたが、その中心人物でした)
(福岡市在住)

「 砂川平和ひろば Sunagawa Heiwa Hiroba」~砂川の大地から、とどけ平和の声 ブログから

福岡 愛子

 このブログでは、これまで仲井富(なかい・あつし)さんの書いた「砂川闘争」回想記事を、連載してきました。

 仲井さんは、若き社会党員として1955年秋から砂川に通い始め、「測量中止」決定を機に他の政治・社会運動へと移っていきましたが、社会党を離れた後も近年に至るまで、折にふれて砂川の記憶を語り続けてきたライターであり運動家です。

 その仲井さんが、今年(2024)2月15日、91歳の生涯を閉じました。

 砂川平和ひろばのこともいつも気にかけて下さり、1年前の5月には、宮岡政雄さんのお墓まいりがしたいと、杖をつきながら砂川を訪れていました。

(2023年5月2日 宮岡家の墓前にて)

 仲井さんから提供された資料も少なくありません。

 これからも、その一端を紹介し続けたいと思いますが、今回は、仲井さんから託された一文に注目したいと思います。

 それは、「砂川闘争65年 宮岡政雄さんとの再会で知った裁判闘争」と題する文章で、ワープロ仕上げのA4サイズ5ページにわたる横書きの資料です。仲井さんが書き下ろした私文なのか、どこかに掲載予定(あるいは掲載済み)の原稿だったのか、今となっては確認しようがありません。

 そこに記された内容自体は、本ブログで連載した宮岡政雄インタビュー記事とほぼ同じです。
戦後の反基地運動再訪――宮岡政雄インタビュー(前半) | 砂川平和ひろば Sunagawa Heiwa Hiroba (ameblo.jp)

戦後の反基地運動再訪――宮岡政雄インタビュー(後半) | 砂川平和ひろば Sunagawa Heiwa Hiroba (ameblo.jp)

これは、『月刊総評』1981年1月号(通号 277) に掲載された記事で、仲井さんの質問に宮岡さんが答える一問一答形式の記述でした。

それに対して「砂川闘争65年 宮岡政雄さんとの再会で知った裁判闘争」は、後年の仲井さんが、自身の感慨をこめて宮岡政雄の人となりを思い起こし、あらためて彼の生涯と闘争を意味づけて書き綴ったと思われる、エッセイ風の文章です。

阿部知子氏から

阿部 知子
渡辺文学様
 いつに変わらぬ禁煙運動へのお取り組みに敬意を表します。
 そして頂きました仲井富さんの訃報、1か月ほど前に風のたよりで耳に届いておりました。本当に寂しい限りで、また残念です。すぐに彼の携帯を鳴らしてみましたが、どなたも出るわけもなく、ただただ一人思い出をたどっておりましたので、渡辺様からのお知らせはむしろ懐かしさの中で拝読いたしました。
 最後に仲井さんにお目にかかったのは昨年11月、私の政治フォーラムでしたが、あのお姿で約2時間をずっと立ったまま見ていてくださいました。私が見守られているようで、どうぞ椅子に掛けて下さいとお声がけしたのが最後に交わした言葉でした。もっともっと居ていただきたかった。
 四国のお遍路にもご一緒したこと、懐かしいです。慧眼と情を併せ持つ、素睛らしい先達でした。心よりご冥福をお祈りいたします

(2024.5.20)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧