落穂拾記(30)                      

井の中の蛙 「切支丹江戸屋敷」を知る

                    羽原 清雅


 母方の古い墓のある津和野の、亀井藩主の江戸屋敷を調べていたところ、筆者の自宅に近い文京区に「切支丹江戸屋敷」と表記された古地図に出合うことになった。聞いたこともなく、なにも知らなかったので、かえって興味をそそられた。また、かなりの先人の記録、研究の文献があることも知り、おのれの「井の中の蛙」ぶりをあらためて実感、つい興味のおすそ分けをしたく一筆した。
 「いまさら なにを」と思いの方には申しわけありません。

 場所は文京区小日向1-24付近。地下鉄茗荷谷駅と後楽園駅の中間にある地下鉄車両基地に近い。地下鉄の東側が小石川台地、西側が小日向台地で、江戸屋敷は西側にあり、付近は台地や谷などが入り組み、坂や傾斜地が多い。
 切支丹屋敷が存在した時代は、1646年から1792年まで、江戸時代の前半に当る約150年間である。土地の広さには増減があったが、ピーク時は7700坪に及んだという(文京区史)。
 1724、5年ころ、火災によって牢舎は焼失、以来再建されることはなく、屋敷自体も武家屋敷として分割されるなどして、1792年に廃止が決まったという。
 キリスト教信者の数も減り、鎖国による布教活動の沈滞といった事情があったのだろうか。

 イエズス会の宣教師ザビエル(山口県ではサビエル)が布教のため来日したのは1549年。その後、秀吉のキリシタン追放、家康の鎖国政策と厳しい処罰措置がとられたが、それでもキリスト教のひそかな攻勢が続く時代だった。
 海外から潜入した宣教師や修道士約90人のうち、5人ほどは逃げるか隠れるかしたが、85人が殉教した、あるいは1660年前後には南蛮バテレン(伴天連、宣教師)やイルマン(入満、修道士)111人、日本人のバテレンら41人のうち相当数が処刑された、との数字もある。幕府がまとめた対外外交交渉関係の史料集である「通航一覧」によると、バテレンについて訴え出ると銀500枚、イルマンで銀300枚、同宿(弟子)や信者だと銀100枚をくれたという。

 「切支丹江戸屋敷」はどのようにして置かれたのだろうか。
 1643年、一団の宣教師らが今の福岡県宗像市の大島に漂着してつかまった。長崎に送られ、調べを受けたうえ、江戸に送られ、当初は伝馬町の牢獄に収容されたが、3年後に今の小日向の地にあった幕臣である井上政重(1585‐1661)の下屋敷に格別に厳重な牢獄が設けられて、彼らはここに移されている。これが「江戸屋敷」の発端である。

 この井上は、キリシタン大名蒲生氏郷の家臣で、一時熱心な信者だったといわれる。その後、徳川家に仕えて大目付になり、島原の乱(1637、8年)の際に現地での幕府としての相談役を務めている。そうしたキャリアから初の宗門改役(宗門奉行)に起用され、キリスト教の禁圧遂行のため、屋敷に牢獄を設けたようだ。そのため、代わりに霊巌島に下屋敷をもらい、のちに高岡藩(現千葉県成田市付近)一万石の定府大名になっている。

 井上はキリシタンの扱いについて、それまでの厳罰主義から棄教政策に切り替えるようにしたといわれる。それまでの宣教師の処刑は厳しく、火あぶり、つるし、斬罪だったが、井上は穏やかに「転ばせる」策に転じた、という。
 ついでながら、明治初期に捕えられた長崎のキリシタンたちの扱いについて、明治新政府内で神道国教化を主導した津和野藩出身の福羽美静らは当初、「棄教」の改宗策を主張して、断罪論を退けたことがある。神道普及を信じる彼らは、弾圧ではなく、神道の優位からすれば説得と教育によって改宗は可能だと確信していた。しかし、筆者はかつて信者たちの収容先となった津和野、福山、萩の教会などを取材して、改宗に応じない信者たちへの扱いが次第に残酷なやり方に変わっていった様子を知り、井上の対応に似たものを感じた。

 ところで1643年につかまり、切支丹屋敷を新設させて、最初に幽閉された宣教師たちは10人だった。
 バテレン(宣教師)であるジョセフ・キアラ(Giussepe Chiara、古い文献などではコウラ、カウロなどとある/1602‐85)はシチリア・パレルモの人。当時40歳。「日本キリスト教歴辞典」に「転びバテレン」と書かれているように、日本名で「岡本三右衛門」を名乗り、妻帯している。また、10人扶持を与えられ、毎年銀子をもらい、脇差も受けている。
かわりに、キリスト教理などの情報を提供、これらは当時の記録(「契利斯督記」など)に残されている。彼は、この江戸屋敷に84歳になるまで約40年間幽閉されていた。
小石川伝通院に供養碑があり、その近くの小石川無量院に葬られたあと雑司ヶ谷霊園に移された。ちなみに遠藤周作の「沈黙」の主人公セバスチャン・ロドリゴはキアラをモデルにした、という。

 キアラに同行したのは、同じバテレンの「ペイトロ」(Pedro Marques、スペイン、当時33歳で享年80歳)、「アロンス」(Alonzo d’Arroyo、イタリア、51歳、幽閉後間もなく死亡)、「フランイスコン・カツソウ」(Francisco Cassoloa、ポルトガルかイタリア、当時40歳、没年不詳)。また、日本人ではイルマン(修道士)の「南甫」(肥前茂木、当時42歳、享年79歳)、同宿(弟子)の「ロレンソヒント」(日本名と没年不詳、長崎、当時21歳)、「四郎右衛門」(大阪、当時51歳、没年不詳)、「五右衛門」(京都、当時52歳、没年不詳)の4人。ロレンソヒントは長崎で裁かれたあとマカオに追われ、四郎右衛門、五右衛門の二人は20年ほど前にルソンに渡り、バテレンたちとともに戻ってきたという。
 明国広東出身の「ジュワン」(寿庵)は日本名を「三郎右衛門」と呼ばれ、当時22歳。妻帯を許され、7人扶持となって80歳の長寿だった。ほかに、ベトナム(交趾)人の「ドナ」(Donat、トナトともいった、19歳)は「ニ官」と呼ばれ、78歳まで生きた。以上合わせて10人。全員が改宗したかどうかはわからないが、5人が80歳前後まで生きていたことからすると、処遇は悪くなかったといえよう。獄中で亡くなった者は小石川無量院に葬られた。

 その後、最後まで生きた「ニ官」が没した8年後の1708年、屋久島で捕えられたシドッティ(Giovanni Battista Sidotti、ヨハン・バブチスタ・シドチ、ジョバンニ・バティスタ・シドッチなどの名も/1668‐1714)が幽閉された。キアラと同じイエズス会のバテレンで、パレルモ出身。捕まったときは単身で、和装で帯刀していたという。やはり長崎での取り調べのあと、この江戸屋敷に送られた。
 このシドッティには、夫婦者の長助とはるという召使がついた。ふたりは幼いころから親の罪でこの屋敷で働かされ、さきに幽閉されていたキアラたちにも仕えていたという。
長助らは次第にシドッティに感化され、ついには受洗している。だが、告白したことで、彼は地下牢に移され、ふたりも幽閉された。その半年後の1714年、47歳のシドッティと夫婦は相次いで亡くなっており、拷問のためか衰弱死している。研究者の川村恒喜は「シドッチ逝て後又伴天連の住者も何等の記事もなし」と記している。

 シドッティが特筆さるべきは、カウロ(岡本三右衛門)の残した記録を読み、予備知識を持った新井白石が4回にわたって面会、彼から欧州事情、地理、歴史やキリスト教などについて聞き、「西洋紀聞」「采覧異言」を記録したことである。これらは、のちに開国にあたっての知識の源となり、洋学志向を高めることになった。もっとも、書かれた1715年ころには秘本扱いにされていたのだが。江戸屋敷の持つ一面の功績だろうか。

 伝えられるところでは、この屋敷の庭にかつて「ヨハン榎」と呼ばれた木があり、シドッティがここに葬られたといわれる。記録としては、長助、はるの墓も庭にあった、という。
 また、八兵衛石(夜泣き石)という石もあり、これは19歳の八兵衛なる信者、または泥棒が、試し切りされたとか、の言い伝えも残っている。
 この屋敷は「山屋敷」ともいわれ、その名残りの「山荘之碑」(1815年建立)が中野区野方の「蓮華寺」に残されている。岡本三右衛門、「與安」(シドッティ)、長助の名とともに、信者と思われる朝妻という遊女が処刑される際、牢獄そばの桜の木を指差して「花を見ないで死ぬのは心残り」といったので、獄吏が開花まで日延べした、と書かれている。
 
 以上のことについてはかなりの文献がある。
 「契利斯督記」(1797年ころ)、「査祅余録」(18世紀初めか)、「十方庵遊歴雑記」(敬順、1810~20年代)、「小日向志」(間宮士信、1810~20年ころか)、「御府内備考」(1828年ころ)、「通航一覧」(1853年ころ)などで、これらが後世の研究者の土台になっている。
明治以降では、「江戸切支丹屋敷の史蹟」(山本秀煌)、「史蹟切支丹屋敷研究」(川村恒喜)、「切支丹屋敷物語」(窪田明治)、「史蹟切支丹屋敷研究」(真山青果)、「新訂西洋紀聞」(宮崎道生)などの著作がある。「文京区史」にも要約が載る。
 いずれにせよ、歴史を知らなければ、物事のより正しい理解はできないが、江戸期に消えかかった仔細の事情を後世の人々が知ることのできる文献類が残されているのはすごい。

 切支丹屋敷の内部の様子、確定しにくかった小日向付近の「キリシタン坂」の所在の研究など、これ以上触れないが、 興味の湧くような研究は多い。とくに劇作家で古地図に詳しかった真山青果が丹念に「坂」までも調べ上げているなど、先人の残したものに感動する。

                   (筆者は元朝日新聞政治部長)


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