【自由へのひろば】

<古田武彦追悼>

ユーラシアを見渡した視点で歴史を振り返る時代

柏井 宏之


 古代史と親鸞の研究家として知られる古田武彦氏が昨年10月14日、逝去された。89歳。戦前戦後を貫く大和(奈良)を「国のまほろば」とする記紀史観に対して、それに先立つ出雲王朝、九州王朝を文献実証した研究と、その市民運動としての展開の功績は大きい。同時に多くの課題を私たちに残した。

 ◆市民の歴史学の特異な位置

 市民の歴史学は、戦前の言論統制への反省もあって、記紀一元史観の矛盾点の指摘と発掘にさまざまに始まった。それは人誰しもが持つ関心の一つとして歴史への興味や趣味、その研究と対話というアソシエーションの形をとった。その結果として、明治維新を通してアジアの「帝国」に上り詰めるナショナリズムの教化の礎となった記紀史観の官学と、戦後もそれを引き継ぐ史観と対峙するという特異な場所に成り立つことになった。それを切り拓いたのが多元的古代の成立を説いた古田武彦の長い、精力的な活動である。
 古田は、1969年の「史学雑誌」の『邪馬壱国』や『よみがえる卑弥呼』の精緻な「国造制の史料批判」で、大和朝廷に先立つ出雲王朝や九州王朝の存在を文献実証検証によって立証した。直木孝次郎など左翼を含め、神代を除き人代から始めた戦後の大和史観によって説明されてきた歴史を壊し、大きく動かした。そのことの功績は大きい。だがそのことを文部省管轄の官学は一切認めないのも重い事実だ。

 1988年のソウルオリンピックでは、神話から鉄の王のキム・スロの王妃がインドからやってくる物語が演舞ではなやかに演じられ、その開かれた歴史を披露したが、わが国では天皇制についてのこのような開明的な態度はとりえないほどに一国枠の万世一系に凝り固まっている。
 あらためて日本の歴史は、神代だけでなく天皇史は造作にまみれていることを確認したい。欽明期の「帝王本記、…その異を註詳す」記録の紛失、蘇我蝦夷の滅亡の時焼かれたという天皇記、天武の「王化の鴻基」から「偽を削り実を定め」る布告、持統期の「十八氏の墓記」提出命令、好字二字の地名付け替えの展開、不比等による『古事記』を封印した『日本書紀』編纂、平安時代の初期(813〜965年)の日本書紀の改鋳による大和化、桓武天皇時代の焚書、北畠親房の『神皇正統記』、江戸時代の本居宣長の国学、水戸学、天皇陵特定、明治の絶対天皇制と廃仏毀釈、皇紀二千六百年祭などの幾十ものナショナリズムのデフォルメによって、大和を原郷とする万世一系・単一民族史観が刷り込まれてきた。そして21世紀に入って各地の遺跡の整備と異説排除が歴史修正主義と相乗して進んでいる。

 今、古田氏の死によって市民の歴史学は一つの危機でもあるが、脱構築へのチャンスの時期でもある。
 それは、こうした時こそ、それぞれのアソシエーションのあり方が問われ、またあまり議論のなかに含まれなかった他の分野との総合的交叉や他の論点との検討も含まれよう。具体的には、小林惠子(やすこ)の壮大な七世紀アジア史の激動論や、中世民衆史を論じた網野善彦の史学との交叉が求められているのではないか。そうすることによって細部化し趣味化した袋小路を脱し、動的で統合的視点で現代に立ち向かう市民の歴史学の立ち位置がとりもどされるのだとおもう。

 ◆小林惠子の壮大な七世紀史と網野史学との交叉を

 網野史学が中世・近代史に範囲を狭めたように、古田史学も室伏史学も古代史に限っている。ならばもう四半世紀もたつ小林惠子の『倭王たちの七世紀』以来の一連の初発の天皇制論を俎上にあげるべきではないか。
 今日でいう国家の概念の成立は、識者によって三、五、七世紀と分れるが、小林は『書紀』は六五〇年の斎明期から最後の六九〇年の持統期までが全体の四分の一を占めることから七世紀に焦点を当てる。この七世紀におこった西のササン朝ペルシアと遊牧民族突厥の対立、分裂と大移動、隋・唐の大帝国の成立による高句麗・百済・新羅・倭国の玉突き的民族大移動の中で日本の天皇制形成をみようとする論稿は、そこが今、開発と戦争、略奪と解放をめぐる舞台となって「帝国」と宗教原理主義の世界戦争の硝煙がたつ地政学的空間であるだけにアクチュアルだ。

 それは今、佐藤優が、イスラム世界と欧米の対立を歴史的な文脈で俯瞰してみる必要性を強調し、百年前の第一次世界大戦中に、英仏露の三国がオスマン帝国の領土分割を決めた「サイクス・ピコ協定」が壊れてきたと見ていることや、柄谷行人が『哲学の起源』で「歴史の反復」や時代が移ると「存在忘却」がおこると強調していることも参考になる。また120年周期論で「自由主義的段階」と「帝国主義的段階」の交代期に世界戦争の予兆を語る柄谷論を見る時、国境を越えたユーラシア大陸全体を見渡した視点で歴史を振り返ることの大切さが、今来ていることと関連しよう。

 ◆富山妙子のフクシマとユーラシア

 満州・ハルピン育ちの画家富山妙子さんのアトリエに昨夏、大阪大学のソ・ユナさんの一九八〇年代の光州連帯の取材に同行した。富山さんは版画で光州蜂起やチリ人民連帯の画家として知られる。私には韓国の貧民運動の発祥地の城南市の住民生協と生活クラブ東京との姉妹提携の時、富山さんの大魚の版画を持参、住民生協からは4.3事件の済州島の画家白さんの版画をいただいた。
 富山さんの最近作は「ユーラシア」だ。それは三・一一のフクシマの絵に描かれたように、ユーラシアの大地は「戦争・開発・原発」によって焦土化し、最後的な破壊にさらされていることを描かれようとしていた。アジア=ユーラシアは「帝国」と男たちのパターナリズムによって、南米のアマゾン同様、最終的な破壊の局面に至っているとの怒りに圧倒された。わたしたちはそのような視点からユーラシアをみる視点をもっているか、歴史の中で「存在忘却」にあうひとびとが見えるか、そこが問われている。

 ◆網野善彦の『歴史としての戦後史学』

 網野善彦は、敗戦直後に民主主義学生同盟の組織者として出発したことから『歴史としての戦後史学』(日本エディタースクール出版部)を残している。古田史学に先行した歴史学研究会や日本常民文化研究所について、「百姓=農民」という封建社会論の自らの誤りと、国民的歴史学ヘ駆り立てた役割を戦後の“戦争犯罪”だったという激しい反省から書き出している。
 「戦後歴史学の五十年」では、マルクス史学の二潮流が対立をはらみながら実証主義史学と競合し、歴史学研究会に羽仁五郎が津田左右吉を新会長に推すことをきっかけに、津田が「建国の事情と万世一系の思想」で熱烈な天皇制擁護論を展開、マルクス史学に「決闘」を申し入れたことに触れている。
 ここでいうマルクス史学は講座派をさすが、津田史学が戦前の狂信的な皇国史観を排し神代と人代に区分けして出発したことに敬意を表する気持からか、かなり遠慮して津田のいう「生活」重視の史観に共感する言葉に終始する。つまり津田史学の強烈な天皇制擁護論をどう批判するかについてはふれていない。このことが民主主義科学者協議会などが時代区分論や、中世・近世、非差別部落史・地方史・女性史・文化史・領主制の個別論議にわけいっていく経路が見えてくる。さらには佐藤進一の「合議と専制」や王朝国家と鎌倉の中世国家の差異が取り上げられていく。網野はそのなかで『無縁・公界・楽』の怪著を残したが天皇制形成期の記紀のウソには触れなかった。

 ◆小林惠子の初発の天皇制論を俎上にあげるべき

 小林惠子は満州育ち、地図を逆さまにして大陸から見てきた育ちから、7世紀という時代のユーラシアの激動期と朝鮮半島の北側からカムチャッカ半島までを含めて倭国を語る。五行思想や千支にくわしく、日本書記の良心的編者が讖緯説に暗示したのを中国・朝鮮古書を解読する独特の深読みがある。そこには国家の興亡も描くが、貴種の移動による王権のシャッポだけの簒奪、また国が成立する以前の氏族と移動先での抵抗や服属に着目する。
 7世紀後半、唐国と高句麗の戦乱を受けて、渤海が成立する。その創始者は大氏、天武を支えた多氏に通じる。粛慎・靺鞨が押し出されて東北、北海道に移住してくる。762年多賀城碑に「去京一千五百里、…去靺鞨界三千里」として記される靺鞨とは何か、斎明期にある粛慎戦とは何か、なぜ征夷将軍や征戒将軍が置かれたのかを東アジアの動乱に結び付けて語るのだが、このような東日本の論は市民の歴史学の社会運動には登場しなかった。もっぱら西日本中心である。また、対馬が西日本の海上輸送ルートの重要な拠点であったように、佐渡が遼東と越(新潟)を結ぶ海上路であったとする。阿部比羅夫の粛慎戦もこのルートで行われた高句麗支援とする。
 その最大の焦点は、「帝国」として隋・唐の成立の中で、「為政者の流入」が次々とおこって倭国から「日本」が統一国家として成立していくとする多民族混合史観である。とくに聖徳太子を西突厥の達頭可汗として高句麗の599年末から600年にかけて高句麗から百済を経て来日したとする論にそれは象徴的である。

 また天武は、漢の高祖をもって任じ、唐・新羅を利用する力を持ったがそれはなぜだろう。それは高句麗の莫離支・蓋蘇文の転移する姿であり、天智は百済・武王(舒明)の息子である中大兄と母のサマルカンド出身の斎明が妹間人とが倭国に来るとする。
 柿本人麻呂の歌が初期は短く、後期は字数多く、外来語から倭語に移るように亡命渡来人がこの世紀に蛸集している。
 室伏の『南船北馬』論は一国を突き抜けたが、遊牧民族の大移動についてはほとんど言及がない。そこを相補的につなげないものか。

 ◆埴谷雄高に蹴られた幻想史学

 古田の九州王朝三部作に始まる市民の歴史運動の登場とそこに「天皇陵を発掘せよ!」の藤田友治が事務局長に座ることによって、歴研とは違う市民の歴史学が運動として登場した。それが数理学者安本美典による古田の「東流日外記」評価への偽書疑惑を裁判で訴える組織つぶしにあう。室伏志畔が古田擁護でそこに参加、その主意は、埴谷雄高が「死んだものはもう帰ってこない。生きてるものは生きてることしか語らない」の暗いリフレインを繰り返し「あたうかぎり死んだものの声を代弁する側に立」つ姿勢に室伏自らを置くものであった。
 古田武彦は「文明は文体を生み、思想は文体を伴う」と「室伏論作の成立をよせて」をよせた良き時期があった。しかしその文体は冒頭に記した為政者の意図的な歴史資料紛失という条件に規制された中で、幻想史学の方法論であったため、それが実証史学を本位とする古田の意図に反し、破門され今日に至るのは読者の知るところだ。

 ◆石堂清倫の「排外主義の淵源」をめぐる遺言

 日本の思想界に豊富な国際的な実践紹介をし、スケールの大きな足跡を残した九七歳の石堂清倫氏の、その死の直前、私は氏の最後の講演「20世紀の意味」の企画にかかわり、前後七回ほど、清瀬の自宅でお目にかかって打合せや草稿の手直しする機会をえた。その時しきりに強調しておられたことが二つあった。
 一つは、マルクスが共産党宣言でうたった労働者階級の解放がアジアの万里の長城の山海門に達するには百年の時間がかかるだろうといったがその通りになった。だが成功した革命の主体は労働者階級ではなく農民であった。言説が実践を潜り抜けて実現するには大きな変容が加わることについての感慨だった。もう一つは日本の歴史についてのことで、とくに「日本国民のいわば国民性というべき排外主義の淵源に関心をもって」(私信)そこを解明する論はないか、としきりに問われた。耳に残っている石堂氏のことばは次のようなものだった。

 「日本の進歩的歴史理解が丸山真男の『日本政治思想史研究』などの歴史観では、福沢諭吉の“脱亜入欧”の近代史観のワクを抜け出ているとはいえない。まして今日、丸山史学を是として、その骨を抜いた形での言説では、噴出してきているナショナリズムに対抗できるとは思えない。岩波が多くの歴史辞典や解説をだしているが、重箱の隅をつつく感じで組み立て自体に問題があるのではないか。日本の歴史だけに特化せず、ダイナミックでもっと広範囲な視点から掘り返す作業がいる。」

 私はその時、七十年代、古田武彦の『邪馬台国はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』三部作に始まった、戦前の皇国史観・戦後の津田左右吉の戦後史学批判の市民の歴史運動の苦難の歩みに、今、他の領域からの知見と、国境と海峡を越えて東アジアの流動史のなかに異論を含む対話と交流の促進を必要としているのではないかと述べ、室伏志畔の天皇制の「向こう側」シリーズを紹介した。
 室伏志畔は埴谷雄高の思索的な還元的リアリズムの状況議論をヒントに、六十〜七十年代の古田武彦・梅原猛・吉本隆明らの異なる視座から歴史論を総合化して、戦後実証史学の結果としての大和一元史観を批判、『伊勢神宮の向こう側』『法隆寺の向こう側』『大和の向こう側』三部作をだし、五木寛之がわずかに評価する以外、論壇から無視され続けていた。

 すると石堂氏からすぐ電話があり「提示された主張の大半に異常な説得力がある」として、室伏と連絡をとりたいとのことだった。それを契機に両氏の間で幾つか往復書簡が交わされるようになった。それに激励されて企画し書きおろされたのが『白村江の戦いと大東亜戦争—比較・敗戦後論』(同時代社)で、私は頼まれて夕暮れの第一生命ビル(GHQのあったビル)を撮り、その表紙の刷り上がったゲラを持参した。その時、海を渡る『万葉集の向こう側—もう一つの伽耶』の草稿も出来上がっていて、石堂氏は「何か書いてみよう」とお元気だったが、月が変わって容態が急変、逝去された。

 もう十五年前のこの石堂清倫の言葉を思い出すのは、戦後70年や憲法制定をめぐる議論の中で、丸山史学の問題点が再び浮上する議論に出あったからだ。それは日本国憲法制定過程に大きな影響力をもったカナダ人外交官ハーバート・ノーマンの「忘れられた思想家安藤昌益」に関しての資料の出し方についての議論に関係する。
 「安藤昌益の会」では『忘れられた思想家』をどう読むか—丸山真男との関係—を児島博紀が報告した。丸山は『日本政治思想史研究』の中で、近代的主体を形成する論理の萌芽を、「作為」の論理と「自然」の論理を対比しつつ近世政治思想史の展開のなかに見出す。その際、昌益を「自然」の側に位置付けたうえで、社会変革の論理の不在を指摘する。丸山以降、社会変革の論理があるか否かを暗黙の争点とし、昌益への否定的な評価が反復すると。稲葉克夫が「ノーマン氏……は、なぜこの著書が自然世実現の方策の問題を取り上げていないのかを訝からしめる。しかしこれには理由があった。ノーマン氏は昌益の著作の全体を読んでいなかった。それによってノーマン氏の見方は大きく制限されていた。ノーマン氏に上述の見地がなかったわけではない。それはあったのである」を引いた。児島は今「近代的主体の形成や社会変革の論理の在否を問うのとは異なる形で、日本における民主主義の“伝統”と可能性を昌益に見出す書物として」日本国憲法にGHQの一員として大きな役割を果たしたカナダ人外交官が、レッドパージにあい、カイロのホテルで自死するにいたった『忘れられた思想家』を読み直せないか、と問う。

 ◆アジア的専制国家と官僚支配にメスを

 丸山が「作為」を重視し「自然」を退けた背景にある変革の主体重視論の偏重は、今日の左翼を崩壊させる不信論として広く定着してしまった。この臭みのある前衛のエリート意識に代わって求められるのは、格差と貧困を前提としたアテネの自由と民主主義ではなく、イオニアのイソノミア=無支配であり、参加型民主主義であり、あるいは「共生主義」などが、生き方・働き方・暮らし方を問うて登場してきていることと、市民の歴史学は無縁ではないだろう。
 大塚久雄の「共同体の基礎理論」が内山節によって同名の書籍によって、近代的主体が問い直される時代にあって、アジア史における歴史研究にあっては、アジア的専制国家を跡付ける貴種=血の系譜偏重とそれを支える官僚支配にメスを入れる斬り込みも大いに問われるところだ。市民力なしに歴史のルネッサンスはない。

 (筆者は参加型システム研究所客員研究員)


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