【コラム】槿と桜(18)

パンソリを聞いたことがありますか

延 恩株


 「パンソリ」(판소리)と聞いて、“ああ、あれね”とわかる日本の方は少ないかもしれません。韓国でも若者にはあまり身近とは言えなくなっている伝統民俗芸能です。

 2003年にユネスコの世界無形文化遺産に登録され、2001年に登録された「種苗祭礼と宗廟祭礼楽」に次いで、韓国では2番目となっています。
 「パンソリ」の「パン」とは「広い場所」「舞台」を、「ソリ」は音(唱)を意味します。つまり「たくさんの人びとが集まる広い場所(舞台)で演じる唱と語り」という意味になります。

 そして「パンソリ」をわかりやすく説明すると「一人オペラ」となるでしょうか。ただし一人と言っても、もう一人、重要な役割を担う太鼓の叩き手(鼓手;コス、고수)がいます。たった2人だけですから、唱い手(ソリックン、소리꾼)と叩き手の息がピッタリ合うことが求められます。
 唱い手はただ唱うだけではありません。語りと身振りが加えられます。また太鼓の叩き手は決して“従”の存在ではなく、楽譜もありませんから、むしろ指揮者として、太鼓を叩いて唱い手をリードし、ときにはかけ声を(チュイムセ、추임새)をかけて、唱い手の気持ちをいっそう引き出していく役割も担っています。

 おもしろいのは、このかけ声は聴衆から発してもよく、唱い手は聴衆との一体感を感じ取り、唱に熱が入るというわけです。
 このかけ声をかける場面は別に決まっているわけではなく、いつでもいいのですが、かえってそれだけにタイミングが難しく、聞き手にも慣れが必要で、私などにはできません。

 また唱い手には重要な小道具があります。扇子です。必ずこれを片手に持って、一般的には立って唱います。扇子は唱い手の心情を強調するときなどに用いられ、手や足の動き、顔の表情などと一つになって、唱や語りを盛り上げていきます。また扇子は場面の変化などを聴衆に知らせる役目もあります。

 パンソリの起源についてはいくつかの説があって、定まっていないようです。おそらくいくつもの支流が集まり、混じり合って本流となっていったのでしょう。それでもいちばん有力な説は巫歌起源説と呼ばれているもので、韓国の南部(京畿道南部、忠清道、全羅道、慶尚道西部)に多いムーダン(巫女、무당)がクゥッ(祭祀、굿)で、歌い語られる巫歌(祈祷歌)をその源流とするものです。

 ところで「パンソリ」としての形を整えた歴史はそれほど古くありません。ただ文字には残されていないものの、語り物としてはかなり古い時代から語り継がれてきていたのではないでしょうか。文献としていちばん古い「パンソリ」の資料は、柳振漢(ユ・ジナン)が18世紀半ばに漢詩で書いた「春香歌」(朝鮮時代の支配者階層の「両班(ヤンバン)」の息子と芸者の娘との身分を超えたラブストーリーで、苦難を乗り越えて結ばれる)とされています。
 これ以降、最初は庶民の娯楽として、人びとが集まる祭りや市場や野外の広場で演じられるようになりました。19世紀初頭には「パンソリ」の形が確立され、「パンソリの父」と称されている申在孝(シン・ジェヒョ)が芸人から語り物を聞き取って活字化し、両班階級にも通用する文学としたことで、隆盛を見ることになりました。

 さて、ここまでの説明はいわば「パンソリ」の外側に過ぎません。日本の方がなかなか理解するのに厄介なのは、「パンソリ」には韓国人の民族性がその唱の中に奥深く刻み込まれていると言われているからなのです。
 それは韓国人が持っているとされる「恨」(ハン、한)という精神構造です。

 漢字の意味で考えるなら「恨」は「うらみ」です。「うらみ」という漢字は他に「怨み」「憾み」もあります。この3つの漢字、少しずつニュアンスが違っているようです。そして「恨」だけに含まれる意味は「くやむ」「思い悩む」「くやしい」といった意味のようです。
 漢字の熟語としては「痛恨」「遺恨」などと使いますから、どうやら「恨」には“憎悪”の意味合いは薄いようです。
 確かに、パンソリには無念感や無常観があるだけでなく、自分を責める思いもときには含まれています。またたとえ憎悪があったとしても、それを自分の心の内側へ取り込み、それと向かい合い、耐え忍び、乗り越えようとする精神作用のようにも思います。

 このように説明しても幾重にも絡み合った心の思い(喜怒哀楽)をえぐり出すようにして唱うパンソリについては、実際に耳にしなければどうしても理解できないと思っています。そこで私はいつも日本の方には、、今から40年ほど前に45歳で香港で客死した梶山季之(1930年、京城(現ソウル)生まれ、敗戦後日本へ引き揚げる)の『族譜』が韓国で映画化されていますので、そのビデオを見てくださるよう勧めることにしています。
 一人前のパンソリ演者になるまでの血のにじむような修行を描いた映画「西便制」(ソピョンジェ、서편제) はパンソリそのものを理解するのには素晴らしい作品だと思っています。余談ですが、この映画で、唱い手としてその声を良くするために生きたにわとりの鶏冠の血を弟子(実の娘)に飲ませるシーンがあって、私には大変衝撃的でした。
 私が「西便制」ではなく『族譜』を日本の方に勧めるのは、この作品が日本統治時代の「創氏改名」(チャンシゲミョン、창씨개명)をテーマにしているからです。朝鮮民族固有の姓を日本名に変えなければならないこと自体が、すでに「恨」を生じさせています。さらに主人公は頑強に抵抗し、死を選んでいく苦悩の過程そのものも「恨」だと言えるでしょう。この映画に流れるパンソリのえぐり出すような慟哭と悲哀の音調が日本の方にも、「ああこれがパンソリの「恨」なのだ」とわかっていただけると思っています。
 いずれにしても韓国人の精神の根底にあると言われる「恨」の解釈、理解は、韓国人である私が言うのも変なのですが、なかなか難しいと思っています。

 でも日本には演歌という歌のジャンルがあって、根強い人気を保っていて、私も好きです。この演歌には抑えきれない感情や身を焦がすほどの恋慕、どうにもできない悲哀、かなえられない望みなどを切々と歌い上げるものが多いように見受けられます。
 実は韓国には「トロット」(트로트)という日本の演歌とそっくりの歌のジャンルがあります。歌詞のテーマとして「恨」が取り上げられることが多く、かなえられないことへの悲しみや嘆き、恨みと、あきらめきれない思いや感情などがやはり歌い込められています。
 私が日本の演歌にすぐ飛び込めたのも、トロットの世界に馴染んでいたからだと思います。言い方を換えると、日本の方にはこの演歌を好むという気質があるのですから、私は言葉はわからなくとも、パンソリの搾り出すような情感はきっと受けとめることができると信じています。

 百聞は一見にしかずです。機会がありましたら是非、生のパンソリに耳を傾けてみてください。そして日本と韓国が同じような文化風土を持ち、とても身近な人間同士であることがさらに確認できたら素晴らしいと思っています。

 (筆者は大妻女子大学准教授)


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