【アメリカの話題】

ジェンダーの平等を目指して(4)

武田 尚子

■文芸復興期とその後の西欧の女性たち

 女に関する法規は15世紀初頭から19世紀までほとんど変わっていないといわれるが、特権階級の女の社会的身分は進化した。個性の開花を喜び迎えたルネサンス期のイタリアでは、例えばイザベル。デストのような強力な女君主がでた。男のように武器を取って戦った女傭兵隊長も出た。ミラノ港の軍隊を指揮し、貴婦人の軍隊を率いて城壁に迫ったイポリタ・フィオラメンテイもいた。自分たちの市を防御するために、シェナの女たちは、それぞれ三千人の女からなる三つの部隊を編成し指揮した。

 また別なイタリア女たちは其の教養や才能によって名をあげた。なかにミケランジェロの女友達ヴィットリア・コロンナ、メディチ家のルクレチア・トルナブオニなどがいる。これらの傑出した女たちの間には高級の遊び女が多数存在した。彼女たちは自由な素行に自由な精神を加え、職業の行使によって経済的自立性を確保していた、多くの高等娼婦が男から賛嘆され、美術を保護し、文学や哲学に興味をもち、自らものを書き、絵を描いた。

 しかしこれら多くの女性たちにとっては、自由は未だ放縦の形しかとらなかった。イタリアの貴婦人や高等娼婦の酒宴騒ぎや罪悪は伝説になっているほどらしい。15世紀においても、地位や財産によって世俗の道徳から免れた女たちのうちに見られる自由も、ふつう、主にこの放縦の域を出なかった。世間の道徳は依然として中世と同じくらいきびしかった。

 思い切ったことができたのは、メディチ家のカトリーヌ、イザベル女王など偉大な女君主であった。彼女らは其の重大な地位のおかげで、性差を超越できた。尊敬された聖女、聖テレサの活動は彼女を驚くべき運命に導いた。彼女は神への揺るがぬ信仰から、自己への揺るがぬ信頼を手に入れたのだ。自分の身分にふさわしい美徳を最高度まで高めることによって、彼女はキリスト教世界の支持を得、只の尼僧の域を超えることができた。彼女は修道院を設立し、管理し、男子のような果敢な勇気をもって旅行し、企画し、本を書くことも、告白者たちがそれを要求するのだから、厚かましいとは思われない。驚異的な幸運のおかげで、男同様の機会が与えられたときには、女も男と同じ高さまで上りうることを彼女は華々しく示したのである。

 これらは幸運な例外といえるもので、じっさいは16世紀には女は未だほとんど教育を受けられなかった。才気や知的権威や著述によって抜きん出る女たちの大部分は貴婦人であり、もっとも有名だったのは女王マルゴのような王室の女だった。しかし、著名な女流詩人のルイズ・ラベは正しく高等娼婦だったが、素行上の大きな自由をもっていた。

■サロン生活の発達と教養の普及

 17世紀になって、社交生活の発達と教養の普及から、女は知的領域で優れた才能をみせるようになる。女の教育制度はないものの、対談や読書や家庭教師の指導から教養を深めた女たちは、公に活動し始めた。ラファイエット夫人、セヴィニエ夫人などフランスの文学会で盛名を馳せた。

 こうした教養とそれから得られる尊敬によって、女は少しずつ男性の世界に介入することに成功する。そして文学や恋愛談義から、野心家の女たちは政治的陰謀に移る、1623年に法王の特派公使は書いている。『フランスではあらゆる大事件、重大なあらゆる陰謀はたいてい女が陰で糸をひいている』と。

 コンデ公爵夫人は<夫人の結束>を煽動し、ルイ13世の妃、アンヌ・ドートリッシュは顧問の女性を周囲に集める。ルイ14世の寵妃マントノン夫人は、巧妙な女性の助言者が政治に及ぼしうる力の輝かしい実例を示した。激励者として、知恵袋として、女がもっとも効果的な役割を果たすのは間接的な仕方による。
 また女の、劇場の舞台への登場が初めて注目されたのは1545年のことことである。高等娼婦の方は二ノン・ド・ランクロという当時最高の知的な文人女性に其の最高点を見出す。女であることを利用することによって、彼女は女であることを超越した。素行の自由は彼女を精神の独立に導き、男性にかわらぬ資格を手に入れたのだ。

 18世紀には女の自由と独立はいっそう拡大する。風俗は一般には相変わらず厳格で、若い娘の教育は限られ、彼女たちは相談もなしに結婚させられたり、修道院に入れられたりした。しかし貴族階級の崩壊によって、社交界の夫人は勝手な振る舞いが許され、上級市民層もその手本に染まった。このときもまた、大部分の女性にとって、この自由は消極的、抽象的の域を出ず、結局、快楽の追求に終わるほかなかった。しかし聡明で野心的な女性は行動の可能性を作り出した。

 サロン生活は新たな躍進を遂げ、パトロンとしてあるいは読者として、女性が作家の愛読者層を創っていた。彼女たちは文学や科学に関心をもち、例えばヴォルテールの愛人だったシャトレ夫人のように、自分の物理研究室や化学実験室をもって実験や分析を行う女性も出た。また従来にもまして、政治生活に介入するようになり、ブリ夫人、マイ夫人、シャトーヌフ夫人、ポンパドール夫人、バリー夫人は代わるがわる、ルイ15世を操った。モンテスキューは、フランスでは万事が女によってなされると見ているほどである。またコレは1789年の直前に、書いた。『女はフランス人の間ですっかり男を尻に敷いてしまったので、フランス人は女によってしか考えたり、感じたりしない』

 これらは女性の新しい意味での活躍の遠いはじまりを予告するものかもしれないが、全てそれほど順調だったわけではない。
 17世紀の末に、貴族で子供のないウインヒルシー夫人がものを書くという冒険を試みた。彼女は感受性に富んだ詩的な天性の持ち主だったらしい。しかし憎しみと憤りと恐れの中で、精魂を使い果たしてしまった。

  あわれ! 筆とる女は
  いと傲慢なるものと見なされ
  その罪は消すによしなし。

 彼女の作品はほとんど、女の境遇に対する憤慨に捧げられているという。ニューカッスル侯爵夫人も、貴婦人で、ものを書いてスキャンダルを起こした。『女はアブラ虫かフクロウのように生き、ウジ虫のように死ぬ』と、彼女は憤りをこめて書いた。辱かしめられ、笑い者にされ、其の領地に閉じこもらねばならなくなり。おおらかな気質だったのに、半狂乱になったという。

 18世紀になって初めて、アフラ・ベーンという平民女性は、寡婦になると、男と同様にペンで生活を立て、其の例にしたがう女たちが生まれた。しかし19世紀になってさえ、女流作家はこっそり身を隠して書かねばならぬ場合が多かった。シェークスピアにもし妹があったらと想像してヴァージニア・ウルフの書いた『自分だけの部屋』を読まれた読者は多いだろう。兄が猟をしたり、野原をかけまわったりしている間に、妹は両親のもとでぞうきんを繕っていたことだろう。一旗揚げにロンドンへ飛び出したにしても、気ままに自活はできなかったろう。彼女が陽気な娼婦になるところも想像はできるが、劇団を指導したり芝居を書いたりはできなかったろう。イギリスでは女流作家は絶えず反感を買ってきた。ジョンソン博士は女流作家を『後ろ足で歩く犬』に例えた。<それは格好は良くないが、人を驚かせる>と。ウルフは19世紀の女性でも、現実はこのとおりだった。

■女性を非難する男性と擁護する男性

 とまれ、こうした女性非難の声の中で、社交界の生活の発展と其の知的生活との密接な結びつきのために、フランスの女は以上の例などに比べると幾分有利だった。それでも尚世間は大体において、青鞜派を白眼視する。文芸復興期の間は、プラトンの学説が、恋愛や女性を精神化し、多くの文人が女性弁護に尽力した。エラスムスは女性にも教育を与えよと要求する。

 中でも女性擁護に強力な支持を与えたのは15世紀の医者で哲学者のアグリッパであった。彼はいう。『イブは生命を意味し、アダムは大地を意味する。女は楽園で生まれたが、男は外で生まれた。男は水におちると沈むが、女は浮かび上がる。女はアダムの骨から創られて、男のように土なんぞで創られていない。イヴは知らずに過ちを犯しただけで、罪深いのはアダムだ。だからこそ神は男の姿をとられたのだ。それに又復活の後では女の前に姿を現していられる。』
 『一切の権利を踏みにじり、本来の平等を侵害し、男性の横暴は、生まれながらに授けられた自由を女性から奪い取った、しかるに女性は子供を生み、頭脳も男に劣らず、いっそう利口なくらいだ。』『しかも男性が横暴であるのは、神の意志によるものでも、必然性や理性によるものでもなく、慣例の力や教育や労働や、それに主として暴力と圧迫によってである。』此の著書は大成功をおさめた。もうひとつの女性擁護論『難攻不落の堅塁』や、エロエの『完全な女友達』も大成功だった。

 当然、女性の敵も負けてはいない。中でもアグリッパに反論する『男と女の論争』の中には、中世の古い論議が蒸し返されている。ラブレーは「第三の書」で、結婚の諷刺に興じて辛辣である。

 1617年に、反女性論はジャック・オリヴィエの『女の欠点と意地悪のアルファベット』で勢いを盛り返した。アルファベットの各文字の下に女の欠点が記されている。古い論争を復活させたのもまた、教会の人間だった。宗教家たちが女性をけなす、擁護者たちは、アグリッパの議論を我先にとりあげ、敷衍する。中には、女に教育を授けることを要望するデュ・ボスク神父のような存在もあった。おびただしい恋愛文学がソネットやエレジーの中で女の美点を称揚する。

 こうして得はじめた女の成功は、新しい女性攻撃を招き、17世紀の文才ある上流婦人は「才媛たち」として世間の反感を買った。モリエールは『滑稽な才媛たち』『女学者たち』で彼女らを諷刺したが、彼は実際には女の敵ではなく、強制結婚に反対し、若い娘には感情の自由を、妻のために独立と尊敬を要求していた。

 此の時代にもっとも断固とした女性の擁護者は『平等論』をだしたプーラン・ド・ラバルだった。彼は過去の業績から女を判断することはできない。男性は強者の地位に乗じて、同性の便宜を図り、女性は習慣的に此の従属に甘んじている。女は自由も教育も、何一つ機会をもったことがないうえに、女が男に劣ることを示すものはなにもない。解剖上の相違点は男性の有利を示さない。女性に教育を与えよと結び、此の本は大成功を博した。

 こうして男女論争は熱気をもって続けられた。ルソーもこの点では市民階級の代弁者であり、女をその夫と母親の義務に捧げている。『女性の教育は全て男性との関連のもとに行われねばならぬ。女は男に譲歩し、男の不公平を忍ぶようにできている。』

 しかし18世紀の民主的、個人主義的理想は女に幸いした。ヴォルテールは女の運命の不公平を告発した。デイドロは、女の劣等性は大部分が社会によってつくられたものだと、はっきり見なして書いた。『女よ、私は同情する!』『あらゆる慣習の中で、法律の残酷さが、女性を敵に回して、自然の残酷さと結託している。女はまるで低能扱いされてきた。』

 18世紀の進歩的哲学者『人間精神進歩の歴史』の著者コンドルセーは、女が政治生活に近付くことを望んでいた。彼は古来の非難から女を弁護する、『女は、、、本来良心よりもむしろ感情にしたがうといわれてきた、、、しかしその相違は天性によるのではなく、教育であり社会生活である』『女が法律によって抑圧されればされるほど、女の勢力は危険性を帯びる、、、もし女が自分の勢力をを維持する必要をそう切実に感じなくなり、それが女によって自己をまもり圧迫からのがれる唯一の手段でなくなれば、其の勢力は自然に減少するであろう』と。

■フランス革命と女

 フランス革命は、女の境遇を改善しただろうか。否である。
 ほとんど男性の手によって行われたこのブルジョワ革命は、ブルジョワシーの制度と価値には手をつけなかったのである。
 旧政体の間中、もっとも恵まれていたのは勤労階級の女だった。女は商業を営む権利を持ち、自分の職業を遂行するためのあらゆる権限を持っていた。お針子や洗濯女、あるいは小売商などとして生産に参加したので、物質面の独立のおかげで、日常行為でも大きな自由を許されていた。こうした女は夫の協力者であり、対等だった。女中のように扱われ、男と同じ食卓に着けない場合もあったが、しかも男にとって重要であるため、尊敬されてもいたという。男女の財産も利害も関心も共通だった。

 女は家庭内で非常な権力をもっていた。こうした女たちこそ、其の苦しい生活の内から人格として自己を確立し、権力を要求する事ができたはずである。実際には、臆病と屈従の伝統は彼女らの身を縛り、国会の記録には女性の権利要求の例はまれで、次の事だけにつきた。即ち『女の専有であるような職業は男が行えないようにしてほしい』と。デモや争乱の折には男と並んで女の姿が見られた。パン屋の夫婦に身をかくして、革命を逃れようとしたルイ16世と其の妃の身柄を要求しにヴェルサイユに行ったのも彼女たちだった。

 しかし、革命の企画を指導したのも、其の成果を摘み取ったのも庶民ではなかった。ただ、自由のために熱烈に協力した市民層の女性は若干いた。熱烈な共和主義者だったが、大革命中反対派のために処刑されたロラン夫人、マラを暗殺したときのシャルロット・コルデー他がいた。

 オランプ・ド・グージュは、1789年に、<人権宣言>と呼応する<女権宣言>を提案し、男性の特権が一切排除される事を要求している。しかしこうした努力は水泡に帰し、オランプは断頭台の露と消えた。いくつかの新聞も現れたが、長続きはしなかった。

 それでも1790年には、長子相続権と男子の特権が廃止され、男児も女児も、相続に関しては平等になった。1792年には離婚を認める法律ができた。しかしこれらは微々たる勝利にすぎなかった。市民階級の女は家庭の一部になりすぎているから女同士の連帯意識を持つことができなかったのだ。

 1793年、共和革命派の夫人協会長の女優ローズ・ラコンプが女性の代表団を引き連れて県会に乗り込んだとき、会頭のショーメットは、満座の中で、聖パウロや聖トマスを想起させる言葉を投げつけた。『女は何時から、、、男になる事が許されたのか? 自然は女になれと命じた。子供の世話、こまごました家の用事、母性としての気使い、これこそ君たちの仕事だ』女性は県会への入場を禁止され彼女たちが政治修行をする集会への出入りも禁じられた。

 こういうわけで、女であっても社会に参加し得たはずの女たちは階級の故に妨げられ、同じく、行動的な階級に属している女たちは、女であるが故に陰にとどまっていなくてはならなかった。
 『経済的実権が労働者の手中に握られるようになったとき、初めて、働く女性がこれまで貴族であれ、ブルジョワであれ、寄生的であった女性の手に入れる事のできなかった能力を勝ち取ることができるであろう ボーボワール』

 大革命の混乱に際して、女性は無政府主義的な自由を手に入れた。ところが社会の秩序が元に復すると、女性は又おさえつけられてしまった。女の身分という事では、フランスは他国より進んでいる方だった。ところが、近代フランス女性に関する法律は軍閥時代に制定され、女性には母性しか認めようとしない。にもかかわらず、それは私生児の入籍を禁止し、私生児の身分をきびしく決定した。娘や妻は市民としての資格を奪われていて、弁護士や後見者にはなれない。独身女性は市民としての資格を残らず持っている一方、結婚には昔ながらの夫権がつきまとっている。

 女は夫に服従の義務を負っている。夫は妻が姦通したときは彼女を懲役に送り、離婚できる。姦通の現場を取り押さえて殺害しても、法の下では許される。ところが夫は妾を自宅に連れ込んだときだけ罰金を科せられるのであり、妻はこの場合だけは夫と離婚できる。妻が何か商売を営んでいる場合をのぞき、身柄と財産の上に同時に夫権が行使されるのである。19世紀を通じて法律はこのナポレオン法典のきびしさを貫き、1826年には王政復古は離婚を禁止した。離婚の自由は1884年にようやく復活したものの、それを獲得するのは容易でなかった。

 18世紀から受け継がれた精神の自由も家庭道徳を変える事はできなかった。
 実証主義者オーギュスト・コントはいう。両性の間には『心身両面に根本的な差異があって、それがあらゆる種類の動物、特に人類において両性を隔てている。女であるという事は、いわばいつまでも子供であるという事であって女は人類の完成型からはほど遠い。此の知的な弱みに支配される女の、感情的な存在に適した役割は妻か主婦であって、女は男と競合もできなければ、指導も教育も女には適さない』

 ところがコントはその著作の第2部になると、愛人クロチルドに対する愛に影響されて、女をほとんど神聖視し、偉大なる存在の発露とまで祭り上げた。『人類の祭壇において、実証主義宗教が民衆に拝ませようとする神体は女性である。しかし、女が此の信仰を受けるのは精神面においてだけである。純粋さと愛において、女は男に勝り、ずっと他人思いである。だが実証主義の体系からいくと、女は経済的にも政治的にも何一つ権利を持たない。彼女らは主婦兼教育者にすぎない』

 もっと驚かせるのは、かの膨大な『人間喜劇』で、皮肉な人間理解を示したバルザックの言い分である。『女の運命とその唯一の名誉は、男のこころをときめかす事である』『妻は契約によって入手する財産であり、動産である。なぜなら、それを所有している事は資格になるのだから。』バルザックは『結婚の生理学』の冒頭で、愛情を無視した結婚制度が女性を姦通に向かわせるのは当然だと鮮やかに証明した上で、夫に向かって、笑い者になりたくないなら、妻を完全に押さえつけておく事を勧める。女には教育や教養や、其の個性をのばさせるものは一切これを禁止し、窮屈な衣服をまとわせ、栄養不良になりそうな食事をとらせることを勧めた。ブルジョワジーはこれを報酬として、女は敬われ丁重な取り扱いを受ける。『妻というのは時には首座に祭り上げて忠実に実行し、女は家事と煩わしい世間的な行事に縛り付けられた。そのおく事もせねばならない奴隷である』とバルザックは確言した。

 原始時代のように、重い荷物を運ばせるような力仕事を女に押し付けるかわりに、女に一切の責任から解放する事を受け入れさせる。つまり女が、自分の立場の安易さにだまされて、思うつぼの母親や主婦の役割を受け入れる事を、男は願うのである。そして事実、ブルジョワ女性の大半は降伏してしまった。その教育と寄生的な立場のために、男性に頼る他ないので、女は自己の権利要求を持ち出す勇気すらもたない。

 女性解放はブルジョワ社会を衰退させると、女はきかされつづけているので、男から解放されたら、労働を押し付けられるだろう。私有財産に対しては夫の権利に付随した権利しかもてないのは残念だとしても、此の財産制度が廃止されれば、それはいっそう残念なことだとおそれるブルジョワ女性は、労働階級の女性とは何の連帯感もなく、織物女工などより、自分の夫の方に親近感を抱き、夫の利害を自分の利害にするのである。

 (筆者は米国・ニュージャージー州在住・翻訳家)


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