【エッセー】

女性の役割の構築を目指して(6)

高沢 英子

2) 日本のキリスト者(プロテスタント)と女子教育

 1859年(安政6年)プロテスタントの宣教師達が日本やってきた。彼らはキリスト教の中でもアメリカのピューリタニスムの伝統を受け継ぐ宣教師たちで、遅れていた日本の女性の人権擁護と、啓蒙育成に力を尽くしたのは、こうしたプロテスタント宣教師たちだった。

 これに関して、武田清子の著『婦人解放の道標』(1985年ドメス出版)が思想史の観点から、具体的で詳細な解明を試みている。また、東大の総合文化研究所、超域文化科学の研究員の鄭玹汀氏の『天皇制国家と女性』(2013年教文館)の研究は、膨大な資料を掘り起こして緻密で冷静な視座のもとに分析し、この問題に新たな光を当て、研究視野を切り開いた点、高く評価できる。

 当時の日本政府が、男子の社会指導者を育てることに熱心で、女子教育を軽んじていたことに対して、女子教育に力を注いだのが、キリスト者の特質であった。宣教師達が始めた私塾はその多くが今日に続くミッション・スクールとなっている。武田清子は「民間の教育活動としてのプロテスタントの女子教育の活動は注目に価する」と高い評価を与えている。しかし、これはこれまでも女性史研究家の間でも余り取り上げられることはなかったのも事実である。
 鄭氏も「日本キリスト教史において、女性という主題が論じ始めたのは最近のことである」とした上で、二、三の取り組みを紹介しているが、特に「明治期キリスト教史における女性問題についての研究は、まだ始ったばかりであるといわねばならない」(同書26ページ註(6))と述べている。

 プロテスタントキリスト教は、文明開化と共に日本に伝えられた。そして、それ以前に日本に伝えられたものの、きびしい弾圧をうけ、一握りの信徒のあいだでひそかに守られ続けて来たカトリックの切支丹信仰とはべつに、多くの社会活動を行い、徐々に日本社会に、活動を通じてキリスト教精神を浸透させるべく努めていったが、いまだに宗教としての真実の内容は、殆ど理解されていないのが実情だ。
 聖書の中の数々の寓話やストーリーによっては広く知られ、日常生活の中でのイベントや装飾的事象としてもさかんに取り入れられているという点で、現代の日本人にとって非常に身近な存在ではあるが、その実、信徒の数は微々たるもので、宗教の中身に関しては残念ながらあまり知られていない。むしろ、非常に偏狭な倫理観に縛られている教派という受け止め方が一般的といっていいようだ。
 女性問題に限らず、西欧文明の根幹にあるキリスト教精神に対する情報の欠落と無理解の根底に横たわるのは、こうした精神的活動に対して、日本の政府が常に短絡的、かつ拙速に介入し、強圧を持って押しつぶそうとしてきたことばかりでなく、国民自体が仏教や神道が渾然と入り混じった土着の和魂ともいうべき漠然とした情緒的理念に絡めとられているからでもあろう。

 こうしてプロテスタントキリスト教も、明治中期にいたって、それらが政府の国家主義形成の途上で、折衷的な論理に変質させられ、初期の純粋さを失っていったのである。このことは、その後の日本の近代化を非常に矛盾に満ちた中途半端なものにしている、と気づかされる。
 戦後ロランバルトが、来日した後まとめた『表徴の帝国』で、日本文化は中心が空虚である、と書いて物議をかもしたことが思い合わされる。私はこのいかにも彼らしい評言は、日本人が築いた文化のある意味での脆弱さをついた非常に感覚的に鋭い指摘だと思っている。

 ともあれ、日本が近代国家として名実ともに諸外国に肩を並べようと歩み始めた形成期にあって、近代化の不可欠の条件としての人権重視の政治体制、それに基づく近代法と、天皇を絶対者として奉護する皇国史観に基づく政治体制とその安定化に不可欠な従来の家族制度維持の法制度、等々を重ね合わせて国民を納得させるべく、国民の思想誘導に努めるという矛盾だらけの難事業に全力を挙げて取り組んだ明治中期にあって、初期の自由民権運動と結びついた女性解放の動きは、その後、鄭氏も指摘するように、倫理的社会改良へと視点を転換させざるをえなかった。
 そして、日清、日露の勝利を経た日本が、軍事国家としての自信を深めた、いわゆる「国家主義高揚期」にあって、女性の社会的人権はどのような道筋を辿っていくのか。またどのような蹉跌を味わうことになるか、明治中期からから大正にかけて、キリスト教精神に触れたすぐれた資質をもった女性先駆者たちの働きに注目してみよう。

 最初日本にやってきたプロテスタントの宣教師達は、まず日本語を学びつつ、英学を教え、医療宣教も行った。かれらは教師や医師の資格もそなえ、福音を伝えるために、献身的に宣教に努め、多くの日本人が、洗礼を受けて信徒となる。
 信徒となった男性キリスト者たちの多くは、西欧の進んだ思想に啓発された知識層によって占められていた。
 かれらは、当初、西洋の宣教師達を、キリスト教の伝道者としてよりは、西洋の近代文明の紹介者として、受け止め、その周りに集まり、熱心に英語を学んだが、やがて武田清子も指摘するように―西洋文明の根底にある精神的基盤としてのキリスト教に出会った―のである。西洋文明を媒介にして伝道する宣教師の存在は、西洋の技術だけを学ぼうとする和魂洋才の思想にあきたらず、近代国家形成の原理は何かを真剣に考え、人として真実に生きる道を懸命に捜し求めていた優秀な資質を持った旧士族の子弟たちの心を深く捉えたのである。
 もともとかれらは武士階級出身の向学心に燃える青年たちで、その大半は明治維新で没落した旧幕府出身者で、薩長を軸とする藩閥政治体質の明治政府にあって、出世の望みのもてない、反体制的な存在であったが、新しい日本の国造りへの理想と使命感を抱く愛国者でもあった。

 これら明治初期のキリスト者たちは、実践活動をさかんに行った。彼らは自由民権思想を軸として、天皇制国家主義に反論を唱え、貧困問題、労働者の人権や労働条件の改善を唱える社会主義運動も活発に行おうとした。そしてそれに伴い、新しい女性観、家庭観を唱え、それまで顧みられる事のなかった女性の教育に力を注ぎ、女性解放にも顕著な働きをした。キリスト教の伝道者たちとその信徒達は、まず日本の女性たちの極度に弱い立場の改善を図るべく学校を作った。

 こうして短期間のうちに、プロテスタントの進んだ教育活動によって次々と婦人教育者たちが育てられた。そして、プロテスタント信仰に基づく進歩的な教育方針を身につけた日本の女性先駆者達に引き継がれ、明治の初期1870年代から、80年代にかけて、70年(明治3年)フェリス和英学校、71年(明治4年)共立女学校。73年(明治6年)女子学院、74年(明治7年)青山学院、85年(明治18年)には明治女学校、関西で同75年(明治8年)神戸女学院、77年(明治10年)同志社の女子校、および平安女学院、78年(明治11年)梅花女学校、と現在も残る諸学校が創設され、キリスト者もプロテスタント宣教師もまだ数少ないこの時代に、明治期だけで40数校が創立された。こうして新しい女性観を持ち、女性解放に力をつくす婦人教育者や社会活動家が多く育てられていったのである。

 女子学院の初代院長矢島楫子、東京女子大の安井てつ、津田塾創設者津田梅子、明治女学校の木村鐙子および「小公子」の訳者若松賎子、自由学園の羽仁もと子、家政学院創設者大江スミ、また日本YWCAの日本人初代総幹事で、のちに恵泉女学院を創設した河井道子など、それぞれが、機縁に恵まれてキリスト教精神に触れ、高い教育を受け、生来の資質と不屈の精神を養い伸ばし、挫折と艱難を克服し、社会に貢献する見事な生涯を送っている。
 彼女達は教育の分野ばかりでなく、さらにそれを生かして女性の自覚と、社会的視野を育てた。今も活発な活動の輪をひろげている「婦人の友」の組織を作り上げた自由学園の羽仁もと子、日本基督教婦人矯風会を組織し、政府に女性の人権に関する建白書を出すなどの活動を行った矢島楫子、YWCA幹事として国際的な連携を築いた河井道子、孤児の救済や廃娼運動に身を捧げた救世軍の山室軍平夫人機恵子などである。

 矢島楫子は35歳で酒乱の夫と離婚。1873年40歳で教員伝習所に入り小学校教師の資格を得て採用されて自立する(註:この年、日本では始めて妻からの離婚訴訟が出来る制度が確立、女子のための職業訓練書「女子伝習所」が設立されたのである)。この時期は1872年から1874年にかけて、つまり明六社の活動期と重なっていて、女性の社会的地位向上のためのこうした施策が政府からも出されていたのである。

 1878年、生涯の師であるアメリカの宣教師、マリア・ツルー夫人と出会い、築地の新栄女学校に舎監として奉職、翌1879年築地新栄教会で洗礼を受ける。次いで桜井女学校に校主として就職。二つの女学校の統合で女子学院初代校長となる。自身の苦しい体験から1893年、日本基督教婦人矯風会を創立。禁酒・矯風のために尽くした。1887年「一夫一婦制の建白」「海外醜業婦取締に関する建白」を政府に提出。国会開設に伴い二大請願運動として活動、1893年60歳の時、日本キリスト教婦人矯風会を組織会頭となり、1906年(明治39年)には74歳で渡米、ルーズベルト大統領と会見。その後も1922年にはワシントンの軍縮会議に、東洋の平和を祈る女性の気持ちを伝えたい、と三度目の渡米を決行している。89歳であった。

 矯風会の働きについては、有島武郎が小説「或る女」(1919年)において、会の幹部であった佐々城豊寿の娘をモデルに、国木田独歩の妻であったその女性を、自由を求めて男遍歴を繰り返した妖婦として、転落破滅してゆく女として描き、いっぽう家庭崩壊をも辞さず、不行跡な夫を捨て、信じる道を貫こうと、会の運動に奔走する母親の姿勢を、当時の男社会の目線と感覚で批判的に描き、リアリズム文学の最高傑作と絶賛されている。
 しかし、是もまた、当時、矯風会が、男性のキリスト者たちさえその社会的活動を批判的な眼で見ていた、という当時の世相の現実を下敷きにして、角度を変えて女性の目線で読み直すことは可能であろう。
 いっぽうで、作者自身、かつて北海道農学校出身のキリスト者として洗礼を受け、欧米生活も体験したのち、キリスト教から離れている経歴を持ち、悩みの多い人生を終えただけに、この問題のむづかしさを考えさせられ作品でもある。

 こうして信仰によって新たな認識を与えられ、主として経済、素質共に恵まれ階層を中心に活動した彼女たちの働きとは別に、当時の日本の女性の現実はどうであったか。その家庭や、男女の関係は、どのようなものだったか。
 一般女性は教育レベルも極度に低く、男性社会の従属物として「三界に家なし」の状況に諦念と共に閉じ込められて日々暮している状態だった。自己主張をすること自体、悪と見なす儒教的価値観は、本来日本人の感覚の奥深くしみこんでいたから、たとえ民権論者達がその改善を叫んで立ち上がったとしても、女性自身、容易に喜怒哀楽を表現する気力すら持たない絶望的な状況に甘んじていて、個の自覚など持つすべもなかった。ようやく自由民権運動が芽生え始めたものの、それらも忽ち旧来の儒教的倫理観の枠に封じ込められ、男性の横暴な振る舞いは、彼らにとって都合のよい寛容と理解をもって受け入れられる社会で、依然として日本の女性の地位は暗澹たるものだったのである。

 1957年、作家の円地文子は『女坂』で祖母をモデルにした明治の女、倫(とも)の生涯を描いた。作品の結末で臨終が間近に迫っていることを自覚した倫は渾身の力を振り絞り、傍で看護していた姪に向かって言う「おじさま(夫行友)のところに行ってそう申し上げて下さいな。私が死んでも決してお葬式なんぞ出して下さいますな。死骸を品川の沖に持って行って、海へざんぶりと捨ててくだされば沢山でございますって・・・」
 夫行友は、明治の体制側に立って出世した人物、自由民権運動を弾圧した鬼県令の懐刀という設定で、時流の波に乗り高い社会的地位を築き莫大な財を成すが、手当たり次第に女を囲い、したい放題の限りを尽くし、妻の主体性などはまったく眼中にない。背景に、出世をすれば女を囲うのは当たり前、また、そうすることが男の社会的な地位を優位にしたような明治の時代風潮がリアルに描かれている。倫の遺言はこうした生涯を生き抜いた女の叫びとして、胸に突き刺さるような迫力がある。

 樋口一葉は、『十三夜』で見初められて玉の輿に乗ったものの、夫に事毎に教育のなさ、教養の不足を嘲られ、いじめぬかれる妻と、閉塞的な時代の社会構造のなかで、生きるのぞみを失い、次第に落魄してゆく幼馴染の男との束の間の逢瀬を描く。明治という時代の裏に生きる人間の偽らぬ姿である

 明治も中期になって旧態依然とした因循姑息な社会の風潮とそれをよしとして容認している男性優位の思考は、1885年(明治18年)第1次伊藤内閣が成立し、懸案の帝国憲法の起草に向けて動き始めるとともに、いっそう強められてゆく。前述のプロテスタント信仰に目覚めた知識人たちもそれに順応し、現実的な自由民権運動、差別なき人権意識と倫理観の養成を目指す活動から、射程を変え、女性に対しては、その置かれている不利な立場を、視点を変えて評価称讃する方向に導き、家庭における女性の役割の尊厳を深く自覚するべき、とする言論へと変質させてゆくのである。

 教育勅語が発布され、明六社の中心的存在であった森有礼が伊藤内閣の文部大臣に就任。「良妻賢母教育を国是」とするべきだ、とする声明を出す。そして、それに基づいた「生徒教導方要綱」なるものを全国の女学校に配るという事態となり、政府は自由民権思想を抑圧、政策批判の自由な発言は強権をもって封じ込める姿勢を強めて行くのである。天皇制体制の確固たる基盤を築くための施策が次々打ち出され、旧来の儒教思想と結びついた家族制度の縛りは一層強固となる。

 こうして明治後期までに、政府は天皇制に依拠する国家体制を確立する。天皇制国家観、天皇を神として神格化し、政治権力による支配を正当化する方式は、かつての幕府による「お上」思想を、さらに強固にして国民に押し付けるものにほかならないが、その結果、国粋主義が台頭、それまでの自由民権思想は根底から揺るがされ、キリスト教信仰の正統性をを守る人々の言説は、しばしば激しい批判にさらされ、弾圧を受け、漸次、日本固有の思想との折衷的な異質のものへと変形させられてゆく。

 歴史的に個々の例をあげることは省くが、開国当初のプロテスタントキリスト宣教に心を開いた知識層や、新しい西欧の思想を吸収し、自由民権を唱え、女性の解放と家庭生活の改革を論じた知識人たちの啓蒙活動は、政府の強圧的な方針によって、次第に勢いを失い、実践的に政治改革を求める姿勢を後退させてゆき、それに代わるものとして、キリスト教に基づく倫理的な社会認識論を展開する方向へと向かってゆく。

 こうして折角緒に就いたと思われたキリスト教界で唱えられた家族制度の見直しや、男女関係の改善論は再び後退し、元の木阿弥、すっかり保守化してしまう。明治女学校の創設者で、後の女高師校長巌本善治も、そうした風潮にあわせ、キリスト教精神の徳育の面のみを強調するようになり、女子教育の理想像を自己献身と自己捨身に置き換えて「男女同権論は愚論なり」と切り捨て、森有礼文相は「今夫れ女子教育の主眼とする所を要言せば、人の良妻となり人の賢母となり一家を整理し子弟を薫陶するに足るの気質才能を養成するに在り」と言い出す。

 明治という時代は、このように、それまで隠然として、社会通念のなかに存在してた男性優位の認識を一層確かなものにし、むしろ教育事態が変形させられ、一部の自覚した女性の声は、抑圧され続けてきた女性層にまでは届かず、彼女達が、それをみづからの問題として立ち上がり、女性リーダーの下に活動を開始する、譬え一時的にせよ、女性自身に内在するエネルギーによって団結し、大きなうねりとなって世の中を変えてしまうほどの力を持つには程遠い非近代的状態に留まった。
 あえていえば、最初から社会そのもののなかにそうしたことを受け入れる基盤すらつくられておらず、有効な運動に育つほど成熟していなかったのである。そればかりか、今も少なからずそうした意識を引きずっている状態といえるかもしれない。それこそが、今後も日本のみならず、女性問題の普遍的な課題として、追究していかねばならない。

 明治後期から大正、昭和にかけて、戦前の女性の暗黒時代に次回は、天皇制体制と、男性優位の社会認識のなかで、やがて社会主義やマルクス主義と結びつき人間本来の権利をかちとろうとする一握りの女性達への非人間的な迫害と苦難の事例は少なくない。
 次回は、これら、どんなに踏みにじられても屈することなく戦い、積極的に生きた知られざる人々の姿を、紹介できればと考えている。
 勇気と不屈の意思を持った先駆者たちの苦闘を知ることは、女性にとっても男性にとっても決して無駄なことではないはずである。

 さまざまな偏見と思い込みが今なお根強いこの社会で、男女の平等意識を日常のものとするために、それらを、一つ一つ解きほぐすのは容易なことではない。曖昧な宗教観や、哲学のありかたの再検証もさることながら、現実に存在する男女の性差、人間としての能力や個性の違いを見極めたうえでの、人権問題や女性問題の具体的提言こそが、相互の壁を取り払う上で重要な鍵となる、と信じて、そのきっかけの一つともなれば、と願いつつ紆余曲折をいとわず、考察を進めたい。

 (筆者は東京都在住・エッセースト)


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