【コラム】技術者の視点(7)

もんじゅ廃炉と原発政策の転換

荒川 文生


 技術屋が心密かに抱いている自尊心が在ります。「使命と時間、そして資金さえあれば、何でも成し遂げられる。」具体例としては、原爆を開発した「マンハッタン計画。」そして、J.F.ケネディの「人類を月へ。」日本では、池田勇人の「所得倍増計画。」太平洋戦争敗北による目的喪失感を克服するうえで、お腹の空いた庶民には心地良い響きでした。そして、この目的は、技術開発を基礎とする経済の「高度成長」によって達成されました。産業界の技術者は、必死に技術の向上と適用に邁進し、国際市場に製品を供給して外貨を稼ぎました。その陰で「公害」の進展による自然破壊と金塗れの格差社会が、人々の生活を脅かすことになるのですが・・・。

 この自尊心からすると「もんじゅ」の開発はどうなるのでしょう。結論を急げば、開発の「使命」に問題が在ります。指導的立場に在る研究者や技術者には、高速炉開発の使命が核燃料サイクルの確立を通して日本のエネルギー問題を解決する事だと言われても、日米原子力協定の背後にある情勢を観れば、その建前の蔭にある「核武装」を意識せざるを得ず、そのような二面性を持つものが命を懸けるべき使命とは為り得ません。現場の技術者や作業員たちは、そのような二面性に捉われている上司の態度に信頼を寄せる気にはなりません。
 かつて、高速炉補修作業の後で、作業工具が炉内に取り残され、大きな問題と為りました。現場の上司と作業員とが確かな信頼関係で結ばれて居れば、このような作業員の恥と為るような事は、まず、起こりません。「もんじゅ」の開発は、その経済性のみならず技術的状況や現場技能者の能力や努力の多くが無視され、政治的動機に支配されて進められてきたと言えましょう。
 科学ジャーナリズムにも問題が在りました。ある科学ジャーナリストの反省として、1970年代の原子力開発への批判、例えば「トイレなきマンション」について、これを「非科学的」と判断し、結果的にジャーナリズムも「安全神話」を流布することに寄与する事に為ったという指摘が在ります。

 原発再稼働路線からの脱却が政治的に指向されない背景には、国際的に安全保障上の理由があるとされていますが、今や国連でも「安全保障」は、国家のそれよりも人間そのものの安全(医療や健康、障碍者やマイノリティの保護)に重点が移されつつあります。このような国際情勢の大きな流れの中で、徒に、国家間の緊張を高めるような核装備の為の原子力開発が、如何に無用で危険なものかが明らかに為りつつあり、日本の原子力政策も見直されるべき時が来ています。かつて、このような主張は「理想論」として片づけられていましたが、TMIからチェルノヴィル、そして、福島と続く原発事故や、核軍縮に向けた国際的な取り組みの進展に対応して、技術を含む歴史的視点からしても国際的にも原子力政策の見直しが現実的なものとして求められています。多額の開発費を投入しても実現できない設備や実際に使用できない核兵器への投資が、如何に無用で危険なものかを「現実的に」直視した方針変更が求められています。

 それにも拘らず、政府が新たに提出した方針は「もんじゅ」を廃炉とする一方で、新たな高速炉の開発です。ここには、上記の歴史的・国際的背景への認識が無いばかりか、技術的に本質的理解が全くありません。申すまでも無く、技術は先行技術の積み上げの上に成り立つもので、上手く行かなかった場合もその失敗の根拠を充分検証し補正してゆくところに発展への道が開けるものです。政府の示す新たな高速炉の開発計画は、「もんじゅ」失敗の検証も無ければその廃炉への道筋を検討する事も無く、砂の上に楼閣を立てようとするものと為っています。
 これでは、技術者に新たな使命を覚えさせるものでは全くないが故に、この計画の「失敗」も自ずと明らかです。それでもこのような計画が提示され推進されようとするのは、技術とは無縁の目的の為としか考えられません。技術者は「鼎の軽重」を問われぬためにも、このような計画に断固たる批判と拒絶を為すべきであります。

  時移り新たな使命炉に灯れ  (青史)

 (地球技術研究所 代表)


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