戦争というもの(7)
――ある兵士の二重の不幸

羽原 清雅


 戦争というものは残酷である。
 一過性のものではなく、その残酷は悲しみとなって、尾を引き続ける。「時」は悲しみを癒してくれる、というが、本当にそうなのだろうか。
 古い新聞をめくるうち、ひとつの記事に目を引かれた。一兵士として激戦の硫黄島に動員された若者が、全島壊滅のなか、岩穴に逃げ込み、米軍の目を逃れて4年近く生き延びる。昭和24年、ついに投降し、帰国する。だが、島に埋めた日記を掘り出そうと一時の帰島を望み、認められた。同26年春、久しぶりの硫黄島に戻る。そこに、不幸が生まれる。その兵士の心のうちは、推測はできても、真実はわからない。

 小笠原諸島にあるその島はいま、東京都に属しながら、相変わらずの戦争の名残を残して、自衛隊が駐屯する。一般人は立ち入れない。太平洋戦争の遺体はまだまだ多く残され、戦争はいまも終わってはいない。

 海軍水兵長・山蔭光福 その19歳の若者は、岩手県花巻市出身の山蔭光福という。1925(大正14)年6月生まれ。終戦まで1年足らずの1944年9月、横須賀の海軍砲術学校で3ヵ月の厳しい訓練を受け、浦賀防備隊から硫黄島増援に志願する。この年6月には、米軍の空襲と艦砲射撃を受け、この島の命運はすでに尽きかけているときの増派だった。
 それでも山蔭は、地下5メートル、横穴の深さ10メートルの壕掘りや、砲台つくりに追われた。炎天下に与えられた水はわずか1合、食料供給の輸送船は月に1、2回になって主食は4割減、といった状況だった。12月になると、1日1回程度だった米軍の空襲が2回3回と増え、B24、B29機による連続爆撃は夜間30分おき、となり、一度に5キロ爆弾を数百発も落とされる事態になっていた。翌年2月になると、3つの空港のうち一つが、その2日後には島の4分の1が占領された。
 そこで、上陸した米軍への斬り込みが計画され、55人の砲台員は半分ほどに減り、3月12日には生存者は山蔭を含む6人だけになっていた。

 3月17日は硫黄島全滅の日。166メートルの摺鉢山に米兵が星条旗を立てる姿の写真は大きな話題になった。この戦闘は、クリント・イーストウッド監督の『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』でもよく知られている。ちなみに、この旗を掲げた米兵6人のうち3人がその後の戦闘で亡くなっている。

 隠れ、逃げる4年間 3月15日、山蔭の避難するトーチカが爆破され、夜になって、部下ながら13歳年長の松戸利喜夫とともに斥候に出る。だが、戻ると、上司である機銃砲台長の上野利彦少尉らがいない。
 山蔭、松戸の逃避行はここから始まる。昼は岩穴に隠れ、夜間に食料を探す。台風や暑さはあるが、南方の島で寒さがあまりひどくないのが救いだった。また硫黄島という文字通りに蒸気の吹き出すところがあって、食料は料理しやすかった。

 ひそかに畑を作り、サツマイモやカボチャを育てた。パパイヤの木や根まで食べ、野草のホタル草などを噴気で蒸して食べた。水の確保が難しかったが、米軍の工事現場や兵舎に残した缶詰、ミルクの缶、チョコレート、マッチ、やすり、ナイフ、糸、アスピリンなど、ときに衣類となる白いキャンバスの布が手に入り、靴、ズボン、帽子に仕立てた。餓死相次ぐほかの戦地と違う条件に恵まれ、物量豊富の米軍あっての逃避生活だった。
 だが、連日、米兵が探索に現れ、手りゅう弾を投げ、小銃を打ち、ダイナマイトをさく裂させるなど、緊迫の日々が続いた。飛行機に見つかり、機銃掃射も受けた。狭い傾斜のある岩穴のそばに米兵が現れ、発見寸前のこともあった。
 とにかく、食べること、見つからないことに、神経をとがらせる二人の日々だった。

 若いがランク上の山蔭兵長、13歳年長の松戸上等水兵。二人に仲たがいなく、それぞれの個性と知恵を認め、助け合ったことが、4年近い歳月の苦しい日々を乗り越えさせたのだろう。山蔭は独身だったが、松戸には4人の子どもがいた。

 投降に至るまで 日本敗戦を知らず、いつかは日本軍の奪還が実る、と信じることで生きていた二人だった。
 それでも、松戸によれば、1946(昭和21)年1月ごろ、雑誌の『ライフ』を拾い、上野・不忍池にボートを浮かべる日本娘と米兵の写真を見た。さらに、米兵と日本の娘が、互いに相手の口にリンゴを持って食べさせあっている写真を見つけ、「負けたな」と感じたという。松戸によると、山蔭は「もうだめだ。生きている用(要)はない。今から、やつらの幕舎めがけて斬り込もう」「われわれが内地を出るときは、日本の全女性は〝銃後を守り最後には敵とも戦う〟と勇ましかったはずじゃないか。それが、われわれのこの苦しみも知らず、このざまは・・・・」と目をギラギラさせて言った。ただ、年上の松戸が、日米両国が平和にやっているなら、この島で米兵を殺傷させたらマイナスになる、と説得。結局、投降などはせず、いつか住み着いていた島民が帰るまで待とう、とホコを収めた、という。

 米兵の前に、投降だけはできない。そこには、「生きて虜囚の辱めを受けず」という東条英機陸相時代の戦陣訓が頭にあり、捕虜となるくらいなら死を、という意識があったのだろう。この軍命は、当時の兵士たちにとって、背けない重みがあり、また憎しみを植え付けられ、日夜敵対してきた米軍というものへの恐怖が消えなかった。

 岩穴では、蓄えた食べ物を狙って、ネズミが出没、拾ってきたネズミ捕りを仕掛けて茶色味をおびた白いハツカネズミを捕まえて、ハリガネの箱を作り、「長太郎」と名付けて飼い、日々の楽しみにすることもあった。  
 長太郎を野に放ったのは昭和24年の元旦。山蔭、松戸は10日間ほど話し合い、十中八九殺されるにしても、もし銃殺されるなら舌をかみ切って死のう、と決断して、新年を機に投降しよう、と決めた。

 岩穴の整理を始めると、箱入りの新品の下着6ダース、米兵の夏服上下3着ずつ、靴3足ずつ、たばこ100カートン、ウィスキー、ビール、缶詰多数、コールドクリームやアスピリンなど各種の薬品、蓄音機2台、レコード約50枚など、引き揚げた米兵が捨てたものや、失敬してきたものばかり。「(投降の)準備を始めて驚いた」と、山蔭は書いた。帰国した米兵らが処分していったものが、大量に手に入っていたのだ。

 投降の日の早朝、二人は歩き出すが、通りすがる米兵らの2、3台の車は見向きもしない。やっと乗せられたジープは、自動車の修理工場に連れて行ったが、そこで降ろしたものの放置の状態。イヌに追われるなど、まごつくうちに建物群に行きつき、2、3の士官のもとで英和辞書などを手に「軍人」「海軍」の文字を指さすことで、何とか身元は判明。まもなく一人の中国人が来て通訳し始めた。「ジャングルボーイ」「20年8月15日に終戦」「君らは捕虜」・・・・
 そのあと、硫黄島の米軍司令の大佐のもとで、本籍地、姓名、生年月日、官職階級など30分ほどの質疑が済むと、隠れ住んでいた洞くつに案内させられ、身体検査、夕食などが続く。そこではじめて、天皇の無事、東条の処刑を知った。

 硫黄島の玉砕から5ヵ月後の日本の降伏。「戦況は相当に不利だったはずだ。それなのに、戦況をなぜ一言も伝えてくれなかったのだろう。そうすれば・・・・一部のものでも尊い生命を散らすようなことはなかったであろう。それを日本本国からは、戦況の不利どころか、全く反対に『連合艦隊を信頼せよ』、また『特攻隊を信頼せよ』などといってきた。そして、多くの先輩同僚が玉砕し、われわれ二人も、やがて逆転を・・・・と考えてがんばってきたのだ。ほんとうにくやしかった」。山蔭は、終戦を知った直後、このような怒りを覚え、書き残した。

 日本にたどり着いて 翌日、双発機でグアム島へ。精密検査などを受けた十数日後の1月21日、「飛行機で日本に帰す」。その帰途、機上からサイパン島を見て、山蔭は「ここもかつて日本軍が玉砕した島、花と散った多くの将兵の霊に、私たちは思わず合掌した」と書いている。
 松戸は1月24日、郷里の千葉に帰り、温かく迎えられた。砲弾片を受けた左足の甲が痛みだし、歩行困難になった。しだいに不眠症にもなり、ときおり眠ると自宅周辺が焼夷弾に焼き払われ、米兵に攻められる恐怖の夢に襲われた。
 帰国後に、全国の硫黄島関係者の遺族、行方不明者の近親者から、1日10数通の照会状が来て、父や夫の最期の場所や日時、ほかに隠れた生存者の有無を尋ねられた、という。戦後の日本には、悲しみと一縷の望み、が広がっていた。

 松戸は、山蔭の帰国後の消息に触れている。
 1月24日、岩手に帰る山蔭を上野駅に見送った。山蔭の郷里・花巻での様子はわからないが、彼は復員後に警察予備隊を志願、合格したのだが、入隊後の再検査でヘルニアと分かり、不合格になった。グアム島での精密検査でそのことは分かっていたが、彼自身が米軍の下での入院や手術を望まず、まずは帰国したい意向だった。その時に「海軍防衛隊時代、12センチ高角砲の訓練で、重い弾の装填を毎日やらされ」たことで、と山蔭本人から聞いていた。島内でも、あまり重いものは持たず、夜の外出もためらいがちだった、という。

 それにしても、朝鮮戦争勃発(1950年6月)に伴って、米軍の日本駐留部隊が朝鮮に出動したあとの国内治安の対応策として生まれた警察予備隊(のちの保安隊、現在の自衛隊)であるが、戦争に苦しんできた山蔭がなぜそのような組織に入ろうとしたのか。終戦後の経済混乱期の就職難の時代、好き嫌いを言える状態になく、帰国したばかりの山蔭にとっては技量を生かせる職業に映った、のだろう。

 二人の「日記」のこと ところで、これまで引用してきた山蔭、松戸の手記というか日記は、二人の思いを解く大きなキーワードになっている。結論から言うと、二人は共著として『硫黄島 最後の二人』(読売新聞社刊)を、帰国から17年後の1968(昭和43)年8月に刊行している。
 松戸の場合、島で書き綴っていた4冊の日記を投降時に、50センチほどの穴を掘り埋めてきた。ところが、その後偶然に島内の工事をしていた建設会社のブルドーザーによって、それが掘り起こされたのだ。もっとも、鉛筆で書いた昭和20年の日記は残っていたが、そのあとの3冊は拾った米軍のインクで書いたため、硫黄島のガスのせいか、消えてしまっていた、という。

 一方、山蔭も日記をつけて、島に隠してきた。この日記に思いが強く、いつか島に戻って、という気持ちがあった。そう思いながらも、帰国してから仕事の合間を見て、思い出すままに手記を書き溜めていた。その原稿が、松戸のものとともに、この本の出版に生かされることになったのだ。
 1949年7月4日の岩手日報紙によると、このころ母親ハルのもとに厚生省引揚援護局から、光福の日記がボロボロになってはいたが、見つかった、との連絡があった、という。

 硫黄島からの帰還報道 山蔭、松戸の投降の第一報は、昭和24年1月9日の朝日新聞に「硫黄島で生き残り 2名が米軍へ投降」のベタ記事として載っていた。氏名が明かされたのは11日の記事で、「ヤマカゲ・クフク(24)=仙台」「マツド・リンソキ(34)=東京」とある。米軍の発表は「1月6日投降」ともあって、間違いや文字の説明ミスがみられる。同じ紙面には、フィリピンから4,000柱の遺骨が帰国した、との記事も見える。当時、新聞は表と裏の2ページだけだった。

 花巻に帰郷した山蔭は、すでに「故人」だった。当時としてはありがちなことではあったが、位牌に「俊興軒正龍義福清居士英霊」「昭和22年3月17日 於硫黄島戦死 海軍水兵長 行年二十二歳」とあり、光福は胸を締め付けられる思いだっただろう。また、戸籍謄本には「昭和貮拾年参月拾七日(時刻不詳)硫黄島方面ニ於テ戦死」とあり、謄本にある日付は、硫黄島全滅の日だが、位牌のほうはその2年後。それは、親族が光福への思いを断ち切るまでの歳月だったか。
 戸籍には追記があった。「戦死による抹消の記載錯誤に付き昭和貮拾四年貮月拾壱日付・・・・・の戦死報告取消通知により同月拾九日戸籍の記載を復活」。
 さらに、「昭和弐拾六年五月八日午前拾時硫黄島中央飛行場診療所で死亡」とある。
 この「死」とは、いったい何なのか。

 東京で就職した2年間 山蔭光福は帰国後、いったん花巻に帰るが、すでに父千平は亡く、母のハルは彼女の生まれ育った実家に戻っていた。
 また、「勝ってくるぞと勇ましく…」と派手に送り出され、軍人としての矜持に生きてきた彼にとって、4、5年間程度のブランクだったとはいえ、日本の状況は様変わりしており、この不在の期間は大きく、郷里での居心地を悪くしていたのだろう。
 かつての無二の仲間であった松戸には、海軍入隊時に村の人々から餞別や見送りを受けており、「いまさら、(警察予備隊に)不合格だと村には帰れない」と話していた、という。
 そうした事情もあって、松戸は親類である亀戸の鋳物工場の経営者を紹介、山蔭はそこに昭和26年まで働いていた。松戸によれば、山蔭は働き者でおおいに気に入られたが、先輩格の同僚にねたまれ、その後出て行った、という。
 そのころ、山蔭は硫黄島での上官だった上野利彦を訪ね、その世話で就職先も決まっていた。

 死を求めたか、再度の硫黄島へ 山蔭は帰国後、島での逃避行の様子などを思い出しては記録していた。400字詰め1,000枚近くになっていた、という。
 しかし、本音としては島に埋め残してきた4年間の日記を取り戻したかった。その期待がいかに強かったか、推測できないではない。というのは当時、米軍統治下にあった日本からの渡航は不可能な時代だった。それでも、「日記探し」としての米軍の渡航の許可を得ることができたのだ。執念、だったのか。いったい、どのような伝手をたどって実現したのだろうか。昭和26年春のことだった。

 時は朝鮮戦争のさなかであり、自衛隊の前身・警察予備隊が生まれ、相次いで政財界や右翼などの公職追放組2万余が解除・釈放される一方、共産党などの左翼グループを抑える狙いからレッドパージが進められ、また社会党の鈴木茂三郎や日教組が「教え子を再び戦場に送るな」と叫ぶなど、保守・革新が激突する時代だった。戦後の新憲法のもと、非武装中立に向かおうとするかの日本が、米ソ対立の渦中にあって、米国との接近を強め、戦前の人材を蘇らせ、軍事増強の道に進む、大きな岐路に立たされた時期でもあった。

 5月7日、山蔭は極東空軍司令部の歴史課員スチュアート・グリフィンとともに、硫黄島に飛んだ。彼は、ジープで山蔭に同行し、その最期を見届けた人物である。
 以下は、この米軍人が記した毎日新聞記事(5月10日付)による。

 そのトップ記事の見出しは「太平洋への〝死の跳躍〟」摺鉢山で硫黄島生き残りの山蔭君」「探す〝四年の洞窟日記〟」「ナゾ解けぬ彼の死」というものだった。

 帰国を控えた8日朝、山蔭は海に面した高地の摺鉢山へ写真を撮るために登った。ただひとり、目撃したグリフィンの発言を記事から見ておこう。
 「山際君が飛び降りたのは摺鉢山旧噴火口から約90メートル離れた地点であった。山蔭君は突然両手をさしあげ『バンザイ』と叫びながら狭いがけの突出部から身を躍らせた。そのため落下する姿はマザマザと目撃された。険しいがけの中腹に同君の身体が最初に激突したとき、火山灰がもうもうと舞い上がった。もち論即死だったろうが、その身体は何度もがけの突出部にぶつかりゴロゴロと転がりながら、落ち込んで行った。午前10時半ごろだったろう。」 

 なにが、そうさせたか グリフィンは、彼の自殺の動機として耳にしたとして、職に就けないこと、メンツの失墜への恐れ、日記探しが叶わなかったこと、自分ひとりが生き残った罪悪感、海軍魂の壊滅、などをあげるとともに、日本に住むよりも島に朽ち果てよう、との見方もあった、と述べている。
 そして、生前の会話で、山蔭が「この島には陸戦隊七千人を含む二万三千の部隊がいたが、助かったのは私のほかに百五十八人しかいませんよ。そう思うとつらい」と語っていた、と漏らしている。

 5月14日付の毎日新聞は「死はすでに覚悟」「残された遺書と記録」という見出しのトップ記事で、
 『遺書 私が今度硫黄島に行くについて大野(利彦)さんへ万一の場合を思いお願いしておきます。どうせ私が無事帰れない時は現在私の書いている原稿を出版していただきたいと思うのです。―中略― もしぼくが帰らない場合、せめて一人の母親への最後の孝行として、そのお金を母親のところへ送ってもらいたいのです。また私の持物も私が死んだら母親のもとへ送ってください ―後略―』

 山蔭光福の遺骨は13日、立川空港にもどった。戦前戦後通じて4年4ヵ月ほどの島での日々、帰国後2年3ヵ月ほどの日本での生活。19歳の青年兵士は、26歳での自死を選んだ。
 江東区の寄宿先に上記の内容を書き残し、10日間帰らなかったら、硫黄島での上官だった大野に渡すよう言い置いていた。遺骨を引き取りに上京したのは実兄の本美で、彼の手に、遺骨と原稿が渡された。後述する山蔭喜久治さんは、本美の長男である。
 母親のハルは「何で死んだのか判りません」といい、上官だった大野は「身を投げた気持はあの恐ろしい戦争を体験したものだけが判るのではないでしょうか。私でも摺鉢山に登ったら飛びこまないという自信はもてない」と話している。

 波紋 強烈な印象を社会に投じたのだろう、様々な動きが生まれた。

◆和智恒蔵師の行動 元硫黄島警備隊司令官(海軍大佐)だった和智恒蔵は、山蔭の死のあと、かねてから要請していた遺骨収集の願いが米軍総司令部に認められた。多数の部下を亡くすことになった和智は、終戦の年の11月仏門に帰依、以来3回の渡島願いを出したが、果たせないでいた。山蔭の自死の2ヵ月後、米軍から明るい可能性が伝えられ、翌年1月に慰霊と遺骨収集の旅が実現している(和智恒蔵『硫黄島洞窟日誌』)。山蔭の思いが通じたかの措置だった。

◆当時の報道から このころから、南海の孤島で全滅状態だった兵士らの実態が紙面に多く出始めた。それまで多かった記事は海外からの引き揚げの話題だったが、このころから「遺骨」が注目されることになった。

▽「アナタハン島で飢える22名」「家族が‶救って〟と切な訴え」 この兵士らは終戦1年以上前に徴用船でトラック島に向かう途中、米軍の空襲でこの島に漂着したものだ。終戦から6年近く経った昭和26年5月15日付毎日新聞の記事である。

▽「‶南海の生存者〟引取りへ」「孤島、密林に数千?」「野ざらしの遺骨も収容」の記事は、同年9月10日の朝日新聞で、戦没者の遺骨は中国、東南アジア、太平洋諸島などに陸軍約60万柱、海軍約30万柱あり、帰還した遺骨は約50万柱、と引揚援護庁は見る。さらに、「古今東西の戦史によれば、戦のあと、敗戦国は必ず戦場で自国兵士の遺骨を集めているというが、日本は遺骨だけでなく、捕虜ではない数多くの外地残存兵を抱えている」と指摘する。

 この記事の直前の8日、日本はサンフランシスコ講和会議で、日米安保条約を結び、対日平和条約によって独立を確保した。戦前に猛威を振るった旧特高警察関係336人が追放解除されている。多くの遺族の悲しみを残し、その決着もつけず、「戦後」がなお継続するなか、新たな再軍備が進められるという、まさに体制がガラリと切り替えられる瞬間だった。
 その講和条約の最終宣言には「戦死者の墳墓について必要とされる協定を連合国と協議」することになっていたが、これもどこかに忘れ去られた。

▽「一変した孤島の姿」「硫黄島の現実を見る」 前述した和智恒蔵師の硫黄島での慰霊祭と遺骨調査に同行した朝日新聞記者の記事は、昭和27年1月31日紙面に、白骨をはじめテント、シャツ、飯盒などが散乱する大きな写真とともに掲載された。「目のとゞく限りでは遺骨の発見は不可能だった。だが、出口を閉ざされたほら穴の奥、生長の早いネム林の地下、移動の激しい砂地の底に埋もれている遺骨の数は想像に余りがあった」。島には2万柱(復員局調べ)があるという。

▽「硫黄島の遺品を遺族へ」「米副領事から委託」「従軍中、集めた卅二点」 かつて硫黄島で海兵隊情報部にいて、福岡の副領事を務めるJ・O・ザヘーレンが、遺言状、家族の写真、便り、慰問文など32点を朝日新聞に届けた(同27年2月1日付)。「投降者は戦いの最中にニ百人。その後ニ、三ヵ月に約一千五百人だと記憶している」。そして3日付の記事では、飯盒と「軍隊内務令」が2遺族の手に戻った。
 また「声」欄には、神奈川県の主婦が「骨を拾うことも、供養するのもいいでしょうが、第二、第三の硫黄島を再現させないことこそ最大の供養になると思います」と投稿していた。

◆『海軍学徒兵、硫黄島に死す』 筆者も現役記者時代に知る、大先輩格の読売新聞政治記者だった多田実の著作(講談社)だ。多田も、硫黄島に徴兵され、九死に一生を得たひとりだ。「十九年六月からの硫黄島作戦に直接間接参加した海軍学徒出身士官の総数約四百名、そのうち最終戦闘に参加した者のほとんど百八十三名がこの戦いで死んだ」。
 また、山蔭の上官で、彼の死の直前に遺書などを届けるよう依頼していた大野利彦も予備学生出身で、わずかに生き残った一人だった。

◆『硫黄島―極限の戦場に刻まれた日本人の魂』 平成12(2000)年3月、この島で日米合同の慰霊追悼式が行われ、沖縄の海兵隊員200人も参加した。硫黄島戦55周年だった。同6年には、天皇皇后も来島、「精魂を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき」と詠んだ。その翌年に武市銀治郎が書いたのがこの書だ(大村書店)。
 硫黄島関連の出版は多い。『白骨の島』(萩原頴雄・蒼樹社)、『硫黄島に死す』(城山三郎、新潮社)、『硫黄島いまだ玉砕せず』(上坂冬子、文春)などだけを挙げておこう。ただ、テーマや主題はさまざまだ。

◆芥川賞と映画化 終戦直前にごく短期間、見習士官になり、読売新聞記者から小説家になった菊村至は、この山蔭の去就を題材に『硫黄島』を書いて芥川賞(1957年)をとり、59年には宇野重吉の監督で映画化されている。ここでは、小説に描かれた「死」の推理には触れない。

 硫黄島とは ところで、硫黄島の戦いの持つ意味はなにか。
 父島、母島などの島しょから成る東京都小笠原村にある硫黄島だが、海空の基地のみで一般人は入島できない。東京から1,200キロほど、東西8キロ、南北4キロの孤島で、戦前には1,000人を超す入植者たちが硫黄の採取、サトウキビなどの栽培、近海漁業などを営んでいた。
 太平洋戦争が始まると、この島の空軍などの基地としての戦略的な意義が高まる。開戦の1941年末から1年足らずは、日本軍の勝利が続くが、その後はミッドウェー海戦の敗北、ガダルカナル島の敗退、アッツ島玉砕、マリアナ沖海戦惨敗、サイパン島、グアム島玉砕、レイテ沖海戦敗退など、次第に本土に迫られる戦況が続く。
 敗色強まる中で、45年2-3月に硫黄島の命運が決まる。米軍の狙いは、この島を制圧すれば、B29戦闘機の日本本土襲撃に好ポジションが得られる。日本軍は飛行機、船舶の激減する中で、島への人的補充のみに力を入れている。

 日米双方の犠牲は いろいろな数字が示されているのは、どの戦争の場合でも同じだが、ここでは先述した武市銀治郎『硫黄島』(平成13年刊)を使わせてもらう。

         日本軍           米 軍
 ―――― ―――――――――――   ――――――――――――
  戦死   陸軍 12,723     海兵隊  5,929
       海軍  7,406     海軍     881
                     陸軍       9
       計  20,129      計   6,821

  戦傷   陸軍    726     海兵隊 19,920
       海軍    297     海軍   1,917
                     陸軍      28
       計   1,023     計   21,865
      ―――――――――――   ――――――――――――
      合計  21,152     合計  28,686
           (計、合計の数字が合わないが、ママとする)

 この数字から見えてくるのは、日本軍は人間の生命を投入して戦闘に臨んでおり、物量において圧倒的に優位に立った米軍を相当に脅かしていることだ。だが、冷静になって考えれば、これほどの犠牲を払って戦う意味がどこにあったのか、という疑問が消えない。
 
 両軍の戦闘力を比較しても、日本海軍の砲は23門、米側は168門、日本の特攻機延べ約75機に対して、米側は戦闘機等が延べ4,000機以上、また日本は艦砲の支援なく、米側は1万4,250トンだった、としている。日本の主力は地上の大砲と人間で、海空の軍事力はほとんどなく、米側の艦砲射撃と空爆にかなうはずもなかった。
 兵力は米軍が6万以上を投入し、日本は島への接近も難しく2万3,000ほどだったが、その96%がこの島で失っている。

 硫黄島昨今―遺骨収容と放置は半々 硫黄島の遺骨は、厚労省によると、1万410柱が収容され、未収用は1万1,500体ほど。硫黄島は68年に米国から復帰、分厚く築かれた滑走路周辺を、地中探査レーダーで地下4メートルの遺骨、地下10メートルの地下壕(空洞)を求めて調べたが、遺骨は地下壕跡から2体が見つかっただけ。地熱が高く、火山性ガスが出るなど、作業も大変だったという。
 硫黄島の遺骨収集の関係省庁会議が2013年に、この収用を政府一体で取り組むとしたが、遅々として進まない。また、2016年に戦没者遺骨収集推進法ができたが、すでに70年を超してやっと、である。それも、制度は作るが、対応はついてきていない。

 戦後70余年経って、時代とともに忘れられていくことを待つかのような取り組み。徴兵制度のもと、半ば強制的に国家の命令を受けて、過酷な戦地で死ぬ。果たして国家は最低の責任を果たしてきたか。トランプ大統領は(でさえ、とは言わないが)最近、敵対の長引く北朝鮮に米兵の遺骨返還を求め、ごく一部を実現させたが、日本政府は平和な関係にある諸外国からの遺骨の引き揚げにどれほどのこだわりを持ち続けて取り組んでいるのか。日本は権力与党や官僚機構を中心に、国家の命令で命を落とした者に対する思いが希薄に過ぎるのではないか。「国家」を重視するわりに、諸外国に比べて、戦争犠牲者への思いは鈍く、放置しすぎているのではないか。

 ちなみに、海外を中心にまだ113万体の遺骨があるといわれる。「国家の責任」にやさしい国民。それに甘える国家・政府。戦争責任を感じるかの天皇夫妻の戦闘地への行脚も、「平成」が幕を下ろすとともに間もなく終わるのだろうか。
 フィリピンとの遺骨収集は8年ぶりに再開が、18年5月に合意された。ここでも、日本人戦没者240万のうちフィリピンでは約37万人の遺骨が未収集、という。いろいろの障壁はあろうが、70年余の歳月を経たいま、まだこのレベルの取り組みだ。

 そうした中で、2018年3月、硫黄島の生き残りだった秋草鶴次が90歳の生涯を終えた。戦闘では命こそ残したが、3本の指を失い、太ももを砲弾片が貫通した。秋草は、山蔭とほぼ同世代で、同じ戦争の苦しさの中に身を置いていた。『十七歳の硫黄島』(文春)を書き残し、各地で戦争の非と虚しさを話し続けた。

 その一方で今、硫黄島には固定式の警戒管制レーダーが整備され、2020年には中国軍の空母進出を監視するという。約5億円が予算化された。また、総額4,664億円といわれる陸上配備型迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」2基の配備が具体化しようとしている。中国やロシアは、米国追従の形で軍備を強化する日本に、警戒と対決意識を見せ始めている。
 地中に眠らせられた遺骨は、この新たな軍事的な進展をどう見るのか。70年間の時代の変化、長期的な外交よりも短期の軍事化、の姿を受け入れるのか。

 山蔭家を訪ねて 山蔭光福が生きていれば93歳。出身の岩手県花巻市を訪ねた。彼の生まれた昔からの湯本温泉から近いところに、畑に囲まれた静かな一軒があった。
 甥にあたる山蔭喜久治さんがいた。「叔父さんが帰国したのは3歳のときだったから、何も覚えていない」と言いつつ、位牌を見せてくれて、除籍謄本を取り寄せてくれた。たしかに、当時の話については進むことはなかった。ただ、仏壇に日夜線香をあげる雰囲気には、何か叔父を連想するかの静かな気配があった。
 喜久治さんは、派手な大型のサイドカーを持つ。これが、生き甲斐のように思えた。記憶にない叔父との時代、年代の開きが際立ち、日本の70年間の変動の大きさを思わせた。

 岩手県は、戦争への人的供給源だった。戦前の農業主体の経済基盤は、大家族の生計を維持しきれず、軍隊は二男、三男たちのいい就職先であり、糊口をしのぐ場でもあった。
 この湯本(元稗貫郡湯本村)は明治以来、西南の役の従軍6、八甲田山雪中行軍の遭難1、日清戦争従軍13、日露戦争従軍120・戦没11、第1次大戦従軍118・戦没9、さらに満州事変から太平洋戦争までの戦没は陸軍162・海軍26・軍属7・看護婦と学徒各1、と犠牲者も相当数にのぼる(角川地名大辞典)。
 光福の横須賀軍務時代には、同郷の一等兵がおり、硫黄島の空爆激化のころには隣村出身の一等兵がいた。地元出身の菊池武雄は終戦直前にマニラで戦死した。

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 戦争の記憶は次第に薄れる。そして、忘れたころに新たな戦争の準備――対外的な差別や嫌悪の情があおられ、あるいはもっともらしい理由づけによる軍事費の増大などが進められる。和平の維持高揚への外交努力が薄れていく。
 状況は異なるが、山蔭光福のような哀しみが再生産される土壌が生まれてくる。硫黄島のみならず、外地に眠るあの無数の遺骨は放置されたままで、国家は「徴兵制度」「国民皆兵」の政策を押し付けてきながら、その遺骨の収集・帰還の労を積極化させ、優先させる気配は乏しい。

 兵士たち戦死者の霊だけは、いわば政府の手で形式的、強制的に靖国神社に祀られる。戦争遂行の責任者と一緒に祀り、その矛盾をも気付かずに、権力を握る政治家たちは年に2、3回、賑々しく靖国神社の舞台に姿を見せる。批判されれば、ごくわずかな真榊(まさかき)、玉串料をポケットマネーだと言って奉納する。
 それはそれとしても、遺族たちの思いは御霊(みたま)だけにあるのではない。本人の帰還が望めないなら、せめて身近な思いをとどめる遺骨にこそ触れたいのだ。
 形式的な御霊祀りか、肉親のせめてもの思いを遂げる遺骨の確保か。そこに、政府・政治家など権力者の、戦争犠牲者への認識の誤りがある。

 戦争というものへの国家の責任と義務について一過性にしか考えない。犠牲者周辺に残された悲しみの深さを知ること、そのせめてもの安らぎのためになすべき任務を果たすこと、ひいては戦争を「悪」とし、ふたたび引き起こさない大きな視点から常に取り組むこと・・・・・そのような基軸は持てないものか。

 山蔭光福という一兵士が巻き込まれ、思いもよらない生還と死は、多くのことを今の70年後に語り掛けている。

 (元朝日新聞政治部長)

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