【書評】

『戦場の漂流者―千二百分の一の二等兵』

   <語り>半田 正夫  <著>稲垣 尚友
羽原 清雅

 戦場を語るのは半田正夫さん(1922-2014)で、語りを文字化しつつコメントを記すのは籠屋職人、籠屋新聞社主にして作家の稲垣尚友さん(1942-)。<以下敬称略>
  【弦書房=福岡市中央区大名2‐2‐43/1800円+税】
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 舞台は鹿児島県十島(トシマ)村。かつてはジットウソンと呼んだ。と言ってもわかりにくいが、吐噶喇(トカラ)列島の有人島7、無人島5から成る700人に満たない小村である。
 鹿児島を経て屋久島・種子島と奄美群島の間に点在する島々で、南北7つの有人島を結ぶその距離は160キロ、北端の口之島から鹿児島まで200キロ、南端の宝島から奄美大島まで90キロ。
 島々を結ぶのは船のみで、週2、3便のみ。役場はなんと鹿児島市に置かれる。役場職員の多くは「鹿児島市民」で、村の選挙権はない。火山、温泉、サンゴ礁の島である。4つの島に「御岳」があるが、その呼称は島によって「みたけ」「おんたけ」「おたけ」と違う。大和と琉球の両文化をとどめる個性豊かな土地柄だ。1946-52年まで、日本から切り離されて米国の統治下におかれた。ただ、そんな面影はなく、その歴史は知る人も少なくなった。

 この二人を結ぶのは、この吐噶喇の居住経験から、と言っていいだろう。この本の主題は、島の生活ではない。「戦争」である。だが、この珍しい島が、ふたりの精神の結節点として、この書を生んだのだから、まずは島の紹介をせざるを得ない。時間にゆとりがあれば、この各島停泊の航路をたどるか、定期便の来る間の週に1、2泊するかしたら、この本にさらなる味わいを増すこと間違いなしだ。
 
 *半田の生い立ち 半田は福岡県太宰府の生まれ。幼くして母親を亡くし、外国航路の父親にはじめて会った記憶は小学校2年生の時で、その再婚を機に父親の郷里与論島に住むことになる。与論島は、奄美群島の最南端にあり沖縄に最も近い島だ。自然の中の日常に学んだ生活の知恵が、のちの戦場での命を長らえる秘訣になる。いろいろな本を読み、吸収の早い賢い子どもだった。
 高等小学校2年の時、学ぶには都会だ、という父親の方針で神戸に出た。だが、学校を選ばず、エボナイト工場に就職して青年学校に学んだ。

 徴兵令が届いたのは、終戦も近い1944年5月、山口県柳井での陸軍の船舶工兵だった。21歳の直前。出兵は9月末、佐世保から津山丸で台湾へ、さらにフィリピンに向かう途中、米潜水艦からの魚雷で沈没させられ、3,500人の兵隊が海に呑まれた。半田は板にしがみついたが、何十人もつかまったものの次々に波にさらわれていった。海中の3日間は飢餓と疲労に苦しめられた。大きな板につかまって生き延びたのはわずか3人。
 さいわい海軍の駆逐艦に救われ、小さい輸送船に移されたが、その船がまたも魚雷にやられる。救命ボートには将校のみが乗り、兵隊は乗せなかった。だが、そのボートから流されたオールにしがみつくことができた。5時間半ほどで、またも駆逐艦に救われ、また別の船に移された。そして、ルソン島に着いた。最初の津山丸に乗せられた3,500人は160人に減っていた。

 43年後の1988年、テレビで偶然当時の分隊長の映像を見かけて連絡した。「お前、生きとったかあ? もう、おまえが、ひとりや。お前は千二百分の一や」と言われた。柳井入営の同期兵は160余人、同時に一緒になった兵隊が1,200人だったことで、本の表題に生かされることになった。

 *軍隊生活 半田にとっての軍隊は終戦までの1年余と長くはない。彼の語りからすると、戦闘への参加の様子よりも、身内的組織である軍隊生活に触れた点に個性が見える。
 彼が普通の兵隊同様に、国家のため、天皇のため、との意識だった点では変わっていない。徴兵以来、山口県柳井にいたころは月に7円ほどの給料が出たが、外地に向かってからは一切の手当がなくなった。肩書も、新兵を送り出せなくなった終戦間際だったので、「二等兵」のままでの復員だった。軍組織の末端のままだったのだ。

 軍隊組織をクールというか、冷めた目で見ているようだ。もちろん、終戦後長い歳月を経てからの印象だが、それにしても当時の軍隊というものの仕組みへの反発はそれほど強くはなく、かといって当時を懐かしむ風もなく、冷静に事実を述べている。「抗わない日本人」の特性のようにも思える。いくつか、そのようなことに触れておこう。

 フィリピン総司令官だった山下奉文の宿舎から撤退の荷物を運び出す作業を命じられたときのこと。ビールなどとともに、軍票に替えるかたちで巻き上げた大量の銀貨の入ったカマスがあった。彼は銀貨3個を記念に、と頂戴したものの、終戦後に地元民に見つかれば大変、とばかりに捨てた、という。
 また、海軍航空隊の、山積みされた食糧の監視に動員されたときのこと。そこの砂地が台風に見舞われ、砂が巻き上げられた。その跡地から空き缶がザクザクと出てきた。腹をすかした歩哨の兵らが食べては砂の下に埋めていたことが分かった。
 腹が減ってどうしようもない状況下にあって、月給も出ないので、手持ちの品で現地の人から食べ物を入手するしかない。袋に入った歯磨き粉があった。これを腹痛の薬だと偽り、現地の人に手まねで知らせて、黒砂糖3個に替えた。すると、フィリピン人は「よく効いた」と言って、今度は10個と替えることができた、という。

 *死の行軍 軍隊の馬鹿々々しさを淡々と語る。食べ物はなく、体力が落ち、ただ眠いだけの行軍。ルソン島の北端から移動する。ビルマのインパール作戦に参加するためだという。
 鉄砲を担ぎ、夜の出発。「(隊列の)先頭が学校の校門に入っとる。皆眠くてかなわんから、歩きながら寝とるわけです。何日か、ぶっ通しで歩いとるから眠たくてかなわん。・・・夜が明けてみたら、学校の中だった。何と、ひと晩、グリグリ、グリグリ、校庭の中を廻って・・・。あんなことがあるもんですよ。兵隊が次々に倒れていく。倒れたヤツはそのままですよ。どうしようもないんじゃから。前進、前進で、前進あるのみやっで。死んでいく兵隊の身につけているもので、使えるものがあれば、それを剥がし取るように命令されとる。・・・取られる方も、観念しとるから、何も言わんが、飯盒だけは手放そうとしない兵が居った。死ぬと分かっていても、生きている間は、飯を炊いて食うという本能で、空の飯盒を抱えて離さない姿はいまでも忘れられん」

 *収容所の1年半 終戦、については比較的早く耳にして、ルソン島の米軍キャンプに収容された。捕虜は13万余。携帯、即食可能なパンを常食とする米軍と、炊く準備から水と火、それに時間と手間を要する米食の日本軍。蝿一匹でもいれば噴霧器で殺虫剤散布する米軍。木綿に油を塗って防水したテントの日本軍に対して、薄いビニールシートをボタンで留めればいいだけの米軍の装備。火種を絶やさないよう夜中付き合う日本軍と、擦ればどこででも火を持てる米軍・・・・両軍の格差に、改めて驚くのだった。

 引揚げは1946(昭和21)年12月30日、名古屋に上陸した。満24歳。
 その後の足取りはくわしくはわからない。幼児期を過ごした与論島の経験があってか、トカラでもっとも人口の多い中之島に住み着いた。40歳半ばで開拓農家組合の先頭に立ってサトウキビ栽培に力を入れていた。また、1960年から十島村の村会議員を5期務めている。

 筆者(羽原)は、半田老に2度、電話で話を聞いたことがある。と言うのは、九州在勤9年の間にトカラに行く時間が取れず、退職後にこの特異な環境の島の村落について書こうと思いたった。
 その際に、この本を作り上げた著者をわずかに知っていたことから、半田老を紹介してもらい、長電話をしたのだった。そのときの原稿は「トカラ・十島村の『格差』と地域の政治」(帝京大学文学部社会学科紀要「帝京社会学」所載)となった。

 *半田老の軍隊 半田の語る雰囲気は、戦時から時間を経ているためか、明るく穏やかだ。死んだ兵隊の肉を食べた、という当時聞いた話も淡々としている。敵・米軍との戦いではなく、厳しい自然、衣食住の確保、自分の心の持ちよう、が日常最大の闘いであり、あるいはむしろ軍隊という組織の矛盾、上司の無茶な命令、あるいは情報の過疎、などとの格闘こそが「戦争」だった、と印象付ける。同時に、彼は生き延びることは、気力、負けん気、それに「運」なのだ、という。

 全体として、戦争というもののむなしさが残る。殺し合う現実は目の前にあるが、それがなぜ、なんのために行われるのか、おのれがその場面を負わざるを得ない背景はなにか・・・・といったことを語っていないことが、かえってむなしい戦争の実態を浮き彫りにしている。
 学問や知識ではない。エスカレーター式の便利な日常とはほど遠い。組織というものへの「依存」や、便利という「物」に囲まれた生い立ちではなく、島という自然の中で身につけた経験的な知恵と判断、そして体力の「個」のエネルギーで生きる強さのようなものを、半田は言外に語っているようだ。そこでも、戦争のむなしさが示されている。

 *稲垣尚友なる人物像 ところで、半田老の話を引き出した著者もまた、きわめて個性的な半生を歩んでいる。10冊以上の著書を持つ作家業だが、本業は竹細工の籠職人という。また、「籠屋新聞」社主として、手書きコピーの20ページほどの小新聞を作る。現時点では400部、2021年2月に44号を発行している。「紙代、切手、カンパ大歓迎」とうたう。
 この号には、茨城・笠間市で、竹細工の材料になるチョコレート色の煤(すす)竹を手に入れようと、真っ黒になって陋屋解体に取り組み、煤まみれになった写真が掲載されている。中学1年生の時に押入れを改造して個室を作り、それを知った小鳥屋主人に鳥小屋つくりを頼まれた際には、大工道具の「差し金」の便利さに感嘆した。30歳半ばに、熊本は球磨盆地で修行、竹細工を生業として暮らし始めた、とある。

 「なんで、竹職人に?」との疑問には、ご本人がこの号に記しているので、そのまま紹介しよう。

 「わたしは22歳になるまでは東京の大学(註:国際基督教大学)に通っていた。ひたすら学内の図書館に通い、外交官試験に備えていたのである。若くして他界した父親が外交官であったというだけの理由で、自分もその道を歩もうと考えていたに過ぎない。しかし、こころざしらしきものを持っていたわけではないから、試験勉強に熱が入ることはなかった。

 ある早春の夜、武蔵野の広いキャンパスは深い森に包まれていて、闇の向うから春を告げる夜風が全身に軟らかく吹きつける。館内のくぐもった空気から解放された直後だけに、気持ちまでがほぐれていく。
 そのときであった。背後から軟音楽バンドの演奏が流れてきた。・・・・流れてくる曲はレイ・チャールズの「愛さずにはいられない」であった。
 レイ・チャールズ特有の太くて甘い歌声が、次第に遠ざかっていくと、フッと何か鬱屈した感情が身体の奥底から吹き出してきた。その瞬間、わたしはサドルから腰を浮かして、ハンドルを握る腕は硬直し、あらん限りの力でペダルを踏んだ。すべての鬱屈を吹き飛ばしたいと思ったのか、猛スピードで闇を突き抜けて行った。

 わたしは図書館通いをあっさり止めた。何をすればいいのか分からない不安を抱いたまま、学校も辞める。さしあたって、自分がしたくないと思ったものには手を出さないことにした。素直な気持ちになれたのは、歩いているときだった。ひたすら歩いた。
 市街地よりも脇道へ好んで入っていった。何日も歩いた。一日に四十キロ歩いたことも稀ではない。後戻りする考えはなかった。初めのうちは背中に自炊用具を負っていたが、いくらもしないで、着替えのシャツ類だけを持ち歩いた。路銀は道々で稼ぐことにした。車に乗ったり、列車に乗ったりすることも考えない。無我夢中で歩けば、頭の中が空っぽになり、何も考え迷わないで時間を潰せる、と期待したのである。それほど、先行きが見えない不安に駆られて、愚にもつかない考えが頭の中で空回りしていた。

 ただ、道々で出会った人たちと会話するとき、気持ちが不思議に落ち着くのだった。
 出会う人とは、野良で働く農夫であったり、路傍で遊んでいる子どもであったり、小銭稼ぎで働いた現場の人夫であったりした。

 そんな人たちの声には、真正な何かが潜んでいるように思えたのだ。当りまえのことであるが、図書館でにらめっこしていた文字群のなかからは見つけ出せない何かがあった。わたしは短兵急にも『そうだ、文字から一番遠い世界に身を置こう』と決める。そうした考えの延長上に南の島があり、中之島の製糖工場があった。」

 *二人の出会い 稲垣25歳直前、この工場で路銀稼ぎをしている際、半田がキビを持ち込み、短い会話を交わしているが、ゆっくり話したことはない、という。
 だが、40年後のある日突然に、関東の山村で竹カゴを編んで暮らしを立てていた稲垣に、電話がかかってきた。稲垣の友人で、島でペンションを開いたオーナーが、半田と話をする中で稲垣が話題にのぼり、久々の島言葉を聴くことになった。

 話好きの半田は、自分の半生記を語ることがあり、稲垣に伝えたかったのだろう。「文字の世界から遠く離れたかった」稲垣もまた、そのころには「島の人と文字を共有したい」との思いがあった。それが、この本の誕生の契機になった。それから数年間、年に1、2度島に渡って半田の話を聞いた。同じ場面の話が出ても、その細部の内容、語句などは変わらず、作り話では生まれない迫力があり、稲垣は「この人は間違いない。自身の体に刻んだ記憶だ」と確信する。

 *流浪の日々 あとさきになるが、大学を去り、各地を転々とひたすらに歩く。九州、尾瀬、新潟、名古屋から関西を経て鹿児島、奄美大島、京都・・・。旅先での日銭仕事、トラック同乗、安宿、野宿、見知らぬ人からのカンパなどなど。そして、東京五輪のあった1964(昭和39)年11月、魅せられた沖縄へ、翌年にもう一度。

 大阪でのある日、雑誌「言語生活」の戸塚文子が、地名の意味を解くには小字(こあざ)名までの地名辞典がほしい、と述べていることに触発され、「小字名を採集して南の島々を歩こう」と思い立つ。このひらめきは、点々の旅の「大義」を見つける思いだったのだろう。

 66年7月、奄美群島の加計呂麻島、予路島、請島での小字名の調査に取りかかった。35日間の成果をもって東京に戻り、10月末には「加計呂麻島、予路島、及び、請島の地名」と題する64頁のガリ版刷りの初出版を果たした。67年1月から、南の口之島、中之島、諏訪之瀬島と短期間ずつ順次渡って調べていく。島の言葉は難解、独特だ。そのうえ悪天候の日が多く、切り立って港らしい港もない時代で、島は人々を寄せ付けない。本船からはごく短距離ながらハシケで人、物を運び上げる。この作業は各島とも、老若男女総がかりの大仕事だった。

 ついで、奄美からの戻り船で平島、次いで臥蛇島に。臥蛇島は、戦前には100人以上いたが、この当時おとな16人、子ども18人、分校教員3人の小島になっており、1970年にはついに全住民泣く泣く島を離れて無人島になった。典型的な人口減少の事例だった。

 ところで、稲垣はこの臥蛇島に3ヵ月ほど住み着き、5回ほど出かけていた。さらに、隣の平島には家族との住民票を移して4年ほど在住、含めて10年ほど通い続けた。いわば、準シマンチュウの生活だった。「人体(人間)がおらんで、オイドンなんど、いくつになっても楽がでけんど」と言われている。
 いったん帰京して、67年末に「十島村の地名と民俗」を刊行する。出版というと恰好はつくが、これも自らのガリ版刷りで袋綴じにした厚さ2センチ、全53冊である。内容はよく見ておらず恐縮だが、それでもこのエネルギーがすごい。

 彼のトカラへの思いを連ねるときりがない。主な著書を挙げておこう。時折、古書店のネットに登場することがある。『臥蛇島金銭入出簿』『臥蛇部落規定』『種子島遭難記―悪石島・坂元新熊談』(以上はガリ版本)『山羊と焼酎』『棄民列島』『十七年目のトカラ・平島』『埋み火』『地図から落ちた島へ―稲垣尚友作品集第1巻』など。

 このおふたりの生きようは、通常ではありえないにしても、日常の反省、振り返りというか、なにか示唆してくれる。そんな魅力を閉じ込めた書である。

 現在は千葉県鴨川市代623在住。<敬称略しました>

 (元朝日新聞政治部長)

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