【オルタの視点】

「俳句」まで殺された時代
―『共謀罪』の拡大解釈に不安はないのか

羽原 清雅


 『共謀罪』法案が成立した。
 特別秘密保護法、集団的自衛権の拡大解釈、個人情報保護法の行き過ぎた運用、そして「一強政権」による忖度行政と違法的特別優遇、さらに事実関係の隠蔽やごまかし答弁・・・・相次ぐ強引な制度つくりが進められている。そのあとに、改憲が待ち構える。
 そんな大きな転換期を押し付けられる中で、103歳の元衆院議員奥野誠亮氏が亡くなった。彼は戦前、鹿児島県の特高課長として「俳句」を理由に治安維持法違反で新聞記者らを検挙した実績がある。この事件を追ってみると、法律の解釈を自在に操れるところに『共謀罪』の将来的な不安が読み取れる。奥野氏は戦後の保守政界では、筋を通す政治家、とされた人物。だが、その過去をたどると、法律の便宜的運用を可能にすることによって、時代をUターンしかねない、新たなリスクを感じざるを得ない。しかも、「俳句」を狙った摘発は、各地で起こっていたのだ。  (以下、敬称略)

●きりしま事件● 季刊の俳句同人誌「きりしま」を発行していた「鹿児島日報」(現・南日本新聞)の社会部記者瀬戸口武則、政経部記者大坪白夢(実夫)、営業局員の面高散生(秀)が、10数人の同人とともに、治安維持法違反容疑で検挙された。記者のふたりは6ヵ月間もの勾留のあと起訴猶予となったが、編集発行人の面高は懲役2年・執行猶予4年の有罪判決を受けた。検挙数のわりに、有罪の数が少なく釈放や執行猶予が多かったのは、法律の運用が恣意的で、一般の市民に脅しをかける意味があったため、と言えるだろう。

 「きりしま」の摘発は、「反戦的、反軍的で階級的」との理由からだった。
 1943(昭和18)年6月のことで、ときの鹿児島県特別高等警察課長は奥野誠亮。30歳の新進の内務官僚で、41年5月、県の庶務課長として赴任、以来短期間に財務課長、官房主事、振興課長を経たあと、特高課長(43年1月~8月在任)として事件摘発の指揮を執った。前任の課長は、のちに参院議長になった原文兵衛だった。
 原の『私の履歴書』によると、1942年4月の翼賛選挙(東条英機政権)で、翼賛推薦の候補者の実質的な支援の「さい配を振るったのは振興課長の奥野誠亮君」で、この県庁ぐるみの翼賛運動には、もちろん原も参加していた。出世のために、時流と権力側になびき、信念もなく抑圧に動く。権力は強く、こうした姿は、いつの時代にも主流を占める。森友学園、加計学園問題に躍る内閣府や関係官庁の官僚群の動きは、時代を超えて象徴的だ。

 問題とされた大坪の句は《溶岩に苔古(ふ)り椿赤く咲く》というもの。<南国のツバキの見事な赤色を賛美した句は「共産主義の肯定だ」>とされた。また、面高の句は《われ等馬肉大いに喰ひ笠沙雨》で、<食糧難とはいえ軍馬を思わせ、たらふく食って戦争を嘲笑し「厭戦的だ」>といったこじつけの論理を押し付けた。
 瀬戸口は「(特高さんには)俳句や詩という文学がよくわかっていらっしゃらないよう」、大坪は「奥野誠亮氏―私は、この名を生涯忘れることはできない」としている(「言論弾圧の『きりしま』事件資料集」による)。
 治安維持法の文言は抽象的で、多様な解釈が許され、その運用は権力の思いのままに、思想統制、言論規制の狙いに使われた。そのことを考えると、今日動き出そうとする規定のあいまいな『共謀罪』立法もまた、今後どのように使われるかわからないという不安、不信が消えない。

●新興俳句狙い撃ち● 17文字の俳句は、字数が少ないだけに連想の範囲が広い。こじつければ、言いがかりをつけやすい。
 最初に狙われたのは川柳で、1937(昭和12)年12月、雑誌「川柳人」の同人たちが検挙された。川柳はシニカルの要素が強く、世相批判が多いこともあり、反戦的な傾向のあった《手と足をもいだ丸太にしてかへし》(鶴彬)などは特高たちの怒りにつながったのだろう。

 「きりしま」事件の前にも、いくつもの俳句をめぐる弾圧の事例があった。
 その弾圧はすでに1940(昭和15)年に始まり、43(同18)年末まで続いた。第一次「京大俳句」(井上白文地、平畑静塔、仁智栄坊、波止影夫ら)の手入れは40年2月で、その第二次(和田辺水楼、渡辺白泉ら)は同年5月、第三次は8月で、《塹壕に一つ認識票光る》の西東三鬼がいた。検挙されたのは計13人。
 「広場」(藤田初巳主宰)、「土上」(嶋田青峰)、「日本俳句」(平沢英一郎主宰)、「俳句生活」(栗林一石路主宰)は41年2月に、東京で一斉に計13人が検挙された。
 「山脈」(山口)は同年11月に、次いで「きりしま」(鹿児島)、「宇治山田鶏頭陣」(三重)が43年6月、「蠍座」(秋田)は同年12月に、それぞれ検挙の対象にされた。関係者は40人を超えたようだ。
 安倍政治を批判する金子兜太はそのころ、「土上」に属していた。《戦争をやめろと叫べない叫びをあげている舞台だ》と詠う同盟通信社会部長でプロレタリア俳句運動に取り組んだ栗林一石路、《あなたゐない戦勝の夜を嬰児は眠る》の波止影夫、《足袋の底記憶の獄を踏むごとし》の平畑静塔、《ラーゲリで君は政治部員ぼくは捕虜》の仁智栄坊。

 ところで、こうした検挙の弾圧はほとんど報道されることはなかった。陸海軍の軍事や外交の動向などの報道は軍規などで禁じられていたが、治安維持法事件での検挙関係の報道は1938年から、特高の組織を擁する内務省によって禁止されていたのだ。

 無季、自由律などの新興俳句は、従来の伝統的な俳句の世界を揺るがすもので、特高はそうした対立に便乗して、新興する動きの弾圧にとりかかった。新興俳句は「伝統を破壊する危険思想」という単純な思考から、芸術の世界にまで切り込む権力、弾圧の口実をどこまでも広げる警察力。言論の自由、表現の自由を謳歌できる今日、そのような無軌道を許した社会は想像しにくいだろうが、その種はいま蒔かれ、いつか芽を出し、惡の華を開くことがないとは言えないだろう。

 小堺昭三氏は『密告―昭和俳句弾圧事件』の著書で、当時の俳句界の状況を記しており、これをもとにおおまかに図式化するとわかりやすい。

 《伝統俳句=高浜虚子系・『ホトトギス』派・花鳥諷詠・有季定型・『東大俳句会』系・戦争賛美的》
 《新興俳句=河東碧梧洞ら・新聞『日本』俳句欄・自由律季題無用・『京大俳句』・反戦的生活俳句》

 全国に網を張った特高は、俳句界の状況を調べあげ、勢力の弱い新興俳句サイドの弾圧を図ったことがわかる。「そこまでやるか」という怖さがある。しかも、警察権力が目をつけると、徹底的に、また時間をかけて「弱み」を探っていることが、「きりしま事件」でもわかる。

●特高勢力の跳梁● 戦時下で政治的言動にとどまらず各種の動きを抑圧した根幹にあったのは治安維持法(1925年公布、28年改正)であり、その先鋒となったのが特高警察だった。当初のこの法律の狙いは、天皇制の護持、資本主義擁護にあり、これに逆らう共産党勢力の抑圧にあったが、次第に社会主義全般、自由主義的な言動、すべての反政府・反権力運動に広げられ、ついにはこじつけてでも異論を排する論拠の土台にされていった。

 この法律で、1928年以降に6万人が検挙され、6,000人が起訴された。獄死した人々は、終戦後になって命を落とした三木清らを含めて相当な数にのぼる。治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟によると、死者は1,700人近くになるという。
 予防拘禁、たらいまわしの留置、再検束、変節しない人物の終身拘禁、そして違法な逮捕や捜査、スパイや右翼の利用、非条理な理屈付け、非人道的で暴力的な拷問など、今日では信じられないような法律の規定を超えた弾圧策がとられていた。このような証言は枚挙にいとまがない。
 また、特高とは別に、軍部には憲兵の存在があり、終戦時には3万6,000の勢力を擁していた、と言われている。

 具体例を一つ紹介したい。
 筆者の恩師・井伊玄太郎早大教授の母方の伯父、つまり先生の母の長兄である西尾幸太郎は組合教会の伝道師、牧師で、若くして信仰の道に入り、鳥取教会の発展に寄与した人物。この教会の創立(1890・明治23年)に先立つ3年前には、玄太郎先生の父松蔵が(のちにこの教会の第4代の牧師)地元最初の鳥取英和女学校を貧窮のなかで開設している。
 この西尾牧師が1938(昭和13)年2月、伝道報国基督教大会で、「明治天皇の御製を誤誦した」として、大阪憲兵隊につかまったのだ。その直前、大内兵衛、有沢広巳、脇村義太郎、美濃部亮吉らの教授グループが左翼・労農派として摘発(第2次人民戦線検挙)を受けている。
 ちなみに、幸太郎の弟は西尾寿造で、近衛師団長のあと、日中戦争の第2軍司令官(陸軍中将)の任にあった時期で、その4月には教育総監に就任している。このような係累でありながら、特高は治安維持法違反として単なるミスに目を付けたのだった。

●特高歴ある戦後の国会議員● 戦後、特高たちは約5,000人が公職追放され、特高課配属の警察官は失職するが、朝鮮戦争のあおりで比較的早く社会に復活している。とくに内務省の高級官僚、あるいは都道府県警察の特高幹部を務めた官僚群はどんな責任をとったのだろうか。

 彼らの多くは追放解除されるのだが、戦後の社会に急速にカムバックしている。もともと東大卒など有能とされる人材が多く、保守政界、とくに自民党に入党して国会議員として活動した人々も相当な数にのぼる。柳河瀬精著『告発―戦後の特高官僚―反動潮流の源泉』によると、54人もいたという。
 奥野誠亮もそのひとりで、国土庁長官、法相、文相として3回入閣している。

 比較的著名な人物をあげておこう。閣僚になったものも多く、また現職の高村正彦自民党副総裁、奥野誠亮の子息、原文兵衛の女婿などを含め、二世議員を生んだケースも少なくない。森喜朗は今松治郎の秘書から政界入りしている。

 大久保留次郎、増田甲子七、大村清一、西村直己、町村金五、今松治郎、大麻唯男、田子一民、館林三喜男、富田健治、灘尾弘吉、丹羽喬四郎、古井喜実、山崎巌、吉江勝保、相川勝六、保岡武久、大達茂雄、後藤文夫、寺本広作、大坪保雄、岡崎英城、唐沢俊樹、纐纈弥三、亀山孝一、高村坂彦、増原恵吉、湯沢三千男、安井誠一郎、古屋亨、金井元彦、原文兵衛、河合武ら。

●組み込まれる翼賛体制● 昭和前期から戦争に向けた動きが強まり、1937(昭和12)年7月、近衛文麿第一次内閣のもとでの盧溝橋事件を機に日中戦争がはじまり、8月には国民精神総動員計画の実施要項が閣議決定、翌38年4月に国家総動員法が公布、勤労動員も開始、10月に国際連盟との協力関係終止が閣議決定され、11月に東亜新秩序建設の声明が出され、日独伊防共協定が成立した。39年7月、国民徴用令が公布、9月にはドイツのポーランド侵攻で第2次世界大戦が勃発した。

 このころから、政党の解体、聖戦貫徹議員連盟の結成や学問や思想などの弾圧が強化され、40年10月には大政翼賛会が結成された。中国での戦闘は思うにまかせず、戦線は仏印に向かい、さらには東条英機内閣の登場により対米英蘭の宣戦布告で太平洋戦争となる。
 国内は戦争一色。治安維持法とその関連法のもと、左翼関係者、リベラル志向の人物、国家の主張に沿わない学者、批判する市民らの弾圧が徹底的に進められた。
 一方で38年以降、「大日本陸軍従軍画家協会」「産業報国連盟」「従軍作家陸軍部隊の戦地取材」「落語家らの戦地慰問団」「皇国海員同盟」「農業報国連盟」「商業報国会」「大日本婦人会」「大日本青少年団」「興国交通労働連盟」など、あるいは5~10軒程度の隣組も全国的に設けられ、国民の各界各層にわたって戦争推進の体制が整えられていった。

 俳句の世界でも、内閣情報部により1940年12月、「日本俳句作家協会」(高浜虚子会長)が結成され、「伝統の尊重」「国民詩の達成」「俳句による時局化国民の教養」を果すべく、全国3,000人余の組織が生まれた。ホトトギス派が中心で、新興俳句派は除外された。
 すでに「京大俳句」の検挙が進められ、2ヵ月後には「広場」など同人誌4団体への理不尽な弾圧が始まろうとしていた。

●いまもある抑圧● さいたま市の公民館で2014年、《梅雨空に『九条守れ』の女性デモ》という俳句を公民館だよりに掲載することが拒否された。73歳の女性の作で、公民館の拒否の理由は「集団的自衛権で世論が割れており、一方の意見だけを載せることはできない」というものだった。
 民主社会では各種の異論が出るのは当然であり、公的機関が論議を回避しようとひとつの見解を排除していいものなのか。AがあればBもあり、そこにそれぞれの思考がある。ときにAが掲載され、別の機会にBも出ることが公正というものだろう。
 「忖度」であろうか。権力の威圧からか。この強い流れに乗ろう、とする動向が将来的な「怖さ」を招く。新興俳句事件の動きも、規定の緩い治安維持法のもと、特高の不当な権力行使のもと、さらにその風潮に従う流れのもとに、当事者の反論も許さず、理由にならない理由を押し付け、暴力装置を利かして異論的な思考を蹂躙してきた。

 このような風潮は、形を変えながらも、いつ再燃するかわからない。日本の精神風土には「長い物には巻かれろ」など、大勢に逆らわず、自分の考えを押さえがちになる傾向がある。これは、時代が変わりつつも、今なお持続しており、賛否を考え、おのれの意見をまとめ開陳することなく追随する傾向は否定できない。さらに、政治権力の「一強」ぶり、強引な逃げや論理、権力内の議論の無さ、そして野党勢力の脆弱ぶりがこのような傾向を助長する。
 いま共謀罪関係の立法や個人情報保護法、特別秘密保護法などの整備が次々に進められている。改憲の動きも強まる。戦前の特高活動とは別の形態で、言論や報道の自由が脅かされたり、政府が「文書がない」「疑問があるなら、その証拠は追及する野党が示せばいい」といった横着な欺瞞でうやむやになるよう時間を稼いだり、将来的な不安無しとはしない。それが怖い。
               ・・・・・・・・
 10年、20年後、どのような社会になっているのだろうか。
 そのとき、「なぜ、いまこのような事態なのか」と問われたら、その原因をこんな風に言わざるを得ないのか、と思う。

 *戦後70年を新憲法下に歩みながら、個人と社会との関係に未熟さもあって、結果的に日本の針路を曲げる政治が進められたこと
 *小選挙区の制度が民意を公正に反映せず、自民党政権に過大な議席をもたらして「一強」時代をつくり、政界に物言わぬ、迎合的な風潮をつくりだしたこと
 *国の外交力や民間の対外交流が弱まり、対外的に和平・融和基調への配慮よりも、軍事体制強化の政策が優先されたこと
 *民意を十分に反映しない政治に対して、投票率が大きく下がるなど、有権者の政治的社会的関心が薄れていったこと
 *メディア内の対立などにより、「社会正義」の視点が薄れ、社会的影響力を弱めたこと
 *スマホやツイッター、フェイスブックなど「短行文化」の流行で、物事を深く考えなくなり、また議論や討論の空気が薄れたこと
 *戦争の悲惨さや国家の横暴を体験した年代が去り、一般的に歴史観が薄れ、戦争回避は軍事強化で、といった主張が台頭したこと

 (元朝日新聞政治部長)

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