【本を読む】

『人生の塩』

  フランソワーズ・エリチヱ/著  井上たか子・石田久仁子訳

高沢 英子


 フランスでは、絵画や音楽の世界に限らず、哲学や、詩、小説の分野でも、独自の新しい思考回路によって、革新的で画期的な切り口で事物を捉えようと試みる作家がしばしば出現する。
 今回取り上げようと思うフランソワーズ・エリチヱもそのひとり、と云えるであろう。2012年フランスでベストセラーになったこの本〈 Le Sel de la vie 〉は、日本でも1年後の2013年に『人生の塩』というタイトルで邦訳されて明石書店から出版された。内容はある一人の友にあてた手紙というかたちをとっている。著者フランソワーズ・エリチヱは1933年生まれだから、もうそれほど若くはない。夫のマルク・オージェも人類学者で、娘がいる母親でもあるらしい。

 彼女は長年、気候条件その他非常に劣悪な西アフリカの元フランス植民地ブルキナファソで、綿密な現地調査を行うなど、粘り強いフィールドワークに携わり、人類学の分野で成果を上げ、新しい境地を切り拓いてきた。フランスでは構造主義の人類学者レヴィ=ストロースの優秀な後継者として、学問の分野で高く評価され、コレージュ・ド・フランスの教授として、後進の指導に当り、それととともに、社会問題にも積極的に関与し、エイズや生殖補助医療などにも進んで発言し、エイズ審議会会長も務めた。いわば思う存分仕事に生きてきた彼女だが、本の中でも次のように述べる。

 —私は確かに、日常的な煩わしさを免除された生き方してきたと思う。人生に奥行きを与え、日々の生活に類いまれな喜びの色彩を与えてくれる知的な問題提起を職業として実践する幸運に恵まれてきた—。と書き、さらに—楽しみながら仕事をしてきたし、今もそれをしている—とも述べている。

 とすれば、この著者は女としても類いまれな幸せ者ということになるけれども、彼女がその生涯の大部分を捧げた学究生活は、普通の女なら、しり込みしそうな厳しいものと想定されるだけに、このことばは決して表面的に受け止められない。

 訳者の紹介によれば、本書が刊行される10年前、2002年に彼女は7年がかりで書いた『男性的なもの/女性的なもの』なる2巻に及ぶ書物を出版したが、その第2巻は「序列を解体する」というテーマで「人間が思考し始めた原初から人間の思考を支配している男性優位の普遍性を明らかにし、その解体をもくろんだ」ものだという。

 訳者の井上たか子氏と石田久仁子氏は、まずこの本の邦訳を試みたものの、版権の問題で翻訳が実現せず、残念な思いを抱いておられるとのことである。
 もし邦訳が実現すれば、わが国でもジェンダー問題を考えるうえで、非常に有益な示唆を与えられるであろうと考えると、たしかに残念ではある。この本は手にしていないので、私はその内容についてとやかく言うことはできないが、機会があれば読んでみたいと願っている。彼女が研究者として人類学という道を選んだ理由は私にはわからないが、本書の中に次のような意味深長な謎を含んだ独白がある。

 —私には何も理解できなかった発表を聞いた後、クロード・レヴィ=ストロースからいきなり何か云うことはあるかと問われた日(昔のこと)、その場で死にたいと思った。誰に対してであれ同じような打撃は決して与えまいと誓う、—
 別なところではまたこんな打ち明け話もしている。
 —(シモーヌ・ド・ボーヴォワールの)『第二の性』を「女にしてはよく書けている」といった無神経な間抜け男に、われを忘れて、一言のもとにその男の無能さを思い知らせてやった—(実は原文ではシモーヌ・ド・ボーヴォワールの名は書いていない。日本の読者への訳者の心遣いであろう。独白調の文なので、なおさらボーヴォワールのこの著書が、いかに彼女やフランスの知識階級の女性に深甚な影響力を持って浸透しているかうかがえる)

 それはさておき、エリチヱがこの自称ファンタジーを書くきっかけとなったのは、彼女が30年来かかかりつけ医として敬愛しているパリのビティエ病院の内科病理科教授ですぐれた臨床医のジャン・シャルル・ピェット先生から送られた1枚の絵ハガキに添えた手紙だった。ざっと訳してみると、

 「折角のヴァカンスが1週間分盗み取られスコットランドってところに連れてこられました。この地では何ごとにつけても燃え上がるということはないが、噂通り天候不順がここでのエクササイズを厳しいものにして私たちを熱く鍛えるのは確か。周辺は静謐そのもの、万物が野性美に充ちております。友情を込めて ジャン」

 これを受け取ったエリチヱは、この「患者の為に、仕事のためにだけに生きているような途方もなく献身的で無分別なこともしかねない方で、いつも心身ともに疲れ切っていた」先生の「盗み取った」1週間という言葉に、こだわり思案する。「誰がなにを盗み取るのか。彼が世話になっている家族や身近な人々からわずかな休息を盗み取ったというのか、いやそうではなく、反対に、彼をとりまき、彼の心身をさいなむ人々、あの片時も心をはなれない仕事、あの数々の過酷な責務に彼自身が自らの人生を奪われるままにしているのではないのか。私たちが彼から彼の人生を盗み取っている。彼自身が自らの人生を盗み取っている。」と考え、自説を披露しようと、返事めいた語りで思いつくままに書き始めるが、その趣旨について、少し長くなるが、彼女自身、まえがきで書いていることばを、訳文をそのまま引用させていただく。

 「あなたは毎日、人生に豊かな味わいを与えてくれる「人生の塩」をないがしろにして生きておられる。いずれしても十分に果たせなかったという自責の念にかられるだけであれば、そこまでしていったい何になるというのだろうか、と。私は、まずは「人生の塩」の重要なポイントになりそうなものをいくつか書き出してみたが、直ぐにこのゲーム、に夢中になり、そのうち私自身の「人生の塩」であるもの、そうなったもの、そうあり続けるであろうものについて真剣に私自身に問いかけるようになったのである。」・・・「というわけで本書は、長い独り言の呟きのような、いわばひとりでに断続的に浮かんできた言葉の列挙全体が一つの長い文章のようなかたちで続いていく言葉の単なるリストである。ここで語られているのはいくつかの感覚や知覚であり、いくつかの感動や、小さな楽しみ、大きな喜び、ときには深い幻滅や、苦悩でもある。

 どちらかと云えば私の気持ちは明るく輝く瞬間へと向かっていたが、暗く憂鬱な瞬間へと向かうこともあった。誰もがいつか経験したことのあるようなごく一般的な些細な出来事に、個人的な、長く心に残る思い出を徐々に混ぜ合わせていった。一瞬を捕らえたスナップ写真のようなそうした思い出は強烈なイメージとして永遠に心に刻まれており、その経験は何がしかの言葉で伝えることができると私は思っている。本書の中に人生の賛歌とも言える一種の散文詩を読みとってほしい。」
 そして早速返信のかたちで書き始めたのが本書である。

2011年8月13日、
 昨日あなたからの絵ハガキが届きました。こんな素敵な場所でバカンスを過されたことを知り、嬉しく思いました。有名なスコットランドの霧の中で過ごされたのですね。だからと言ってあなたはバカンスを略奪や横領で「盗み取った」わけではありません。私から見れば、むしろあなたは毎日ご自分の人生を盗みとっているのです。

 最初、返信はこういう一見厳しい調子で始まり、2011年8月13日から10月10日まで、断続的に書き継がれてゆく。時には「あなたを超うんざりさせる危険を承知の上で続けます」と書き、次の朝になると「あなたをうんざりさせるかもしれないと恐れつつ続けます、」と書きはじめる。そして10月10日を最後の手紙として、
 「親愛なるジャン・シャルルさん、あなたもお分かりのように、ここに記したことは形而上学的な思索でも存在の虚しさについての深い考察でも誰もが秘めている内なる情熱の吐露でもありません。ここに記したのは、人生のほんの些細な出来事の一つひとつを、毎日そこに立ち戻り元気をとり戻すことのできるような、絶えずひとりでに増大していく美と魅惑の宝庫にするための方法にすぎません。…そうした思い出たちはこれからあなたが何をなさるにもあなたに付き添いあなたを支えるために再び立ち現れることだけを望んでいるのです。私はそうした思い出をありのままに、私たちの人生に風味を添える道しるべとして認めることを学びました。それによって、人生は思っているよりもはるかに豊かで興味けっしてありえないのだということを」と結んで終わる。

 ジャン・ピェット先生がこれに対してどんな反応を示したのかは明らかではない。人類学者ならではの、日常生活のほんの些末な、生きているがゆえの感覚や、気づきの重要性の喚起に、読者はあらためて新鮮な感動を覚え、知名度のせいもあったと思うがベストセラーになった。彼女はこれをシュールレアリストの手法と呼ぶ。プルーストの「失われた時を求めて」、また、イギリスのヴァージニア・ウルフが試みた新しい文学のスタイルを貫いた理念が、ここでも、現実に生き生きと再現されている。まさに人生はほんの些末なかけらから成り立っているということを読者は再認識し、まだ見ぬ明日へと楽しんで踏み出してゆく勇気を得たかもしれない。

 翻訳の刊行にあたって、彼女からとくに「日本の読者へ」というコメントが訳者を通じて送られてきたのも非常にすばらしいことに思う。そこでも彼女は、俳句や枕草子に言及しつつ、国民性の違いはあるにしても、「現在のこの瞬間を存分に生きようとする、感覚的な喜びに根ざしたこうした生き方は普遍的であること、そして、誰もが私と同じように、この世界に存在することのこの上もない幸福に敏感に気付き喜びを見出して、この世界が一瞬一瞬私たちに与えてくれるものをたゆみなく享受しさえすれば、こうした生き方を実践できるのだということを心に留めていれば別に驚くにはあたらない」と述べている。走り書きの紹介で意を尽くせないが、軽い気持ちで読んでも楽しく、ずしりと手ごたえのある本であることは確かだ。

 (東京都在住・エッセーイスト・オルタ編集委員)


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