【往復対談】

「現代において『正義の戦争』-『戦争の正義』がありうるか」を読んで

山崎 洋初岡 昌一郎

☆先月号、初岡昌一郎氏の「現代において「正義の戦争」-「戦争の正義」がありうるか―ウクライナ戦争の停戦と紛争の平和解決を願って」をお読みいただいたベオグラードの山崎氏から初岡氏へメールが届きました。山崎氏のご許可をいただき掲載させていただきます。初岡氏からいただきました補足もあわせて掲載いたします。

【山﨑洋氏から】

初岡さん、拝読させていただきました。
主旨は明確、結論はいかにも初岡さんらしい。
 ひとつ、気になるところがあります。
 NATOの東方拡大が主因というのは、その通りですが、ドンバスのロシア系住民の保護というロシア軍の目的を副次的として片づけるのはどうでしょうか。
 その理由として、ナチス・ドイツが侵略戦争の口実としたドイツ系住民の保護を引き合いに出されておられますが、この二つは似て非なるものです。ヒットラーのドイツとスターリンのソ連も同じではないし、いわんやプーチンのロシアはナチスではありません。
 おそらくズデーテン地方のドイツ人のことを考えておられるのでしょう。僕は詳細を研究したことがないので、間違っているかもしれませんが、ズデーテンのドイツ系住民を代表した政党はナチスの台頭を利用してチェコ政府に対する要求をエスカレートさせ、民族自決を掲げるに至り、チェコ政府もドイツ系住民の公務員採用を禁じるなどの措置を取った。でも、チェコ政府がドイツ語の使用を禁じたとか、軍や警察を動員して攻撃、虐殺、民族浄化を図ったとかいうことは、記録にないのでは。

 これに対して、ウクライナのロシア系住民は、総人口4000万人の2割、つまり800万人いたわけですが、2014年のクーデター以後、ロシア語の公用語や教育課程からの排除に始まり、オデッサの虐殺、蜂起と内戦まで、死者の総数は分かりませんが、100万人近くが避難民となったといわれています。国連の統計にも西側の報道にも出てきませんが、僕が書いたように、だから事実は存在しない、クレムリンの宣伝だというわけではないのです。クロアチアのセルビア系住民の例から推して、そのほかにいちはやく姓名をウクライナ風に変更したり、外国に出稼ぎという形で避難したりした人たちも数万人はいたでしょう。ロシア系住民の多くがロシア政府の介入を求めたに違いありません。介入はクリミアで「成功」し、ドンバスのロシア系住民に希望を与えた。これをロシア政府がいつまでも、最後の一人が追放されるまで、手を拱いて見ていられるか。介入は時間の問題だったのです。

 クリミアでは「成功」と書きましたが、それは歴史的条件が違うからです。クリミア半島はロシア帝国がトルコから奪ったもので、ソ連時代もロシアの領土で、黒海艦隊の根拠地でした。それをウクライナ出身のフルシチョフがサインひとつでウクライナ領としたのです。住民の意志? そんなものは問われませんでした。フルシチョフは、スターリンが南オセチアを自分の出身地、グルジアに割譲したのを手本にしただけです。それにソ連内部の境界線の変更で、国際的国境の問題ではなかったから、すぐにどうこうということはなかった。だが、南オセチアの住民が納得せず、ソ連解体後、反乱を起こしたように、クリミアのロシア系住民も不条理の訂正を求めて住民投票を組織した。その成果を帳消しにしようとしたキエフの行動を抑えたことが「介入の成功」だったのです。

 初岡さんは「ワン・ワールド」と仰ってますが、僕は「多様性の世界」の方が好きです。民族により、国により、地域により言語、習慣、産業構造、政治制度から文化まで様々で、しかもそれが交流の刺激となっても障害とはならない世界が望ましいですね。昔、左翼は国際主義を掲げ、コミンテルンの指導の下に世界の共産主義運動を画一化しようとしましたが、それはみじめな結果に終わりました。今は、グローバリゼーシ将ョンにより世界の資本主義を画一化しようとしている。みじめな結果に終わることを期待しています。では、また。お元気で。
(東欧研究者/翻訳家、ベオグラード在住)
                               山崎 洋

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【初岡昌一郎氏から】

7月号掲載の拙稿に対する山崎洋さんのコメントに関する若干の補足
                                 初岡昌一郎
 1960年代前半のお互いに若かった頃、滞在していた旧ユーゴスラビアの首都ベオグラードで少なからぬ時間を共有して過ごし、議論を交わしてきた山崎君とは、その後も折に触れて対話を交わす機会を維持してきた。それらは私にとって常に貴重なものであった。彼のややシニカルではあるが、透徹した分析力には敬服しており、その都度彼の意見に啓発されてきた。
 先に「オルタのひろば」に寄稿された彼のウクライナ戦争論(2022.5.20「セルビアから見たウクライナ戦争」に触発されて,先月号の拙論(2022.7.20「「現代において「正義の戦争」-「戦争の正義」がありうるか―ウクライナ戦争の停戦と紛争の平和解決を願って」)は書かれたものだ。彼のコメントは小生あてのメールに書かれた私信であるが、承諾を得て公表した。それらのコメントは必ずしも私の回答を期待してのものと思わなかったが、それを奇貨として補足意見を蛇足的に若干付加する機会に利用させていただいた。

 (1)「プーチンがヒットラーではない」ことに異議はないが、スターリンとヒットラーがその行動においてかなりの類似性があることは否定できないだろう。かつて、猪木正道が「ナチズムは共産主義の鬼子」(『共産主義の系譜』角川文庫、1955年)と述べていたが、当時よりもこの説明にいまは納得ができるようになっている。独ソによるポーランド分割のようなパワーポリティクスの面だけではなく、民主主義とその主要な柱である人権や自由を否定する強権統治と敵対者(とその疑いを懸けられた者たち)に対する無慈悲かつ非人間的制裁の面でもでも共通性が高い。ただ、イデオロギー的な建前は真正面から対立していたことから、この点に対する評価には今でも多くの対立的異論がある。この点を議論することは、小論の目的ではないのでここでは深入りしない。ただ、ロシアはもはや共産党独裁の国ではなく、西欧諸国との原理的な対立点はスターリン主義時代と比較すると大幅に縮小している。
 2月にプーチンが対ウクライナ特別軍事作戦を開始するに際して挙げた第一の理由は、ウクライナ在住ロシア人の保護であった。しかし、第一に挙げられた理由、必ずしも主要な理由であるとは限らない。この点には、後で触れたい。
 「他国領土における自国民の保護」という理由は、過去においてしばしば開戦の口実として侵略国により用いられてきた。歴史を見ると、この理由を利用した諸国政府の間に政治的傾向の一致は見られない。あえて指摘すると、正当化しうる理由の乏しい戦争目的をカモフラージュしようとする、政治的なご都合主義では一致している。いったん戦火が開かれると、保護の名目とされた人々を含む、被侵略地周囲の現地住民がまず犠牲となった事実も共通している。小論はウクライナにおけるロシア人の迫害を否定してはいないが(それを過小評価したしたとの批判は甘受する)、それが第一の開戦理由とは考察しなかった。ロシア人に対する不利益処遇(ウクライナ語だけの公用語化など)や差別の救済という名分は戦争行為を正当化しえないことを明確に指摘しておくべきだった。

 (2)NATOの東方拡大とロシア包囲網強化に対するロシアの懸念と批判には正当な根拠があり、それがウクライナ戦争の最大の理由として理解すべきことを強調することに、小論の目的の一つがあった。しかし、それをもってしても、ロシアがこの戦争を正当化しうるものでないことを指摘し、同時にNATO側に胸を張ってロシア攻撃を支援する根拠が薄弱なことを指摘したかった。そして、正義なき戦争の早期停戦を訴えることに主眼点があった。この最重要点には、山崎君と意見の相違はあまりないと思う。

 ゴルバチョフソ連首相とブッシュ米大統領の地中海会談によって、戦後長く続き世界戦争の危険を常に潜在させていた東西冷戦に終止符がうたれて以後、軍事的対決を目的とするブロックの解体への期待は世界中で大きく高揚した。東側のワルシャワ条約機構の解散は行われたが、それを歓迎した西側はNATOを維持しただけではなく、反対ブロックにあった東欧諸国を新たに加盟させる方向で拡大の一途をたどり、ソ連邦の解体後はその旧加盟国の一部をも新規加入国の対象にしてきたことが、ロシアの警戒感と孤立感を高めたことは理解しなければならない。仮に、その責任の一端がロシア側にあったとことを認めるにしても、NATO側が受け身に立ったロシアを高姿勢で追い込んでいったことは否定できない。この行動は和解の合意と軍縮への期待に反しており、窮鼠猫を噛む状況にロシアを置くことになった。少なくとも、プーチン大統領とロシアの支配層がそのように受け取ったことは間違いない。

 さして遠くない過去を回顧してみると、プーチン時代になってから間もなくの2002年、ローマ近郊で「19プラス1」(NATO加盟国首脳とプーチン)会議が友好的な雰囲気の中で行われていた。その会議は「NATO・ロシア理事会」の創設を含め、共同の安全保障政策を目的とする文書を採択していた。これが実現しなかったことの咎めを「プーチンの変心」に一方的に帰し、西側の指導者やその代弁者たちは恥じるところが全く無いのだろうか。安全保障上のNATO諸国とロシアの関係悪化にかんする事実経過を検証することが必要である。その検証は和解を目的におこなわれるべきで、片方の当事者を糾弾するために利用されてはならない。
 戦争に訴えてまで解決を図らなければならない、イデオロギー的体制的な抜き差しならない敵対的対立が存在すると認識されているからこそ、NATO(北大西洋条約機構)をグローバルに拡大することまでを主張する勢力が現れている。このような認識は、現在の世界の安全だけではなく、人類の将来をも根本から脅かす「妄想」に他ならない。人間関係とよく似て、国際関係も改善の意欲とそのための行動は相手からも同じような対応を引き出す可能性を生むという、単純明快な歴史的な真理を見失ってはならない。

(3)結語として述べた「ワンワールド」にあまり内容的な言及をしなかったので解釈の余地を残したことは認める。しかし、山崎君が揶揄したような、ジョージ・オーウエル的統制秩序に支配された世界は、我々が最も厳しく否定してきたものなので論外だ。この点について相違は基本的にないと信じている。ワンワールドの意味をここでは、軍事ブロックにより分断されず、異なる体制や政治秩序を持った諸国が平和的に競争的な共存を追求できる世界と限定しても構わない。

 しかしながら、現代の安全保障はこれまでのように国家と領土を守ることにも増して人間の安全保障を実現することこそが主たる目的となるべきある。それは軍備増強ではなく、環境保護、社会経済的格差解消、人権保障、民主的政治と自治の拡大などを通じて、個々の人間の安全を達成するための政策と行動ことこそが最重要となる。これは軍事力によっては実現されないだけではなく、軍備の拡大はその目的達成を阻害する。人間の安全保障のためには、国内的国際的な分断と差別を克服する統治と協力が必要となる。ワンワールドの究極的な目的は、軍備に依存しない平和な世界と分断のない市民社会を実現することだ。当面は軍事的な対立と軍備拡大の流れを和解と軍縮の方向に逆転させ、地球環境的安全保障と人間安全保障に向けて国際的な協調を図り、国内外で市民社会の活性化を追求することが主要な課題となるだろう。

 参考までに付言しておくと「人間の安全保障」を明解に定義し、その構想を包括的に纏めて初めて提起した文書は、コペンハーゲンにおける国連社会開発サミットに提出された「人間開発報告」(UNDP,1994)であった。いま読み返してみてもこの報告は色褪せるどころか、今後の安全保障論議の指針として妥当性を増している。

 人間の安全保障の対象として、この報告には次の7項の領域が明示されている。
   *経済の安全保障
   *食料の安全保障
   *健康の安全保障
   *環境の安全保障
   *個人の安全保障
   *地域社会の安全保障
   *政治の安全保障(筆者注:自由と人権の保障)
                            (以上)
(国際関係研究者)

(2022.8.20)
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