【コラム】酔生夢死

「先進国人」に居場所はあるか

岡田 充


 久しぶりにオットットしてしまった。日曜の夕、お笑いコンビが「街歩き」をするTV番組をボケ〜っと眺めていた時のことである。「街歩き」の場所は香港。コンビの一人が「あっガイジンがいる」と、欧米観光客を指さしながら叫んだ。それを聞いた一人が、欧州風のカフェを見つけ「まるでガイコクだなあ、ここは」と応じた…

 言うまでもないけれど、香港は外国である。しかしこれを聞く限り香港チャイニーズはガイジンではないことになる。お笑いコンビに悪意があったとは思わない。多くの日本人にとってガイジンとは欧米の白人を指し、ガイコクもまた主として欧米国家を意味する。コンビの発言は、素直な表現なのだ。

 日本とアジア、それにガイコクに対するわれわれの見方は、矛盾に満ちている。まず日本はアジアなのか? 地理的概念からすれば「YES」と答える以外にないと思う。だが我々が会話で「アジア」という時、その中に日本は含まれない。アジアが地理的概念でないとすれば、文化的、人種的概念だろうか? それとも別のモノサシがあるのか。

 アジア論で有名なのは福沢諭吉の「脱亜論」(1885年)である。福沢は「遅れた朝鮮清国のごとき国に隣接するは日本の不幸」と、中国、朝鮮との絶縁を訴えた。近代化するには早くアジアと決別し、欧州のような世界の一流国の仲間入りを果たすべきと説いた。

 日清、日露戦争に勝利した日本は調子に乗って、中国大陸と東アジアの大半を侵略し自滅した。1945年の敗戦の年は、脱亜論から60年経っていたが「欧米には負けたけど、中国に敗北したわけではない」と“世間”は受け止めた。それからさらに70年。世界第2の経済大国の地位を中国に奪われたいまも、アジアへの視線はあまり変化していない。

 「団塊の世代」に属する筆者の頭の中では、戦前は「暗い軍国主義」であり、戦後は「民主教育と経済成長」という明暗の対比が鮮明である。しかし日本とアジアの関係については、敗戦を境に断絶せず、130年間連続していると言っていい。そう、アジアとは経済的、文化的な概念であり、脳内イメージでは「後進性」を意味し続けている。

 戦後70年の昨年、中国はアジアインフラ投資銀行(AIIB)を立ち上げた。日本は米国と共に参加を見合わせたが、国際金融面でも中国が日本を完全に追い越し、優位に立ったことを見せつけられた。

 アジアでもなければ、欧米というガイコクにもなれない日本。日本人のアイデンティティを敢えて言えば、主要国首脳会議(G7)のメンバーとしての「先進国人」あたりだろうか。しかしG7の凋落も著しい。黄色い肌の「先進国人」が、アジアで居場所を見つけ出せるか。

 (共同通信客員論説委員・オルタ編集委員)


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