【オルタの視点】

「中国の衝撃」−チャイナショック−のなかで見つめた全人代2016

木村 知義


 今回の「中国全人代」をどう見たのか、感じたところを記せ、というのが編集長からのお話しである。「全人代」そのものについては斯界の専門家が筆を執られるので、私には「どう眺めたのか」といういわば「感想」をもとに「中国との向き合い方」について考えるところを述べよということなのだろう。こうした「宿題」を出されたのは、多分私がメディアに長く身を置いていたということもあるのだろう。日本においてメディアが伝える「中国全人代」を下敷きに、いかなる問題意識で「全人代」を見つめたのかという「課題設定」なのかと理解したのだった。私の能力をこえることではあるが、己の力を省みず、少しばかり認めることにした。

 そこでまず、今回の「全人代」にかかわる記事をあれこれ読み返してみた。
 仕事を離れてからは、購読紙は経済紙を含め三紙に絞っているのだが、読み返すうち、年初の上海株式市場の「乱高下」と「中国経済の減速」による「チャイナショック」から、昨年夏の上海株「急落」に端を発する世界の金融市場への衝撃にまで遡って中国報道の「様相」を振り返ることになってしまった。

 加えて、「全人代」での李克強首相による「政府活動報告」をCCTVの中継映像によってじっくり見てみた。幸運なことに入手できた「全人代」会場で配布された36ページに及ぶ「政府工作報告」(政府活動報告)を手に、2時間弱にわたる李克強首相の報告映像を追いながら、議場の「空気」を推し量ろうと目を凝らした。日本の新聞報道をつぶさに読み返した後、いわば比較対照の材料として中継映像を見てみると、いくばくかの感慨も生じるのだった。

 全人代と政治協商会議は毎年恒例のものではあるが、今年は、いつにも増して世界注視のなかで開かれた「両会」だったと言えよう。言葉を換えれば、メディアが伝えるさまざまな色合いの「中国の衝撃」(チャイナショック)のなかで、中国がどのような存在としてあるのかを見極める重要な「窓」として、世界は必死になって「両会」に目を注いだと言える。とりわけ「第13次5か年計画」のスタートに立って、どのような2020年の「中国の姿」が見えるのか、さらには新中国成立100年の2049年、つまり21世紀半ばの世界で中国がどのような存在としてあるのかを占ううえからも、世界の耳目を集めたと言うべきだろう。

 全人代代表およそ2900人、政治協商会議委員およそ2100人、1000人余の海外記者団をはじめ総計3200人をこえる取材陣という壮大な「両会」だった。現場で取材に当った記者の話しでは、かつてなく厳しい警戒態勢だと感じたという。会議場に入るセキュリティチェックはいつものことだが、ポケットに入れていた「のど飴」がひっかかり、廃棄するよう指示されたという。北京の大気汚染でのどをやられていて会議場でも「のど飴」が必要だと繰り返し申し立ててようやくパスしたと苦笑しながら語った。また、各省の幹部はもちろん、各省代表たちの口も堅く、各省ごとの会見などもどこかこれまでにない緊張感が漂っていたという感想を漏らした。

 李克強首相は全人代初日、3月5日午前9時過ぎから2時間近くかけて「政府活動報告」をおこなった。日本のメディアでは、報告の際原稿の読み違えが度重なったとか、「汗を額からたらして叫んだ」、さらには報告後席に戻った李克強氏が隣に座る習近平国家主席と握手することもなかったなどということが盛んに言い立てられた。習近平、李克強両氏の「緊張関係」への憶測、そして全人代報道をめぐる「締め付け」といったことが頻繁に語られた。来年秋の党大会に向けて人事を占う兆候を見落とさないよう血眼になるというのも理解できないわけではない。しかし、これらの論調がまずあって、中国がどこに向かうのかという本質的な問題へのある種の「バイアス」が醸し出され、そのなかで我々が事態を見つめることになっていったことは否めない。

 現在の「中国報道」をめぐる象徴的な一断面と言える。それだけに事態をあやまりなく見据える視野の広さと視界の深さ、そしてなによりも重心の低さが要求されると痛感したものだ。中国に向き合う際の「遠近法」が試され、「中国を見る目」の確かさが鋭く問われたということをまず肝に銘じておく必要があるだろう。

 メディアの論調をひとつひとつ挙げて語り始めると際限がなくなるので控えるが、要は、中国の行く末はそれほど楽観できるものではなく、今回の全人代で示されたことについて言えば「達成は不透明」あるいは「実現のハードルは高い」「先行きは平たんではなさそう」という引用に尽きる。経済紙には英エコノミスト誌特約の長文の記事が載ったが、見出しには「全人代が描く未来、信用できるか」とあった。さらに本文では「新5か年計画の達成容易でなく」という小見出しとともに「党内の迷信深い人は不安になるだろう。13という数字が中国で不運を暗示するからではなく、5か年計画の創始者であるソ連が第13次計画に乗り出すや否や崩壊したからだ」とまるで「風水師」のような「予言」まで交えて、中国の行く末がいかに困難であるかを「懇切」に?説いてくれている。さらに、手にした週刊経済誌には「どん詰まり中国」という大きな文字が表紙に踊った。
これが、現在の中国への眼差しを包む日本の「空気」である。

 浅学とはいえ、中国の経済・社会がさしかかっている現在の局面が容易なものだと考えているわけではない。しかし、これらの論調が醸し出す環境に置かれた我々の中国認識の困難を、ここでもまた思い知ることになるのだった。

 「全人代をどう見たのか」という問いへの「応答」を認める際、この点は、なによりもまず書き留めておかねばならないと、私は、痛感したのだった。
 そのうえで「気になる問題」を三点に限って挙げてみる。

 「政府活動報告」と「第13次5か年計画」の内容については専門家の解説、解析に委ねることにするが、今回の重要なキーワードの中でも「創新」(イノベーション)と「供給側(サプライサイド)の改革」が繰り返し強調されていることに気づく。これらは昨年末の中央経済工作会議ですでに提起されていたことでもあるので驚くにあたらない。いうまでもなく経済発展の原動力としてイノベーションの重要性を否定する人はいない。しかし、いま主流となっている経済・経営思想におけるイノベーションの位置づけをそのまま追うことにはいささかの「違和感」が残るというのが私の率直な感慨である。

 すなわち、現在主流となっている米国型の経営思想における「イノベーション」を後追いするのではなく、イノベーションという「言葉」をも新しくすることができるかどうか、そこにこそ中国が取り組むべき課題があるのではないかという問題意識である。米国流のMBAたちが語る「イノベーション」に辟易してきたが故の「偏見」といわれればそれまでなのだが、世界経済の行き詰まりの中で、そろそろ米国流の「イノベーション神話」から脱却しなければならないのではないかと痛切に感じる。中国がどのようなイメージをもってイノベーションに向き合うのか、それこそ「中国の特色あるイノベーション」を見せてほしいと思うのだが、そうしたことが意識されているのかどうか、私には、まだわからない。ここが第一の問題意識である。

 加えて、このイノベーションと密接な相関関係にあるサプライサイドの強化−構造改革である。これまた、中国が挙げる「三つの過剰」(生産能力、在庫、債務)の解消が喫緊の課題であることを否定する者はいない。そのことを踏まえたうえで、「サプライサイドの経済学」が強調された日本の直近の「経験」を想起すると、ここにも「ひっかかり」を否めない。

 バブル全盛時代を経て、まさかつぶれることなどないと思われてきた金融機関が破たんし、金融危機が叫ばれ、企業再編の嵐が吹き荒れた。そして底の見えない「失われた20年」を過ごし、現在もそこから脱却できずに呻吟する我々。その最中だったのではないだろうか、「サプライサイドの経済学」を聴いたのは。規制緩和と構造改革が叫ばれ、グローバルスタンダードにそぐわない「遅れた」日本の経済システムが集中砲火を浴びて、結局得たものは何だったのかという反省が、今の我々にはある。
 経済のグローバル化の中で生き残りをかけた競争にさらされ、結局、安価な労働力による効率と競争へと走るしか術がなく、「人」を切り捨てることに集約される構造的な問題を経験してきた我々である。企業は史上最高益を重ね、内部留保を積み上げる一方、効率化、合理化をもって産業の高度化とされ、それを可能にすることがサプライサイドの強化として語られる時代を招き寄せた。そして資本主義はギャンブルまがいの金融資本主義へと姿を変えた。その行き詰まりを経験しているのが現在の日本であり世界ではないのか。構造改革といい、サプライサイドの強化といい、これもまた「言葉」をどう新しくするのかが問われる時代に、いま立っているのだという認識が不可欠になる。

 さらに言えば、1985年の「プラザ合意」を重要な転換点とする世界経済の変容に立ち戻って検証することが不可欠というべきだが、この変容をグローバル化という言葉で語り、それにそぐわないものは淘汰されてしかるべきという、効率と競争をもってする「新自由主義」の世界へと大きく姿を変えたのだった。そうした世界と経済のありように根本的な検証の目を失わず、中国がどのような経済システムを生み出していくのか、それこそを目を凝らして見据えなければならないのではないか。あるいはそこに向けて、我々も一体となって取り組んでいく、世界を変えていくという問題意識が必要とされるのではないか。これが二つ目の問題意識である。

 もうひとつ、農業における改革である。中国における「人口ボーナス」は終わりを告げ、「人口オーナス」ヘと逆転したということが語られるなかで、農村の都市化が掲げられた。もちろん問題意識として、中国の「三農問題」の解決に向けて取り組むことは今後の中国にとって避けて通れない、重要な課題であることは言うまでもない。しかしここでも、日本において1961年の農業基本法制定をテコに推し進めた「基本法農政」によって農村からの労働力の移動を可能にし、高度成長を準備した経験が思い出される。それが日本の農業をどのように変容させてきたのか。基本法農政が掲げた「開放体制下の農業」によって、現在のTPPにいたる日本農業と農村の行きついた姿をどう受けとめるのか。どう、その轍を踏まずに、新たな農業と農村の都市化を目指すのか。中国が立ち向かわなければならない世界史的課題は重いと言わざるをえない。これが、今回の全人代を見つめる際の、私の、三つ目の問題意識である。

 ここで確認しておかなければならないことは何だろうか。
 多くのメディアがかまびすしく言い立てる「論」とは逆のベクトルで、中国が未来を拓いてもらいたいという思いである。米国流のグローバリズムにもとづく経済システムではない、新たな経済と社会のあり方をめざすものに、どうすればなりうるのかという問題意識である。今回の全人代で強調された、中国が掲げるイノベーションにしろ、サプライサイドの強化、構造改革という概念が、まさに木に竹(米国流のグローバルスタンダード)を接ぐようなものになってはならないと、私は考える。

 ここで冒頭に挙げたメディアの論調に立ち戻る必要がある。
 メディアが言うところの、中国が掲げる目標の「実現のハードルは高い」というときの論理、すなわち中国が「なすべきこと」は、私がここで述べた問題意識とはまったくベクトルが逆である。もっと徹底してグローバルスタンダードの側に行かなければだめだ!と迫るものであることに留意すべきである。「遅れた日本」が「ワシントンコンセンサス」などに象徴されるグローバルスタンダードに沿うよう、どれだけ自身を変えることができるかを迫られ、それが構造改革でありサプライサイドの強化であったという轍を、中国は踏んではならないという問題意識が、いま私にはある。

 しかし、「不徹底な旧来の残滓を徹底して駆逐せよ、そうすれば中国もまた世界基準の一員になれる。しかし中国にはとてもできまい!」という論調が蔓延している。

 中国に改革は必要だ。しかしそこで言う改革がどのようなものかを問うことなく、グローバリズムという米国流の改革の徹底を中国に迫る論理構造が持つ危うさを知っておかなくてはならないのではないか。

 この「危惧」のベクトルの違いこそ、今回の「全人代」を見つめる際の私の感慨のもっともコアをなす問題意識だと言える。

 さらに重ねて言えば、メディアでは経済成長率の数値をめぐるあれこれの議論がかまびすしい。中国にとって経済の成長、発展が不可欠の状況であることを踏まえつつ、しかし、世界は従来型の成長概念を至上のものとする地点から一段すすめて、脱成長、脱発展の経済のあり方を模索する段階にきているということも知る必要があるのではないか。ギシギシと軋みながらではあれ、ポスト・グローバリズムの世紀へと時代は大きく動きつつあることを見据えながら、新たな経済・社会システムを切り拓いていくことが求められる。

 そうした創造的な取り組みこそが中国に求められるのではないか。
 そこにこそ中国の未来があるのではないか。
 新たな創新−イノベーションとはこうしたものではないのか。
 空想のたぐいの、たわごとであろうか・・・。

 しかし、そのようにして今回の全人代を見つめるなら、また違った「風景」が見えてくるのではないかと思うのだった。
 ただし、この問題意識は、せんじ詰めれば「中国の特色ある社会主義市場経済」という「あいまいな制度としての資本主義」をどのような経済システムとして完成させるのかという本質的かつ根本的な問題に突き当たることになることは言うまでもない。
 まさに歴史的実験というべきだろう。

 「冷戦の終焉」によって社会主義が敗退し、資本主義が勝利したなどという単純な論理を信じる者は、現在のマネーゲーム資本主義の行き着いた「曠野」を前にして、いない!と断言できる。しかし、ではその先にどのような経済システムがありうるのか、人を幸せにできる経済・社会システムとはいかなるものかという問いへの「解」はまだ定まっていない。

 その意味では、「新中国100年」をめざす重要な起点となる今回の全人代とそこで確認された「13・5計画」の内実をどう創造的に豊かにしていくのか、そこに目を凝らして見据える必要がある。

 言うまでもなく、こうした論理を目指すことは言うほど容易いことではない。しかしそのようなパースペクティブで中国を見ることが、世界史的な転換の時代における中国認識への接近となるのではないかということである。

 昨年夏以来の「中国の衝撃」(チャイナショック)のなかで迎えた今年の全人代だと書いた。そこで思い起こすのは10年余り前に書かれた中国思想史家、溝口雄三の「中国の衝撃」の一節である。日本と中国の間に起きている「新しい問題」の背後に「経済関係」の変化を見る溝口は「経済問題を思想文化の問題」として深める。

 「中国脅威論」は「一つに、問題を排他的な国民国家の枠組みで捉えていること、二つに、中国を国際秩序外の特殊国家と見なすことを前提にしていること、三つに、『脅威』という発想自体が蔑視の裏返しで、もともと世界の歴史的な差別構造の産物であること」という問題点を内包しているとする溝口は「そういった前世紀的な偏見からどう脱出するかを前提にすべきだ」と語る。そして「日本=優者、中国=劣者という構図から脱却していない」日本のありように矢を向けて「その無知覚こそ日本人にとっての“中国の衝撃”である」と鋭く指摘する。「政権中枢から国民一般までが無自覚であることの、またそうであるがゆえの、何重もの鈍重な衝撃」と重ねる溝口の言説に古さはないと言うべきだろう。

 「中国の衝撃」! まさに今われわれが体験しているのは、これだ。それゆえ、歴史に深く根ざした思想的格闘抜きに現在の事態を誤りなく認識することはできない。
 世界史的命題ともいうべき困難な「問い」に立ち向かわなければならない。
 「中国をどう認識するのか」という、われわれの多くがいまだ一度も正しく解くことに成功してこなかった困難な「問い」に。

 「中国は『長い冬』に突入する! 中国リスクはきわめて巨大だ。失速どころではない」
 手許の近刊の書の「腰巻」に記された文字を前に、今回の全人代に目を凝らしながら抱いた、拙い感慨の一端である。

 (筆者は元NHKアナウンサー・北東アジア動態研究会代表)


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