【沖縄の地鳴り】

「さまよへる琉球人」考
――広津和郎原稿・94年前の転変

羽原 清雅

 作家・広津和郎(1891-1968)と言えば、松川事件の裁判に疑問を呈した、10年以上の言論活動で知られる。作品に「神経病時代」「死児を抱いて」「風雨強かるべし」など多数あるが、どちらかと言えば地味な作家だった。
 その広津が34歳のころ、1926(大正15)年3月号の『中央公論』に、短編「さまよへる琉球人」を書いた。ところが、現地沖縄からクレームがつき、広津は思いの至らないことを詫びて、その後の刊行を断念する。だが、45年後の1970(同45)年になって、まさに沖縄の人の手で再評価され、『新沖縄文学』に掲載されて復活、いまは『広津和郎全集』に掲載されている。

 文芸作品としての評価は別として、作品の扱いようを通じて、時代による「沖縄・琉球」の扱いの変化が興味深い。沖縄の置かれた微妙なポジションが、その時代の人々の思いによって揺れ動く様子に興味を惹かれる。
 この応酬の中に、今に通じるようなものを感じられてならない。美辞麗句を言い連ねて基地存続を押し通す政府権力、あるいは沖縄の特別な事情に思いのいたらない本土側の姿勢と、本土に愛着を抱くがために翻弄され、一方でこの島の誇りを傷つけられまいとする現地の感覚に通じるものが、いまも続いているように思えるのだ。
 (なお、中央公論の表題は「さまよへる琉球人」だが、戦後の全集では「さまよえる琉球人」となっている。)

≪ 概略 ≫

 文調は私小説的で、確たるストーリーがあるわけではなく、随想的な趣が強い。
 作家H(広津自身)のもとに、知人の紹介だと言って、見返民世と名乗る男が、石油コンロを売りに来る。最初の、いきなり障子を開けて入ってきた不愉快が、一種の愛嬌のある人なつっこさ、人を食ったようだが爽やかさを感じるように変わってくる。琉球人だといい、琉球が舞台の農村劇の材料を持つ、と言って、その後も毎日のようにやって来る。「エへへ」といい、「ふう、ふん、ふう、ふん」と琉球の歌なのかその語尾の方だけを鼻先の小声で微かに歌う。

 「琉球の中産階級は、殆どいま滅亡の外ないのですよ。甘蔗<サトウキビ>をこしらえても、売れない。いや、問屋と内地の資本主義とが協力しているので、売れても二束三文です。それを二束三文に売っても、生活が立ちません。それで憤った青年達は、それを売らないのです。が、売らなければ尚飯が食えない。売ろうとすれば、見す見す資本家の餌食になる。それに、税金が高い。あんた」と興奮気味に言う。「那覇の税金が、東京の何倍も高いと云ったら、お驚きになるでしょう。とても、話にならない税金を徴収されるのです。・・・・・琉球の中産階級の青年達の間には、『Tへ、Tへ』という歌がある位です。Tとは九州のT(筑豊か)炭鉱の事です。あんた、考えて下さい。炭坑生活が彼らに取っては、滅び行く琉球にいるよりも、極楽に見えるのです。坑夫生活が理想郷に見えるのです」

 広津は書く。「自分は見返民世のそういう話を聞くと確に感動する。そんな法外の事を存在させるという事に対して、義憤も感ずる。見返の云う事が、どこまで真であるかは知らないが、琉球人というものは、ほんとうに呪われたる人種だと思う。旧幕時代、三百年の久しきに亙って、薩摩から武器を取上げられ、有りと有らゆる迫害を受けながら、今は又そうして経済的に極度の圧迫を受けるという事は、長い間、ほんとうにやり切れた話ではないと思う。よく我慢ができているものだと思う。――だが、聞けば義憤も感じ、同情も湧くが、だからといって、自分がその境地にない悲惨事は、要するに他人事として義憤を感じ、同情を感ずるだけで、本心から直ぐ立つというわけに行かない。今までだって黙っていたんだから、今少し位は黙っていたって同じだという気もしてくる。・・・・云わば、暫く惰眠を貪ってと云ったようなはりのない気持ちだ。」

 しかし、広津は「自分がその境地にない悲惨事は、要するに他人事として義憤を感じ、同情を感ずるだけで、本心から直ぐ立つというわけには行かない。」と率直に、その距離感を示す。まさに、本土側としては、戦前戦後を通じた沖縄問題に対する、ごく一般的な姿勢のように思える。「感動しながら熱のない自分にまだるっこさを感じたが、併し熱もなくなっているふにゃけた自分」との自覚も書く。広津が戦後、松川裁判の非を指摘して立ち上がった姿は、「ふにゃけた自分」を捨てて義憤に駆り立てられたということだったのか。

 見返は「今や故郷にいても安閑としていられず内地に出てもおちつけない。琉球人――へん」「さまよへる琉球人か。――悲惨ですな」という。広津は「・・・・」無言だ。
 そこで、見返はいきなり、石油コンロでなく石油ストーブを買わないか、と話を切り替え、広津も「持って来給え」といい、「何という事なく、この男にはそんな風に釣込まれてふらふらと買いたくなるという事も面白かった。」広津は見返に親しみを感じて、彼もいつか部屋に入りびたりになっていった。

 そのうち、見返が文学好きの沖縄青年Oを紹介した。その男Oは、広津が翻訳したモーパッサンの「女の一生」の伏字のない、未刊でただ1冊の本を返済の念を押して貸りていったところ、1週間ほどして「記念にもらっておく」との葉書をよこしてきた。その不愉快を見返に言うと、「困った奴ですな。」「『さまよへる琉球人』と云うような詩を作ったりしたのはあの男なんですが、琉球人は、つまり一口に云うと、内地で少しは無責任な事をしても、当然だ、と云ったような心持を持っている点があるんですよ。無論全部の琉球人がそうではないんですが・・・・」

 広津はこれに「徳川時代以来、迫害をつづけられたので、多少復讐――と云わないまでも、内地人に対して道徳を守る必要がない、と云ったような反抗心が生じたとしても、無理でない点がある事はあるな。」と応じる。そして、「が、自分は『さまよへる琉球人』という言葉に興味を覚えて、腹が立ちかかったのが、直ぐ癒った。実際、長い間迫害を受けていたら、その迫害者に対して、信義など守る必要がないようになって来るのも無理はない。賞めた話ではないけれども、或同情の持てない話ではない。」とする。長い間の迫害、甘蔗を作っても飯が食えず、それは搾取のせい、炭坑夫の生活の方がいい―などということからすれば、「それが琉球自身から生じた何かの原因でそうなるのではなくて、琉球以外の大国からの搾取によるのだ。・・・・みんな故郷以外の或暴力的な圧迫によるのだ。・・・・若し自分がそういう圧迫せられる位置にあったらやっぱり圧迫者に対して、信義や道徳を守る気になれないかも知れない。」広津の気持ちはまた、沖縄に傾く。

 ある日、見返が言い出しにくそうに、石油ストーブを売りたいが、(取引上、現金と引き換えで現品を入手して買い手に渡す仕組みながら)、その金がないので、広津のストーブを一時貸してくれ、といわれ、了解する。だが、彼の足が遠のき、貸したストーブも戻らない。
 そして見返は、書籍の注文を取って売るので、発行所が委託してほしい、というので、広津は発行所の支配人に頼んであげる。その後、印税を取りに行くと、予想外に少ない。聞くと、見返が広津の本を何冊も何冊も古本屋に持ち込むので、怪しんだ古本屋が警察に届けて、見返が取り調べを受けることになった。証人として呼び出された支配人は、自分が見返に渡したものでごまかしたのではない、と弁護、その結果支配人が、彼に渡した本代分を印税から差し引いたのだ、と分かった。広津は、見返がさきに《圧迫を受けた琉球人は、内地人に信義を重んじない》といったことを想い起す。

 広津はその後、上野という男と出版社を起こした。その上野のもとに、以前広津が貸した貴重な本を着服した琉球人Oが接近、上野の兄が作る浮世絵を売る仕事をさせたところ、あちこちから金を集めて逃げた、という。
 その上野に出版社のことを任せていたところ、こんどはその上野が社の金を個人的に費消し、関西に集金に行っても、一足先に根こそぎ集金していたことがわかる。広津の打撃は大きかった。上野について「この質の悪い、一点の是認も持てない悪辣な、美貌の内地人」と表し、Oは「詐欺漢をだまし打ちにした男」とした。

 関東大震災から1年後、出版社の大阪支店を任された見返民世が、ひょっこり姿を見せた。こざっぱりした背広にロイド眼鏡、オールバックの頭に折鞄。「出世したものだ。自分は彼のために喜ぶ気持になった」。話が上野のことになると、見返は「初めっから信用できない人間だと睨んでいた」という。石油ストーブの件、広津の本を何冊も古本屋に売った件などは口に出すことはなかった。

 その後、見返は上京して、広津の事務所と同じところに部屋を借り、東京で出版の仕事をするという。やがて、その宿のおかみが、見返の姿が見えなくなり、広津の保証で入居したことを理由に、部屋代を求めてきた。「H<広津>さんは余り人をご信じになりますから少しお気をつけになった方が」といわれ、「寛大という事とは似ても似つかない、自分の怠惰から来るこうしたぶざまさ加減を、腹の底から不愉快になっていた」。

 「『さまよへる琉球人』などと考えて、裏切られる事に興味など持ちたがる自分の病的気質が、むしずが走る気がした。人が乗じたがるようなスキを見せて、人を悪い方に誘惑していると云ってもいいかも知れないような、ルウズな、投げやりな自分の生活法に、『気をつけ!』こう怒鳴ってやらずにいられないような気がした。」と締めくくっている。

≪ 沖縄からの抗議と回答 ≫

 長々とした要約となったが、この広津に抗議を送ったのは「沖縄青年同盟」。この組織は、広津がこの原稿を書いた1926(大正15)年に、那覇市議、無産党系の社会運動家で、戦後は沖縄民政府の社会事業部長などを務めた山田有幹が結成したもの。
 中央公論3月号に「さまよへる琉球人」が掲載された直後、4月4日付の報知新聞に「広津和郎君に抗議す」として掲載された。穏やかな表現で、「作家の創作意思の自由を認めます」との前提で、ただこの作品で「現実的影響をかうむる者が生じた場合、作家はこれに相当の責任をおふべき」と述べている。
 問題点としてあげたのは、なぜ「琉球人」との題をつけたのか、そして沖縄人がいつ県外に仕事を求めることになるかわからず、したがって「この問題は、県民大衆一般的問題であると共に、やがてまた我々自身を脅威する重大問題」と指摘した。

 これに対して、広津は4月11日付の報知新聞に「沖縄青年同盟諸君に答う」として回答した。極めて謙虚な筆致で、「多大な御迷惑を掛けようとは、小生の予想せざるところ」として、「小生は貴県人に対して厚意と友情とを持ち」「抗議文を拝読して、今更のようにそこまで思い及ばなかった小生の不明を恥じ、取返しのつかぬことをした」と詫びている。
 さらに「数世紀の昔から不当に苦しめられて居る沖縄県というものを背景に考える事によって、あの作に出て来る二人の沖縄県人のなした行為を出来得る限り善意に解釈したかった」と述べた。
 「さまよへる琉球人」の題については、この「題をつける必要はなかったというお言葉はもっともです」とし、作中の人物がみずから述べた言葉で、あの題を思いついた、という。

≪ 戦後の復活 ≫

 広津は戦前に沖縄青年同盟に詫びたときに、「あなた方に対する世の誤解を招く虞れのあるものである以上、あの作を今後創作集などに再録しないのは勿論、自分はあの作を抹殺したいと思います」と約束していた。

 ところが時は移り、戦後から25年、当時からすれば45年も経った1970(昭和45)年7月、沖縄サイドからこの作品の復活の話が持ち上がるのだった。牧港篤三らの『新沖縄文学』夏季号に、そっくり掲載されたのだ。

 沖縄学の父といわれる伊波普猷(1876-1947)と親しく、やはり沖縄研究に尽くした比嘉春潮(1883-1977)が「私などはあの小説のモデルを知っているし、当時の沖縄人の一面をよく描いているとも思うので、このまま葬り去られるのは惜しいと思う」と書いたこともあって、牧港が動かされたのだろう。
 そして、牧港は「習慣、伝統、言語、文化にわたって、大正期の沖縄は、日本の一部として忘れられ、逆に今日は、その特殊性が沖縄ナショナリズムとして為政者から表面温かい目で迎えられようとしている。立場はまったく逆だが、逆もまた真なりといわなければならない。」と、広津の作品を評価している。「表面温かい目」と書いたのは、皮肉を込めたものか。
 この2年後の1972(昭和47)年に沖縄は本土復帰を果たすが、その頃沖縄に核兵器を残す密約が日米間に交され、すでに本土から基地が移設、集中されて、今日に続く闘争が激化したのだ。
             ・・・・・・・・・・・・・・
 広津和郎は沖縄の歴史を暖かく見つめている。また、動き出せない自分をよく自覚している。沖縄の扱いに対する義憤、同情を持ちながらも、なにもできない自分に、ある種のもどかしさを抱く。その反省が、抗議を受けたことで、作品の即抹殺の決断をする。
 時代の流れは多様で、折々の風潮で作品の扱いは揺らぐ。政治の動向に左右もされる。しかし、その見方が悠久の理念を踏まえていれば、いつか達眼の士によって見直されるに違いない。その良い事例がこの問題に示されている。
 事態や状況を短期的な視野で見て、おのれの利害にこだわる風潮は多数派を形成して、時流をリードする。しかし、いつの時代かに、その大勢が妥当なものではなく、ひずみある方向に走っていることに気付き、そのことをアピールする人士が出て来るものだ。

 ヒトラー時代の謳歌は、いつまでも続かなかった。真珠湾の悲劇や、ヒロシマ、ナガサキの過ちは、まだ十分な反省を伴わないが、その「非」を悟らざるを得ない時期は必ずやってくる。
 広津は頭を下げた。しかし、その姿勢は悠久に耐えうるものだったことが、今ここに示された。短編の作品が復活に至る、この一例は、広津の姿勢が時間に負けない正統性を秘めていたからに違いない。

 (元朝日新聞政治部長)

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