【ポスト・コロナの時代を考える】

「ご理解とご協力をお願いします」―ポスト・コロナ社会に継がれいくもの

荒木 重雄

 初岡昌一郎氏から、ポスト・コロナ社会を考える企画のお誘いを受けた。
 確かにこのような未曾有の経験は、世界と社会の大きな変革を構想するのに格好の機会である。だが、わたしには、それより目前の状況で気になることがある。それは、ナショナリズムの台頭と、その方向性である。

◆ バトンは国家に渡された

 このたびのコロナ危機でもっとも目についた現象は、グローバル経済が支えてきた世界秩序が後退し、替わりに国家が復権してきたことである。
 もちろん、グローバル社会じたい、リーマン・ショック以来の経済停滞と格差拡大、それがもたらす大衆の不満を培養器としたポピュリズム政治の台頭、さらにトランプ米大統領の傲慢な「自国第一主義」が及ぼした国際社会の亀裂によって、大きな歪みを抱え込んでいた。とはいえ、ヒト・モノ・カネ・情報の国境を越えての自由な移動がグローバル社会の基盤だ。
 ところが、そのヒト・モノの移動そのものが感染を拡大させる新型コロナウイルスの登場によって、空前の、「世界同時『鎖国』」が展開されることとなった。各国は競うように自国を閉じ、ヒトとモノの動きがほとんど止まった異様な空間の国際社会が現出した。

 しかも、国際社会が協力してパンデミックに当たるべきWHO、国連、EUも機能不全。危機に対応する主体は、ほかでもなく、各国政府となった。ウイルス感染拡大を防止する措置も、その措置がうみだす経営危機や失業をはじめとする社会的課題への対応も、各国政府が取り組むほかはない。国家が急に主役の座に躍り出た。国民の国家へ期待が突如として高まった。
 かくして世はナショナリズムの復権へと向かったのである。

◆ 強い指導力への誘惑

 一旦立ち上げられたナショナリズムの内容や方向性は、国民の日常感覚や情動によって大きく左右される。現在の世相からその方向性を探ってみよう。
 だが、現時点ではまだ人々に「国民」という自己意識が明確なわけではないので、「人々」としておこう。その人々の思いや動きである。

 目立ったのは、強い指導者や、強い指導力への期待である。
 感染の拡大に不安を抱いた人々は、コロナ禍へも適用が決まった改正新型インフルエンザ等対策特措法に基づく緊急事態宣言の速やかな発出を求めた。
 メディアの「編集」によるところもあるが、「遅い」「政府はなにをやっているのだ」という人々や識者の声を多く伝えた。
 特措法では、外出自粛や商業施設の休業などを要請あるいは指示するが、従わなくても罰則はない。これに対しても、「政府は甘い。なぜ罰則がないのか」「都市封鎖もやるべきだ」との声が加わった。人々はより強い権力の発動を求めたのだ。

 日本ではそもそも、国家は社会や市場への介入を控え、むやみに私権を制限すべきでないとされる。それが自由民主主義国のあり方で、とくに日本には過去がある。国家は一歩さがっているべきだとの考えが、かなり多くの人々に共有される建て前である。だが、危機や不安は、容易に建て前の世論を突き破って、本音の情動を覗かせる。そして、それが世論となる。

 この趨勢は、憲法改変を企む勢力には好都合である。「踏み込んだ対応ができないのは現在の法制上の限界である。だから、憲法に緊急事態条項を設けて対応できるようにしよう」。緊急事態条項の新設を突破口に9条にまで及ぶ改憲に持ち込もうとの算段だが、コロナ禍さなかの世論調査では、事実、改憲支持派が反対派を上回った。

 だが、特措法に基づく「緊急事態宣言」と、憲法に新たに「緊急事態条項」を設けることでは、意味合いがまったく異なる。いまの緊急事態宣言は、あくまで憲法の制約の下にある法律に基づく措置である。しかし、新設の緊急事態条項で想定されているのは、首相が緊急事態を宣言すれば、憲法が保障する三権分立や人権を一時的に停止し、権限を政府に集中させ、内閣は法律と同じ効力を持つ政令を発することができ、国民は従う義務を負う、という内容である。
 戦前の大日本帝国憲法で天皇が保持した「緊急勅令」と似た性格のもので、記憶されるのは、大衆運動や言論を弾圧する宝刀となった治安維持法の1928年の改正だ。当時、田中義一内閣が帝国議会に提出した、最高刑を死刑に引き上げ適用対象を広げる改正案は、審議未了で廃案となったが、内閣は緊急勅令によって成立させた。
 「緊急」という名目で権力者に権力を託すシステムの怖さである。

 強い国家や強い指導力を求める時代の空気は、一旦動き出すと、抗し難いものがある。リベラルを標榜する野党ですらそうである。たとえば、日中戦争開戦の翌1938年、総力戦の遂行のため国のすべての人的・物的資源を政府が統制運用できるとする国家総動員法が近衛文麿内閣により提案されたが、党利党略を優先する保守政党の駆け引きで停滞する審議に人々が苛立ち始める。すると、その中で、「政府は生ぬるい。いまは全国民が一致団結するとき」と、同法の成立の急先鋒に立ったのが、意外にも、当時、無産政党が結集した社会大衆党であった。

 こうして世は、あの時代へと雪崩れ込んでいくのだが、それはいまの空気と無縁だと言い切れるだろうか。

◆ 市民社会の正念場

 不安から国の取り組みに期待する空気が醸成されると、同調圧力が働き、自発的に「下からの総動員体制」がうまれる。少しでも異議を唱えれば、「感染症を甘く見ているのか」「犠牲者が出てもいいのか」「あんたのその考え、振る舞いが犠牲者をうむのだ」との非難が返ってくる。言葉に出さなくても、周りを相互不信の疑心暗鬼が充満する。

 これはまず、国家による監視の条件を整える。読者の多くはすでに、パソコンやスマホを通じ、自分の行動履歴から、購買記録、思想信条や趣味嗜好まで、さまざまな個人情報がどこかに握られている気配に不安を感じた経験がおありだろう。
 コロナ禍対策では、スマホのGPS機能で感染者の足取りを徹底追跡し、濃厚感染者を割り出し、自宅で隔離措置となった者がむやみに出歩かないよう監視する。この手法はすでに幾つかの国で採用されており、現在、保健所職員による聞き取り調査で濃厚接触者の割り出しを行なっている日本でも導入を検討中である。
 IT活用による人々の監視は感染症対策を超えていくらでも広がる可能性がある。顔認証も日程に上がっている昨今、疾うから実施されているとも聞く。

 これ以上に無気味なのは、人々どうしの相互監視である。人々どうしの相互監視に「自粛警察」なる新語もうまれている。マスクを着けているか、人と人の距離を保っているか、閉店しているか、他県からきたのか、etc.、監視している自分がそのうち「正義」の体現者に思えてくる。それは容易に、分断、差別、中傷、バッシングにつながる。
 感染者やその家族はもとより、治療や感染防止に奮闘する医療関係者が「近寄らないで」と避けられたり、子どもの通園・通学を拒まれたりする。言語道断のことだが、社会の日常を体を張って支えながらテレワークできない職業の人々、スーパー・コンビニの店員や宅配便・タクシーのドライバー、清掃事業者、建築作業員、介護士、保育士。かれらにも見下げたり忌避する視線が向けられる。

 自治体が「自粛要請」に従わないパチンコ店を公表すると、電話やSMSで非難や脅迫が殺到した事例もあったが、「感染の危機から社会を守る」ことを錦の御旗に、自分の独善的な価値観からみて社会の「周辺」にある者、いわば「古典的」に「社会秩序を乱す」と名指しされがちな者や集団に対して、ことさら敵意や排除の意志が働く。その矛先が向けられたのが、感染拡大を助長していると批判された野放図な若者たちや、風俗を含む夜の街の人たち、そしてパチンコ店やそこに出入りする人たちだ。パチンコ店は見せしめにされた感もある。

 筆者はこの項を書いていて二つの映画を思い出した。一つは『菊とギロチン』(瀬々敬久監督・2018年)でもあえて描かなければならなかった関東大震災時の自警団。もう一つは、時代も性格も異なるが、アメリカ・ニューシネマの傑作『イージーライダー』(デニス・ホッパー監督・1969年)の衝撃のラストシーンが表象する深淵である。

 「あなたの無責任な行動が医療崩壊を招き、死者を増やす」とのメッセージを日々メディアで流し続け、個々人に危機感と責任感を植えつけて思考と行動の変更を促す方法が社会にもたらす意味や影響を、もう一度考える必要があろう。

◆ 気分はもう戦争!?

 国民学校3年生で終戦を迎えた筆者は、子どもながら、戦中の時代の雰囲気を多少なりとも知っている。リベラル系の識者にも、自虐や反省を込めたふうに見せながらじつは誇っているのではないかと思われる口調で「僕は軍国少年だったが」などという人がいるが、家庭環境のせいか筆者自身が運動が不得手で自意識過剰な孤立気味の疎開っ子だったせいか、筆者はけっして軍国少年ではなかった。戦中に心地よい思いはない。
 なぜこんな個人的なことに触れるかといえば、だから筆者は戦時中の状況を比較的冷静な眼で見ていたつもりだからである。その眼から見て、現在の状況はあまりにその時代の雰囲気に似ている。医療従事者などへの過剰な賞賛は「兵隊さん有難う」を思い出させるし、自粛要請のしつこさは「欲しがりません勝つまでは」。「マスクを着けてない」「外で遊んでる」は「モンペを穿いてない」「敵性音楽が聞こえる」。「防空演習に出てこない」など隣組の監視や愛国婦人会・自警団の非国民呼ばわりの干渉にいま一歩。そしてメディアの、政府や専門家会議の見解や情報を無批判・一方的に垂れ流すさまはまさに大本営発表である。

 ついでにもう一つだけ言わせてもらう。筆者は「令和」という年号に違和感を持つ。いくら美辞麗句で飾ろうと、筆者にイメージされるのは、上で君主なり統治者が命令なり訓示を垂れ(「令」)、下で民衆が整然と打ち揃って平伏し、あるいは、振り仰いで命令を聞く(「和」)ていの図だ。あくまで上に「令」があってその下に民衆の「和」(服属と統合)が要求される「教育勅語」の世界観である。

 ここまで書いてきて、コロナ危機とその対応を「戦争」に譬える政治指導者が多いことに思い当たった。米国のトランプ大統領は「戦時大統領」と名乗り、中国の習近平国家主席は「人民戦争」と譬え、フランスのマクロン大統領も「我々は戦争状態にある」と述べている。
 小池都知事も「コロナとの戦いはまだ始まったばかり。自粛疲れはまだ早い。STAY HOME!」と檄を飛ばした(STAY HOME! 犬に命令するような口調で言うなとの声もあり)。
 コロナ禍が深刻であり、対応に全力を傾ける必要があることを訴えるためであろうが、危機を強調することで政権の求心力を高め、国民の自由や権利を制限する措置の正当性を主張したい。戦時下と措定すれば、国民は異議を控え、少々理不尽で強引な施策であっても進んで受け入れるだろう。そんな政治指導者の思惑が透けて見える。
 だが、ドイツのシュタインマイヤー大統領は、先月、国民に向けたテレビ演説でこう語っている。「感染症の世界的拡大は戦争ではない。国と国、兵士と兵士が戦っているわけでもない。私たちの人間性が試されているのだ」。

◆ 絶望の虚妄なるは

 新型コロナウイルス禍は、自然による人間への逆襲だ、という見解もある。人間が地球環境に限度を超える手を加え、その豊かさを収奪・破壊した。その表れが気候変動や大災害の頻発であり、また、未知の病原体との遭遇である、というのである。そこから、地球に過度の負担をかけない、人間の過剰な欲望を制御した、市場中心主義や大量生産・大量消費・大量廃棄の志向を超えた新たな価値観・生活様式・経済・社会を創造する必要性が説かれている。筆者ももちろんその主張に賛同する。
 因みに、政府は新型コロナ対策として「新しい生活様式」を唱導するが、それは、上のような視点かと思いきや、この言葉がほんらい内包する概念とは程遠い「食事は横並び」「毎朝体温測定」の類のことであった。みみっちさはアベノマスクに似ている。

 今世紀、国際社会が掲げた「人間の安全保障」やその理念を具体化した「SDGs(持続可能な開発目標)」での最も基本的なテーマは、人間と地球環境との抑制の効いた望ましい関係の構築である。コロナウイルス禍の経験と、それを踏まえた反省は、その目標に向けて二歩も三歩も進むきっかけになるはずである。
 だが筆者は問いたい。2011年の東日本大震災と東電福島第一原発事故もそうであったのではないか、そう叫ばれたのではなかったか。それからどうなったであろう。

 では、このたびのウイルス禍はどうか。すでに述べたことだが、国際的なヒトとモノの交流は途絶え、グローバル・サプライチェーンは切断され、国際機関も機能不全。ウイルス感染拡大を防止する措置も、その措置がうみだす社会的課題への対応も、各国政府が取り組むほかはなくなった。人々は多くを国家に委ね、多くを国家に期待する、ことになった。国家は人々に指示し、私権を制限した。人々の間では、同調圧力が働き、同調しない者や、周辺の者、弱者、異質者にたいする差別、分断、バッシング、排除の空気が広がった。政権の強権化やメディアの政権追従も明らかになった(たとえば、分権を貶め「政治検察」を企む検察庁法改正を見よ!)。

 その時期がいつかは定かでないが、いずれはウイルスの威力も衰え、私権制限も解除され、グローバル・サプライチェーンも回復し、経済活動が再開され、社会は旧に復するだろう。だが、表面はそうでも、まったくもとに戻るとは考えにくい。社会の基底からの変容、すなわち、国家の存在感の増大、人々が国家に指示されることへの慣れ、人々の相互監視や、国家の指示に同調しない者へのバッシングや排除、政治権力の高圧化やメディアの権力追従、そして、そうしたこと全体への人々の違和感の希薄化・鈍化、このようなコロナ禍のあいだに経た経験や進行した変化は、必ずや、コロナ後の社会に大きな負の影響を及ぼすことになろう。

 さらに、経済再建とはいっても、世界大恐慌に匹敵する景気後退の後である。コロナ危機のあいだに失職した非正規の労働者や、倒産した零細・中小企業の経営者などの状況回復は容易には進まず、また、コロナ危機を通じて急速に進んだAI化やオンライン化から取り残されて新たに周辺化される人たちも現れ、この看過できぬ厚みをもった貧困層の出現は、ポスト・コロナ社会での、社会不安やポピュリズム台頭の要因にもなろう。
 国際関係も一層複雑さや不安定さを増すことは間違いない。

 コロナ後の世界や社会を考える際、二つのサンプルがよく取り上げられる。一つは、14世紀に起こり「黒死病」と恐れられたペストの流行。もう一つは、第一次世界大戦末期、米国で発生しながら「スペイン風邪」と誤解を招く名をつけられたインフルエンザである。前者は「神の存在」を疑わせる契機ともなり、やがてルネサンスを開いた、いわば「文明の転換」の導き手であり、後者は、やがてファシズムの台頭から第二次世界大戦へとつながる、20世紀の険悪で悲惨な側面から切り離せないイメージをもつ。
 さてでは、このたびの新型コロナウイルス禍は、世界を、社会を、どちらに導くのだろうか。

 望むらくは、「文明の転換」、人間と地球環境が調和・共存し、人々も、人としての尊厳と豊かさをもって公平・公正に生きられる社会の実現である。
 が、しかし、上に述べたように、現実に進行したのは、国家の存在が強固になり、人々に指示し、私権を制限し、人々がそれに慣れ、互いに監視し合い、同調しない者を排除する、自由と民主主義の後退、社会の寛容性の後退であった。いわば、「スペイン風邪」後が辿ったコースである。
 とするならば、わたしたちのコロナ後は、「文明の転換」を遠くに望みながらも、「スペイン風邪」後を反面教師に、コロナ危機で溜め込んだ禍々しいもの、国家主義への傾きや、政権の硬直化や、社会の同質化志向・同調圧力や、社会的分断・排除やを、一つひとつ解きほぐし、取り除いていくことではないのか。
 導きの言葉は、「絶望の虚妄なるは、希望の虚妄なるにひとしい」(魯迅)である。

※ 今号では筆者担当の連載コラム「宗教・民族から見た同時代世界」でもコロナ禍関連を扱っています。https://www.alter-magazine.jp/index.php?go=S0ZGps

 (元桜美林大学教授・『オルタ広場』編集委員)

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