8月15日に寄せて

不条理と屈辱の記憶:日本が残した傷

リヒテルズ直子


◆歴史の歯車の間で翻弄された人々‐‐‐蘭領インド犠牲者追悼記念式典

 日本では8月15日は終戦記念日。しかし、海外には、この日を日本の攻撃からの「解放」の日として記念している国があることを、どれほどの日本人が知っているでしょうか。
 私のようにオランダに暮らす日本人にとって、8月15日は、身の置き場がないような、いたたまれなさを感じずにはおれない一日です。すでにそれに先立つ日々、新聞では、戦時中の日本軍の行為を記録する記事が書かれ、テレビでは犠牲者の声を取り上げたドキュメンタリー番組が放映されます。

 今年は、8月12日の晩、蘭領インド(現インドネシア)でかつて《インド》(インド—ヨーロピアンの略称)と呼ばれた、ヨーロッパ人の血を受け継ぎつつも、日本軍からはヨーロッパ人とは認められず、捕虜として収容所に連行されることもなく、収容所の外で戦時を生き延びた人たちの体験談を伝えるドキュメンタリー映画 Buitenkampers(収容所の外の人々)が放映されました。多くの場合、これら《インド》たちは、オランダ本国に対する強いアイデンティティと忠誠心を持っており、収容所の中でよりももっと過酷な状況で、誰からも保護されることなく、日本兵の残虐を潜り抜けて生き延びなければならなかったと聞きます。

 そして15日、ハーグ市では、例年通り、蘭領インドから引き揚げてきた人々、または、その子孫や関係者1000人余りが、ワールド・フォーラムに集まり、午後から、近くの公園にある「蘭領インド犠牲者モニュメント」の前で開催される犠牲者追悼式典に参加しました。
 式には、犠牲者の家族・親族・知人友人の他、首相はじめ閣僚メンバー、国会両院の議長が出席します。日本との戦争で多くの犠牲者を生んだ、ニュージーランド、オーストラリア、アメリカ、イギリス、インドネシア各国の大使も出席して追悼の花輪を捧げます。
 実は、蘭領インドでの日本軍犠牲者を追悼するこの式典の第1回目が開かれたのは1980年、モニュメントが作られたのはそれからさらに8年後の1988年のことでした。なぜ、戦後すぐにではなく、戦争から40年近くも後になって追悼式が行われるようになったのでしょうか。

 それにはいくつかの理由がありました。一つは、戦争終結時、蘭領インドのオランダ人たちは、すぐに解放されたわけではなく、インドネシア独立戦争の混乱に巻き込まれたことです。かつて隣人だった、また、しばしば婚姻によって家族や親族になることすらあった現地人たちは、日本軍の占領によって国粋意識を高揚させられ、戦争が終わった時、血気盛る独立戦争の暴徒となっていました。戦時中、日本政府が指導していた学校での現地人への竹槍訓練は、戦後、オランダ人支配者に対してむけられる刃となっていきました。戦時中、収容所でオランダ人捕虜を苦しめていた日本軍兵士が、戦争が終わると、連合軍の指示で、現地人からオランダ人捕虜を守る立場に立たされたという例も実際にあります。日本軍兵士たちは、新しい司令官の下で、オランダ人市民を懸命に守ったと聞きます。
 二つには、当時、同じ蘭領インドの出身者といっても、先に挙げた、収容所の外にいた人たちと収容所の中にいた人たちとの間に見られるように、立場によって戦争体験の違いがあり、収容所ごとにも経験の違いがあるなど、戦後、オランダに引き上げてきた蘭領インドの出身者は、たくさんのグループに分かれており一つにまとまることができなかったことでした。

 しかし、戦後長く追悼式を行うことができなかった最も大きな理由は、この人たちが「植民地」支配者の側に立った人たちだったことです。戦争が始まるまで欧州列強が支配していた植民地で、戦後次々に独立運動が起こり、戦前の帝国主義支配が見直された時代、帝国主義支配に手を染めて現地人の生活を犠牲に富を略奪してきたという、いわば[恥の意識]が、オランダ社会では支配的となりました。
 蘭領インドの出身者たちは、収容所で家族を失い飢餓や病苦に苦しむといった辛酸を舐めた後、次には独立戦争の混乱に投げ込まれ、すべてを失って着の身着のまま、国際赤十字などの援助に助けられて命からがらオランダに引き上げてきましたが、当時、戦争で疲弊し、食糧難で住宅事情も悪かったオランダ本国の人々からは、決して温かく迎えられることばかりではなかったようです。「あなたたちは植民地でいい暮らしをしていたのでしょ」という冷淡な視線は、戦後、中国大陸から引き揚げてきた人たちが日本本土の人たちから受けた視線にも似ています。

 今年の追悼式典の開会の辞は、こうした事情を前提に読むと、言葉の間にいろいろな感情を伺い知ることができる気がします。以下、冒頭の挨拶部分を省略し、拙訳を掲載します(原文は、www.indieherdenking.nl/cms/publish/content/downloaddocument.asp?document_id=30 にあるので参照されたい)。関心のある方には是非ご一読いただければと思います。

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2014年8月15日戦争犠牲者追悼記念開会の辞

ヤン・ケース・ウィーベンガ mr. Jan Kees Wiebenga

1945年8月15日追悼記念財団
  Voorzitter Stichting Herdenking 15 Augustus 1945

(冒頭部分 略)

「蘭領インドに出自を持つという意識」

今年の追悼記念のテーマ「蘭領インドに出自を持つという意識」は多くの思いを呼び覚ますものです。東南アジアの夥しい数の島から成る土地で1600年ごろに発展し始めた蘭領インドの成り立ち以来の、さまざまに形を異にする社会への思いはその一つです。

a)戦前の蘭領インド

まず、多様な社会の姿について、現地の人たちの話しから始めましょう。そこにはおよそ13000の島があり、数百の言葉や文化がありました。植民地時代を通して、現在ある国家的統合が生まれるまでには、実際何世紀もの時間がかかっています。オランダ語は今やもうほとんど言葉としては残っていませんし(主権移譲の後はまだ完全にはなくなっていなかったと思いますが)、バハサ(*インドネシアの標準語)が国語として導入されましたが、この会場にお集まりの方は、蘭領インドでは、きっとマレー語を話しておられたと思います。ご心配には及びません。ここで、蘭領インドの歴史のすべてをお話しするつもりではありません。私は、まずここで、戦前の蘭領インドについて触れたいのです。それは、私なりの表現をするなら、重層的社会だったと言えます。ありとあらゆる多様な民族グループが万華鏡のように共に暮らしていました。現地の人たちの他に、例えば、蘭領インド出身のオランダ人、ヨーロッパ出身のオランダ人、モルッカ人、中国人などがいたほか、さらに他に、私がここで挙げきれない民族集団の人たちがいました。戦前の蘭領インド社会の形成にとって 1869〜1870年という年はきわめて重要な意味を持っています。1869年にスエズ運河が開通し、さらに蒸気船も発達し始めています。それによって、蘭領インドは、ヨーロッパに行くにも、また、ヨーロッパからくるのにも身近な場所となりました。同じ時期に、いわゆる農地法が採択され、それによって、現地投資権の政府独占が無くなりました。以来、ゴム、タバコ、キニーネ、コーヒー、紅茶のプランテーション栽培が始まり、巨大な経済発展が起きることとなったのです。

そのほか、当然、バリクパパンの原油など、大規模の地下資源も獲得しました。このようにアクセス可能性が改善され、経済の可能性が広がる中で、当時の植民地には多数のヨーロッパ人が到来するようになったのです。

1900年以後、ヨーロッパからはさらに多くの女性たちがやってきました。新しく美しい都市が発達し、それは、いわゆる植民地型アールデコ様式としばしば呼ばれました。この時期の植民地での生活は、ヨーロッパ人にとっても、遠隔地であること、交通上の危険、健康上の様々なリスク、遠隔地での孤独など厳しいものがありはしましたが、戦争が起きる前の時代には、ほとんど理想的ともいえる社会が生まれていたのです。それについての確信は、例えば、“Daar werd wat groots verricht(そこには素晴らしいものがあった)”という本の中にも書かれており、そんな中で、私自身を含め多くの人々が育ちました。

簡潔に言えば、何か特権のようなものがあったわけですが、それは、決してすべての人にあてはまるものではありませんでした。30年代の経済恐慌は、そこでも感じ取ることができました。蘭領インド出身のオランダ人が多く働いていたジャワの砂糖産業など、さまざまのセクターが大きな打撃を受けました。この時期、蘭領インド政府も厳しい削減を迫られ、政府で働いていた人たちにとっても大きな財政打撃となりました。当時の蘭領インド社会は、実は「時限爆弾の上での長閑な無垢」であったようです。今日、この時代を大人として意識して過ごした方たちはほとんどもういらっしゃいません。この時代を記憶しているとしたら、1920年代の初めかそれ以前の生まれでなければならないはずです。しかし、自分には蘭領インドに出自があるという意識を持っているすべての人にとって、この意識は、決してなくなることはありません。それは彼らの国であり、これからもずっとそうあり続けることでしょう。

b)戦争

そしてそういう頃、、、、そういう頃に戦争が起きたのです。それは、1941年12月8日以後のこと、日本の真珠湾攻撃後のことです。その後すぐに日本による占領が続きました。そして、それが生んだものは、言葉ではとてもいい表せない苦悩を伴うものでした。軍に勤めていた者すべては捕虜となり、それに続いて、戦争捕虜として強制労働が行われました。多くの人々が収容所に送り込まれました。海上輸送で帰らぬ人となった人々もいます。収容所の外で、生き延びるためにあらゆる仕事をし、日本人の手にかからぬようにして生き延びなければならなかった人もいます。
そして、大多数の犠牲者が生じました。今日、8月15日に、私たちは、この犠牲者を追悼します。これは、1945年に、オランダ王国に対する日本の占領が、第2次世界大戦の終了によって終わりを告げた日です。

c)戦後の蘭領インド

多くの人々の苦悩はこの日を持って終わったわけでは決してありませんでした。解放はあり得なかったのです。戦争後に続いた、またしても人々を苦しめることとなった暴力的で政治不安定な時期のことは、蘭領インドに出自があるという意識を持っている人にとっては身に覚えのないことではありません。オランダから多くの軍隊がそこに送られました。そこで亡くなった兵士たちの追悼が、近くルールモンドにあるモニュメントで開催されます。彼らが蘭領インドにとどまっていた1950年ごろまでの苦しい時期を思い起こすと、この人たちは「歴史の歯車の間で」翻弄されていたのだということもできます。この人たちは、国のために背負わされた重い任務を果たしたことで、人々から尊重されるべき人たちです。過去の年間も、また、今も、生き残った多くの人たちがそこに集まってくるのは、蘭領インドがこの方たちにとって心を動かさずにおかないものだ、という事実を示す証拠にほかなりません。

戦争終結後1960年代に至るまで、数十万人に上る人々が、この愛する土地を後にしました。この人たちにとって、自分は蘭領インドに出自があるのだという意識は、これからもずっと残っていくことでしょう。この会場にもそういう方がたくさんいらっしゃいます。そして、この方たちもまた、言うならば、歴史の歯車の間に挟まれて翻弄されていたのではないでしょうか。この方たちは、もう一つ、別の歴史も背負っておられます。自分たちの出自が、ここ(*オランダ本国)ではよく理解されることがなかったという歴史です。自分が生まれた土地を去ることを余儀なくされながら、行きついた先のオランダで本当に歓迎されることもなかった。それが意味していたものは何だったでしょうか?

d)関わった人の表情

この人たちの子どもたち、そして、孫たち、すなわち、第2、第3世代の人たちは、時として写真を見、日記を読みます。特に、自分の親や祖父母、家族、そして、そのほかの知人たちの話を忘れることができません。戦争について、戦争が始まる前の時代について、戦後の時代についてのストーリーは、始めのうちはほとんど語られることがありませんでしたが、後になって以前に比べるとよく話されるようになり、語り継がれていきました。こうしたストーリーの中では、アイデンティティというものが一つの役割を果たしています。そして、ここでもまた、自分が、蘭領インド出身のオランダ人の出自なのか、それとも、ヨーロッパ出身のオランダ人の出自なのか、あるいは、モルッカ人の出自であるのか、といったことが、当然のように問題となります。例えば、私は、自分自身は蘭領インドで生まれたわけではないが、両親がヨーロッパ出身のオランダ人で、かの地に暮らし戦争を体験したというある友人のことを思い出します。彼は私に、彼のように「蘭領インド出身という意識を持っている」人々は、もう誰からも気にも留められなくなってしまった、と言ったことがあります。そして、彼自身、蘭領インドでの戦争がもたらした帰結が自分の子ども時代や家族に大きな影を落とすものであったにもかかわらず、時として、「自分はそこには属していない」という気持ちになることがあるというのです。

私は、さきほどアイデンティティについて触れました。イレーネ・ウーリヒさんが(2010年1月2日のトラウ紙の中で)表現しているアイデンティティの感覚は、極めて的を得たものと思います。「私は本当のオランダ人ではありませんが、だからと言って外国人でもないのです」と彼女は言っています。「私は、どこかその間にいます。気分の上では東洋人ですが、頭の中は西洋人なのです。私は、ものを考え話をする時は西洋人の立場をとりますが、気分の上では世界市民なのです」。

幸福、哀しみ、喜び、悲惨、美、残酷、(*蘭領インド特有の)魔法、無理解、思いやりのなさ、不公平、一体感、などなどについてのストーリーの数々。言うならば、ある土地での暮らしについての、そして、今やあまりにも遠くなってしまったかに見える時代についてのストーリーの数々。でも、それが同時に、とても身近なものに感じられる、、、。
この追悼記念式典では、私たち一人ひとりが自分なりのストーリーを持って集まっています。しかし、私たちは、私たちに共通のストーリーも持っているのです。こうしたことのすべてが、私たちすべてに、程度の違いはあるにせよ、「蘭領インドからの出自への意識」をもたらしているものです。
皆さんにとって、意味深い追悼式となることを祈ります。
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◆不条理と屈辱を生んだ日本

 講演者のウィーベンガ氏は、追悼式の参加者一人ひとりが個別のストーリーを持っているといっています。それは、異なる立場にあった人たち、それがために苦難の多寡や運命を分けることとなったことへの配慮なのでしょう。しかし、同時に、『共通のストーリー』があるとも言っています。この「共通のストーリー」の中には、オランダに帰還した(あるいは初めてオランダの土地を踏んだ)時にこの人たちが出会ったオランダ社会からの冷遇も確かに含まれています。しかしそれ以上に大きい共通のストーリーは、日本軍から受けた辛酸に他なりませんでした。それは、これまで毎年行われてきた追悼式のスピーチにも現れています。

 12日に放映された「収容所の外にいた人たち」のドキュメンタリーでは、日本軍兵士に家族を奪われたり、脅されたりした当時の経験を語る人たちの顔が、悲しみと怒りのどちらとも取れない苦々しい表情に固まり、言葉に詰まってしまうという場面が幾度も出てきます。目には涙が浮かび、頬の肉がかすかに震え、言葉を継ぐことができず、大きなため息を吐かずにはおられなくなるのです。私は今でも「日蘭イ対話の会」で、収容所生活や強制労働の体験をした人たちと交流をしています。日本軍によって家族を奪われ飢餓や病苦に苦しんだ人々がそこに来て私たちと話をしてくれますが、実は、その背後には、「日本人」と聴くだけで身の毛がよだち、トラウマから今も解放されることのない人々が何人もいると言います。この人たちの口から共通に洩れて来るのは、「Absurd =不条理」「vernedering =屈辱」という言葉です。自分が犯した罪とは関係なく負わされた苦悩への怒り、他人としての尊厳を奪われたことへの深い悲しみです。

 追悼式典では、収容所経験を持つ90歳を超える祖母を持つ、中等学校の男子生徒もスピーチをしました。その中で、以下のように述べていたのが印象的でした。
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「その敬礼という動作は戦争の中でもありました。日本人は収容所に暮らす人たちが灼熱の太陽の下で、時として、何時間にもわたって天皇に対し最敬礼の姿勢を取るように指示しました。この動作によって、日本人は、尊敬の姿勢を強要したのです。
 この言葉によって、身振りの中には、弱みを持つものがあるということが明らかになると思います。日本人は、尊敬の姿勢を強要したかったのです。姿勢は、その時、彼らの指示を満足するものであり、ひとびとは敬礼をしました。しかし、日本人らが求めた尊敬は、当然ですが、得られるどころか、はるかに遠いものでした。」
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 この生徒の祖母は、後でテレビのインタビューで「収容所体験についてお孫さんにたちによく話をされますか」と聞かれ、「ええ、楽しかったことはね、でもそれ以外については話しません。嫌な思い出については話して苦しませたところで、何の意味のないことでしょう。私たちは、これからも生き続けなければならないのですから」と答えていました。屈辱の記憶は、沈黙することで新しい世代から遠隔の場に置き捨てておきたい、とでもいうかのようでした。
 実際、蘭領インドで日本軍の暴力の犠牲になり、生き残った人たちの口からは、当時の話を具体的に聞くことはほとんどありません。実際、わが子にすら語らない、語れない人が多いのです。語るには苦しすぎる経験、思い出すのさえ身の毛がよだつトラウマ経験であるからなのでしょう。しかし、過去について問うても語ってくれない親を持った第二世代の人たちの中には、親が心に自分にも触れられない何かを秘めていること、そして、自分の出自を知りたくても親に問うこともできずに、苦しむ人たちが多いのです。
 「不条理」「屈辱」は、こうして、何世代にもわたって世代を超えて苦しみを連鎖させていきます。その因を作ったのが、わが日本の兵士たちだったことに、いたたまれなさが増します。

◆戦火が拡がる今という時代に、日本は、、

 今年の夏は、身近なところで、戦火に続く戦火が起きた嫌な夏でした。そしてその状況は今も続いています。
 7月17日。アムステルダムの空港を発ってクアラルンプールに向かっていたマレーシア航空17便が、ウクライナ東部の内戦地帯の上空で、地対空ミサイルによって撃破され、乗務員と乗客全員298名が上空10キロの場所から地上に落とされ即死しました。
 その後、オランダ政府は、犠牲者の遺体と遺品を一日も早く帰還させるためにロシアに対して停戦交渉を続けましたが、状況が改善されることはなく、遺体回収も事故調査も不十分なまま、結局は事故現場からの撤退を余儀なくされました。内戦とは何の関係もなく、戦闘ミサイルに撃たれて亡くなった犠牲者のことは、開会の辞を述べたウィーベンガさんの冒頭の挨拶でも触れられました。多分、そこに「不条理」の思いを感じたのではなかったでしょうか。犠牲者に対して、オランダは、国を挙げて追悼式をし、事故現場から送還されてきた遺体は、一体毎に霊柩車に乗せられ、空港から身元確認の場所までの長い道のりを、国民が見守る中、転送されて行きました。それは、まるで「わたしたちはひとりひとりの人間の尊厳を尊重するのだ」という国家規模のマニフェストであるかのようでした。

 ウクライナの戦火が激しさを増す中、パレスチナのハマス派の攻撃に対するイスラエル政府軍の猛烈かつ悲惨な攻撃が続きました。イラクでは、撤退していたアメリカ軍が、再度軍事介入することとなりました。
 大戦の世紀と言われた前世紀。第二次世界大戦以後のヨーロッパは、戦争を二度と起こさないために平和と民主制を実現、振興してきたはずですが、それも束の間、世界は今、各地の戦火を消し止めるどころか、収拾のつかない事態が各所で拡大しようとしています。
 そんな中で、遠い日本から聞こえてくるのは、集団自衛権を認める閣議決定や武器輸出の話しです。この情報化時代に、あたかも世界の動きとは一線を画したように、国内で減速する経済事情だけを理由に政策を決めようとする日本政府の動きには、危なさを感じずにおれません。日本の中というより、世界の火種をますます大きくする動きに加担することになるという現実を、政府の指導者たちはどれほど自覚し、どれほどの責任を感じているのだろうか、と思わずにおられないのです。

◆日本社会に根強く残る不条理と屈辱の文化

 8月15日、韓国では、パク大統領が東北アジア地域に原子力安全諮問グループを設置することを呼びかけました。本来ならば、原発事故を起こし、多数の被災者を抱える日本こそ、こうした呼びかけを率先して行うべきだったのではないか、と思います。
 被災者の救済も事故処理の見通しもないままに原発再開すら議論する現政府のことを考える時、ふと思うのはこのことです。「不条理」「屈辱」は、果たして日本人が海外の人々に向けて起こしたことだけだったのだろうか、と。
 戦時中戦地に送られた兵士たち、特攻隊として若い命を奪われた若者たち、また、戦争が終わった後もずっと、日本には、人としての尊厳を奪われ(屈辱)、どんな不条理の中に置かれても決して声を聞かれることのなかった人たちが様々の場にい続けていたのではなかったでしょうか。

 虐待を受けて育った子どもは、親になってつい子どもに虐待をしてしまうことがあると言います。それを防止し、親が自分自身で虐待の過去を自覚できるようになるには、大変多くのエネルギーが必要だとも言います。
 同じように、日本人が他の人々に対して起こした不条理や屈辱は、実は、私たち日本人が、我慢という名で受け入れることを余儀なくされてきた不条理や屈辱を底に秘めているものではないのでしょうか、、、そして、それは、私たち日本人の育ちの中に、乱暴にもインプットされてしまってきたことではないのか、、、そう思えるのです。天皇の像に敬礼を余儀なくされてきた戦前の日本人。しかし、戦後の学校から、子どもの尊厳を奪う行為は本当に払拭されていったでしょうか。

 でも、実をいえば、そういう国は、日本だけではありません。今、戦火の中にある世界の多くの地域で、特に、権力者の暴行や支配者の独裁が許されている地域で、自らが置かれた不条理や屈辱の中で、他者にまたそれを強いようとしている人たちがいるように思えてならないのです。誰かが、この負の連鎖を止めていかなければならないのだとしたら、日本人に課された役割、日本人だからこそできる役割は、とても大きなものに思えます。それは、何かを「敢えてしない」勇気であるとも思います。

 (筆者はオランダ在住・教育・社会問題研究者)


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