【戦争というもの】(8)

―― 徴兵制(兵役)拒否を再考する

羽原 清雅

 「徴兵制」という言葉は、死語に近いだろう。日本の国民が兵役を強制されることは、まずありえない。ただ、戦争の歴史を考えるとき、過去のこの制度の果たした役割と責任を忘れることはできない。一度決まった「制度」は、運用されるなかで強化されることはあっても、問題を生じたり、反対の声が上がったりしても、廃止や改革することは極めて難しい。
 徴兵制というこの制度について、かつての動向と反応をぜひ考えて見たい。

 この制度を具体的に感じたのは30年近く前に、北九州市で勤務したときだった。地元・八幡出身の「イシガ・オサム(石賀修)」という人物が兵役を拒否した、という話を聞いた。当時、彼は存命であり、新聞記者として会えば会えたのだが、あまり真剣に考えず、機会を逃してしまった。長い記者生活のなかで残念で、反省される一事だった。

    イシガ・オサムのこと

*人となり 石賀修(1910-94)は旧制小倉中学から東京帝大を卒業、無教会派のキリスト教徒になる。暴力は常に誤りとし、平和、平等、質素などを信条とするクウェーカーに共鳴、またエスペラント語を学んだ。『ニルスのふしぎな旅』で知られるスウェーデンのノーベル賞女流作家ラーゲルレーヴの作品『エルサレム』などを翻訳している。彼は、エスペランティストのためか、ペンネームとしてか、イシガ・オサムを名乗る。
 1934年に「戦争反対者同盟(WRI)」に参加。徴兵検査で現役補充兵に適さない「丙種」とされたが、兵籍には編入されて、43年8月に原籍の岡山に出頭を命じられるが、処罰も覚悟して兵役を拒否、留置後に罰金刑50円の判決を受けた。一時福岡の女学校、さらに鹿児島・鹿屋のハンセン病の国立療養所・星塚敬愛園に勤めたあと、終戦3週間前の招集で軍の衛生兵に従事。終戦後から11年間、この療養所に戻って奉仕の生活を送った。

*イシガの思い 彼は『神の平和―兵役拒否をこえて』(1971年)の著書で、戦時下での自分の兵役拒否への思いを記している。だが、最後の段階で転向し軍務についたことからすれば、完全な確信犯ではない。むしろ、徴兵という強制をめぐって思い悩む姿が、知識層の実態だと思えるのだ。「国家」対「個人」の葛藤である。彼の残した日記・手記から以下に引用する一部からも、そのことは鮮明に示されている。国家の制度である徴兵を拒否することは、法制的に難しいこともあるが、当時の国家権力としての軍隊や警察機能の暴力的な横暴のなかで、また個としての人間の煩悶に苦しむなかで、完全な拒否のむずかしさが示されている。

 「死刑を思っては顔をそむけたくなり、戦争の苦しみを察して心重く、家宅捜索の結果物を失うことを悔やむ」(1942年2月25日)
 「(ある夫人からの便りに)『非国民でしょうか』とあるのを見て、ほほえましかった。こちらのほうでいまに超非国民ぶりを見せてあげますから驚かないように、と言ってやろう」(同年2月26日)
 「(国家主義者、東亜共栄圏を思い)かれらは国家をダシにして、自分の欲望のために他人のいのちをイケニエに要求しているのだ!われらのただ一度のいのちを!」(同年4月27日)
 「戦争に負けることよりもさらに恐ろしいのは、良心の命ずるところを公然と破ることだ。自分の良心の命ずるところに忠実に従おうとすることより以上に国のためにつくし得る道を知らない」(同年5月8日)

 「(召集の前段階の徴兵時の)点呼に先だって、(兵役拒否を)自首することを思いついた。憲兵に対しても、憎悪を持ったりすることはまちがっている。だがこの手段に出れば憲兵に対しても、また父に対しても、また自分自身にとっても、いちばん当りがやわらかそうに行きそうだ」(同年9月16日)
 「ゆうべ感謝して食事の膳にむかったときに、ふと営倉の食事の連想から苦い現実の営倉生活に考えが行くときなどは、だいぶ考えこんでしまう。死を覚悟すればすべては問題にならないのに」(同年9月29日)
 「かりに平和主義のせいで牢屋にはいったとする。そのときにも、いつか出て来て、この人は平和主義のために牢屋にはいったのですよ、などと人に言われるときのことを思って得意になっている。こんな軽薄な態度(同胞への愛の不足を示している)で行動することはなんにもならない。もっと愛の深められた立場からでなければ、と思う」(同年10月18日)
 「点呼はイヤ、病気もイヤ、牢屋もイヤ、なんとかしてのがれたいと思う。のがれる道はない。イヤだ、イヤだと思う」(同年11月2日)

 「『八紘一宇という美しい理想』が死にたくない人間をおおぜい殺すことを必要とするものならば、それを美しいともよいとも思えない」(1943年3月5日)
 「結局のところ、わたしの主張はこうだ、戦争は悪いと思うからしない、それで殺すといわれるなら、やむを得ない、戦争に直接関係しない仕事のためなら働こう」(同年5月19日)
 「心の欲するところにしたがって則をこえ得る境地になったか。わたしは兵役に服するよりは懲役に服したい。戦場で死ぬよりは刑場で死にたい。なぜならば、戦争は罪悪だと信ずるから。罪悪に組しないのは正しいことだと信ずるから。そしてわたしはこのために生まれてきたのだと信ずるから」(同年6月7日)

*イシガの「転向」 このように悩む石賀修がなぜ、強制に服するような「転向」に至ったのか。
 「いったいわたしの求めるところは平和にあるのか、戦争の絶滅にあるのか。もし前者ならば、それは戦争の中にも存在する以上、必ずしも戦争の絶滅の要求とならぬかもしれぬ。またもし後者ならば、戦争の絶滅即平和でない以上、この要求にどれほどの意味があるかいま一度考慮しなくてはならなくなるのだ」

彼は、戦争と平和との間に常識的には一つの線が引くことができる、と考えてきた。しかし、平和即善、戦争即悪、とは言い切れないものがある。逮捕投獄され、軍需生産を命じられた時も従事しないのか。彼はそれでも、平和的生産なら従事してもいい、と思っていた。だが現実には、軍事的生産を強制されれば、その道は閉ざされる。では、戦争のために働くか、餓死の道を選ぶか・・・論理的にはそうなるのだが、現実には餓死の道の選択は容易なことではない。この点が、戦争抗止の手段をジャスティファイできない理由のひとつだった、という。

 「戦争抗止者は全力をあげて積極的に平和の障害を除去すべく努めねばならないのだ。しかしわたしはその挙に出なかった。かげでコソコソやっていただけだった。そしてわたしが兵役忌避の挙に出たのは、とうとうせっぱつまって、やむを得ずしたことなのだった。この私の臆病さのうちには戦争抗止者インターナショナル(註:戦争反対者同盟)の原理に対する懐疑もあった。ひとつの社会的運動の原理としてはそれはあまりにラディカルであり、ある意味では小児病的である。少なくともわたしにとってはいささか無理なことを感じていたのだった」

 彼は、ひとつの理論と見ないで、個人的なあかし、神から示された道としてみれば、議論の余地はなく、それに従うのが唯一無二の義、とする。

 「戦争をいとい、その速やかな終結を願う心はかわらないが、非合法運動によってでもその終結を促進しようという熱意と勇気とは今の私にはない。召集がくればわたしはおとなしく出かけてゆく。そして戦うだろう。しかし、つとめて人を殺し傷つけることを避けるだろう」

*どう受け止めるか 石賀の思考の彷徨を、どのように感じるだろうか。かりに今、戦争まぢかとして、戦争反対に突き進めるか、あるいは身近な課題として悩むか、あるいは戦争の掲げる「大義」容認の立場に向かうか。石賀のたどった道は、人それぞれの思いで考えて見たい。
 宗教的信念に忠実たらんとするか、個人としての精神・信条を生かすか、おのれの肉体的な苦痛を避けて温存を図るか、流れに身を任すのか・・・その可否を問えるのは個々の自分しかない。石賀の思いをもとに、「戦争というもの」をもう一度考えて見たかった。

    兵役拒否者の姿

*斎藤宗次郎 斎藤(1877-1968)は岩手県花巻市の寺に生まれ、岩手の師範学校を出て、花巻小の教諭になる。愛国青年として6週間の入営生活を送るが、病気で仙台の病院に入院、そこで内村鑑三の著書に触れ、キリスト教に目覚める。1903年、徴兵検査を受けることになり、「敵を愛せよ」の立場から、兵役忌避と軍費に供する納税拒否を主張する覚悟で、内村に手紙を出す。すると、内村が花巻に飛んできて、「キリストが他人の罪のために死の十字架についた同じ原理で戦場に赴く」「戦争事態に直面したときの無抵抗」「他人を自分の代わりに戦場に向かわせる兵役拒否者は臆病者」という趣旨で説得された結果、翻意して出征したという。

 内村は日清戦争を支持したが、その悲惨さを見て日露戦争については非戦論を打ち出した人物。また、黒岩涙香の「万朝報」社在勤時に、涙香が戦争を支持したのを機に、内村は幸徳秋水、堺利彦とともに退社したことはよく知られている通りだ。
 この内村の宗教的論理は、非宗教者に通じるものだろうか。また改めて触れていきたい。

 ちなみに、斎藤はその後、信仰の道を歩み、上京して内村の死まで身近にいて信奉を続けた。
 ところで、『吾輩は猫である』の挿絵を描いた洋画家の中村不折(1866-1943)は、斎藤を「花巻のトルストイ」と呼んだという。また、同郷で20歳ほど若い宮沢賢治とも近しい付き合いがあったという。なお、斎藤には自著『花巻非戦事件における内村鑑三先生の教訓』がある。

*矢部喜好 矢部(1884-1935)は、福島県喜多方市の出身で、会津中学在学中に入信したプロテスタントの牧師。学生時代から「神は人を殺さず、戦争は人を殺す」と街頭で呼びかけていたという。日露戦争時に召集を受け、仙台の連隊に自首、兵役を拒否して軽禁固2ヵ月の判決を受けるが、その後看護兵として応召している。

 そのあと、アメリカに10年ほど留学、米人宣教師と出会い、帰国後に滋賀県大津市膳所の膳所同胞教会、大津同胞教会にあって琵琶湖周辺での教化活動にあたった。「永遠の平和を獲得するための戦争、などは痴人の夢」「剣をとる者は剣にて滅ぶべし」と述べた。田村貞一著『矢部喜好伝』。
 護憲運動を率いた同志社大学長・田畑忍は、矢部の弟子だった。孫弟子に土井たか子がいる。

*須田清基 須田(1894-1981)は、群馬県安中市に生まれ、第1次世界大戦の1914年に安中教会牧師の柏木義円(1860-1938)のもとで受洗。柏木は海老名弾正、新島襄らに学び、廃娼運動に参加、教育勅語、未解放部落、朝鮮人虐殺問題を批判し、日露戦争以来非戦論を説く。

須田は除隊後、救世軍士官学校、台北神学校に学んで独自に全国を伝道。トルストイの影響も受けて、以後召集は受けないとして軍隊手牒を焼却、23年に軍籍離脱書を陸相あてに送った。これは認められず、当局の監視が付く。台湾に戻り、伝道を続けるが、神社への参拝を拒否。その後、安中に戻り、紙芝居を持って伝道に努める。「上毛かるた」の原案を作った、といわれる。プロテスタント系の真イエス会の長老を名乗った。伊谷隆一論文「須田清基」。
 

*明石順三、明石真人、村本一生 いわゆる「灯台社事件」のケース。この項については、筆者が知遇を得ながら、この件については話したことのない先輩・稲垣真美の著『兵役を拒否した日本人―灯台社の戦時下抵抗』を活用させていただき、紹介したい。稲垣は終戦直前の19歳の時、「勉学半ばに入営」し、非戦・反戦の気持ちを持ちながらも「生死を賭してまで抵抗する勇気はなかった」と記している。自戒の書か。

 明石順三(1889-1965)は滋賀県米原市に生まれ、彦根中学を中退して渡米、邦字紙の記者時代にワッチタワー(無教会キリスト者集団)に接して、1926年に帰国、このグループの日本支部・灯台社を結成する。いわゆる「ものみの塔(聖書冊子協会)」「エホバの証人(証者)」である。
 聖書無謬、唯一神信仰、偶像崇拝禁止、そして福音書の「殺すなかれ」の立場で、兵役拒否を説く。

日本は折から、治安維持法(25年)ができ、最高刑に死刑が追加(28年)され、31年には満州事変が勃発、日本が戦争推進に踏み切った時代だった。ヒトラーの時代のドイツでも、この宗教の1万人以上が弾圧、うち2,000人の信者が拷問、虐待に命を落とした、という。順三を支えた夫人も終戦前の44年6月、58歳で獄死している。
 灯台社に手が入ったのは33年、大本教が弾圧される2年前で、明石の15歳の長男真人が伝道中に検挙されたほか、全国で100余名の伝道者が検束、さらに朝鮮、満州、台湾でも官憲の手入れが進んだ。

 なお、順三は終戦後に釈放されると、アメリカのものみの塔本部の姿勢が、世俗化している旨の公開質問状を送る。だが、本部からは「除名」との書状が届く。明石も、本部との絶縁を宣言して、灯台社は消えた。長い、厳しい闘いはなんだったのか。津山千恵著『戦争と聖書―兵役を拒否した灯台社の人々と明石順三』など。

 村本一生(1914-85)は熊本県阿蘇の医師の長男に生まれ、熊本中学から東京工業大に進み、灯台社を知る。卒業とともに、灯台社に住み着くが、38年召集、補充兵として熊本で入隊する。39年満州出征から戻り、兵舎から脱走、灯台社に行き説得されて1日で帰るが、軽営倉3日の処分に。同年6月の軍法会議で懲役2年の判決を受けるが、満州時代の原隊がノモンハン事件で大量死したことで召集解除となり、40年末に釈放。
 しかし、41年末に灯台社再建に動いたとの名目で再検挙。その際の仲間2人は獄死。43年に治安維持法違反で懲役5年の刑を受け、獄中では裸で水責め、気絶・蘇生・拷問の繰り返しも。釈放は終戦後の45年10月。明石順三とは7年ぶりに再会した。その信仰は一貫していた。

 明石真人(1917-?)は、順三の長男で、15歳で検挙されたが、20歳の39年に入隊、銃器貸与と軍事教練拒否で営倉入りしている。そして不敬罪、抗命罪で懲役3年の刑を受けるが、恩赦で6ヵ月減刑となり、さらに転向声明を出して41年11月に仮出所となり、軍務精励を誓い原隊に復帰する。そして、戦車隊に入り、一等兵で帰還した。

 転向の手記では、自分はこれまでエホバの証者と自称、国家義務、責任、人間的な名誉、権利、現世での生活も否定してきたが、それは自己中心の独善主義だった、自分の信仰は「死に対する恐怖とか現社会に対する不満とか人生的煩悶とか他宗教に対する不満より発したものではなくて、無智な子供の時代より父がその信仰的立場から教育した結果有するに至ったもの」と述べている。
父順三は、その死まで転向した真人と会うことはなかった。

 信者のひとり、三浦忠治(1918-55)は、39年に香川県善通寺で兵役拒否の不敬罪に問われ、懲役2年の刑に服し、戦後は同県で農業、塩業を営んだ、という。彼のように状況のはっきりしていない犠牲者は相当数にのぼるとみられている。

 ウィキペディアを見ていたら、出所は不明ながら、灯台社にかかわった人々として200人余のリストがあり、かなりの検挙者がいたことがわかる。名字から見ると家族、一族も多い。また、稲垣によると、拷問などでかなりの人々が転向せざるを得なかったという。
いずれにせよ、迷いは多くても「個」の自立、維持こそが人生の命運を分けることを、学歴があろうがなかろうが、先人の労苦のなかに改めて知らされるのだ。 

*北御門二郎 北御門(1913-2004)は、熊本県球磨郡湯前町の旧家に生まれ、旧制5高から東京帝大に入学、在籍のまま旧満州ハルビンに行きロシア語を学ぶ。トルストイの平和思想に共鳴してロシア語を学んだもので、のちに農業の傍らトルストイの『復活』『戦争と平和』などを翻訳した。戦後は翻訳や文学活動を重ね、九州での護憲運動に力を入れていた。

 大学を中退して帰郷していた38年、兵役を拒否して逃げたが、家族らの説得で徴兵検査を受けたところ「右の者は兵役と無関係」とされ、徴兵忌避を公認されたという。イシガ・オサム、そして北御門を訪ねて直接話し、『戦争拒否 11人の日本人』を上梓した、若い山村基毅は「明らかに彼(北御門)は『狂人』扱いをされた」と書いた。
 山村によると、北御門は終戦の年に、村長から「勤労奉仕出動命令」を受け、村長宛に「小生は精神病患者です。戦争は如何なる美名を以て粉飾しようとも、罪悪たることを免れざること。従って戦争に加担乃至協力することは、極力避けざる可からざること」などと手紙に記し、出動命令を拒否した、という。北御門著『ある徴兵拒否者の歩み―トルストイに導かれて』。

    『良心的』な兵役拒否とは

*兵役拒否者の背景としての信仰 何人かの兵役拒否者の事例を見てきた。みな、高学歴で宗教なり思想家のよりどころというか、バックアップというか、その信念信条には一つの基盤があった。
 学者、作家、そして宗教者は、兵役拒否について「良心的」という修飾語を付ける。では、「良心的」とは何か。

 「良心的兵役拒否の歴史は、・・・みずからの信ずるところを貫いた《良心》の力を実証してきた。そこには、国家を支え、国家が守ろうとする価値体系とは異なった別の信念体系に殉ずる、厳しい忠誠相克のすがたが端的にあらわれている」(宮田光雄著『非武装国民抵抗の思想』)

 「何でもかでも戦争はいやだ、といって回避することではないということであった。自分の良心に問いただして絶対に正しいという確信がでてこなければならぬこと、また、いたずらに生命を惜しむ卑怯な態度をとることはゆるされず、時としては戦闘員にまさるほど勇敢でなければならぬ、ということが原則的に、あるいは潜在的に約束されている。語を強めていうならば、そこには殉教者的な精神が内在するということでもある。これは、戦争を前にして身を引いてかばう態度ではない」(阿部知二著『良心的兵役拒否の思想』)

 「良心的兵役拒否の立場をとる者たちに加えられる最大の批判は、昔から、しかも世界中どこの国でも一致して、『死を恐れる卑怯者だ』、『なまけ者だ』という点にあった。しかしながら、良心的兵役拒否者が『ひきょう』や『なまけ心』から出ているものかどうか、さらには、卑怯者やなまけ者が良心的兵役拒否の立場に立てるものかどうかについては、アメリカの例、ドイツの例、さらには日本における諸先輩の例で、ほぼ明らか」(日本友和会・市東礼次郎、高田哲夫著『良心的兵役拒否』)

 「それ(兵役拒否)が表面的な勇気ではなく、個人の心の深奥の良心の問題であることを学んだと思う。キリスト者の良心的兵役拒否者について言えば、イエス・キリストの教えた『隣人愛』、および『無抵抗』の精神を彼らは自己の良心において最高の価値と認め、いかなる困難に遭遇しても、自己の良心における決断であるからこれを譲りえなかった。良心の決断であるから、圧迫に抗する勇気が生じた」(同上)

 国民皆兵、強制される兵役義務、そして迫られる戦場での死、反抗すれば待ち受ける暴力的制裁。これに打ち勝って、反対を押し通せるのか。イシガ・オサムの迷える「転向」、あるいは灯台社半数にのぼる「転向」者などの姿勢は、信仰が足りなかったためか。
 そのような突き詰めたものではないことは、阿部知二自身が「私は良心にもとづく抵抗をすることもなく、多少の逃避的態度をとるのみで、その戦争のあいだをすごしたことを恥じなければならない」と述べている。

また、前述した日本友和会の筆者も「この拒否をするには家族を含めて国賊の汚名を着せられ、職を失い路頭に迷うがあっても節を曲げないだけの覚悟が必要であろう。筆者はそのような時に、徴兵令に対して良心のゆえにはっきり『ノー』と言いうるとは断言できない。まして、過去において、『ノー』を言いえなかった人を責める資格は今日誰にも全くない」としている。 
  
おそらく、かつての日本の過酷な徴兵制の執行に耐えうる人間など、数えるほどしかいなかっただろう。このことは、兵役拒否の場合だけではなく、戦時下の言論弾圧のケースも同じで、わずかに共産主義などを信じた人々が若干存在した程度で、ごく一般の人々にとっては耐えきれないのが当たり前ではなかったか。
国家の命令、そして暴力的精神的掣肘にどれだけの人間が耐えうるだろうか。国家が強制的に人間を一つの方向に固めてしまうなかで、宗教があろうが、主義主張があろうが、これに耐え抜けるレベルの人はそういるものではない。

国家が、国民の意思に沿わないままに、「戦争の事態」を押し付け、個人の信条、思考、環境、家族などを一律に無視して、単に制度として兵役を課する。これから逃れることは「いたずらに生命を惜しむ卑怯な態度」「なまけ者」なのか。国家の決めた制度や措置をすべて容認できるのか。それほどに、国家の決定は正しく、優先しうるものなのか。宗教者の多くがイシガ・オサムのように深刻、かつ多様に悩み、転向している現実を非難するのか。宗教者、学者、思想家たちが、それほどに強靭であって≪言動は強く、行動は弱く≫ということにならないでいられるのか。

 この全国民を対象とする国家システムに抵抗する場合、ごく一部の立場から「良心的」という形容詞においてハードルを高め、ごく正常な、多くの人々を区分すべきではない。結果的には、この差別的論理の展開は、反戦・兵役拒否・国家横暴への抵抗といった姿勢を否定し、国家的独走に追従することにもなるだろう。国民が戦争自体に納得できず、「イヤダ!」と思う気持ちに囚われることは、人間としてむしろ自然の姿のように感じる。

*「良心的」という立場 宗教を持たないながら、殺したくないし殺されたくない、暴力を受けたくない戦争反対者は決して少なくない。徴兵制への動きもなく、一見平和な日本においては、必要のない論議のようだが、このような姿勢は日ごろから考えておいた方がいい。
改憲論者も、愛国論者も「戦争はいやだ」「平和主義は国是だ」と抽象的に口をそろえる。だが、軍備増強の流れのなかに戦争への道があり、「平和のため」といいつつ防衛体制に仮想相手への先制攻撃をも含める権力側の発想が芽を出す昨今、「兵役」の論議はやはり必要である。

 『戦争は悪』との立場からすれば、「戦争はいやだ」「戦争に参加したくない」「殺し殺されたくない」といったごく一般的な人々の気持ちとの間に、「良心的」という一線を引いてほしくない。一般人のそのような姿勢は「良心的」ではなく、なまけ者、卑怯者、転向予備者に過ぎない、とは言えまい。戦前、国民皆兵制度が生まれて以来、徴兵回避に走った多くの事例がある。この点は改めて後述したい。

 もう一点、他国の攻撃があった場合の想定がある。
 また、キリスト教の日本友和会の著者は「支配者の経済的搾取や各種の不条理な処遇を受けている植民地の人々が、その社会的不義を取り除くため武器を持って立ち上がるのは十分理由のあることである。それらの人々が、武器をもって戦う以外に、自分たちの上にのしかかっている不義を取り除く方法がないとして、戦う決断をしたならば、われわれはその決断を尊敬せざるを得ない」という。では、どうするのか。

 そこで、ガンジーの言葉を引いている。要約していえば、インド民族の目標はスワラジ(自治)で、暴力によって自由になりたいが、暴力では解放しえない、スワラジはインド独特の武器たる魂の力、愛の武器、真理の力なしには到達できないのだから・・・と述べる。要は「平和的手段により勝利を得るまで、植民地支配のような不義が一時的に勝つのをしのばねばならない」としている。

 話し合い、交流、外交による説得を説き、迂遠ながら時間には耐える。この論理は、わからなくはない。対北朝鮮問題の取り組み、中国に対する和平防衛策、地位協定や新基地建設をめぐる沖縄の求める対米交渉も、この手立てで、ということなのか。配慮の狭い国家、権力にそうした「正義」の論理が通じるものか。現実のありようは容易ではない。

*宗教団体は信者を守るか これは、批判としてではなく、感慨として書いておきたい。
 イシガ・オサムにしても、矢部喜好にしても、あるいはアメリカの本部から除名された灯台社の明石一族にしても、その信奉する宗教団体は彼ら個人の煩悶や闘いにどのように支援したのか。こうした宗教団体と信者の関係は、あまり語られていない。

 内村鑑三は「非戦論は、道徳的、宗教的に戦争を否定するもの」「反戦論は、戦争に反対し、国家が戦争行為に出ずる時には之を邪魔し、場合によっては自国の敗戦をすら企図するもの。反戦論者は国法を全く無視し、国家の命令なりと雖も、己が主張に反する事には従いませんが、非戦論者はどこ迄も国法を重んじ・・・国家の命令には服従する」「非戦論者は、国是が定まる迄は大いに論じますが、一旦定った以上、それが自己の意見と同じであろうと否とに関係なく、喜んでそれに服従する」(「基督教平和論」1936年)と反戦と非戦の違いを説いた。

 また、矢内原忠雄は、イシガ・オサム夫人宛の手紙で、イシガが徴兵検査の点呼に出席せず拒否したことについて、相談があれば「点呼を御受けになることを御すすめ致した」「国民として兵役に服し、出征することは、その人当人の罪悪ではないと私は信じますが、修様は平素の純な御考を行動に移されたのでありましょうし、そこには他人の批評を許さざる御精神が感ぜられて、厳かにも、また痛わしくも感ぜられます」としたためている。
 このような論理の展開には、苦衷のなかで結論を出す信者と、一見もっともにも覚えるリーダーとの間に、近づき難い距離を感じざるを得ない。

 宗教団体、あるいはそのリーダーについては、おのれの組織温存のために闘いを捨て、信者の苦闘に関わろうとしなかったような一面がうかがえる。例えば、満州事変(1936年)前後から日本の大陸侵攻戦略が強化されていくと、政府や軍部はあらゆる組織に対して天皇の名において国家への強制的な忠誠を求めていった。

 そのなかで、『オルタ』前号に書いたように、天理教も、キリスト教団も組織的に旧満州に地元民の開拓地を収奪するなどして新しい村を開き、信者を募って多くの開拓団員を送り込んだ。
 日本キリスト教団の富田満統理は伊勢神宮を参拝し、代表的な信者である賀川豊彦は国際的な戦争反対者同盟(WRI)を脱退するにあたって「平和論を太平洋上に捨てる」と宣言した、といわれる。日本の仏教各宗派も戦争に協力し、戦後になって少数の宗派が反省を表明した。

 宗教団体は、個々の信者の戦争と死をどう考えるのか。経過を見る限り、組織の温存第一であり、信仰にもとづく言動は信者任せ、のようにも見える。宗教の基本的な理念からすれば、人間の死を人為的に招く戦争には同調し難いもののように思える。そして、宗教的政党を含めて宗教集団である限り、戦争の流れを阻止するよう日頃から立ち向かい、信者の死はもちろん、殺し殺される戦争というものに伴う悶えや葛藤を救済することがなによりも重要、のように考えられるのだが、どうか。

*「非良心的」な戦争拒否 ここに『「非」良心的兵役拒否の思想―非武装論の再生をめざして』という本がある。元毎日新聞記者村田豊明の30余年前の著作である。彼とは、中学時代の同級生だったが、近づきがたい優等生の存在で、ほとんど話したことはなく、卒業以来数十年会ったこともなく、たまたまこの原稿をまとめるなかで彼の考え方を知ることになった。

 村田は、著名作家の阿部知二の著作(『良心的兵役拒否の思想』)に対応するために、一字違いのタイトルにしたのだろう。戦争直後に子ども時代を送ったわれわれと、戦中派との違い、を感じた村田の気持ちに通じるものを思い起こして、懐かしんだ。
 筆者が表現した非宗教的に戦争に反対する一般人を、村田は「生活者」、あえて「卑怯者」として、先に引用した「有名な阿部氏や立派な肩書(註・東北大学教授)を持つ宮田氏の発言がそれだけの理由によって受け入れられることが怖い」「戦争と平和は圧倒的に生活者、庶民にかかわる問題です。『偉い先生の言うことだから間違いないだろう』と鵜呑みにするのでなく、自分の体験と実感に照らして納得できない点は納得できないと主張する心構えが生活者の側に確立されることが必要です」と、あとがきに書く。

 筆者も、同じような印象があり、戦争への潮流を止め、戦争の阻止に動くには、特定の階層、特別の思想に立つことにとどまらず、より広い人々の取り組みが必要だ、と思っている。
イシガの悩みや転向、そして贖罪的な奉仕活動を思う。意識の差はあっても、限定されたイメージは避け、「戦争は悪」「非戦」との立場で糾合することを考えたい。

    徴兵制とその波紋

*国強兵策の落とし児 平和憲法下の日本に今さら国民皆兵とか、徴兵制などナンセンス、というのも間違いではない。だが、過ちのあった歴史から遠ざからずに、正面からその時代の背景と実態を見ていくことが、将来の道を考えるうえでは重要だろう。

 この制度は、1871(明治4)年、山県有朋のもとに徴兵規則として生まれたが、本格的には72年11月の明治天皇の「徴兵に関する詔勅」をもとにした「徴兵令」の公布(73年1月)によって動き出した。満20歳の男子が対象で、抽選によって常備軍3年、そのあと年1度の短期勤務に就く第1後備軍2年、勤務義務のない2年間の第2後備軍、計7年間の兵役義務を負った。それは10~4人に一人程度の割合だったという。このあと、天皇直轄の近衛(旧藩兵・士族兵中心の志願兵、壮兵)と、6地域の鎮台(のちの師団、徴兵中心)の二元兵制となった。

 さらに法令改正を経て、1989(明治22)年、帝国憲法ができてその20条に「日本臣民は兵役の義務を有す」と定められて、国民皆兵制度が確立した。1927(昭和2)年には、兵役法が制定され、常備(現役、予備兵)、後備、補充、国民の4兵役となり、陸軍は現役2年、予備役5年4ヵ月、後備兵役10年の通算17年4ヵ月、海軍は現役3年、予備役4年、後備兵役5年で通算12年の拘束を受ける。後備以下の3兵役は、戦時に召集される。

 日本は明治維新後、先進国入りをめざして富国策をとり、その体制つくりの一環として強兵策がとられている。いわば、軍事力のバックアップを受けて、経済的発展を確保、その行き着いたところが政権、軍隊と財閥が結束した戦争政策だった。

*血税一揆、徴兵忌避 徴兵制をめぐっては、誤解もあれば、本音としての兵役からの逃亡策もあり、また宗教的な忌避など、世相を映す多様な反応があった。「愛国」「天皇、国家のため」といった熱血的な風潮は次第に強められていくのだが、一方で戦争に駆り出されたくない民衆の思いも率直に示されていたのだ。

 徴兵令が出された73年、つまり明治6、7年ごろに、西日本を中心に各地で「血税一揆」が勃発している。菊池邦作著『徴兵忌避の研究』では、15件の事例をトレースしている。なかでも、美作国、岡山県津山市を中心に起きた反政府血税暴動は代表的、典型的なものだ。
 首謀した筆保卯太郎の主張は、徴兵にとどまらず、地祖改正、学制改革、斬髪の強制などへの不満を挙げており、暴動によってでも強訴し、取り消させようとした。徴用された人民の生き血を搾り取る、と言いふらした、という。これは徴兵令の詔書に「血税」「其生血ヲ以テ国ニ奉ズル」とあるのを、わざと曲解、拡散したものだ。その結果、死刑15人、懲役64人など処刑者は2万6,916人、焼失277件、に及んだ。維新による社会変動への不満のはけ口にもなったもので、2、3年後には神風連、秋月、萩の乱などが起きており、津山市の事件に通底する動きだったのだろう。

 「徴兵を恐れて一家3人心中」(76年、読売)、「処女も徴兵の妄説行はれて 7歳の娘が丸髷に鉄漿(お歯黒)つけて」(79年、東京日日)、兵役回避者に代わる人物を紹介する「徴兵請負業出願」(83年、同)、入営日に債主からの被告になり入営延期を図る(83年、同)、妻帯者は兵役免除との誤報を信じて結婚が1日平均6、7件も(84年、朝野)、「出雲大社に徴兵忌避の願かけ」(85年、同)、「徴兵嫌ひを直す高知県武揚協会」(同年、東京絵入)、「徴兵免否鑑定所 仙台」(同年、朝野)、「徴兵廃止論の論拠 帝国議会」(90年、毎日)、牛肉を挟んで痔疾、要所を紙で包み梅毒と「徴兵忌避 チン案」(92年、読売)、「徴兵保険会社設立」(98年、報知)――など悲喜こもごもの雑報が「新聞集成 明治編年史」(中山泰昌編)に掲載されていた。
 庶民の素朴な兵役拒否の感情だろう。この時代には、まだ「国家」への忠誠の気持ちは薄かったあかしだろう。

*著名人も兵役拒否? 「新聞集成 明治編年史」をさらに見ていくと、1875(明治8)年12月の東京日日新聞に、同紙の「社員末松謙澄血税を厭ひ 代人料を納めて徴兵忌避 大っぴらに物の言へた時代」という記事が掲載されていた。

 末松は高橋是清に英語を習った縁で同新聞社入り。伊藤博文を知って、江華島事件では黒田清隆に仕え、西南戦争で山縣有朋の秘書官になり、博文の二女と結婚、政界入りして伊藤内閣の法制局長官、逓信相、内相を務めた。
 義経=ジンギスカン説を書き、「源氏物語」を英訳、天覧歌舞伎を実現。日露戦争時には渡英し、黄禍論の鎮静に努め、晩年には長州藩の歴史をまとめ『防長回天史』を著述した、多彩多芸な人物。

 その彼が、270円の代人料を払って服務を逃れるという。しかも記事には、一応検査を受けるべきだが、「一日も新聞記者は格別の事で、一日も欠業ならぬ者ゆえ」出身地小倉から呼び返すのも「大難渋」なので陸軍に上申しよう、とある。記事の、やや冷やかし気味のトーンからすると、出来レースだったことをにおわせているよう。

 また夏目漱石は、学生の徴兵猶予が26歳まで、ということで、当時徴兵の対象地になっていなかった北海道の岩内町に分家して転籍、22年間籍を置いたが、長く住むことはなく、翌年に東京帝大を卒業している。徴兵忌避をテーマに『笹まくら』を書いた丸谷才一が指摘したものだ。
 さらに、ビタミンを発見した鈴木梅太郎も兵役を逃れた、と言われる。
 彼らの忌避した理由はなにか。兵役自体を認めたくなかったか、拘束を避けたかったものか。

*兵役忌避から受け入れへ この制度の導入時は、制度自体が十分理解されなかったためか、「いやだ」という気分が多様に示されていた。兵役ってなんだ、家業が続けられない、家族と別れたくない、などさまざまだったようだ。
 このような空気が、国家のため、天皇のため、と個人事情を考慮せずに、一律の強制に代わっていく。日清、日露、第1次大戦という戦勝ムードに加え、例外を認めない制度運用の厳しさが、全国に広がる。文句はもちろん、嘆きや不安も言えない。必勝を思い、期待し、戦場に思いを弾ませる多くの人が高まる一方で、殺し殺される不安や戦争反対の気持ちを持つ人々は鳴りを潜めざるを得なくなる。反対を口にすれば、犯罪者とされ、身柄を拘束されるのだ。

 忠君愛国教育のフレームは、招魂社の設立(1869、明治2年/靖国神社への改称79・同12年)、軍人勅諭(82、同15年)を経て、大日本帝国憲法(89、同22年)が生まれ、教育勅語発布(90、同23年)、翌年以降に全国小学校での国旗掲揚、勅語奉読、君が代奉唱が実施され、兵役義務化、で出来上がる。幼時から軍事優先、天皇を通じての国家主義礼賛、個人より国家を徹底させる教育体制をとる知恵を働かせた。

 そして、日清戦争(94・95、同27・28年)、続いて日露戦争(1904・05、同37・38年)の、予想外の大勝利は国民を湧き立たせる。戦争は捨てたものではない、日本人は欧米並みに優秀なんだ、と実態以上の自信と誇りを持つ。戦争賛美、侵略正当化の環境が強められる。
さらに、1927(昭和2)年には従来の徴兵令を全面的に変えた兵役法が制定され、ご真影の全学校強制掲示(1931、同6年)などが進む。法制度と国民感情がマッチしているとして、政府、軍部は戦争政策を正当化して、推進する。一方で、反発する者を抑える治安維持法をはじめ、思想を犯罪とする法制化が進み、言論統制など異論、批判や風評抑制の体制整備も強まった。

 こうして次第に戦争自体が必要視され、兵役服従が定着、この空気は次第に兵役拒否を思う宗教人や政治方向の異なる人々はものを言いにくくされる。「非国民」「国賊」「卑怯者」「恥知らず」などとされて、ますます居心地を悪くする。逆らうことはすべて悪で投獄、といった空気が蔓延していく。
 権力者は、さらに力を得て、おのれの道の正しさを過信。反省の余地もなく、ひたすらに全国的な組織、団体に戦争への協力を強制し、思想統一を図って異論の余地をなくし、国民を手なずけていく。

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 兵役拒否の姿を歴史的に見てきた。政治は何らかの目標のもとに、一定の路線を将来に向けて敷こうとする。権力の狙う方向はあまり開示されず、徐々に蓄積されていくが、国民には見えにくく、追随するしかなかった。

 「民主主義」を得たはずの今は、どうか。権力の示す目標はもっともらしく抽象化され、美辞に包まれ、見定めにくい。しかも、権力の見せる手の内は、大きな展望ではなく、特定の政策や方向付けなど、コマ切れである。一定の方向がはっきり見えてくるのは、20年、30年後になる。その間に周辺が固められ、積み上げられた制度と現実から逃れることは難しくなり、既定の事実として抗えなくなってくる。沖縄の新基地建設がその典型例といえよう。

 しかも、「民主主義」は建前上、世論や情報が多様に存在しており、それが対立すれば選択や判断を難しくする。その分断のなかで、権力路線はひそかに望む方向を積み上げ、あきらめを誘う環境作りに成功、すでに異論も出にくくなって、多様なものの見方のはずがいつしか狭められ、望ましいあり方も消えていく。現代の民主主義の陥穽ともいえる手口である。

 政権が長期化して、一部勢力におもねる人々を擁し、かつ批判勢力の姿勢が弱まるなかで、強引な姿勢を貫けばどうなるか。戦前の権力構造は硬質の強さだが、「民主主義」下の権力は軟質で、一見ソフトである。硬質は失敗すれば崩れるが、ソフトな民主主義は、結論を出しにくく、言をも左右にすれば、グラグラして、まとまり切れずに流されることになる。広い範囲から情報を選択せず、あまり考えることのない階層も少なくなく、これは権力側の貴重な予備軍になる。

 権力に対してチェック機能を持つはずの国会ではあるが、首相官邸のもとの、自立せずに右顧左眄する官僚群の行政府は、批判する野党を相手とせず、与党もまたものを言わずに追随、結果的に国民に虚偽や疑惑の説明や答弁を繰り返すことを許容してしまう。
 本来、権力をチェックすべき野党自体も、「数」不足のみならず、不勉強で非力ぶりをさらけだす。そうしたとき、「民主主義」は意外にもろく、意外に「民主」の意向に沿わないものになる。時に、衆愚の民主、にもなりかねない。

 たとえば、安倍政権下の特定秘密保護法(2013年)、集団的自衛権容認の安全保障関連法(15年)、共謀罪の組織犯罪処罰法(17年)などは、運用面でいかようにもなる余地があり、不穏である。そして虚偽、改ざん、隠ぺいなど不正の示されたモリカケ事件等の公的文書問題(18年)などは、将来的に記録を残さず、改ざんするなど、将来の法律、制度の運用にリスクをとどめている。

 戦前の強制兵制の権力と民意の格差、さらにそのなびく、あるいはなびかざるを得ない実態を見ていくと、将来の日本を考えるとき、政治と民意との距離の差がもたらすことに、なにか気持ちにひっかかるものがあり、なにか不安がよぎらざるを得ない気分に追い込まれていく。

 (元朝日新聞政治部長)

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