これらのキーワードがハイライトされています:琉球処分

    
メールマガジン「オルタ」 106号(2012.10.20)             
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◎ 今こそ、日中韓「草の根交流」を絶やすまい
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□目次
■【対談】
今、領土問題を考える        石郷岡建・岡田充・篠原令


■NPO法人の社会的責任      奥津 茂樹


≪連載≫
■海外論潮・短評(61)       初岡 昌一郎
 ~アジアの福祉国家 ― 民主主義による次なる革命~
■農業は死の床か再生のときか     濱田 幸生
~脱原発と電力自由化~スローガン政治から現実化へ進もう~
■宗教・民族から見た同時代世界      荒木 重雄
~布施と功徳の互酬関係で地域社会に根づくスリランカ仏教~ 
■落穂拾記(15)           羽原 清雅
   ~鴎外 通俗ばなし <下>~


■【運動資料】
「領土問題」の悪循環を止めよう!―日本の市民のアピール― 


■【横丁茶話】
アランの『定義集』(続)―進化と進歩  西村 徹


■【北から南から】
中国 深センから          佐藤 美和子
  『反日デモ中の中国生活』
英国・コッツウオルズ便り         小野 まり
        『英国の子育て・教育』(9)  


■【書評】
『日本の国境問題』/『論点整理 北方領土』   船橋 成幸 


■【米国大統領選挙報告】
オバマとロムニーの討論           武田 尚子


■【エッセー】
最高の人生の見つけ方 高沢 英子


■【闘病記】
ガンと向き合って7年     貴志 八郎
  ―負けるもんか! 肺癌との闘いを綴る―(その2)


■俳句            富田 昌宏


■川柳            横 風 人


■細島泉氏を偲ぶ      加藤 宣幸
■河上先生の思い出    堀内 慎一郎


■【編集後記】

━メールマガジン「オルタ」━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
メールマガジン「オルタ」106号(2012.10.20)
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■今、領土問題を考える
    出席者  石郷岡 建(日本大学教授)
         岡田 充 (共同通信客員論説委員)
         篠原 令 (日中ビジネスコンサルタント)
     司会  加藤 宣幸(メールマガジン「オルタ」代表)
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※このシンポジュウム形式の報告は9月14日、午後2時から5時まで衆議院第
2議員会館でオルタ編集部が主催した勉強会で報告されたものを出席者に校閲し
て頂いたものですが、文責は編集部にあります。ただし質疑応答はスペースの関
係で省略しています。

【加藤】岡田さんは昨日台湾、マレーシアからお帰りになって、それから石郷岡
さんは16日からモスクワへ、日露学術報道専門家会議へお出かけになり、篠原
さんはつい先日中国からお帰りになって、また間もなく行かれるという、皆様が
非常に窮屈な日程のなかご出席有難うございます。今日は、3人の方に20分ぐ
らいずつ、お話をいただいて、あとは、質疑応答を主にしたいと思います。
まず岡田さんからお願いします。

【岡田】私は共同通信の記者を40年やってきました。主に中国報道がメーンで
したが、石郷岡さんとは私が92年にモスクワ支局に赴任した当初2年ほど、モ
スクワでご一緒しています。それから篠原さんは、私が台北支局にいたとき友人
の紹介でコンサルタント業務を兼ねて、支局に遊びにみえてからの縁です。

 尖閣問題をとのことですので、4月16日に石原慎太郎東京都知事がワシント
ンの保守系シンクタンクで、都が購入するという計画を発表して以来、惹起され
た日中及び日台間の軋轢、紛争、及び領土問題をどう考えたらいいのかを中心に
私の考えを述べたいと思います。

 この4月半ばからの流れを追ってみますと、9月11日、日本が尖閣諸島の3
つ、つまり魚釣島と南小島、北小島の3島を国有化したことによって、問題は第
3段階に入ったと思います。

 第1段階は、4月16日の石原発言から、7月初めの野田首相の国有化方針ま
での段階です。都知事が「買う」意向を表明したことで、メディアが大きく取り
上げた。ただ日本国政府が何か作為をしたわけではなかったから、中国側もメデ
ィアを使い、都による尖閣購入計画を批判はしましたが、具体的な対応策に出た
わけではない。これが第1段階でした。

 しかし第2段階、野田首相が国有化の方針を出しますと、少し様相が変わって
きます。みなさんご記憶だと思いますが、8月15日の敗戦記念日に香港の団体
のメンバーが魚釣島まで来て、海上保安庁の巡視船を振り切る形で活動家が上陸
するという騒ぎになりました。このとき海上保安庁と沖縄県警は、事前に30人
の捜査員を魚釣島に配置しています。

 テレビでご覧になったと思いますが、日本側も最終的には、香港の船を実力で
阻止せずに、なんとなく引き込むような形で上陸させた。そして入管難民法の不
法上陸容疑で逮捕しました。しかし、これに対して中国と台湾は抗議しましたが、
日本側は2日後、入管当局に身柄を引き渡して強制退去という行政処分で終わら
せています。

 石原さんをはじめ対中強硬論者の中には、これは大変生ぬるい措置だ、石やレ
ンガを投げた連中に対して2年前の漁船衝突事件のように、公務執行妨害による
逮捕・送検を主張する人たちもいました。

 それから、4日後の19日、今度は日本の地方議員が尖閣に上陸する事件を引
き起こします。このときは、海上保安庁の巡視船は事前に情報を持っていたわけ
ですが、阻止行動などはとらなかったようです。これが第2段階です。いずれに
しても、日本、中国、台湾とも、公権力による作為は一切取っていないのが特徴
です。

 いよいよ第3ステージ。3日前の9月11日ですが、日本政府が買い取った。
国有化という、公権力による作為が初めて発生します。これに対して中国側がい
ったいどのような対抗措置をとるのかが、われわれの関心の的でした。

 中国はまず、尖閣諸島を基線に彼らの領海を引くという法的作為で対抗します。
今朝、ニュースでご覧になったように、中国の海洋監視船が尖閣の領海内に侵入
し、大きく取り上げられています。朝の段階では5隻が侵入し、2隻が一旦警告
を受けて出て、また別のところから3隻入る、そんな状況だったようです。

 中国はこれからどうしようとしているのか、力づくで尖閣を奪おうとしている
のか。多くの対中強硬派は、中国は力づくで奪い取ろうとしているという見立て
をしていますが、これについては最後にお話をします。

 まず「領土問題」が持つ、抗えない魔力にお話します。領土問題は我々の思考
を停止させてしまうのではないか。尖閣に即して言うと、日本国政府の立場は、
「国際法上も歴史上も我が国固有の領土」である。したがって領土問題は存在し
ないというものですが、「我々の領土」という絶対視された認識は「アンタッチ
ャブル」です。そこに疑問を挟んではならない。そういう魔力を持つのが領土問
題ではないか。

 その認識はいったいどこからくるのか。我々の頭の中にある国土というのは、
まるで自分の体そのもののように視覚化されたものとしてイメージされている。
だから、領土と主権が侵害されたという意識を持った途端、まるで体の一部が欠
けてしまうような、意識をもってしまいます。これは言うまでもなく論理ではな
く感情です。

 つまり、我々の思考停止は、視覚化された領土と自分の一体化というイメージ
から出ているのではないかと思います。こういう領土と自分の体の一体感が領土
ナショナリズムの出発点になっているのではないか。明治維新以降、日本が国民
国家作りによる近代化の道を法的にも実態的に踏み出し、天皇制を頂点にした権
力秩序を国民教育を通じて、国民に徹底して植え付けた結果、領土に対する確固
たる「国民的意識」が形成されてきたのではないかと思います。

 一言で言えば国民教育の成果といっていいでしょう。これは中国、台湾、韓国
でも全く同じことが言えます。中国の小中学校で尖閣はどこの領土かというアン
ケートを取れば、ほぼ100パーセント、「中華人民共和国の神聖な領土である」
という答えが返ってくるはずです。これは「思考の結果」ではない。むしろ、国
民教育の結果による「思考の停止」だと考えていいと思います。

 では尖閣について「思考」するとどうなるか、最初に申し上げたの視覚化され
た自分の体と国土が一体視された領土とは、また別の姿が見えてきます。私の尖
閣論を歴史的な側面から言えば次のようになります。尖閣は明治政府にとって、
琉球処分や台湾領有と並んで、南方の領土画定の過程にあった拡張・拡大の一環
であったと。台湾、沖縄、それから尖閣は、実は明治政府の領土拡張、拡大の一
環としてあったという意味です。

 ただこれは国際法的には合法です。国際法上、新たな領域を自分の領土とする
にはいくつか要件があります。その領域を有効に支配している者がいないこと。
これを「無主地」と呼びます。そしてその前提のもとで、最初に占有する権利を
認めることを「先占権」と言います。ですから無主地であることを確認し先占権
を宣言すれば、これは近代国際法上有効である。例え、帝国主義的な力の論理が
支配する「悪法」であっても、合法と言えます。

 ヨーロッパの帝国主義国が、アフリカやアジアの土地を植民地支配する時にも、
この「無主地先占権」の法に則り、勝手に土地に線引きをし、自分たちの領土に
した。そういう意味では、東アジアでは、日本が明治維新ではじめに国民国家づ
くりを進め、近代国際法をいち早くとりいれながら、北から西、南の新たな国境
作りを急いだ。領土は、帝国主義への歩みという歴史の流れの中にあるというこ
とが言えます。

 では具体的に尖閣領有についてみてみましょう。明治政府が、尖閣諸島を日本
の領土としたのは1895年の1月14日の閣議決定です。このわずか3か月後
には、日清戦争で勝利した日本が、清国から台湾を領有する下関条約を結びまし
た。尖閣を領有したときには、日清戦争での日本の勝利は確実な情勢でした。

 これを中国や台湾からみると、日清戦争で、日本の勝利がほぼ確実になった段
階での尖閣の領土編入は、どさくさに紛れて「盗取」いうことになる。中台は、
日本の敗戦によって日本が返した領土については「日本が盗み取った」という表
現をしますが、尖閣についても同様の認識を持っています。

 当時、清朝は弱体化の一途を辿っていました。その清朝にとって重要だったの
は台湾や琉球(沖縄)であって、無人島の尖閣諸島はおそらく念頭にはなかった。
関心を寄せる余裕はなかったのだと思います。この閣議決定は秘密裏に行われ、
清もその事実を知らなかった。

 もうひとつ歴史的事実をあげておきます。これは尖閣問題が、琉球処分及び台
湾領有とつながるということの説明になりますが、明治政府は1880年、いわ
ゆる「第3次琉球処分」を行います。

 石郷岡さんの『論点整理、北方領土問題』(ユーラシア・ブックレット)の資
料編に年表があります。1855年に日露和親条約がある。それから1875年
樺太千島交換条約、これが明治政府による、北の国境線画定に向けたロシアとの
条約の根拠になります。75年樺太千島交換条約によって、日本は千島全体を領
有するのですが、この5年後の1880年に、「第3次琉球処分」といわれる提
案を清朝にします。

 これはもともと、台湾出兵や琉球処分を国際法違反として問題視した清国に対
し、グラント米大統領による調停で米国が提案したものがベースです。グラント
は南北戦争の将軍で、100米ドル札の肖像に描かれています。

 グラント調停案は、奄美大島から北は日本とし、沖縄本島は琉球王朝に戻し、
先島(宮古と八重山)は清国領土にするという「3分割」案でした。これに対し
日本側は、沖縄本島を日本領にし、先島は日本領土とする「分島改約案」を提示
し、10月に合意し仮調印までしました。当時清朝は最初受け入れたのですが、
清国に亡命していた琉球王族の反対で翌月これを拒否するという結果になります。

 地理的な位置からみますと、日本の一番西の島、与那国から尖閣諸島までだい
たい110キロ。この第3次琉球処分を清朝が受け入れていれば、石垣に近い尖
閣諸島は清朝のものになっていたでしょう。問題はその15年後、1895年の
下関条約で日本は台湾を割譲しました。その結果、尖閣諸島は台湾と一体化しま
す。台湾領有時代は、先島諸島は台湾経済圏に組み込まれていました。

 日本の植民地時代、尖閣の行政区画は台北や宜蘭のある「台北州」に属してい
ました。台湾側からいうと、尖閣諸島は我が国固有の領土であるという根拠にな
る。中国の解釈も「台湾に所属する島嶼」です。国際法上はともかく、彼らの主
張にも理はある。少なくとも、一度は手放そうとした島を「固有の領土」という
のはおこがましいです。いずれにしても歴史的な位置づけから言いますと、固有
の領土という言い方が歴史的にみると如何わしいか。

 領土問題の処理には、突き詰めると3つの方法しかありません。1番は差し上
げる、譲渡です。日本が中国に差し上げる。中国・台湾は、日本に差し上げる。
これは一番簡単だが誰もしない。2番目は戦争です。力で奪い取る。これは帝国
主義時代の手ですが、戦争という高いリスクとコストを支払って、はたして無人
島を取るだけの価値があるのかどうか、そういう理性的合理的な判断立てば、戦
争という選択もなかなか難しい。これが2番目。そして3番目は、領有権争いが
ある島の場合、結局「棚上げ」しかないのではないのかというのが論理的帰結で
す。

 外交上の問題をもう一つ挙げます。領有権争いで圧倒的に強いのは実効支配し
てる側です。よく考えれば分かるのですが、実効支配していない側が、支配して
いる側に挑戦するのは大変です。力で挑戦すれば戦争を覚悟しなければならない。
外交上は、棚上げして対話と協議で解決するほかに道はありません。

 先月、韓国の李明博大統領が竹島に突然上陸したことを覚えていますが、彼ら
が実効支配している竹島を、その元首が上陸することによって強化する、実効支
配を強化する印象を与えた。
 7月にはメドベージェフ・ロシア首相がまた国後を訪問しましたが、これも実
効支配の強化を紛争の相手側に印象付けてしまいます。そういう効果があります。

 では尖閣を実効支配をしている我々は、どのような姿勢で臨むべきなのか。石
原さんの購入計画という挑発は、日中関係を緊張させ、中国から強硬姿勢を引き
出し、日本人希薄な国防意識を強めることにあったと思います。石原さんの認識
は「中国が攻めようとしている」から、棚上げや現状維持では守れない。軍事力
を強化するべきだというものです。

 しかし国有化した11日に、中国外交部が発表した声明は、現状維持と対話を
呼び掛ける内容でした。むしろ彼らからみると、日本は国有化によって、一方的
に現状を変更しようとしていると映る。尖閣問題では、少なくとも実効支配を維
持することでは共通の了解は得られるのではないか。万一中国に武力で尖閣を奪
われた場合も、われわれの目標は原状回復に過ぎない。中国を軍事的にへこます
ことではないでしょう。それが可能かどうかは別の問題ですが。いずれにせよ、
現状維持がベストなのだというのが私の考えです。

 実効支配している側が、その優位性を利用して立場を強化しようとすると、確
実に相手側の反発を買う。だから自制すべきは実効支配している側です。国有化
に話を戻しますと、胡錦濤が仮に所有権を持ったとしても、主権とは次元が異な
り直接の関係はない。所有権は胡錦濤にあるけれど、主権は日本が握っていると
いう非常に奇妙なことになりますが、国有化それ自体にそれほど大きな意味はあ
りません。

 ただし、問題は相手方。台湾、中国にとってみると、国有化は一方的な現状変
更に当たると受け取られている。特に、日本と中国の間には相互信頼関係がほぼ
無い状況が続いています。相互信頼関係が無い状況の下で一方的な現状変更に当
たる行為をすると、当然相手方の強い反発を買う。ですから、国有化をする場合
には、事前に丁寧な説明をする必要があったという気がします。まして胡錦濤が
強く警告した翌日に国有化するというへたな外交をしてしまった。
 これが、現実的な外交の枠組みの中での尖閣問題に対する私の考えです。

 最後になりますが、台湾の馬英九総統が8月に「東シナ海平和イニシアチブ」
という名称の提案をして、中国、日本、台湾の3者協議で対話による平和解決を
訴えました。現実の外交の枠組みから考えれば、ほとんど実現可能性は低い提案
です。

 しかし、この無人の小島で争いが続ければ、だれも近かづけない軍事の島にな
ってしまう。馬さんは「主権は分けられないが、資源は分けられる」と述べて、
グローバル化時代における新たな共存の枠組みを模索しているように思えます。
国家という魔力に支配された領土問題を、脱国家の枠組みから考えようというこ
とです。

【加藤】では篠原さんに御願いします。

【篠原】今、具体的な経過や、過去の歴史については詳しく話されたので、私は
別の角度から今回の事態について皆さんにご意見を伺いたいと思います。2年前
の漁船衝突事件の時に、ポイントはまず中国側がどうみたかということです。こ
れまで自民党政権のときはずっと棚上げで、なるべく何か事件が起きても表に出
さないようにして処理してきたのが、民主党政権になった途端に全く態度が変わ
って、逮捕して起訴するという方向に進んだ。

 それを日本という国が大きな方向転換をしたのではないかと中国側は考えたよ
うなのです。細野さんと中国に行ったときに、中国側が一番最初に聞いたのがそ
の点です。

 中国人から見たら、自民党であれ民主党であれ日本国政府がやったことだから、
方針転換したのではないかとみえたのです。あのときは明らかに民主党が過去の
いきさつを全く知らない素人集団が外交をやった。とくに前原さんなんかがいき
がってやった結果、事が大きくなった。それを中国は日本政府が方向転換したと
とったのです。

 2年前、仙谷や菅がどうしようかと迷っていた時、最後に決断を下すきっかけ
になったのは、中国がフジタの4人の社員を捕まえたことです。そのときに温家
宝がニューヨークで日本に対してこれから先起こることはすべて日本政府の責任
だという発言をしている。4人が捕まったことで、さらに一歩進んだ段階に入っ
てしまうだろうというのです。当時、私が会った中国の多くの人たちは軍隊が出
て尖閣に上陸するという意見でした。

 それを必死に食い止めたのが温家宝で、わざとフジタの4人を捕まえて、日本
政府に最後の決断を迫ったのが2年前の状況なのです。今回は、2年経ったので
すが、民主党政権は全く経験から学んでなくて、また素人っぽい外交を繰り広げ
ているのです。

 例えば、野田さんが記者会見とかで発言している内容を聞いても、尖閣問題の
歴史的な背景とかを真面目に勉強をした形跡が全然見えない。新聞に出ているよ
うな知識をもとに一国の首相が簡単な気持ちでどんどん発言する。それが逆に中
国をまた刺激するという繰り返しです。

 中国側は民主党政権が少なくとも2年前にあれだけの事件が起きたのだから、
もう少し外交ということを学んでくれているのではいかと思っている。ところが
実際には首相が代わったこともあって、外交に関しては全く素人のままです。

 とくに野田首相とか官房長官、官房副長官この首相の周囲にいる人、いわゆる
官邸が、全く外交の素人集団だから当然首相に対して的確なアドバイスもできな
いし、この官邸の人たちは中国とパイプもないから、どんどんエスカレートして
いる。

 石原が島を買うという発言をした時点で、本来なら外交ですから、日本政府の
官邸のしかるべき人が中国に行ってこの問題をどのように処理していこうかとか、
中国側と一緒になって解決策を見つけていくべきだったと思うのです。対立は当
然どこの国にもありますが、対立があったときに次に対話にもっていき、今度は
最終的に融和に持っていくというのが政治家の役割だと思います。

 ところが野田政権を見ていると、対立があるとそこで終わっているのです。対
立から一歩進めて対話に持っていこうとする努力が全く見えない。これでは政治
家としての資格が無いと私は思います。国有化を宣言したすぐ次の日に、中国外
務省の声明があって、それの一番最後に日本が我意を通すなら、それによって生
じる一切の結果は日本側が負うほかないという言葉で結んでいます。これは2年
前に温家宝がニューヨークで発言した日本に対する警告と内容的には全く一致し
ます。

 これが中国にとっては一種の最後通告みたいなことで、これ以後反日デモがド
ンドン広まっていきます。中国政府が今のところそれを押しとどめようとかして
いませんし、来週の9月18日、満州事変の記念日にたぶん全国で大々的なデモ
があるでしょうが中国政府は、日本側が対話に出てくるかどうかを待っていると
思います。

 自分たちは日本政府がこういう動きを続けるならこれ以後の例えば中国国内で
の反日デモとか、日本人に対するいろんな危害とかそういうことには中国政府と
しては責任持てないとはっきりもう言っているのですから、ここで日本政府とし
ては誰かを派遣して事態の収拾をどうしたらいいかっていうことを真剣に中国側
と話し合う必要があると思います。

 中国側は国が購入したとことを撤回しろと言っていますが、国内的には撤回と
いうのは非常に難しいと思います。こういう事態になって、ではどういう方法で
両国人民が納得するような解決策があるか、それは日本政府と中国政府がこうい
う時期だからこそお互いに会って対話をすべきだと思います。

 今日はお集まりになった皆さんからも意見がありましたら、是非出して頂きた
いと思います。私は4月に石原がああいう発言したときに一つの方法として、日
本政府が尖閣諸島を強制収容すればよかったと思っています。これはかつて成田
とか砂川闘争のときに国が強制収容するということを何度もやってきています。
係争地帯として非常に危ないところだからという理由でもなんでもいいんですが、
持ち主から、尖閣諸島を取り上げて、国有化じゃない、強制収容しておけば一応
現状維持が続けられたのではないかと思っています。

 もう一つ、これから非常に大事な問題になるのは、仮に海上保安庁と中国の警
備船との間に武力衝突になった場合これがどういうことになるかと言うと、78
年の日中平和友好条約の第1条の第2項に、すべての紛争を平和的手段により解
決し、武力または武力による威嚇に訴えないことを両国は確認すると書いてある。
だから、平和友好条約を結んでいる精神からいったら日本であれ中国であれ武力
によって解決するという方法は取れないはずです。

 仮に武力紛争になったら平和友好条約は破られたことになる。もう一つもっと
基本的なことは日本国憲法の第9条に紛争を武力で解決するということはもう日
本国政府としては放棄するということを憲法で言っているのですから、これが発
展して武力衝突になったときに憲法や第9条の問題などいろんな問題が出てきま
すが、そういうことについて今の野田政権全く考えていないような気がします。

 ここで国交正常化40周年を記念する行事をいろいろする以前に、大事なのは
平和友好条約の精神に戻って対話を進めることです。民主党政権の中で、たぶん
野田さんなんか全く頭の中が空っぽでどうしたらいいかわからないでいると思う
のです。誰かが、こういうふうにしたほうがいいということを言ってあげないと、
このままズルズルいってしまうと最悪の事態になる可能性は十分あると思います。

 驚くことに、人民解放軍は非常に腐敗しているから戦争をやって少し引き締め
たほうが国内的にはよくなるから軍隊を出してもいいのではないかという意見の
中国人がいるのです。第18回党大会がちょっと伸びていて、どうなるかわかり
ませんが、党大会が終わって来年の中国の全人代でいろんな人事が決まった時点
から、中国はたぶん本格的に取り組んでくると思いますので、まだ半年以上ある
今の間に日本政府としてはキチッと中国と対話を進めることが重要だと思います。

 どのような結論にもっていくかというのは対話をしてみないとわからない。中
国側からみたら国有化ということ自体が非常に大きな問題だったわけですが、日
本政府は国有化して現状通りやっていけば問題ないという非常に自分本位の見方
でドンドン話を進めてきていますが、こういうことも本来なら行動する前にちゃ
んと相手と話し合ってやるべきであったと思います。

【加藤】最後は石郷岡さんに御願いします。

【石郷岡】私は尖閣のことではなく、ロシアとアジアとの関係を話そうと思いま
す。といつつも、昨日もある会合に出たら領土問題が話されて、一昨日も別の会
合で、また領土問題が出され、会合によって全然その方向性が違うのですが、非
常に大変な日本の状況を3日間痛感しました。

 ただ、そのなかで「ロシアはなかなかいい」という半年や1年前には考えられ
ないようなロシアの評価が聞かれるようになりました。なぜかというと「ロシア
はともかく領土交渉してくれる。中国と韓国はけしからん」という声が多く、
「夜も眠れない」とかそういう人たちもいっぱいいて、非常に大変な状況に日本
がなっていると感じました。

 しかし、私は領土問題をほとんどやらないという主義ですが、やらざるを得な
いときは仕方なく付き合っています。ただ、あまりにも事実を知らずに話す人が
多すぎるので、このブックレットも書きました。領土問題をやると非常に実りが
薄いので、途中でやめることにしていますが、最近は話さざるを得ない状況にな
っています。

 ということで、尖閣の話ではなく、みなさんがおっしゃったことについてコメ
ントするような形で話をしたいと思います。

 まず、固有領土という言葉ですが、日本とロシアの間の領土交渉で出てきた問
題で、日本の北方領土についての根拠を示すために使われた言葉です。固有の領
土という論法しか日本側には出てこなかったのが実態だと思います。
 
 固有の領土というと日本の国民のほとんどは、「ああそうだ、そうなんだ」と
いうことで納得してしまうのですが、ロシアにはこの固有の領土という言葉は全
く意味がないのです。なぜかというと、「ではロシアの固有の領土はどこですか」
といったら、たぶん日本人は全員答えられないと思います。ロシアには固有の領
土という概念は無いです。

 ロシアという国が出来たのは16世紀から17世紀でわずか300年から40
0年ぐらいのもので、その前ユーラシア大陸には様々な国が出きて、様々な国が
滅びていったということで固有の領土という考え方はあり得ないのです。日本側
が「固有の領土」と言った場合、ロシア側は「どう答えたらいいの?」という感
じなのです。

 ロシアはどういう考え方持っているかといいますと、これは公式な主張ではし
ないかも知れませんが、本音は「戦争に勝った国が領土を決める。負けた国は文
句言うな」です。これが彼らの立場で、ヨーロッパ及びユーラシアはほとんど数
千年にわたって、この原則で領土が決められてきました。
 
 国民国家とか、主権とかいろいろ主張は出てきますが、基本的にあるのは武力
で勝つことで、この武力で勝ったということを第2次大戦後論理づけしたのはサ
ンフランシスコ条約だと思います。

 ですから、その前がどうだったとか、最初に誰が来たかというようなことは全
く関係ない。最後に誰が決めたかが決定的なわけで、そのときに日本側はキチッ
とした対応ができていなかった。サンフランシスコ条約で日本は千島を全面放棄
すると署名しているのです。

 北方4島はもともと南千島と呼ばれていましたが、同条約で放棄した千島に南
千島は入っていなかったという論理を展開したわけで、南千島という言葉を使う
とおかしくなるので、南千島という言葉の代わりに北方領土という言葉を使い始
めたというわけです。北方領土は固有の領土であり、南千島が千島ではなかった
という主張したわけで、その矛盾についてはブックレットに書いておきました。
 
 私は領土問題を今いろいろ細かい議論するよりも、今年、なぜ中国・韓国・ロ
シアの3国に対して領土問題が起きたのかをもう少し考えたほうがよいと思いま
す。
 
 実効支配がありながら国家元首の李明博がわざわざ自分の領土と主張する場所
へ行って、何かをするということは、一つは国内問題でそうせざるを得なかった
か、もう一つは対外的に、つまり日本に対して何かを訴えたかったのかどちらか
だと考えます。
 
 2番目のほうはある意味で政治的外交的に挑発だと思います。
 メドベージェフ(の国後訪問)についても全く同じ状況です。
 李明博やメドベージェフが係争地の島に行ったときに、日本側の最初の反応は、
国内の政治的な関係で行かざるを得なかったのだという話が必ず出てきます。
 私は李明博もメドベージェフもそうではなく、行くことで日本を外交的政治的
に挑発せざるを得なかったことがあると思います。
 
 メドベージェフは北方領土について日本の政権に対する怒りがあったと思うの
です。怒りというのは日本側が「固有の領土を不法占拠した」と言ったときにメ
ドベージェフはカチンとキレたんだと思います。
 李明博については歴史問題があったと思うのです。日本の中では歴史問題と領
土問題を分けられるという人が多いのですが、私は分けられないと考えます。
 
 逆に、北方領土のことで言えば、日本人のほとんどは領土問題として考えるよ
りは歴史問題と考えている。つまり「俺たちの土地をなぜソ連は奪ったのだ」と
いうことで、サンフランシスコ条約締結の問題を全部飛ばしてしまうのです。そ
れなのに、韓国や中国に対しては歴史問題よりも、条約の解釈を主張するという
構図です。
 
 しかも、サンフランシスコ条約は、結局、戦後日本が放棄した、もしくは放棄
したような形になった領土を、誰が支配するかという問題を極めて曖昧なままに
している。私はそれが今噴出してきたと思っています。それが先ほど言った3つ
の島はなぜ今年大きな問題になったかということに繋がると思います。
 
 メドベージェフが最初に北方領土に行ったのは2010年で、2年前です。2
010年というのは第2次大戦終了65周年です。メドベージェフが9月に国後
に行く前、その年の5月9日、ソ連というかロシアでは対独戦勝記念日ですが、
その第2次大戦終結65周年の式典が5月9日モスクワで開かれた。このとき欧
州戦線に参加した各国の代表がモスクワに集まり赤の広場で軍隊のパレードを観
る式典があったのです。
 
 その赤の広場で、イギリス、フランス、さらにはアメリカの海兵隊が歴史上初
めて行進し、さらに式場にはドイツのメルケル首相も臨席した。つまり第2次大
戦後の敗戦国も勝戦国もすべてが集まってその式典を見守ったということです。

 この式典を考えると、こういう式典が今アジアで行われることは考えられない。
逆に言うと第2次大戦後の処理がヨーロッパでは、いろいろ批判や不満があって
も、とにかくみんなが集まって終わりましたねということができるのに比べ、ア
ジアでは全くできていない。
 
 実はこの式典にアジアからの代表が1人出席していましたが、それは胡錦濤で
す。戦勝国の一角を占める人物として胡錦濤がいたわけで、その胡錦濤がメドベ
ージェフに「どうしてアジアではこういうものが開かれないのだろうか」とロシ
ア側に言ったのです。ロシア側は、それを考慮して第2次大戦終了記念日を9月
2日と決めます。その決めたことに対して日本側は、これは挑発であると大きな
騒ぎになった経過があります。ロシア側にすると、中国がやれというからやった
のにという感じなのです。
 
 それではどうしてこの3つの領土問題が、この65周年の延長線の話なのかと
いうことになりますが、欧州では第2次大戦のあと、冷戦構造が非常に早く崩れ
たのに比べて、アジアでは冷戦構造が崩れるのが遅れ、朝鮮半島ではまだ残って
います。

 もう一つ、気が付くと冷戦時代の米ソ対決構造は崩れ、ある意味、アメリカ一
極的な構造が築かれたように見えたにも関わらず、結局、アメリカがどんどん力
を落としていき、中国が大きくなってきた。
 
 東アジア全体のバランスが崩れていくなか、第2次大戦の処理をキチッとせず
に、これからどういう東アジアの秩序をつくるのかと考えた場合、そして、これ
から混乱の時代が来ると予想した場合、各国は自分の地位を主張し、権限を強化
しておかなくてはいけないのではないかと考え始めた。

 一昔前ならばアメリカが大きな顔をしていて、第2次大戦後にあったアメリカ
を中心とする秩序で、みんななるべく、ぶつかりあうのはやめましょうというこ
とで済んだと思います。ところがそうでなくなってきたことが分かってきた。こ
の傾向は中韓露の3国もしくは東アジア全体に広がる状況です。これは別に東ア
ジアだけではなくて、南西諸島もそうですし、あちこちでその問題が噴出してい
ると思います。
 
 2010年8月にロイターが、実は日本が敗戦を決定したのは原爆ではなくソ
連軍の参戦だったというニュースを流しました。このニュースは別に新しいもの
ではなく、なんでこれがニュースになるのかなという感じでした。カリフオルニ
ア大学の長谷川教授が、日本が終戦に踏み切った最大の理由は原爆ではなく、ソ
連軍の侵攻だったと、すでに本に書いています。

 このニュースを踏まえて、ロシア(ソ連)の学者が第2次大戦の処理について
という論文を発表しました。その論文は日本が終戦を決めたのはソ連軍のおかげ
であるということが書いてあるのですが、それが主題ではなく、その次に書いて
あることが主題でした。

 それはソ連軍が第2次大戦で日本と戦争したことで、中華人民共和国と朝鮮人
民民主主義共和国という国がつくられた。つまり第2次大戦後の戦後秩序の土台
をつくったのはソ連であるという言い方をしているのです。これは何を言いたい
かというと、だからロシアは今でもこの地域に新しい秩序ができる場合には発言
権があるということを言っているのです。
 
 つまり、アメリカがアジアから出て行ったあと、どうなるかわからないけれど、
この地域がなんかあった場合に「ロシアは関係ないとは言わさないぞ」というこ
とです。そうすると、「では、サンフランシスコ条約はどうなるのだ。ああなん
だ、こうなんだ」という話がいっぱい出てくる。ロシアは中国に近づいて、戦略
パートナーシップ条約とかなんとか言いながら、「そうでしょ、私がちゃんと
(あなたの国を)作ったでしょう」という。中国側は、本当はそう思ってもなく
ても、「そうですね」というような顔したりする、という駆け引きが今始まって
いるのです。
 
 もう一つはAPECを今回ウラジオストックで開催したのは、これから東アジ
アは変わってきて、誰がこの地域の中心になるかわからないが、ロシアは発言権
がありますよ、ということを主張したのだと思います。
 
 最後に、領土問題の話をするときには、今話したような長期的な動き、その裏
にあるアジア全体の流れはどうなっていて、それがどういうふうに影響している
か、ということをもう少し考えるべきだと思います。
 
 もう一つ、領土問題は2国間関係だけで考えるべきではない。つまり2国間関
係の裏に多国間の動きがある。例えば、中国が尖閣諸島に軍事上陸した場合には、
中国はものすごい外交的な損害を受けると思います。なぜならばロシアは、お前
はそういう立場なのかと思いながら、ベトナムに行って「中国はあのようなこと
をするから、お前のところも危ないぞ」というように動くのは間違いない。
 
 そのことは中国側もわかっているはずです。つまり中国側は日本との関係では
なくて、軍事占領したくても、まわりの多国間関係を考えてやめるとかを考えて
いると思います。そのほかの国もそういうことを考えている。日本はどうしても
領土問題を2国だけでどっちが悪いということをすぐ話の焦点にしますが、私は
もう少しこの地域全体、もしくは国際状態全体の中で、日本と中国がどう動くか
ということを論議すべきだと思います。

【加藤】ありがとうございました。

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■NPO法人の社会的責任          奥津 茂樹
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 昨年2011年は、寄付元年として記憶される年になるだろう。3月に東日本
大震災が発生し、被災者・被災地の生活と復興を支援するため、数多くの市民が
寄付をした。その数は1億人超、日本人の8割強にのぼったという。奇しくもこ
の年、NPO法人に対する寄付の優遇税制が拡充された。最近、神奈川県が作成
したポスターにあるように、「指定・認定NPO法人に寄付をすると、税金(所
得税・住民税)から、寄付金額の最大約50%がかえる」仕組みが始まった。

 一方で、寄付疲れと呼ばれる現象もみられる。ごく一部にみられる寄付の使途
の不透明性が、こうした現象に拍車をかけている。逆に、具体的なプロジェクト
を提案しつつ寄付を求める場合には、寄付の目的や意義を実感・共感できる。こ
のような寄付集めは、それほど大きな減少がないときく。寄付という社会参加に
対する市民の関心と意欲が高まった結果、自分が提供した資源の行方に厳しい眼
差しをもつ市民が増えたと思われる。

 寄付優遇税制は、NPO法人に対する寄付のインセンティブになる。寄付の約
50%が還付されるということは、これまで10,000円寄付していた人は、倍
の20,000円の寄付をすることが期待できる。単純化していうと、税金は1/
2にNPO法人への寄付額は2倍になる。ただ、現実は、そんな甘くはなく、指
定・認定法人化しても寄付が倍増する保証はない。また、法人の数が少ないこと
もあって(神奈川県で約30団体)、まだ、社会に寄付がひろがった実感はない。

 しかし、税金は1/2に、寄付は2倍にという構図がもつ意味は大きい。それ
は、こうした転換を、市民一人ひとりの意思によって成し遂げることができるか
らだ。これまでのように一方的に税金をとられ、ムダ使いに不平不満を言うだけ
の時代は終わった。たとえ、税金の一部であっても、自分が共感するNPO法人
に寄付をすることは、市民が税金の使い道を選ぶことでもある。また、NPO法
人に対する寄付は、税金のムダ使いに対する異議申立てともいえる。

消費増税法案が可決・成立した今、市民は納税者として寄付という選択肢を世
直しのカードとして、もっと強く意識しても良いはずだ。どれだけ税金をとられ
るかが、市民の重大な関心事であることは否定しない。しかし、どのように税金
を使うかにも、それ以上の関心をもちたい。

 以上のように、寄付を税金と同じようにとらえたとき、NPO法人の側は寄付
が増えるかと喜んでばかりはいられない。行政機関と同様に、高い公正性と透明
性が求められるからだ。仮に寄付を有効に使わず、意味や価値のない事業に費や
すようなことがあれば、市民の信用を失い、組織の存立すら危うくする。このよ
うな強い危機感と公共性を強く意識し、正しく行動していくことがNPO法人の
社会的責任になるはずだ。

 ところが、こうした責任感のないNPO法人が意外と多いことを最近思い知ら
された。私が理事をつとめる一般社団法人ソーシャルコーディネートかながわ
(略称:ソコカナ)は、FMヨコハマと連携し、神奈川県内のNPOを紹介する
番組「もっとつながろう!NPO」の制作補助を行った。私の仕事は番組で紹介
するNPO法人等の選考を行うことだった。この中で、いくつかのNPO法人の
社会的責任の低さを実感した。

 あるNPO法人はさまざまなメディアにも登場し、社会的評価の高い活動を展
開している。ところが、事業報告書の収支を確認したところ、まったくの「どん
ぶり勘定」だった。収支の総額しか記載されていない報告書をながめて、これで
は社会に寄付を求める資格はないと嘆息した。また、事業報告書そのものを何年
も提出していないNPO法人もあった。

 コンプライアンス(法令順守)は企業や行政だけではなく、NPO法人にも求
められるはずだ。こうした緊張感を欠く実態は、事業報告書が作成・提出・公開
されても、誰もチェックしていない現状も背景にある。

 寄付というのは資金だけではなく、人材、モノ、場所などを提供していくこと
だ。たとえ、お金ではなくても、貴重な社会的資源である限り、その提供を受け、
活用していくNPO法人は、社会に対して重い説明責任を負う。社会の中に寄付
をひろげていくためには、対象となるNPO法人が社会的責任を果たすべく、厳
しく自律していかなければならない。この意味で寄付がひろがることは、新しい
公共の担い手であるNPO法人を鍛えていく。         ― 了 ―

 (筆者は参加型システム研究所主任研究員)

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≪連載≫
1.海外論調短評(61)                  初岡 昌一郎
  アジアの福祉国家 ― 民主主義による次なる革命
2.農業は死の床か再生のときか               濱田 幸生
  脱原発と電力自由化~スローガン政治から現実化へ進もう~
3.宗教・民族から見た同時代世界              荒木 重雄
  布施と功徳の互酬関係で地域社会に根づくスリランカ仏教
4.落穂拾記(15)                     羽原 清雅
  鴎外 通俗ばなし <下>
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≪連載≫
1.海外論調短評(61)                  初岡 昌一郎
  アジアの福祉国家 ― 民主主義による次なる革命
──────────────────────────────────
 イギリスの代表的週刊誌『エコノミスト』9月8日号が、目覚ましい経済発展
を遂げたアジア諸国において、次の課題となりつつあるのが福祉国家の実現だと
論じている。同誌はまず社説でこの問題を概括し、次いで記事冒頭の「ブリーフ
ィング」欄でより詳細に解説している。ブリーフィングは無署名であるが、デリ
ー、香港、ジャカルタ発の報告をもとに書かれている。これらを要約して紹介す
る。
 
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■貧困から抜け出し、揺りかごから墓場までの福祉を
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 アジア諸国は、そのダイナミズムによって世界をうならせてきた。目覚ましい
成長のお蔭で、現代アジアは歴史上前代未聞の速度で貧困状態から脱け出した。
しかし、裕福になるにつれ、この地域の市民は政府により多くのことを要求し始
めた。

 韓国や台湾のような富める国はさらに進んでいる。韓国は国民基礎年金及び保
健制度を導入し、高齢者に長期的なケアを提供している。12月の大統領選挙は
福祉実現の公約競争と化している。これまで「松葉杖で支えられた経済」に反対
してきたシンガポールでさえも、低所得層に対する税金還付と住宅費補助を始め
た。

 この大陸全体を通じ、公的年金、国民健康保険、失業給付などを求める声が高
まっている。その結果、世界で最も活気のある諸国の経済は、単なる富の蓄積か
ら福祉国家を目指す方向にギアを切り替えつつある。

 昨年10月、インドネシア政府は、2014年までに国民皆保険を実現すると
公約した。それは世界最大の単一国民健康保険制度を政府の一部門として創設し、
保険料と給付を一元化しようとするものである。中国は、2億4000万人の農
村人口に年金制度を拡張した。2、3年前までは80%の農村住民が健康保険の
対象となっていなかったが、今はほとんどの人がカバーされている。インドでは、
4000万世帯が最低賃金で年間100日の仕事を提供する公的制度の恩恵を受
けている。また、各州が約1億1000万人に健康保険を拡大適用している。
 
 1880年代のドイツによる年金の導入を社会保障制度の出発とし、イギリス
による1948年の国民健康保険制度の開始を頂点と考えれば、ヨーロッパにお
ける福祉国家の建設は半世紀以上の年月を要している。いくつかのアジア国家は、
それを一世代で成し遂げようとしている。

 もしこれらの国が持続不可能な公約によって誤った方向に進むならば、世界で
最もダイナミックな経済を破壊する危険がある。しかし、持続可能なセーフティ
ネットの創出を図るならば、国民生活の改善に資するだけではなく、世界におけ
る新たな役割モデルを提供すことになるだろう。人口老齢化と財政赤字削減に対
処するように、国家の再設計を富める西欧諸国が怠っている現在、福祉国家はア
ジアが追い付き、追い越すもう一つの分野となるかもしれない。

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■ビスマルクとベバレッジを超えて
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 アジアが回避すべき教訓を歴史は多く与えている。
 ヨーロッパの福祉国家は、基礎的なセーフティネットとして始まった。ところ
が年月がたつにつれて、それがクッションとなっている。戦争と恐慌を主な理由
の一つとして、ヨーロッパの社会は配分優先となった。また、社会保障給付受給
者が強力な利益集団となっている。そして、政府は支出に見合う税収を十分徴収
できなくなっている。

 アメリカは社会保障費を出し惜しみ、そのうえ普遍性のない、資格と権利に基
づく制度を作る過ちを犯している。その維持困難な年金と保健制度は雇用に基礎
をおいている。

 新興世界、特にラテンアメリカにおける実績はさらに芳しくない。政府は税収
不足に悩み、社会的保護は不正を助長していることがよくある。年金や保健制度
は都市の恵まれた労働者のもので、貧窮者を対象としていない。ブラジルはこの
ところ信頼に足る政府に恵まれているが、パブリック・サービスの水準は第3世
界並みにすぎない。

 アジア諸国は経済開発を重視して、これまで生産第一主義をとってきた。社会
保障が完全に無視されてきたわけではないが、福祉給付制度は社会的必要性に基
づくものではなく、もっとも生産的な産業の労働者のためのものであった。これ
らの相対的に恵まれた労働者にとっても福祉は権利ではなく、人的資源に対する
投資であった。

 福祉の貧困が出生率の急落を生んだ。韓国女性の平均出生率は1.39、シン
ガポールでは1.37、香港ではわずか1.14にすぎない。かつて、福祉は政府
が負担するものではなく、絆の強い家族が引き受けていた。しかし、今日では都
市化と大家族制の崩壊によって、福祉を公的に提供するニーズとその要求が高ま
っている。奇跡的な成長が中断し、抑圧的な統治が緩んでくると、ますますその
傾向が強まるだろう。

 経済の発展によって公的福祉を負担する能力が増しているものの、アジア諸国
には落とし穴もある。一つは人口増の鈍化と高齢化である。インドなど少数の国
では依然として人口構成がまだ若いが、かなりの国で世界的に見ても急速な高齢
化が進行している。今日の中国では若者5人に対して高齢者は1人であるが、2
035年には2人に増える。

 もう一つは規模の大きさで、これが普遍的な社会保障制度創設を困難にしてい
る。中国、インド、インドネシアという巨大国は、それぞれの地域によって大き
な格差と相違を抱えている。それらの国において福祉国家を建設することは、E
Uにおける単一制度の創設にも匹敵する。これに対するシンプルかつ画一的な処
方箋はない。

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■「アジア的価値」と福祉
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 福祉の公約は与野党いずれにとっても選挙の票になる。全国的な得票の必要が
ない中国においてさえも、指導者は経済成長だけではなく「調和社会」を約束し
ている。福祉国家を建設できる財力を持つすべての国は、その実現のためにます
ます国民から圧力を受けるようになっている。

 アメリカが画期的な社会保障法を制定したのは1935年のことであるが、今
日のインドネシアはほぼそのレベルの発展に到達している。現代中国は、194
8年にイギリスが国民健康保健制度を発足させた時よりも豊かになっている。

 西欧の水準からみれば、アジアの福祉はいまだに低い。OECD諸国の平均公
的医療支出がGDPの7%であるのに比較して、アジア諸国はわずか2.5%に
すぎない。アジア諸国が成熟するにつれて変化するだろうが、負担比率の高さ
(韓国)、低額な病院医療費(タイ)、医療施設の不足(インドネシアその他全
般)が、コストを今のところ抑制している。

 域内諸国の福祉国家度をアジア開銀の社会保護指標が簡潔に要約している。
 各国の社会的支出を受益対象者数で割り、その結果を1人当たりGDPの割合
で表している。日本の受益者が比率で一番高く、1人当たりGDPの13%を受
け取っている。第2位の韓国は、20年間の民主主義の後でさえ7.1%にすぎ
ない。フィリピン、インドネシア、パキスタンは2%以下である。

 アジア諸国は、福祉を薄く広げる傾向にある。韓国の年金は高齢者の70%を
カバーしているが、平均賃金の5%程度の給付にすぎない。インドネシアの医療
補助制度は所得最下位層30%の全員を対象にすることを想定しているが、この
カード保有資格者の80%がその給付内容を承知していない。

 アジアで福祉給付対象者が少ないことには、いくつかの明白な理由がある。比
較的に富裕な国においても、西欧先進国の水準に比較して、非正規労働者が大き
な割合を占めていることである。先進国では彼らも同じように福祉給付の対象と
なっているが、アジアにおいては除外されている。タイで大企業従業員以外のも
のを任意的な保険制度に加入させようとした時、病人は加入したもの、健常者は
ほとんど加入しようとしなかったので、国民の大半は未加入にとどまった。

 パブリック・サービスが未発達の国では、納付金の徴収が困難であるし、受給
資格者の認定も危うい。多くのアジア諸国は受給対象者を貧困者に限定しようと
しているが、それを判定することは容易ではない。

 インドネシアの健康保健補助カードは所得下位30%の貧困層を対象とするも
のであるが、実際にカードを保有しているのは対象外の所得の高い人々だといわ
れている。インドネシアは貧困対策としてガソリン価格を補助しているが、貧困
者は車を持っていない。昨年のガソリン代補助金は、保健補助支出の9倍に上っ
ている。

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■後発のメリット ― キャッチアップだけでなく
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 アジア諸国は新しい挑戦に直面している。シンガポール、韓国、香港は世界の
他のいかなる国よりも急速に高齢化している。2040年までに、就働可能年齢
層にある2人が65歳以上の高齢者1人を養うことになる。この負担を軽減し、
高齢者をアクティブに維持する方法を考案しなければならない。西欧では福祉国
家が高齢者を困窮から救済した。アジアでは高齢者を無為から救済しなければな
らない。
 
 韓国はすでに高齢者雇用に補助金を出している。そして、高齢者ケアの負担を
社会化し始めている。2008年に包括的な長期ケアのための保険を発足させた。
 シンガポールは高齢者にこれまでの住居を売却させ、政府が用意する小規模ア
パートに移住させるために、奨励金を出している。
 
 2030年には、アジアは世界の高齢者の半数以上を抱えることになり、ガン
や糖尿病など非伝染性疾病の負担の半分を背負うことになる。アジアの福祉給付
が拡大、深化を続けるならば、世界の年金生活者と病人の過半数を抱えることに
なる。アジアはもはや独特の福祉モデルを自慢することができなくなり、世界の
福祉はますますアジア型になるだろう。
 
 だが、そうなる前にアジア諸国政府は3つの広義の原則に留意しておかなけれ
ばならない。第1は、福祉公約の長期的な財政的持続可能性に注意を払うことで
ある。アジアの年金額は小さいが、受給資格が早めに設定されている。例えば、
中国では女性の退職年令は55歳、タイでは定年は60歳だが、55歳から年金
受給資格が生まれる。アジア全体で、寿命に応じて年金受給資格を引き上げざる
を得ない。
 
 第2に、アジア政府は社会的支出のターゲットをより慎重に設定すべきである。
ずばりと言えば、社会的給付の目的を貧困者に焦点を絞るべきであり、富裕者に
対する補助金とすべきではない。あまりにも多くのアジア政府が公的支出を逆進
的に浪費している。アジアの政治家たちが福祉を公約するのであれば、このよう
な金持優遇と浪費を止めさせなければならない。

 第3に、福祉の成果は、経済力によるだけでなく、政治力によって決定される
ことである。福祉は政治家の資質に左右される。
 アジアの市民が将来を意欲的に設計し、より長期に働き、将来の世代にツケを
回さない覚悟を示すことによって、はじめて福祉国家を成功的に実現できること
を西欧の教訓から学びうる。
 


●●コメント●●


 アジアにおける福祉国家が、単なる将来の課題ではなく、既に現在実現を図る
べき主要な要求になっていることをこの論文によってあらためて認識した。主要
なアジア諸国の経済的発展段階は、すでに西欧諸国が社会保障制度を発足させた
時期のレベルを超えている。この認識は、一般的に共有されていないので本論の
指摘は貴重だ。
 
 民主主義が福祉の充実と切り離せないことは歴史の示すところであり、よく理
解されている。現在多くのアジア諸国で民主主義政治が成長しており、韓国やイ
ンドネシアの選挙で福祉が一番の争点になっていることは興味深い。民主主義国
家でなくとも、公平な所得配分や福祉の充実を求める声は高まる。それは、独裁
国家でも情報統制は昔日のようにはゆかず、国際的に情報と知識が広く共有され
るようになっているからである。
 
 この論文では触れられていないが、福祉国家は公正な所得再分配を担保する、
累進的で公正な税制と、効果的な徴税を可能とする、腐敗のないパブリック・サ
ービスと公務員を必要とする。多くのアジア諸国では、この面での飛躍的な改善
が不可欠である。軍事支出や軍事力では大きな国家であっても、公共業務の提供
では小さな国家が一般的だ。この状態を放置して、福祉国家の創設はあり得ない。
 
 福祉国家の実現は国民生活と人心を安定させるだけでなく、対外的な平和にも
貢献する。国民の不満を煽る排外主義は福祉国家においては育たない。今後予想
される低成長と福祉国家を両立させるためには、過度の競争と格差を抑制する政
策とそれを実現できる国家機能が必要だ。福祉は、経済の発展レベルと同様に、
むしろそれ以上に、政治と政治家の質に左右されるという結論には同感である。

 (筆者はソシアルアジア研究会代表)

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≪連載≫
2.農業は死の床か再生のときか               濱田 幸生
  脱原発と電力自由化~スローガン政治から現実化へ進もう~
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■脱原発には電力自由化と発想電分離が必須
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 あまり知られていないことですが、戦前まで日本の電力市場は自由市場でした。
昭和初期には実に800社超の電気事業者が全国にあったほどです。
 ところがこれが戦時体制への突入と共に昭和17年(1942年)に政府の指
導で統一されて2ツになります。つまり
 ・発電・送電・・・日本発送電(日発)
 ・配電   ・・・9ツのブロックごとの配電会社の地域独占

 戦後にGHQはこれを解体せずに、そのままの形で温存しました。これが今の
9電力体制です。(※沖縄を入れれば10)  この時、GHQが財閥解体でした
ような自由競争を取り入れていたら、その後
の日本のエネルギー事情は大分ちがったものになっていたでしょう。

 さて福島事故以来、いくつもの原子力に替わる新たな電源が語られつつも常に
ぶつかるのがこの9電力体制、別名「電力幕藩体制」(飯田哲也氏命名)という
地域独占制度でした。
 原子力に替わる新たな電源を取り入れようにも、現実には9電力会社の地域独
占のために電力会社が認める電源以外には発電しても、事実上送電できませんで
した。

 それが1996年1月の改正電気事業法で、さまざまな方法で「卸供給電気事
業者」(※新規の電力供給者のこと)が発電した電力を入札により「一般電気事
業者」(※9電力会社のこと)に販売できるようになりました。
 そして、他地域の電力会社にも託送料を払えば配電網を借りて送電できるよう
になりました。これで非常に限定的ですが、9電力会社の地域独占がわずかに崩
れて、新しい電源が登場する機会ができたと言えます。

 しかし、現実には配電網を握る電力会社の託送料が不当に高い上に、大口需要
者にしか使えないなどといった弊害も指摘されています。
 福島事故以後、原子力に替わる新たな電源を日本社会が取り入れるためには、
電気事業法の抜本改正による発電と送電の完全分離が求められる時代になってい
ます。

 ところで再生可能エネルギーは、そのお天気任せの気ままな性格が禍してか、
9電力会社が仕切る系統送電網には嫌われっぱなしでした。これはあながち電力
会社のエゴというだけではなく発電量の大きなブレがあったからです。
   九州電力長島風力発電所の1日の発電量推移を例にとれば、1日でも細かな出
力の上下動を繰り返し、風速が落ちるとてきめんに出力が落ちています。
 いいときは昼前後の時間帯で4万キロワットと定格出力の80%程度を発電し
ていますが朝夕はがた落ちです。まさに風任せ。ベタ凪の1日、プロペラはピク
リともしなかったとみえて発電ゼロです。
   これでわかることは、風力発電は定格出力の0%から80%まで変化してその
つど電圧と周波数の変動がある間欠性電源だということです。このような電源を
系統電源に組み込むためには手段は3つしかありません。

 1番目は、風力発電に蓄電器を取り付けて一定の余剰電力が生まれたら蓄えて
おくことです。余剰電力を貯めて、発電が少ない時に送電し平準化して送電でき
るようにします。
 この蓄電方式は実際に試されましたが、現在の技術ではバッテリーにコストが
かかりすぎてペイしません。そのうち安価で優秀なバッテリーが出来るようにな
るまで実用化にはなりそうもないのが現状です。

 2番目は、バックアップの発電所がいつも待機していることです。風車が止ま
ったら代わりにその分を肩代わりして発電し、風車がブンブン回り始めたら止め
るという具合です。  これに対応できるのは、出力の上げ下げが自在にできる
火力発電所しかありま
せん。

 ですから、ドイツでは再生可能エネルギーが伸びれば伸びるほど火力発電がバ
ックアップで伸びて、今や約半分の電源は化石燃料、特に石炭火力が占めること
になって大気汚染すら心配されるようなってしまいました。

 一方電力会社としては、自宅の屋根発電程度ならなんとか紛れ込ませられます
が、ある程度の量の予測発電量が期待されている場合、常に変動に備えてバック
アップ発電所をスタンバイさせねばなりませんでした。  また風力発電所の場
合、オフショア(洋上)発電所が有力ですが、水中送電ケ
ーブルの敷設から始まって、いったん故障でもすれば船で修理にいかねばならず、
台風の通り道の日本では管理コストがかさむことがわかってきました。

 3番目は、ある地域の天候がダメなら、別の地域で補完できるような素早い電
力融通ができるスマートグリッドです。
 ドイツなどはこの再生可能エネルギーの送電網に26兆円が新たに必要だと言
われています。スマートグリッドや超伝導送電線などの新技術を投入すればいっ
そうかさみます。

 去年、ドイツにある4ツの地域高圧送電網の1ツを管理しているテネット社の
フォルカー・ヴァインライヒ氏はこう語っています。(英フィナンシャルタイズ
2012年3月27日)

 「冬は何とか乗り切った。だが我々は幸運だったし、次第にできることの限界
に近づいている。
 ハノーバー郊外にある何の変哲もない低層ビルに拠点を構えるヴァインライヒ
氏と同僚たちは、北海とアルプス山脈を結ぶテネットのケーブルの電圧を維持し
障害を回避するために、2011年に合計1024回も出動しなければならなか
った。前年実績の4倍近くの回数だ。」

 このようなドイツの窮状を見ると私は、風力発電は電力会社管理の系統送電網
の中に入れて運用することは悪平等ではないかと思うようになってきています。
 現状では発送電が分離していないために、泣いても笑っても電力会社の送電網
を使うしかないわけです。
 結果、電力会社はコストをかけて風力発電のバックアップをせねばなりません。
そのコストもまた電気料金に上乗せされて消費者がかぶることになります。

 私はこのような外部に負担をかけてしまうエネルギー源は、自立のための方途
を考えるべきだと思っています。このままでは出来たら出来たきり、出来なけれ
ばごめんなさいも言わないというだだっ児的電源から抜け出せません。

 電力会社に依存しておきながら、発電基地までの送電網は作ってもらい、価格
的にはFIT(固定額全量買い取り制)で過剰に守られ、出来ただけの優先送電
権まで持ってしまう甘ったれた仕組みは、かえって再生可能エネルギーの自立を
阻害します。

 自立の方法としてはこのようなものはいかがでしょうか。
①あらかじめ発電コストにその分を組み込んで蓄電池を高かろうと取り付けるこ
 とを義務化する。
②あらかじめペアとなる自社所有の小規模火力発電所を近隣に作っておく。
③送電網と配電網まで含めて自社私有として「再生エネルギー産直」をする。

 おそらくはどの案もかなりのコストかかるでしょうし、それで尻込みする事業
家も多いはずです。しかしそれが再生可能エネルギーの真のコストなのですから
しかたがないではありませんか。
 そして、再生可能エネルギーは高いのは百も承知だが脱原発のために買うとい
う消費者は、その専門配電会社から購入すればいいのです。

 ドイツのように、仮に高い電源であっても、脱原発由来の電源であるかどうか
の選択権を消費者に持たせることで納得していく仕組みが必要です。高いから買
いたくない消費者は買わねばいい、ただそれだけです。
 経済外的支援を減らしていき、経済原理の中に再生可能エネルギーを置かねば
なりません。  このままでは、税金で膨れ上がった肥満児のようなものに再生
可能エネルギー
は成り下がり、国民から疎まれるのは必至です。そのためにも電力自由化と発送
電分離は必要です。
 
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■英国にみる電力自由化
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 原発をゼロにすることだけなら、そんなに難しいことではありません。現に今、
動いているのは大飯原発3、4号機のみです。
 これでなんとか夏を乗り切ったのですからこのままなんとか、と思わないわけ
ではありませんが、ドイツの先行事例を知るにつけ、もっと長い眼で考えなけれ
ばならないと思うようになりました。

 特に長期にわたって、原子力なき後の化石燃料に過度に頼らないエネルギー態
勢を作り出すのは簡単なことではありません。
 というのは、ただ供給源としての代替エネルギーだけあってもだめで、それを
どのように供給していくのかという「制度」が不可欠だからです。

 そこで3.11以降、東電処分問題と絡めて電力自由化が叫ばれ始めました。
しかし議論が進んでいるとは到底言えない状況です。
 しかし、それは東電処分と一緒にするからかえって解りにくくなるのです。巨
額の負債や、原子炉の扱い、国からの支援で成り立っている原賠法、除染問題ま
で絡んでまるでもつれた糸球のようです。

 ですからいったんは東電処分問題と電力自由化問題を切り離して考えないと、
本筋の電力改革が見えなくなります。電力改革の大筋は思いのほかシンプルです。
 第1に、地域独占型の9電力会社体制を解体して、市場メカニズムを導入する
ことです。そのために発電会社と送電会社、そして配電会社までに3分割します。
 第2に、地域ごとにもっと市場メカニズムが働くように47都道府県単位にま
で細分化します。

 この2つが誰しもが納得する電力自由化の共通原則ではないでしょうか。それ
を考えるためにヨーロッパの英国とドイツの事例を見てみたいと思います。この
両国は対照的な電力自由化の道を辿りました。
 ドイツ、英国の発電-配電網の歴史は日本とかなり異なっています。それは各
国それぞれの歴史の中で発電-送電をしてきたために一概に「電力の自由化」と
言ってもお家の事情はそうとうに違います。

 簡単に電力自由化以前の送電網のタイプを整理するとこんなかんじです。
 ・英国 ・・・第2次大戦後一貫して国営管理
 ・ドイツ ・・・市町村電力会社(シュタットヴェルケ)+電力会社
 ・日本 ・・・戦後から9電力会社の地域独占

 まず英国ですが、英国はサッチャー改革で肥大化した国営企業を解体する一環
として発送電を民営化することを考えました。
 発電所は国営だったものを、7割をナショナル・パワー社に、3割をパワージ
ェン社に民営移管しましたが、お気の毒なことに原発だけは引き取り手がいませ
んでした(苦笑)。
 産業界は原発のようなものを丸投げされてはたまったものではない、原発は国
策ではないと算盤に合わないと判断したのです。当然ですな。

 苦肉の策で国が100%出資で前2社以外に原発専用のブリティシュ・エナジ
ー社を作ってそこが原発を所有し、逐次民営化をしようと思っていたのですが、
奮闘努力のかいもなく見事失敗。
 1995年2月に新規原発建設を断念し、現在稼働中の2基も停止する予定と
なっています。かくて英国の原発は事実上の終焉を迎えたわけです。

 これを見ると洋の東西を問わず、いかに原子力というシロモノが国策なくして
は出来ないものかとしみじみ思います。はっきり言って、米英仏露中の原発は原
爆作りの副産物のようなものでしたからね。

 日本の場合、これを国策民営といういかにも日本的な方法で解決しました。官
僚が民間会社に地域独占の御朱印状を与える代わりに、因果を含ませて原発を作
らせたのです。
 福島事故後は、英国流の原子力を他の電源から切り離して一元的に国営化して
ゼロ化していくというのは現実的な方法で、日本でも使えると思います。

 さて英国の送電網もナショナル・グリッド社に民営化された上で、地域別に1
2のブロックに分割して地域独占を与える代わりに供給義務を負う方式にしまし
た。
 そして興味深いのは「電力プール制」を作ったことです。これは卸売り電力市
場のことです。これは一見日本の1996年1月の改正電気事業法の卸供給事業
者(PPS)も認めるのと似ているように見えます。

 ところがよく見るとかなり違います。英国版「電力プール制」は、先ほど述べ
た全国の送電網の卸元のナショナル・グリッド社が勧進元になって開く卸電力市
場なのです。
 ここに一定の基準を満たす発電会社がすべて参加して、入札により電力価格を
決定します。

 大は国営発電業を引き継いだナショナル・パワー社から、小は再生可能エネル
ギーのミニ発電会社まで同じ入札に参加せねばなりません。
 この「電力プール制」は、その日の午前10時までに翌日正午までの希望売電
価格を入れておきます。

 これは1日を48の時間帯に分けられていて、発電会社は30分ごとに自分の
発電能力と発電所を入札提示していくわけです。一方、買い手の配電会社もまっ
たく同様に午前10時から翌日の正午までの希望落札価格を提示します。
 再生可能エネルギーだとこのあたりがかなり大変で、明日の天気予報とにらめ
っこしながらの入札額提示となるのでよくハズすそうです。

 胴元の「電気プール」は、それぞれ0分間のタイムゾーンでもっとも安いもの
から落札していき、必要量に達すれば入札終了となります。逆に買い入れ価格は、
落札された発電所の提示額でもっとも高い価格に統一されます。
 折り合えばハンマープライスというわけですが、いかにもサザビーズなどのよ
うな入札が大好きなイギリス人らしい制度ではあります。

 ここで気をつけて頂きたいのは、あくまでも売り買いの単位は「発電所単位」
なのことです。決して「発電会社単位」ではありません。ですから、落札される
のはもっとも安い売電をした発電所であり、もっとも高く買う配電会社だという
ことです。

 これは発電-送電-買電の3つがそれぞれに独立していなければ成り立たない
ことですが、非常に合理的なシステムです。電力自由化の極北と言ってもいいん
じゃないでしょうか。

 現在この英国型「電気プール制」は試行錯誤の過程にあるようで、いくつか不
備も見つかっているようです。なんといっても国営を引き継いだナショナル・パ
ワー社のような巨大会社と、再生可能エネルギー中心のミニ会社がコスト面で競
争するのは難しいことが分かりました。

 それなら、再生可能エネルギーなど止めりゃいいんじゃないか、というと次世
代の新エネルギーは現在の段階では量産が効かないので絶対的に不利です。これ
ではイノベーションが進まずに未来の芽が摘まれてしまうことになります。

 このようにヨーロッパには、一方でドイツ型FIT(固定全量買い取り制度)
のように再生可能エネルギーを甘やかして世間の荒波に当てなかった結果、税金
と高い電気料金のぬるま湯から出られなくなったような国がある一方、逆に英国
のように「皆んな平場で競争だぁ、負けたら潰れろぉ」というスパルタ型の国も
あるということです。
 
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■ドイツ電力自由化の道のり
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 わが国が脱原発を考える上でもっとも参考になるのはドイツであることは異論
がないと思います。
 まず、歴史が似ています。ドイツでは戦前の地域ごとに別れて多数あった電力
会社が、ナチス政権による1939年の「エネルギー経済法」によって地域独占
に統合されました。

 そしてこれはどこの国も似たようなものですが、第2次大戦前夜に総力戦に備
えていっそう電力会社の独占が保護されました。軍需工場をフル生産させるため
には、電力の安定供給が必須だからです。  戦争中はいたしかたがないとし
て、問題は平和になった戦後も自由体制に戻ら
ずにそのまま電力の戦時独占体制が続いてしまったことです。

 ドイツの場合、戦後の西ドイツにも受け継がれて、片や東ドイツは共産体制で
すから自由化など話の外です。ちなみに現首相のメルケルさんは旧東ドイツの出
身です。
 西ドイツは1957年に電力会社の地域独占とカルテルを守るために「競争制
限禁止法」という法律を作って、以後39年間も護持し続けてきました。  こ
のあたりまでは日本の戦前自由市場-戦時電力会社統合-戦後9電力会社支
配という流れとそっくりです。
 特に戦時中にそれまでの自由な電力市場が解体されて、地域独占ができたまま
戦後になだれ込み現在に至る、という歴史はまるでわが国の歴史をみるようです。
 このドイツの地域独占が壊れたのが1996年12月の「ブリュセル官僚から
の命令」といわれるEU指令96/92号「電力単一市場に関する共通規則」で
した。  このEU指令でドイツはそれまでの巨大電力会社10社による地域独
占体制を
廃止せざるをえなくなりました。

 これは価格カルテルや地域棲み分けをなくすだけではなく、「よそ者」に自分
の会社の送電網を使わせねばならないという電力会社からすれば「屈辱的」な内
容を含んでいました。

 そして2年後の1998年に早くもライプチヒで電力自由市場が生まれていま
す。これにより電力取引は自由化されるはずですが、そうは問屋が卸しませんで
した。
 というのは、大手電力会社9社は、それまでの地域独占を取り消されたことを
逆手に取って買収と合併に走ったからです。理由のひとつは国際競争力をつける
ということです。

 ここで決定的にわが国と異なる条件がひとつ出てきました。ヨーロッパは電力
網が国境を超えて統合されているのです。  これはわが国が友好的とは言い難
い近隣諸国に包囲されているために、燐国と
の電力統合をすることが出来ず、国内だけの電力網だということと対象的です。
 まぁ、もしわが国が中国や韓国あるいはロシアと送電網を共有していたら、竹
島や尖閣、はたまた北方領土問題が熱くなるたびに送電網を遮断されてしまいま
すが。

 それはともかくドイツは電力市場解禁をしたとたん、外国の電気会社との競争
にさらされることになりました。
 バッテンフォール・ヨーロッパのように北欧の電力大国スウェーデンの電力会
社に買収される会社まで現われたりとすったもんだの挙げ句、10電力会社体制
が4社体制に整理統合されてしまいました。

 結局、2011年段階で国内発電量の83%がこの4社の寡占というていたら
くで、これでは電力自由化だか電力の独占強化だか分からないということになっ
てしまいました。

 このドイツのように電力自由化がかえって電力会社の危機感を募らせて買収・
統合に走らせ、かえって独占か強化されてしまう逆走事例もあることを私たちは
頭に置いておいたほうがいいと思います。
 というのは、わが国では大いにこのケースは想定できるからです。現在わが国
の9電力会社は、半分国営化されたも同然の東電を別格にしてどこも原発の維持
費がのしかかって青息吐息です。

 この経営状況の中で安易に電力市場の開放をすると、今まで禁じられてきたブ
ロック管区を乗り越えて送電することが可能になります。
 経営体力がある電力会社はこの際とばかりに、弱小電力会社のシェアを奪いに
かかります。これは現実に1996年以後のドイツで頻繁に起きたことです。

 電力自由化に伴って、とうぜん雨後の竹の子のように再生可能エネルギーを中
心としたエコ発電会社や、企業の剰余電力の売電も盛んに行われるようになるで
しょうが、それは総発電量の一部でしかありません。
 おそらくはドイツのように2割を超えるのは難しいはずです。すると結局は、
ドイツと同じように電力の自由化が9社体制から4、5社体制に独占強化されて
お終いとなってしまうかもしれません。

 なぜ、そうなるのでしょうか。それは送電網を握ってさえいれば、そこに自由
にかけられる託送料で有象無象のミニ発電会社の首根っこを押えられるからです。
 ドイツはまさにこの託送料を使って、4社に独占強化した巨大電力会社が国を
巻き込んで最後の抵抗を試みます。
 
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■独占電力会社が
  エコ・エネルギーを参入させない裏技・「託送料」
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 ドイツは1998年に電力自由化のEUから「命令」されてイヤイヤ電力自由
化をしました。 しかし、それはあくまでも上っ面だけのものでしかありません
でした。

 長年やってきたシステムというのはなかなか使い勝手がいいもので、競争がな
かろうと、市場メカニズムがなかろうと、のほほんと電力会社がその上にあぐら
をかいていようと、毎日キチンと安定した電気は来たわけです。
 それがEU指令で消し飛んでしまってドイツの電力会社は一時パニくりました。
しかしドイツの電力会社はしぶとく合併して、かえって独占強化という焼け太り
になりました。

 これを苦々しく見ていたのが「ブリュセルの官僚」です。フリュッセルにはE
Uの本部があり、そこには鬼より怖いと評判のEUの中央政府にあたる欧州委員
会がありました。
 欧州委員会は、時には各国政府を超越するほど権限が強く、EUに加盟してい
る以上泣いても笑ってもその「指令」には従うしかないのです。

 欧州委員会は、通貨を手始めに既に保険業、銀行業などの分野で自由化を押し
進めてきました。残るはガス、電気などのエネルギー部門です。
 欧州委員会には各部門に「欧州委員」がいて、それは中央政府の閣僚の役割を
しています。いや、各国政府の閣僚なんぞより権限は強いでしょう。

 というのは、「欧州委員」は絶えずヨーロッパの市場に眼を光らせて、カルテ
ルがないか、談合がないかを監視しており、必要ならば企業に立ち入り、帳簿を
押収し、関係者を取り調べできるという国税のマルサのような警察権すら有して
いるのです。

 このマルサもびっくりの「欧州委員」は、ドイツの電力自由化に疑問を持ちま
した。「なぜドイツは電力自由化で独占が強化されたのだ」、当然そこに欧州委
員は疑問を持ちました。
 そしてドイツはナチス時代からの電力会社の地域独占を温存する何か裏技を使
っているに違いないと目星をつけて調査を開始しました。

 あったのです。その裏技とは、独占電力会社の自社所有(あるいはその子会社
所有)の送電網を新たなライバルとなった参入電力会社に使わせないことです。
 今になるとかえって驚くのですが、この時点ではドイツは発電と送電の分離を
していなかったのです。

 ドイツ政府は個人消費者に発電会社の選択の自由を保証する代わりに、電力会
社の送電網の独占を許すという妥協をしてしまいました。
 これによって発電会社は新しい発電会社の市場参入を認めた代わりに、送電網
を握りしめたままでよくなったのです。この構図は今の日本の改正電気事業法の
「電力自由化」とまったく同じです。

 もちろん電力会社とて、新規参入会社に面と向かって「あんたら新参者には使
わせないよ」などと言ったらたちまちブリュセル官僚にお縄になってしまいます
から、ある手を使いました。それが「託送料」です。

 新規参入者は発電出来ても、自分の発電所から家庭までの送電網を持っていま
せん。そんなものを作っていたら建設地の買収だけで膨大な金がかかって起業で
きません。
 ですから、大手電気会社に「送電網を貸して下さい」とお願いするしかないわ
けです。 この送電線借用料を「託送料」と言います。ここが新規参入のネック
となっていたのです。

 もちろん他のEU各国も「託送料」制度をもっています。しかし、ドイツを除
く国々は、EUが推奨する政府が託送料を規制する監督官庁を持っていました。
 それに対してドイツは、この監督官庁を設置せずにズルズルと7年間も無規制
のままに、大手電力会社と新規参入者との間の相対取引を認めていたのです。

 新規参入発電会社にとってそれは「審判のいないサッカーのようなものだ」と
言われていたそうです。いかに大手電力会社の無理無体があったのか想像がつき
ます。
 このために、1998年の電力自由化以降約100社の新規参入電力会社が誕
生し、7年後の2005年にはわずか6社しか残っていなかったそうです。

 このドイツは私たちにとっていい反面教師になります。つまり、発電と送電を
完全に分離しないと、既存の電力会社はみずからの送電網から新規参入企業を拒
絶できるということがひとつ。  つまり、今の日本の電力システムのままで
は、絶対にダメだということです。
電力会社は新規参入発電会社に不当に高い託送料をかけて独占を維持しようとす
るからです。

 そしてふたつめに、託送料を既存電力会社と相対取引で決める方式では圧倒的
に送電業者が有利になるために、それを公正なものかどうかを監督する官庁が必
要だということです。 日本でもこの監督官庁が機能していません。

 このふたつの条件が揃って初めて電力市場が開放されたと言えるのであり、消
費者は電気の購入先を自由に選択できることができるのです。  まことにドイ
ツは「いい手本」になります。絶対にドイツのようないいかげん
な「電力自由化」をしてはいけません。
 このような中途半端な「電気自由化」をすれば、新たに誕生した新規発電事業
者はドイツのようにことごとく潰れてしまうことでしょう。
 
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■EUはドイツを「電力自由化後進国」と名指しした
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 ドイツは2002年に第1次脱原発政策を開始します。去年のメルケル首相の
第2次脱原発政策に遡ること10年前です。
 にもかかわらず、第1次脱原発政策の評価は高いとは言えませんでした。それ
は「稼働30年間」とした原発規制が実は抜け穴だらけだったということもあり
ますが、もうひとつ大きな失敗の原因があります。

 それが「電力自由化」の失敗です。電力会社の地域独占は、この中途半端な
「改革」によりかえって強化されてしまいました。
 新規参入した発電会社が1998年の「改革」開始から7年間で100社から
わずか6社にまで減ってしまったことがそれを裏付けています。託送料のつり上
げのために新エネルギーの会社はたった6%しか生き残らなかったのです!
 シュレイダー政権は2000年に再生可能エネルギーの優先権を与えるFIT
(固定全量買い上げ制)や、電気料金にエコ電源に対して12.7%もの助成金
を与えるなどのテコ入れを始めていますが、新規参入電力会社が枕を並べて討ち
死にしては仕方がありません。

 競争メカニズムが健全に働いているかどうかのもうひとつの目安に、大口需要
者(企業向け)の電気購入の切り換えがありますが、英国、ノルウエイなどの諸
国の平均は50%以上なのに対して、ドイツはわずか6%にすぎません。
 またもうひとつの競争指標である電力料金は、大口需要者料金が2004年調
べでEU平均がメガワット当たり58ユーロなのに対して、ドイツは69ユーロ
(6900円)で、ヨーロッパ一高い料金です。

 ドイツの電力の戦時独占体制はいささかも揺らいでおらず、再生可能エネルギ
ーは拡大せず、大手電力会社はあいも変わらずコスト安のために既存電力源に依
存し続けたことが分かります。
 これでは緑の党までが加わった政府がいかに口酸っぱく脱原発を叫んでもかん
じんの電力会社が馬耳東風では、原発からの脱却など進むはずがありません。

 脱原発ウンヌンというより、電力事業という経済の根幹の独占状態を少しも改
善しようとしないドイツに対して、「ブリュセル官僚」こと欧州委員会が本気で
怒り出しました。  欧州委員会はドイツに対して、「自由化後進国」という恥
ずかしいレッテルま
で貼り、EUの要のドイツがそのていたらくでは示しがつかないだろうと攻撃し
たのです。

 欧州委員会は全ヨーロッパの統合送電網を目指しており、そのためには発電と
送電を分離させねば、ヨーロッパのエネルギー市場の活性化はありえない」(バ
ローゾ欧州委員)と考えていました。
 そして発電会社に完全に送電網の所有権を切り離すように要請してきました。
これは持ち株子会社への所有移転も許さないという徹底した内容でした。

 欧州委員会は電力会社の裏技であった託送料つり上げをできなくするためにド
イツに対して規制官庁を作ることを命じました。これを受けて出来たのが連邦ネ
ットワーク庁(BNA)です。  次いで、とうとう2004年にはドイツが発
送電分離をこれ以上遅れさせるな
らば 欧州委員会は命令してでも実行させるという強い申し入れをしました。

 しかし、ドイツが本気で発電と送電分離を開始したのは2011年のメルケル
政権による第2次脱原発政策まで待たねばなりませんでした。いかに業界の抵抗
が強かったかお分かりになるだろうと思います。

 電力業界は、ドイツ最大手の電力会社であるE・ON社長ベルノタート氏が言
うように、「送電網は株主の所有物送電部門の切り離しは、所有権の剥奪に等し
い。EUの介入は電気料金の引き下げにつながらず、電力の不安定化を招く」と
反論しました。

 冗談じゃねぇ、ゼッタイに送電網を売るもんか、というわけです。この強硬な
電力業界の反対にメルケル政権もたじろいだのですが、なんとさっきまで息巻い
ていたE・ON社は2008年2月にあっさりと送電網をオランダの送電会社に
売り飛ばしてしまいます。

 これには裏話がありました。実は「ブリュセル官僚」は、ドイツ連邦カルテル
防止庁と共同でE・ON社が他の大手電力会社とカルテル行為をしていると見て
捜査を行っていたのです。
 カルテル行為だと認定されれば(たぶんそうだったのでしょうが)電力会社は
売り上げの10%もの罰金を課せられます。E・ON社だけで数億ユーロの罰金
を支払うはめになったでしょう。

 それがわかった瞬間E・ON社は豹変して、捜査の打ち切りを条件に送電網を
売却します。もちろんそんな裏取引があったことなど双方は認めませんが、ドイ
ツ人は皆そう信じているようです。
 そしてこの後に福島事故が起きて、それが決定打となります。ドイツで最も長
い送電線を誇っていた業界2位のRWE社は銀行と保険会社の共同出資体に13
億ユーロ(1300億円)で売却するなど発送電分離が急激に進みました。

 このようなドイツの例をみると、いったん強固な電力会社の地域独占を認めて
しまうと簡単にそれは修正が効かないと分かります。
 またドイツの電力会社だけが悪者のようにみえますが、必ずしもそうではあり
ません。

 実際にその後ドイツ電力会社が予言した電力の不安定は起き続けましたし、外
国に送電網を握られるのはエネルギーの安全保障上気持ちがいいものではありま
せん。送電網のメンテナンス面も不安です。
 第一、送電網を大枚の金を出して作った所有者は発電会社なのですから、その
所有権を時の政権が売れと命令するのは自由主義経済の建前の上からは筋違いで
あることも事実です。

 ドイツの場合、なんと言っても国家主権を超越するEUが存在していましたか
らなんとかなったわけですが、それが期待できないわが国では相当な難航が予想
されます。
 東電のような巨額の借金で首が回らなくなっている所ならなんとかなるかもし
れませんが、他の電力会社が簡単に同意するとは思えません。

 脱原発政策を進めるためには、原発の国有化とワンセットで送電網買い上げを
することになると思われますが、ドイツ以上の困難が待ち受けていると覚悟した
ほうがいいでしょう。

 拙速に成立したわが国の再生可能エネルギー法は、このような脱原発への道標
である電力自由化、発送電分離、原子力の国営化などの電力改革のごく一部にす
ぎないFIT(再生可能エネルギー固定是両買い取り制度)という「部品」にす
ぎません。
 しかもそれを実行したドイツにおいてはその失敗を政府当局が認めています。
なぜそこに固執するのかわたしには理解できません。

 わが国も遠からず電力の自由化の道を歩むことになります。いかなる形であれ、
それは不可避です。その場合ドイツ型を取るか、イギリス型を取るか、はたまた
日本独自の型にしていくのかが問われています。
 いずれにせよ、脱原発をスローガンとして叫ぶ時期は終わりました。今は広い
知見を蓄積すること、そしてその現実化のために議論する時期です。

 (筆者は茨城県・行方市在住・農業者)

          目次へ

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≪連載≫
3.宗教・民族から見た同時代世界              荒木 重雄
  布施と功徳の互酬関係で地域社会に根づくスリランカ仏教
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 出家して227の戒を守り、専ら修行に勤しんで自己の解脱をめざすのがスリ
ランカの上座部仏教の僧侶だが、人里離れた森林に住んで瞑想に明け暮れる「森
林僧侶」を除いては、なにがしか世俗との交渉のなかで生きることになる。
 前号ではスリランカ仏教の成り立ちや僧侶の修行にふれたが、今回は僧侶や仏
教と庶民のかかわりに目を向けたい。

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◇◇ 暮らしのなかに寺と僧
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 街や村の寺院に住むスリランカの僧侶は、地域社会に欠かせぬ知識人である。
人々の相談相手となり、情報センターであり、日曜学校の教師であり、人々の通
過儀礼に関与し、葬式においては現世と他界の接点に立って功徳を死者に転送し、
また、よりよき再生を願う民衆の期待に応えようと努める。星占いをしたり、悪
霊祓いや病気治療など呪術的行為をする僧侶もいる。

 地域の人々も気軽に寺院を訪れる。ポーヤとよばれる、上弦・満月・下弦・新
月と月に4回ある斎日や、7月の満月から10月の満月までのワッサとよばれる
雨安居のあいだ毎晩のように催される仏陀供養(ブッダプージャ)は、地域住民
の多くが寺院を訪れる機会である。

 訪れた人々は、仏塔、菩提樹を詣でたのち、多数の仏陀像を祀る仏殿に参って、
それぞれの仏像に献花し、灯明を上げ、供物をそなえる。 
 僧侶は仏陀像の前で「三帰依文」を唱え、訪問者は礼拝し跪いてそれに和し、
五戒や八戒を授けられて遵守を誓うのである。

 因みに、上座部仏教では信奉するのは仏陀(釈迦)のみであり、堂内にいくつ
仏像があろうとも、それらはすべて仏陀像である。

===========================================================
◇◇ 布施と功徳がつくる互酬関係
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 僧侶を表すビック(比丘)の語源がビッカティ(食を乞う)に由来するように、
生産にいっさい携わることのない僧侶は、在家者からの物質的援助なしには生存
も活動も不可能である。食のすべてを托鉢に委ねる決まりこそすたれたが、日用
品から食料までを檀家の布施に負っている。

 在家者からの布施の大がかりな機会(システム)は、雨安居明けの1か月以内
に行われる「カティナ」である。雨安居中の厳しい修行をねぎらい、尊敬の念を
込めて、僧侶に新しい僧衣を寄進する伝統的な行事に由来するもので、この寄進
には特別の功徳もあるとされるため、寺院ごとに地域住民が総がかりで用意を整
え、衣をはじめ、石鹸・歯磨き・用紙類などの日常必需品、米や調味料、菓子類
などを、寺院によっては何台ものトラックに積み込んで届けるのである。

 カティナに次ぐ行事は、5月の満月の日に催される「ウェサック」である。上
座部仏教圏では、仏陀の誕生・成道・涅槃の3つの出来事がすべてこの日に起こ
ったとされ、仏教徒には特別な意味をもつ日となる。荘厳された寺院にこぞって
信者が訪れ、思い思いに精一杯の布施をする。

 在家者による布施の機会は、これら大きな催しだけとは限らない。先に述べた
斎日や仏陀供養に寺を訪れるさいにも分相応な布施が用意されるし、檀家や信者
はあらゆる祝儀・不祝儀に僧侶を招いて昼食を供養し、併せて金品の布施をする。

 人々が布施を欠かさぬ重要な要因は「功徳」の観念である。上座部の仏教徒に
とって教団や僧侶は、供養や布施の「籾」を播けば豊かな「功徳の恵み」がもた
らされる「福田」と考えられ、その「功徳」は、布施者の「業」を改善して、よ
りよい来世を保障するだけでなく、現世の幸・不幸をも大きく左右するのである。

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◇◇ 人々の求めなら祈願も護呪も
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 在家者にとって仏教は、えてして、観念的で現世否定的な教理よりも、招福除
災の現世利益への期待が強い。スリランカの仏教は、そうした民衆のニーズにも
応えるシステムを創りだした。その一つに「ピリット儀礼」がある。ピリットと
はパーリ語のパリッタ(「護る」)の訛で、住民の新築・移転・開業のおりや、
健康祈願・安産祈願、死者への回向、あるいは病気治療や悪霊払いの要請に応え、
僧侶が護呪経文を読誦する儀礼である。

 信者の家か寺院にバナナの幹やココナツの葉で飾られた仮堂が設けられ、中に
置かれた舎利容器・経典・水瓶などに結ばれた白い糸が僧侶の手から信者たちの
合掌した手に渡されて、これで「仏法僧」と会衆が1本の糸で結ばれた一体とな
る。

 目的に沿った経や偈が唱えられたのち、水瓶の水は信者たちに分け与えられ、
短く切った糸は僧侶が信者の手首に結わえて護符となる。ともに霊験あらたかな
有難いものとされるのである。

 仏陀像のみが礼拝されるはずの寺院だが、しばしば、多様な神々の像が脇侍ふ
うに祀られていたり隣接する祠堂に祀られていたりする。人々はこれらの像に供
物や賽銭を上げて願掛けをする。神々の多くはヒンドゥーの神々や地方神だが、
なんと、観音や弥勒など大乗仏教の菩薩もここでは神扱いである。

 何故、神々が寺院内に祀られ、あらたかな霊力をもつのか。それは、神々が仏
陀から機能を委譲されて働くからである。
 願掛けにさいして、人々は仏陀に参拝したのち、祠堂に赴き神々に祈願をする。
その理由は、祈願者が仏陀に参拝して得た功徳が神々に転送され、そのことによ
って神々が功徳を増して解脱を達成する機会が増えるので、神々はその見返りと
して祈願者の願いに応えると解釈されるのである。

 仏教は霊的存在を認めず、超自然的な力や神々に対する祈願も行わないのがほ
んらいのありかたであるが、民衆がもつヒンドゥー的な神観念や民間信仰の要素
を再解釈して仏教化し、民衆の来世観や現世利益の欲求にも応える形に再構成さ
れたのが、現実のスリランカ仏教であり、このメカニズムはまたあらゆる地域の
あらゆる宗教に共通するところである。

 (筆者は社会環境学会会長・元桜美林大学教授)

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≪連載≫
4.落穂拾記(15)                     羽原 清雅
  鴎外 通俗ばなし <下>
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 森鴎外の話をもう少し続けたい。
 鴎外の軍医としての小倉勤務は世紀をはさんでの1899(明治32)年6月
から2年10ヵ月だが、40歳前後の鴎外が地方都市での生活によって新たな目
を開いたことは以前に書いたとおりだ。

 当時の第12師団軍医部長といえば、地元ではほぼ最高のポストであり、軍部
の中央では「左遷」だったとはいえ、九州では、文壇という大きな舞台で活躍し
ていた人物として尊敬され、仰ぎ見るほどの存在であったことに間違いない。

 ところが、彼の周辺では、いかがわしい新聞記者らがいて、鴎外を怒らせるよ
うなことがいくつも続いていたのだ。当時もきちんとした記者たちは多かったが、
一方で横柄、たかり、ケンカの売り込み、トラの威を借りてすごむ、弱みに付け
込むなど、ゴロつきのイメージも抜けなかった。このほか、泥棒騒ぎに遭ったり、
出身地の津和野人の面倒を見たばかりに迷惑を蒙ったり、といった人間くさい事
態にもぶつかっている。

 ただ、鴎外離倉時の送別の宴では、門司新報から名産の石硯、福岡日日新聞か
ら博多織などが贈られたほか、弁護士、政治家、画家ら多彩な顔ぶれに混じって、
親交のあった新聞記者らも参加しており、良い交わりがあったことを彷彿とさせ
る。

≪鴎外を悩ませた記者や泥棒たち≫

 まずは「小倉日記」や在京時の日記から、鴎外の蒙った迷惑を拾ってみよう。

1.東京経済雑誌社員と称する小松埼幹一なるもの。
 「予に帰京の資を給せんことを求む。予辞す」とある。理由もないタカリであ
る。2週間ほど経って、鴎外が小倉の駅に見送りに行くと、この小松埼が汽車の
一等室から窓の外を覗いているのを発見、「予その面を凝視すること久しかりし
に、其人恬然意に介せざるものの如きなりき」と唖然としている。そしてさらに
「その変詐 実に恐るべしとなす」と書いている。
<1900(明治33)年3月29日>

2.中央公論記者と称する原田芳丸。
 朝方、小倉駅で小松埼を見かけたその夜のこと、鴎外はイギリス人宣教師ジェ
ムス・ハインド宅に行くと、原田がそこまで追ってきて「盤纏を借らんと欲す。
その態度強請(ゆすり)に近し。叱して遣り帰す」ということがあり、相次ぐ記
者の姿にさぞ怒りを覚えたことだろう。
  <同年4月11日>

3.東京朝日新聞記者 村山定恵。
 鴎外が陸軍軍医総監・陸軍省医務局長のころ、陸軍担当の新聞記者と懇談する
北斗会という会合が持たれ、これに出席した際のこと。村山は「小池は愚直、汝
は軽薄」と叫んで、鴎外に暴行し、村山と鴎外は赤坂・八百勘の庭の飛び石の間
に倒れて左手に怪我をした、という。翌日には、大和新聞などの記者が見舞いに
来ており、仕事には支障はなかったようだ。数日経って、村山が謝罪に来ている。

 さらにその数日後、旧知なのだろうか、東京朝日の土屋元作が社を代表して謝
罪に来て、「村山は退社せしめず、唯陸軍省に出入りすることを停むと云ふ」と
日記にある。鴎外としては朝日の処分は甘い、と感じていたようにも受け取れる。
取材先の要人に怪我をさせた記者に対して、いまの朝日なら、どのような処分を
するのだろうか。
  <1909(明治42)年2月2日/8日/12日>

4.泥棒遭遇のこと。
 空巣だろうか、外出中の夜、「妻の金剛石を嵌めたる金指輪、金時計、予の銀
時計及金70円許を奪ひて去る」。翌日の夜に警視庁から警部らが捜査に来るが、
数日後に盗まれた宝石を嵌めた金の指輪が、深川万年町からの小包郵便で戻って
きている。一部だけか全部か、新聞で報道されたかどうかはわからないが、泥棒
は鴎外宅を襲ったのかと知って恐れをなしたのだろうか。善人のドロちゃん、と
いうべきか。
  <1908(同41)年10月27日/31日>

 鴎外は小倉時代にも、泥棒騒ぎに巻き込まれている。被害はないのだが、気に
入っていた女中の木村元(もと)の甥である、幼い川村速水が泊まりに来た夜の
こと、「盗あり。雨戸に錐す」と書いている。近隣にでも盗難事件があって、ほ
どほどだった戸締りを強化したのだろうか。
  <1900(同33)年8月30日>

5.室(むろ)卓爾(1879~1937)のこと。
 この人物は、鴎外が満10歳の頃に、オランダ語の手ほどきを受けた、いわば
師である室研(むろ・きわめ)の4男である。

 この卓爾は津和野出身で、日清戦争後の北清事変(1900)の際に一兵士と
して北京城に進駐しており、このときの写真1葉が筆者の手元にある。その後、
食い詰めたのであろうか、ヤマ師として北海道に行って芦別で結婚したものの、
東京に舞い戻ってきた。ここで、父親の研は教え子でもある鴎外を訪ねて、就職
の斡旋を頼む。

 「帝室林野管理局に往き、長官南部光臣に面し、室研の子卓爾の事を依頼す。
室研に書を遣る」。さらに12日後に「・・・室卓爾、南部光臣に書を遣る。庄
田藤治に室の事を言ふ。室卓爾来訪す」。そして10日後には「室卓爾来訪す」
とある。

 恩師の子、という配慮はあろうが、鴎外はもともと出身地の津和野人に対して
は、きわめて親切だ。南部はドイツに出張した時に滞在中の鴎外が面倒を見たこ
とで知り合ったのでは、と思われる。のちに貴族院議員になっている。また、庄
田との関係は不明だが、彼は陸軍少将で、のちに基隆と釜山(鎮海湾)の要塞司
令官と、その間陸軍運輸部本部長を務めた人物。
   <1915(大正4)年10月13日/25日/11月3日>

 この結果がどうなったかはわからない。ただ、のちに鴎外の末弟潤三郎の妻思
都子(シヅ・静子)が次のように漏らしている。ちなみに、思都子は津和野出身
で、子どものころから4歳ほど年上の卓爾を知っていたに違いない。

 「卓兄さんというのが、おりました。鴎外さんを訪ねて行って、迷惑をかけた
んですけえね。・・・・就職のことです。その外に、鴎外さんが、心配して、成
功してよかったと言う人はないのですから、鴎外さんも郷土の人だから、と言う
ので、最初は力を入れたのだそうですが、皆結果が悪かったのだそうです。それ
で、鴎外さんが、わしは、郷土の人たちに知らんと言うことになってしまったの
です。

 すべての人が、皆悪いとか言うのではないのだけれども、たまたま、鴎外さん
をたよって来た人が、そう言う人だったのです。もう、わしは、津和野を信用せ
んと言っていられたわけです。

 そして、鴎外さんの宅は、玄関番が、何人あっても足らないという状態で、直
接に面会を求めて来る人、一々会っていては身体がいくらあっても足らない。あ
らゆる方に面会謝絶と言うような意味になって、中には会いたい方もあろうけれ
ども、それに一々応対し切れないと言うのです。本当に色々の方面の人が行きま
すので、一人位は、それについていなくてはならないと言うのです。役所で鴎外
さんはお会いになるのです。普通は、家庭に訪ねて来られる方は、本当に限られ
た方しか居られません」(「島根地方史研究」20号=1964年12月刊)

 ちなみに、室研が1919年に亡くなったとき、鴎外は香典を贈っている。
    
 じつは、この迷惑をかけた卓爾は、筆者の大叔父である。室研は筆者の曽祖父
で、祖父は中山貞人(室研の長男)で医師となって中山家に養子入りした。室家
は、4男で貞人の弟である卓爾が継いだ。室研は津和野藩の藩医4代目で、維新
前にオランダ医学を学び、子の貞人も跡をついで開業医となったものだ。
                                以 上

 (元朝日新聞政治部長)

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■【運動資料】
 「領土問題」の悪循環を止めよう!――日本の市民のアピール――
  2012年9月28日
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1、「尖閣」「竹島」をめぐって、一連の問題が起き、日本周辺で緊張が高まっ
ている。2009年に東アジア重視と対等な日米関係を打ち出した民主 党政権
の誕生、また2011年3月11日の東日本大震災の後、日本に同情と共感を寄
せ、被災地に温家宝、李明博両首脳が入り、被災者を励ましたことなどを 思い
起こせば、現在の状況はまことに残念であり、悲しむべき事態であるといわざる
を得ない。韓国、中国ともに日本にとって重要な友邦であり、ともに地域で 平
和と繁栄を築いていくパートナーである。経済的にも切っても切れない関係が築
かれており、将来その関係の重要性は増していくことはあれ、減じることはあ
りえない。私たち日本の市民は、現状を深く憂慮し、以下のように声明する。

2、現在の問題は「領土」をめぐる葛藤といわれるが、双方とも「歴史」(近代
における日本のアジア侵略の歴史)問題を背景にしていることを忘れるわけには
いかない。李大統領の竹島(独島)訪問は、その背景に「従軍慰安婦」問題があ
る。昨年夏に韓国の憲法裁判所で出された判決に基づいて、昨年末、京都での首
脳会談で李大統領が「従軍慰安婦」問題についての協議をもちかけたにもかか
わらず、野田首相が正面から応えようとしなかったことが要因といわれる。李大
統 領は竹島(独島)訪問後の8月15日の光復節演説でも、日本に対し「従軍
慰安婦」問題の「責任ある措置」を求めている。

 日本の竹島(独島)領有は日露戦争中の1905年2月、韓国(当時大韓帝国)
の植民地化を進め、すでに外交権も奪いつつあった中でのものであった。韓国民
にとっては、単なる「島」ではなく、侵略と植民地支配の起点であり、その象
徴である。そのことを日本人は理解しなければならない。

 また尖閣諸島(「釣魚島」=中国名・「釣魚台」=台湾名)も日清戦争の帰趨
が見えた1895年1月に日本領土に組み入れられ、その3カ月後の下関条約で
台 湾、澎湖島が日本の植民地となった。いずれも、韓国、中国(当時清)が、
もっとも弱く、外交的主張が不可能であった中での領有であった。

3、日中関係でいえば、今年は国交正常化40年であり、多くの友好行事が計画・
準備されていた。友好を紛争に転じた原因は、石原都知事の尖閣購入宣言とそれ
を契機とした日本政府の国有化方針にある。これは、中国にとってみると、国交
正常化以来の、領土問題を「棚上げする」という暗黙の「合意」に違反した、
いわば「挑発」と映っても不思議ではない。この都知事の行動への日本国内の批
判は弱かったといわざるをえない。(なお、野田政権が国有化方針を発表したの
は7月7日であった。この日は、日本が中国侵略を本格化した盧溝橋事件(1
937年)の日であり、中国では「7.7事変」と呼び、人々が決して忘れるこ
と のできない日付であることを想起すべきである)

4、領土問題はどの国のナショナリズムをも揺り動かす。国内の矛盾のはけ口と
して、権力者によって利用されるのはそのためである。一方の行動が、他方の行
動を誘発し、それが次々にエスカレートして、やがて武力衝突などコントロー
ル不能な事態に発展する危険性も否定できない。私たちはいかなる暴力の行使に
も 反対し、平和的な対話による問題の解決を主張する。それぞれの国の政治と
メディアは、自国のナショナリズムを抑制し、冷静に対処する責任がある。悪循
環に 陥りつつあるときこそ、それを止め、歴史を振り返り、冷静さを呼びかけ
るメディアの役割は、いよいよ重要になる。

5、「領土」に関しては、「協議」「対話」を行なう以外にない。そのために、
日本は「(尖閣諸島に)領土問題は存在しない」といった虚構の認識を改めるべ
きである。誰の目にも、「領土問題」「領土紛争」は存在している。この存在
を認めなければ協議、交渉に入ることもできない。また「固有の領土」という概
念 も、いずれの側にとっても、本来ありえない概念といわなければならない。

6、少なくとも協議、交渉の間は、現状は維持されるべきであり、互いに挑発的
な行動を抑制することが必要である。この問題にかかわる基本的なルール、行動
規範を作るべきである。台湾の馬英九総統は、8月5日、「東シナ海平和イニ
シアティブ」を発表した。自らを抑制して対立をエスカレートしない、争いを棚
上 げして、対話のチャンネルを放棄しない、コンセンサスを求め、東シナ海に
おける行動基準を定める――など、きわめて冷静で合理的な提案である。こうし
た声 をもっと広げ、強めるべきである。

7、尖閣諸島とその周辺海域は、古来、台湾と沖縄など周辺漁民たちが漁をし、
交流してきた生活の場であり、生産の海である。台湾と沖縄の漁民たちは、尖閣
諸島が国家間の争いの焦点になることを望んでいない。私たちは、これら生活者
の声を尊重すべきである。

8、日本は、自らの歴史問題(近代における近隣諸国への侵略)について認識し、
反省し、それを誠実に表明することが何より重要である。これまで近隣諸国と
の間で結ばれた「日中共同声明」(1972)「日中平和友好条約」(1978)
、あるいは「日韓パートナーシップ宣言」(1998)、「日朝平壌宣言」
(2002)などを尊重し、また歴史認識をめぐって自ら発した「河野官房長官
談話」(1993)「村山首相談話」(1995)「菅首相談話」(2010)
などを再確認し、近隣との和解、友好、協力に向けた方向をより深めていく姿
勢を示すべきである。また日韓、日中の政府間、あるいは民間で行われた歴史共
同 研究の成果や、日韓関係については、1910年の「韓国併合条約」の無効
を訴えた「日韓知識人共同声明」(2010)も、改めて確認される必要がある。

9、こうした争いのある「領土」周辺の資源については、共同開発、共同利用以
外にはありえない。主権は分割出来ないが、漁業を含む資源については共同で開
発し管理し分配することが出来る。主権をめぐって衝突するのではなく、資源
を分かち合い、利益を共有するための対話、協議をすべきである。私たちは、領
土 ナショナリズムを引き起こす紛争の種を、地域協力の核に転じなければなら
ない。

10、こうした近隣諸国との葛藤を口実にした日米安保の強化、新垂直離着陸輸
送機オスプレイ配備など、沖縄へのさらなる負担の増加をすべきでない。

11、最後に、私たちは「領土」をめぐり、政府間だけでなく、日・中・韓・沖・
台の民間レベルで、互いに誠意と信義を重んじる未来志向の対話の仕組みを作る
ことを提案する。                        (了)

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■【横丁茶話】
  アランの『定義集』(続)―進化と進歩           西村 徹
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●EVOLUTION:「進化」についてアランはこのように定義している。
【緩慢で、知覚されず、いささかの予見も意欲もされない変化。それは逆に言え
ば、外の情況に対する意志の完全な敗北である。病気、疲労、年齢、職業、社会
的環境、暗示などの作用の結果は、そのようなものである。進化はそれ故に進歩
の反対である。】

 「進化」よりむしろ「退化」の定義に見合うような事例が列挙されている。な
るほど創世記5章を見ると、アダムとエバの3男セツはアダムが130歳のとき
に生まれている。アダム自身が死んだのは930歳、メトセラは969歳で死ん
でいる。ノアは500歳にしてセム、ハム、ヤペテの父親となり950歳で死ん
だ。今の人間寿命はせいぜい100歳前後だから、ずいぶん退化したことになる。
確かに「進化は進歩の反対である」。
 
 人間は神がアダムとイブを創って7,520年。人類史750万年、ホモサピ
エンス以後としても20万年の過程でユダヤ人アダムという新種が誕生して僅か
に7,520年では短すぎて無理もないが、以来生物としてこれといえるほどの
進化はみとめられない。それどころか退化しているとさえいえる。高齢化社会が
聞いてあきれる。
 
 ところが近ごろわが国では、当然「進歩」というべきとき、しきりに「進化」
の語が用いられる。「進歩」より「進化」のほうが高速で、それゆえ上等である
かのように差別化する感じで用いられる。事実は逆でアランの言うとおり「進化」
は生物一般についてのほとんど動きのない、あっても目に見えない緩慢な動きで
ある。それに対して「進歩」は人間がつくり出す世界にのみ固有で「進化」より
はるかに加速度的である。
 
 一例を挙げると2012年8月5日現在、放送大学の講義「コンピュータのし
くみ」の最終回冒頭で講師の岡部洋一学長は「コンピュータはどんどんどんどん
進化してきました」と述べておられる。コンピュータという人間の創った無生物
は進化するわけがなく人間の智慧によって進歩するだけである。あるいは「進化」
でなく「深化」と言ったのかもしれない。関西では両者のアクセント位置が反転
するが、関東標準では同じなので紛らわしい。「進化」と言ったとして話を進め
る。
 
 これまでの進歩とは速度が桁外れに速く、まるで機械が、とりわけコンピュー
タが、人間の手を離れて日進月歩どころか秒進分歩するかのようなので、進歩と
いう言葉では追いつかなくなって、そして直ぐには適当な言葉が見つからなくて、
錯覚して正反対の、実は超低速の「進化」という語を選んでしまったのであろう。
自慢と同義だった我慢が逆の意味になったり、敬称だった「お前」も「貴様」も
敬称ではなくなったりで、流行だから致し方ないことではある。本の広告に「進
化する火力発電」というのもあった。
 


●「進化」は「変節」か?

 冒頭に戻って EVOLUTION の森有正訳:みすず版は「進化」である。ところが
岩波版では見出し語からして「変節」となっている。「進化」が「変節」だとす
るとコンピュータや火力発電が変節するのだろうか。新聞広告に「進化するフジ
コ・ヘミング」とあったが、フジコ・ヘミングはどのように変節するのだろうか。
いったい何が起こったのか。見出し語以外の訳はみすず版と岩波版とはほとんど
変わらない。ただ最後の一節に来て、なぜ「変節」に変質したか。短いものだか
ら、岩波版全文を以下に掲げる。
 
 【緩やかな変化、知覚されない、まったく予見も意欲もされない変化である。
それは逆に、外的状況に対する意志の敗北をみとめることである。たとえば、病
気の力、疲労、年齢、メチエ、社会環境、示唆の力。したがって、変節は進歩の
反対である。】
 
 みすず版が「進化は進歩の反対である」というところで岩波版は「変節は進歩
の反対である」というのだ。「外的状況に対する意志の敗北」だから「変節」だ
というのだろう。しかし「敗北」を「変節」は飛躍しすぎであろう。そんな消極
的「変節」もあるにはあるが、もっとその名に相応しい狡猾な権謀術数「変節」
もある。政治家には多い。それなしに総理になるのは容易でない。昨今の政界は
変節万華鏡である。
 
 「緩やかな変化、知覚されない、まったく予見も意欲もされない変化」が「変
節」というほどに意識的主体的利己的なものだと言えばアランの定義からはみで
る。本来「意志」にかかわらない「進化」を、もっぱら人間の意志による「進歩」
と対比するために逆説的に「意志の敗北」とカッコよくきめたところがミソで、
まさにアランのアランたるところ。「進化」は「進化」でないと様にならない。
アランでなくなってしまう。
 
 私が反射的に「退化」を想ったように、訳者も一読者として「変節」を思いつ
く自由はある。しかし翻訳者は一読者としての主観的な反応あるいは解釈を、ひ
とり合点で翻訳文中に投げ込む自由はない。思い入れの外在化は、正誤にかかわ
らず翻訳者の不当介入として禁欲すべきことである。
 
 これは自戒に基づいてのことである。かつて私はケニヤの作家グギ・ワ・ジオ
ンゴの講演通訳をしたことがある。グギは講演中、日本国平和憲法の枠組をはみ
出るような戦闘的発言があり、思わず私はその発言と日本国憲法のあいだを取り
つくろうような注釈を入れてしまい、あらずもがなの護教的介入をアフリカの大
学で教えた経験を持つ同僚から批判された。
 


●PROGRES:「進歩」についてアランはこのように定義している。

【緩慢で永い間気付かれず、それでいて外部の力に対する意志の勝利を確立する
変化。あらゆる進歩は自由に発するものである。私は自分が[自由に]意志する
こと、例えば早起きをしたり、楽譜をよんだり、礼儀正しくしたり、怒りを抑え
たり、人を羨ましがらなくなったり、はっきりと話をしたり、読みやすいように
書いたりすることなどを、するようになる。人々は合意して、平和を実現し、不
正義や貧困を減少させ、全ての子供達を教育し、病人を看護するようになる。】

 ここでも「緩慢で永い間気付かれず」と、「進化」の場合と同じことを言って
いるが、彼が見た1951年までの60年とその後の60年を比較すればアラン
の見た「進歩」は「進化」なみに緩慢であったにちがいない。しかしその後は
「進歩」は「自由」な「意志の勝利」であるとして「進化」と正反対であること
を打ち出している。
 
 第1段落はみすず版も岩波版も、どちらもさほど変わらないが、第2段落では
ふたたび「進化」の定義を繰り返している。ここで岩波版は、先に EVOLUTION
を「変節」としてしまったのが祟って、たいそう面倒な細工が必要になっている。
そのために、ますます何がなんだか解らないことになってしまった。こんな風だ。

【反対に、変節[進化]と呼んでいるのは、われわれを知らず知らずのうちに立
派な計画から遠ざけることによって、われわれを多少とも非人間的な力に服従さ
せる変化である。「わたしは進化[変節]した」という人は、時として、叡知に
おいて前進したことを理解させようとするが、それはできないのだ。言語がその
ことを許さない。】

 《変節[進化]》となったり《進化[変節]》となったり、おなじ一つの単語
なのに、勝手に「変節」を優先させたり「進化」を優先させたり、これでは最後
の「言語がそのことを許さない」がさっぱり解らなくなる。アランは《変節[進
化]》とも《進化[変節]》とも言ってはいない。「進化」としか言っていない。
それどころか「進化」をはっきり「進歩」と対立するものとして定義した。だか
ら「言語がそのことを許さない」のである。
 
 もし「進歩」こそが戦争を誘発し、大量破壊兵器を生み、放射能を撒き散らし、
生態系を破壊し、地球環境そのものを破局的に破壊してきたという認識を訳者が
持っていたとする。そのとき《進歩[破壊]》とか《破壊[進歩]》などとして
いいことになるだろうか。それはアラン批判になってしまってアランの翻訳では
なくなる。
 
 翻訳者は価値中立的であらねばならない。それでも、なおかつ翻訳者はまった
く黒子というわけにいかない。楽曲に対する演奏家のような立場もあって自分を
消し去ることはできない。翻訳はなんらかの程度に「裏切り」であることをまぬ
がれない。知らず知らずのうちに訳者の思想が紛れ込む。そして人は誤る。それ
にしても「進化」が「変節」は理解を超える。
 
 ダーウィンが『種の起源』巻末で EVOLUTION を1度だけ用いたとき「進歩」
の意味を含ませなかった。ダーウィンは descent with modification「変異を伴
う継承」という表現を好んだ。それは「進歩」の概念が入り込むのを嫌ったから
だともいう。Descent は上から下に降りることだから「退化」を含意して不思議
はない。ニュージーランドの飛べない鳥は、蛇などの捕食動物がいなかったから
退化した。
 
 以上のように私は思うのだが、過不足ないと思われる森有正訳を否定して、
「変節」というお門違いの言葉を持ち込んで複雑怪奇な新訳をあえてした岩波版
訳者にも、それはそれなりの、よほど深い理由があるのかもしれない。しかし、
この人の思考回路はさっぱりわからない。
 
 (付記)ひょっとして大間違いをしているのはフランス語門外の私なのかも。
それとも岩波版が用いた新しい完全版 le fichier ALAIN は森有正が用いた版と
はちがうからだろうか。いずれにしても、この両項目、岩波版を読んで解る人は
いるだろうか? それとも私が見ているのは2003年8月19日第一刷。9年
を経た今日では改訂版が販売されているのだろうか? (2012/10/02)

 (筆者は堺市在住・大阪女子大学名誉教授)

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■【北から南から】
1.中国・深セン便り 『反日デモ中の中国生活』      佐藤 美和子
2.英国・コッツウオルズ便り『英国の子育て・教育』(9)   小野 まり
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■【北から南から】
1.中国・深セン便り 『反日デモ中の中国生活』      佐藤 美和子
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 先月初旬から一時帰国中で、久々にゆっくりと日本を満喫しております。

 入院した祖母を見舞うため、元々の帰国予定を急遽20日ほど早めたところ、
偶然ですが日中関係がひどく悪化する直前に中国を脱出することができました。
その後、祖母は天寿を全うしたのですが、祖母は中国で暮らす私をずっと心配し
続けていたので、もしかしたら祖母が私を呼び戻したのかなぁ、なんて思ってい
ます。そしてその後、本格的に日中関係が悪化したため、深センに戻る日を少し
延期して今に至っています。

 私が今回中国を脱出する直前、すでに深センでも反日デモは行われていました。
 その時はまだデモが暴徒化することはなかったようなのですが、それでも知人
が週末ジャスコへ買い物に行くと、年中無休のはずのジャスコが臨時休業してい
たとか。また、タクシーでも日本人だとわかると、乗車拒否されたり降ろされた
りという人もいたそうです。

 毎度、中国で反日デモが起こるたび、我々中国在住日本人は身の安全のため、
様々な制約を受けるなど日常生活に支障をきたしてしまいます。

 たとえば、自宅や職場以外では、日本語を話せなくなります。往来で日本語を
話していると、見知らぬ通りすがりの中国人から暴言や暴行を受ける恐れがある
からです。中には、往来にて携帯電話で日本語を話していた中国人が(電話の相
手が日本人)、日本人と間違われて暴言・暴行を受けることもあるほどなのです。

 よって、せっかく会っても無言でいるわけにいきませんから、日本人同士での
外出や集会、会食等は一切キャンセルせざるを得なくなります。こういう制限は、
ものすごくストレスがたまりやすいです。

 週末はデモが行われる可能性が高いので、日系の商店やレストランには近づけ
なくなります。そういう店は、デモから発生した暴動の標的になる恐れがあるか
らです。普段から和食しか食べず、自炊もできない単身赴任者などは、毎日の食
事に困ることになります。家族帯同者の場合なら、デモが行われにくい平日に家
族が食料品を買い出しに行ったり、外国人向けのデリバリーサービスを利用する
ことができるのですが、単身者では昼間も不在なので、こういったサービスもな
かなか利用しにくいです。

 10月初旬の国慶節という連休は、本来格好の旅行シーズンです。一時帰国し
ないで中国国内旅行に繰り出す日本人も多いのですが、今年は多くの企業で日本
人社員に対し、一時帰国以外の旅行を禁止していました。平日でも、退勤後の外
出を禁止しているところも多く、さっと夕食を済ませたら一目散に帰宅せねばな
りません。お蔭で広東省東莞市では、多数の日本料理店や日本人向けバーなどが
先月倒産してしまいました。

 駐在員や、現地採用者でも日系企業に勤めている場合、社内でも外部の反日デ
モに乗じた中国人従業員による就業ボイコットがいつ起こるか知れず緊張します。
社内設備を破壊したり、盗み出したりなどで営業妨害をする従業員がでることが
あるのです。醜聞はどこもなるべく隠そうとしますので、よほど大規模でない限
り、日本や中国でこういう事例が報道されることはあまりありません。

 一般市民によるこういった暴言暴動だけでなく、現地政府までもが一体となっ
て日本人に嫌がらせをしてきます。いつもはすぐ更新できる就労ビザが、提出書
類に一切不備が無いにもかかわらず、理由もなしに不許可・更新拒否、もしくは
通常より発行までかなり焦らされたりするのです。ビザ申請中はパスポートを提
出しているため、中国から出国できず、出張も旅行も帰国もできなくなります。
 
 日系企業の輸出入品は、税関で切れず、生産予定に響いたり納期に遅れ
たりしがちです。資材が届かないせいで生産に入れず、従業員をただ遊ばせるこ
とに。すると手持無沙汰になった従業員は胸算用していた残業手当の当てが外れ、
これに不満を抱いて社内でデモを起こしかねません。企業としては、本当に踏ん
だり蹴ったりです。
 
 私は普段から、なるべく隣近所にも自分が外国人であることを知られないよう
生活していますが、こういった時期はなおさら息をひそめるように注意して生活
しなければなりません。小さな子供のいる家庭だと、子供に外では日本語を話す
なというのも無理な相談でしょうし、親も子もものすごいストレスだろうと思い
ます。
 
 こういう時は、本当に在日中国人が羨ましいと思います。日中関係が悪くなっ
ても、日本では一般市民の中国人に手を出すような人はほとんどいませんから。

 去年一時帰国したときよりずっと少ないものの、今回の帰国中に大阪や京都で
通りすがった中国人観光客たちは、実にのびのびと自由に日本を満喫していまし
た。誰はばかることなく、日本人より大声で中国語を話してもいます。彼らの無
作法に眉をひそめる人はいても、中国語を話しているというだけで殴り掛かるよ
うな訳のわからない日本人はいません。
 
 もうそろそろ深センに戻らなければならないのですが、今とても憂鬱です。今
日もまた、上海で日本人が暴行されたというニュースがありました。深センに戻
れば、自己責任ですが様々な制約のある生活を強いられるのも憂鬱ですし、戻る
日が近づくにつれ、親類や友人らが心配の連絡も増えてきて、その対応に困るの
です。家族も中国に戻るのは延期したほうがいいのではと言いますし、しかし今
の中国の情勢や中国人の行動からは、いくら中国生活が長い私でも、両親を安心
させられる言葉が見つからないのです。大丈夫と言えるだけの、根拠が何もない
のですから……。

 (筆者は中国・深セン在住・日本語教師)

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■【北から南から】
2.英国・コッツウオルズ便り『英国の子育て・教育』(9)   小野 まり
   迷走するイギリスの教育現場
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 近年、英国の教育現場において、これまでにない大規模な改革と、多様な問題
が起き、その一部は海外へもニュースとして流れていると思います。今回はそれ
らの一部を紹介します。


●大学授業料値上げ

 英国(主にイングランド)では1997年まで大学の運営はすべて国費で賄わ
れ、授業料は無料でした。しかし、度重なる改革で大学数と学生数が増え続け、
政府の教育支出が膨張。98年から授業料を年間1000ポンド徴収するように
なり、その後も若干の値上げが行われましたが、2006年にはそれまでのおよ
そ3倍の3290ポンドの授業料になりました。そして今年度からは、現行のさ
らに3倍の9000ポンドという値上がりぶりです。

 これには国民あげての大議論となり、この値上げの影響を受けないはずの現役
大学生が各地で抗議デモを行い、ロンドンではちょうどデモと鉢合せになった、
チャールズ皇太子を乗せていた公用車が、学生に襲われるという事件まで発生し
ました。

 また、当時政権をかけて総選挙中だった自由民主党は、その公約にこの授業料
値上げの廃案を掲げ、連立政権を担うまで躍進しましたが、結局は値上げが断行
され、一時の人気は何処へやら、国民の反感を買うことになってしまいました。

 おまけにこの値上げは当初6000~9000ポンドの間で、各大学が決める
ようにとの国からのお達しで、政府はトップ大学数校のみが上限の9000ポン
ドで、残りの大多数の大学は6000ポンドに設定するだろうと想定していたの
ですが、フタを開けてみれば、大多数の大学が9000ポンドの授業料を掲げま
した。

 結果、この授業料値上げの影響をもろに受けた去年の大学受験者数は、前年よ
り1割近く落ち込みました。教養課程はなく、最初から専門性の高い内容を学ぶ
英国の大学は、世界でも優れた教育を提供する場と高く評価されていますが、こ
れまでその恩恵を受けることができた国内生が、海外からの留学生とほとんど変
わらない授業料を負担することになったのです。

 イングランドの学部は通常3年で学士を取得します。その後の大学院も修士課
程は1年間。日本に比べ短い大学生活になります。また現地の習慣として、大学
入学とともに、親元を離れ独立することが当たり前。そのため、ほぼすべての新
入学生は最初の1年は学寮に入ることになります。

 その寮費が年間5000~7000ポンド。これに食費や資料代なども合わせ
ると、1年間でざっと2万ポンド(約250万円)近い負担を背負うことになり
ます。もはや国立大学とはいえ、日本の私立大学並みか、それ以上の金銭的負担
です。

 とはいえ、日本の大学と大きく違うのは、授業料や生活にかかわる資金は、保
護者や本人が事前に準備する必要はありません。「スチューデント・ローン」と
呼ばれる学生ローンを、学生本人が国から借りる形となっており、その返済は、
卒業後に職を得て、その所得が年間21000ポンドを超えた時点から開始され、
その返済額も所得の9%までと決まっている「所得連動型返済」です。

 さらに、卒業後30年を経ても、収入が21000ポンドを超えない場合、借
りていた学生ローンの返済はすべて免除されるという仕組みです。

 つまり今年度入学した学生のローン返済が実際に始まるまで、すくなくとも数
年間は取り合えずは学生ひとりにつき9000ポンドの予算を政府は用意しなけ
ればならず、それは一体どこから賄うのかといった、お粗末な問題へと発展し、
国民の失笑を買っています。

 あくまでも噂ですが、この大学授業料値上げのモデルは日本とのこと。日本の
国立大学や、「奨学金」と呼ばれる日本学生支援機構のローンを参考にしたとか
しないとか・・・。確かに欧米での「奨学金」は、返済不要の給付型を示し、返
済型のものはあくまでも「ローン」と呼びます。
 
 日本のこの奨学金も、滞納者が後を絶たず社会問題となっていますが、もとも
と貯蓄の習慣の薄い英国。就職に関しても、新卒採用などという概念もなく、卒
業後は数ヶ月か数年間のインターン期間を経て採用が決まるケースも少なくあり
ません。

 また近年は大卒者の就職自体が非常に困難となっており、よほどの一流大学か、
医学部や法学部のような職業と直結した学部でないと、そのメリットが果たして
あるのか、将来の返済を案じて、親が子どもの進学を断念させるために説得する
・・・などという光景まで見られるようになっています。

 尚、同じ英国でも、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドは教育体制
が異なり、スコットランドの大学はスコットランド国内生には無償ですが、その
他の英国学生には、留学生と同額の授業料を課しています。また、ウェールズ議
会では、ウェールズ国内生は当面、これまでどおりの3290ポンドを維持する
と発表していますが、イングランド、スコットランドからの学生には9000ポ
ンドを課すといった状況です。


●GCSEが廃止、新たな義務教育認定試験への転換

 以前にもご紹介した英国イングランドのGCSE(Gnerarl Certificate of
Secondary Education/中等教育修了証)試験が廃止されることに決まりました。
GCSEはイングランドの生徒が15~16歳にかけて受験するものですが、各
科目ごとに細かい単元に分かれており、試験も数回に分けて行われます。

 また、試験を実施するのは学校ではなく、「試験委員会」の名称を持つ、主に
国内3つの試験制作会社です。ぺーパーテストのほかにも、人文系の科目には
「コースワーク」と呼ばれるレポート制作や実技も評価の対象となります。試験
そものは学校で行われますが、試験問題の作成、実施スケジュールや採点は、す
べて「試験委員会」に委ねられます。

 近年では大学受験を目指す生徒が増え、大学入学試験にあたるAレベルの負担
を少しでも軽くしようと、このGCSEを1年前倒しに受験させ、その成績によ
っては、Aレベルの学習を早めに開始したり、また良い成績を取らせるために再
度GCSEを受験させるといった事が、あたりまえに行われていました。

 そのような中、この夏にGCSE廃止の決定打となる出来事が起きました。前
年にイングリシュを早期受験した子ども達が、再度今年度も受験した結果、なん
と昨年よりも成績が下がってしまったのです。

 GCSEはA*からG、そして落第のUまで9段階の評価に採点されるのです
が、実はこのGCSEの主要科目(英語・数学)でD以下の場合、将来の大学受
験の資格を失うことになります。今回問題になったのは、このCとDの分かれ目
の生徒たち。学校側も前年度の試験でCやDを取っていれば、まぁ取り合えずは
ひと安心。今年の本試験ではC以上は間違いないだろう・・・と安堵していたの
が、なんと覆されてしまったわけです。

 これには、学校や親も巻き込んでの大騒動となりました。何しろ将来大学進学
を目指している子ども達にとって、CとDの違いは天と地ほどの大きな意味をあ
らわします。我が家も18歳になった息子がおり、現在、大学受験目指して勉強
していますが、わずか16歳の段階で、最初の足切りが行われるとは、特に精神
年齢の低い男子生徒たちにとって、これはもう救い難い教育システムだと思いま
した。従って、GCSEを取得した16歳で、社会へ出る子ども達が少なくない
のが、英国です。

 さて、この問題が発端となり、義務教育認定試験はGCSEを廃止して、新た
に『イングリシュ・バカロレア』と呼ばれる資格試験に変わることになりました。
これまでの分散型の試験ではなく、一発勝負の試験へと移行されるそうです。な
んとなく、新鮮な制度にようにも聞こえますが、GCSEはかつてOレベル(オ
ーレベル)と呼ばれた一発試験の時代があり、ただ時代が過去に戻っただけに過
ぎないという世論もあります。

 この新資格への移行はシラバスが15年夏からで、試験の実施は17年からに
なるそうですが、現在人気ががた落ちの保守連立政権の目玉政策のひとつなのか、
野党からの反発も避けられない見通しです。いずれにせよ、実際に教育現場に関
わる教師陣、そして生徒や保護者たちが、またこの新制度に振り回されることは
必至で、「柔軟性があるのもいいが、大概にせい!」と、親の気持ちを吐露した
くなります。

 (NPO法人ザ・ナショナル・トラストサポートセンター代表・英国事務局長)

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■【書評】
 1)『日本の国境問題』 孫崎亨・著/ちくま書房・刊
 2)『論点整理 北方領土』 石剛岡建・著         船橋 成幸
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1)『日本の国境問題』 孫崎亨・著/ちくま書房・刊 760円


 一昨年来、尖閣諸島、竹島、北方領土をめぐる情勢が緊迫し、日本・韓国・ロ
シア諸国民の間でナショナリズムの感情に火がついているかのようである。だが、
一体なぜこんなことになっているのか。事態の原因と経緯、さらにその本質的な
意味を事実に照らして深く認識している国民は意外に少ないのではないか。
 
 この本の著者、孫崎氏は、かつて外務省国際情報局長を務め、さらに英・米・
ソ連・イラク・カナダ駐在のほかウズベキスタンとイランの大使、防衛大学教授
といった経歴を重ねてきた、いわば外交・安全保障問題に関するプロ中のプロで
ある。

 その孫崎氏が、係争中の島々をめぐる問題について実に多くの記録、資料、証
言に基づく分析と解説、問題の指摘を試みておられる。
 
 「実事求是」(事実に照らして真相・真理を探る)という言葉があるが、孫崎
氏は政府の公式見解やマスコミの論調にいささかもおもねらず、逆に事実を踏ま
えた鋭い批判の視点から論を進めている。この本によって、いまの国境問題の深
刻で危険な実態をあらためて確認できる読者は決して少なくないと思う。
 
 ただ、この本は2011年5月に発刊され、12年9月、第7冊刊行となって
いて、その間に加筆しても、12年春以降にシビアさを増している事象に触れる
ことは無理だったと言えよう。筆者は、この本全体の論旨にほとんど共感する立
場から、『書評』の枠を超えるかも知れないが、末尾で、国境問題の最新の事象
を含めた私見をも添えることにしたい。

 なお煩雑を避けるため、ここでは特に重要と感じた論点のみを要約することに
する。
 
●1、国境問題の危うさ
 孫崎氏は、1969年3月に惹起した珍宝島(ダマンスキー島)事件や80年
9月以降のイラン・イラク戦争の例を挙げ、国境地帯の領有権をめぐる対立が大
規模な軍事衝突につながる危険性を指摘している。珍宝島は中国の東端、シベリ
アの東北部を流れるウスリー河の小さな中州であり、中東両国の国境線をなすシ
ャトルアラブ川にもさしたる利用価値があるわけではない。
 
 それでも珍宝島事件では中ソ合わせて百数十万人もの兵員が動員され、イラン・
イラク戦争でも双方に五十数万人とも言われる死者、犠牲者を生じ、前者で22
年、後者で8年間に及ぶ衝突が続いたのである。

 孫崎氏は、自身のイラク駐在時の受難体験を含め、これらの歴史的事件を読者
に想起させている。そして「国境問題があったとき・・・紛争を発生させ、それ
によって利益を得ようとする人々が常にいる」と、指摘している。
 
●2、尖閣問題、対立する主張の根拠
 尖閣諸島(中国では釣魚群島)の領有権をめぐる日中両国の対立が、1970
年代の初めから際立ってきている。

 日本政府は、尖閣に関して「領土問題は存在しない」という。その主な根拠は、
1895年に「無主地先占」の国際的法理に従って日本による尖閣の領有権は確
定した、というのである。これに対して中国側(台湾を含む)は、古来、幾多の
文献が示したように釣魚群島を最初に発見し利用してきたのは中国であるとして
「固有の領土」論を唱えている。孫崎氏も、「文献は圧倒的に中国に属していた
ことを示している」と、認めている。
 
●3、棚上げの意味
 1972年、日中国交正常化交渉の際、当時の田中角栄・周恩来の両首相会談
で日本側から尖閣問題を持ち出そうとしたが、周首相は「今回は話したくない。
これを話すのはよくない」と避けている。また、78年8月の平和友好条約締結
時の園田直・鄧小平会談でも「釣魚島問題は脇においてゆっくり考えればいい。
・・・次の世代、また次の世代は必ず解決法を見つけるはず」との鄧発言が記録
されている。
 
 この発言に、当時の園田外相は著書(『世界日本愛』)で「人が見ていなけれ
ば鄧さんに『有り難う』と言いたいところでした」と率直な喜びの気持ちを表明
した。なぜか。この鄧発言は周首相に続いて事実上、尖閣領有権問題の「棚上げ」
を意味していると解したからである。現実に実効支配している島々の帰属問題を
棚上げすることは、間違いなく日本側にとって有利なのだ。園田外相の謝意はそ
の理解から発したのである。
 
 ところが、日本政府はこのことを認めない。「それは中国側が一方的に言った
ことで、日本側が棚上げに同意したことはない」というのがその言い分である。
だが、こうして「棚上げ」を否定し、日中両政府が領有権の主張を一歩も譲らず
突っ張りあう結果、尖閣問題はいつ危険な紛争に転じてもおかしくない状態が続
くことになる。孫崎氏は「棚上げ合意の廃止こそ、中国軍部が望んでいることだ」
と述べている。
 
●4、ドイツはどうしたか
 第2次大戦の同じ敗戦国ドイツは、フランス、ポーランドに領土を、ソ連にも
1つの港湾都市を割譲させられた。フランスに渡されたアルザス・ロレーヌ地方
だけで九州の7割の広さであり、住民の大部分がドイツ系の言語を使う。ポーラ
ンドには中国、四国、九州を合わせたほどの土地が渡された。この、日本をはる
かに超える領土の逸失に対してドイツはどうしたか。
 
 孫崎氏は指摘する。「ドイツは国家目的を変更した。自国領土の維持を最重要
視するという生き方から、自己の影響力をいかに拡大するかに切り替えた。積極
的に名を棄てる姿勢を貫き、他方で実を取る戦略を打ち立てた」「敗戦の結果、
奪われることになった運命は受け入れる。同時に、相手国、さらにはその他の国
をも含むEUという組織の中核となる道を選択し、今日ドイツはEU内で最も影
響力のある国家となっている」と。
 
●5、米国はどう出るか
 尖閣問題の当事国双方が「一歩も譲らぬ」態度を続ける限り、武力衝突の事態
をも想定内におくことになる。だが自衛隊が出動しても、到底かなうものでない
ことは孫崎氏だけでなく日本の多くの識者や専門家が認めている。そこで日本政
府や対中強硬論者たちは、米国の軍事力を頼みとすることになる。
 
 その米国は2つのことを言っている。1つは「尖閣は日米安保条約の対象内」
という高官の発言であり、もう1つは「領土問題に米国は中立、安保によって介
入を強制されない」という同じ高官の発言である。また、かつて「安保の対象だ」
と唱えていたクリントン国務長官も、最近(12年9月28日)は、玄葉外相に
対して「尖閣問題では注意深く、慎重かつ効果的に行動すること」を求め、さら
に「米国が解決のため仲介者を演じるつもりはない」との言い方になっている。
 
 ベトナムで敗れ、アフガンでも手を焼いている米国が、東シナ海の他国の孤島
のため、中国相手に本格的な軍事行動に打って出ることを想定するのは愚かな幻
想に過ぎない。

 だが日本の政府と政治家たちの中には、集団的自衛権の法制化を誘い水にして、
日米軍事同盟による対中共同戦略の推進という夢を追求する勢力がある。事実を
知らされず、いたずらに排外主義的ナショナリズムに燃える少なからぬ世論がそ
れを支えている。
 
●6、「北方領土」問題の真実
 第2次大戦で敗れた日本は、ポツダム宣言と講和条約を受け入れ、「千島列島
に対するすべての権利・請求権を放棄」した。その当初、1946年1月の連合
軍最高司令部訓令は、「日本の範囲に含まれる地域」から「竹島、千島列島、歯
舞群島、色丹島等を除く」としており、日本政府もこれを容認していた。
 
 ところが、冷戦情勢が深刻化し、米ソ対立が深まる中で、米国の態度が一変す
る。孫崎氏の指摘によれば、「米国は日ソ間が接近するのを警戒し、日本が国後・
択捉を主張するよう誘導」した。また、1956年に鳩山一郎内閣が、日ソ平和
条約交渉の継続と、その締結後に歯舞・色丹の2島を返還させるとの内容で共同
宣言をまとめ、国交を回復したが、これにも米国が反発した。
 
 ダレス国務長官が「国後・択捉を日本がソ連に帰属させるなら、米政府は沖縄
を米国の領土にする」と、当時の重光外相を恫喝したというのである。
 それ以来、日本政府は4島返還の主張に固執するようになる。北方4島の呼称
についても、日本が放棄した千島列島の一部を意味する「南千島」を「北方領土」
と言い換え、固有の領土論を唱え続けている。
 
 1989年12月に東西冷戦が終結し、その2年後からソ連が崩壊、ロシアを
軸に国家体制が再構成されていく過程で、米国とロシア間の雪解けが進んだ。米
国はソ連~ロシアへの支援策に転じ、「北方領土」問題がその新たな流れの障害
になるとして、日・ロ双方に懸案を動かすように求め、日本からロシアへの資金
援助をも要請するようになる。
 
 その後、91年にゴルバチョフ大統領、93年にエリツィン大統領が来日し、
橋本首相、小渕首相とそれぞれの会談で四島返還について議題にはなったが、具
体的な進展は全く見られなかった。そして2010年11月1日、メドベージェ
フ大統領が初めて国後島に上陸、12月24日には「4島ともロシア領」と宣言
して、従前より厳しい路線に立ち戻ったかに見える。(孫崎氏の記述はこの時点
までに限られたが、さらに12年3月のプーチン大統領による「引き分け」発言
などがある。これに関しては後述する)
 
●7、竹島問題をめぐって
 終戦直後、竹島が「日本の範囲」から「除く」とされていたことは前述の通り。
しかし、この問題で日韓両国の対立は続いている。現に実効支配しているのは韓
国側であり、最近(本年8月10日)には李明博大統領までが上陸するほどの執
着を見せている。日韓双方とも、歴史の資料に基づいて「固有の領土」論を主張
しあっている。
 
 孫崎氏は、韓国側の豊富な資料に触れているが、それらについて日本の国民に
はほとんど知らされていない。政府もマスコミも情報の発出はきわめて一方的で
ある。
 しかも、米国をはじめ国際社会では「韓国領」または「係争地」とする見解が
多数である。米国の態度は例によって2つに分かれるが、公的な「地名委員会」
は韓国領であることを明示している。米国の政治的態度は中立、不介入である。
 
●8、最新の動きについて
 「日本の国境問題」は、孫崎氏の記述後もますます深刻化している。
 尖閣問題は本年9月10日、野田内閣が「国有化」方針を決定した直後から、
中国側のかつてない激しい反発を招いている。日本側は4月以来の石原都知事に
よる「尖閣購入」の動きを抑えることを理由としたが、中国側の受け止めは全く
違うものであった。
 
 中国側から見れば、「国有化」は、これまで比較的静穏な状態を支えてきた
「棚上げ」を否定し、日本の領有を恒久化しようとする措置である。加えて、そ
の前日、APEC首脳会議の際に胡錦涛主席から野田首相に対して、明確に反対
の意を伝えたにもかかわらず、それが無視されたのである。中国の人びとが何よ
りも大切にする面子(めんつ)を、しかも国の最高指導者の面子を潰した、とい
うことになるのである。
 
 だが、日本の政府もマスコミもその深刻な意味を理解せず、的確な報道もして
いない。
 怒り狂う中国人民の一部の行動については詳細に伝えたが、その結果「反中・
嫌中」の世論をかきたてるばかりで、事態の本質を洞察し、平和的解決の方策を
探ろうとする動きはほとんど現れていない。こうして日中関係は、平和友好条約
の締結40周年を迎えて過去最悪の状態に落ち込んでいる。
 
 竹島問題も8月10日、李明博大統領の上陸を機として日韓双方のナショナリ
ズムに火がつき、ますます険悪な関係が招かれようとしている。特に慰安婦問題
など植民地時代の歴史と結びつけ、日本政府の対応の無責任ぶりを追及する動き
があることは重大である。

 しかし、日本側からこれに適切に対処し、解決するための方策は示されていな
い。国際司法裁判所への提訴などはプロパガンダの手段に過ぎず、解決には役立
たない。
 
 「北方領土」問題は、6月19日、プーチン大統領の「引き分けで解決したい」
との発言によって、日本側に「2島+α」の期待を抱かせることになった。しか
し、プーチン氏は「タダ」でリップサービスをしたわけではない。当然、ギブ・
アンド・テイクの意図があることは自明である。では、日本側が何をギブするの
か、できるのか。その答えを示す動きはまだ現われていない。
 
●9、平和的解決のために
 孫崎氏は、日・米・中3カ国の軍事力と経済力の分析も含め、力による紛争解
決の道は現実的でなく、選択できないことを明らかにしたうえで、領土紛争の平
和的解決をめざす4つの手段と9つの具体的方策を提起しておられる。そのすべ
てを紹介するいとまはないが、筆者は、提起された課題のほとんどに強く共感し、
賛同している。

 だが、日を追って厳しさを増している情勢を見て、新たな角度から補足の必要
も感じている。以下、そうした点について率直な私見を簡潔に述べておきたい。

 尖閣諸島について「領土問題は存在しない」という日本政府筋の発言は、即
「問答無用」と解され、対立の客観的事実をも否定し無視する傲慢無礼な態度で
ある。これは国際社会でも通用しない。まずこれを改めて尖閣諸島に関する領土
問題の存在を認め、日本政府として平和的な話し合い解決の意思を内外に表明し
なければならない。

 尖閣問題は、当事国双方の平和的な交渉、話し合いで解決するしかない。孫崎
氏が触れている国際司法裁判所や国連など第3者の仲介、調停に委ねる方策には
疑問がある。そこで決着をつけようとしても、日中両国双方が共に満足する結論
を得ることは至難である。孫崎氏が成功例に挙げた事例はどれもがアフリカの小
国のケースであって、日本や中国のような「大国」にあてはめるには無理があろ
う。

 といって日本政府がいきなり一方的に領有を放棄したり、やみくもに原状回帰
の策を取ろうとしても、国内世論が収まるまい。これも現実的ではない。
 できるだけ早い適切な時期に、尖閣諸島に対する国の所有権を公益法人などに
移譲する策を選べないだろうか。法的な仕組みを整え、日中友好を事業目的に加
える新たな法人を創設し、その基金の一部に中国からの出資も認めることにする。
これは夢だろうか。

 「棚上げ」は先人の英知であり、これまでは「安定」の支えだったが、この暫
定措置の本質は不安定であり、先行きの情勢しだいで新たな対立を抑止できる十
分な方策とはいえない。筆者は、発想を逆転させ、解決策のレベルを高める必要
があると思う。すなわちそれは、両国共通の目標として、「紛争の島」を「平和
友好の島」に位置づけ直すことで中国側と交渉し、合意を目指すことである。そ
の過程でなら、領有権をめぐる双方の現在の主張は、些事としてあらためて棚上
げされることになろう。

 かつて日中間には「東シナ海を平和の海に」という合意があった。それを活か
し、尖閣諸島を平和友好のシンボル、モニュメントに位置づけることの利益、国
益は、日中双方にとって計り知れないほど大きい。そのことを直視する新たな解
決策は、現に実効支配している日本側から提議すべきである。

 そのうえで、具体的な対処の方策(尖閣諸島とその周辺海域を含めた共同開発、
共同管理、あるいはアンタッチャブルのままにするか、など)は、それこそ友好
的な外交交渉によって結論を得ればいい。

 その際、ナショナリズムといったイデオロギーを持ち込むことは断じて忌避す
べきである。日中双方の国民を説得し、納得を得るには「実利主義」に基づく対
処こそが必要である。「実利」は「国益」と言い換えてもいい。尖閣という小さ
な島々がもたらす利益と、今回の紛争によって失われている経済的、文化的、社
会的損失の差は余りにも大きい。大き過ぎるのである。いまや日中双方の多くの
国民が、そのことを実感している。

 尖閣問題で以上のような解決策が進むならば、竹島問題についても好ましい影
響が期待できるだろう。ただ、すでに歴史問題に絡められているのだから、それ
として受け止め、慰安婦問題など韓国の犠牲者、生き証人の立場と主張を率直に
認めて謝罪することから始めるべきである。

 北方領土問題の進展は、現にロシア政府が重視し、力を注いでいる4島開発、
シベリア開発に対して、日本側がどこまで協力するかにかかっている。このとこ
ろ成長が鈍化しているとはいえ、日本のGDP(2011年)はロシアの3倍を
超えている。かつてフルシチョフが抱いた日本経済に対する「羨望の念」(フル
シチョフの証言)は、プーチン大統領にもつながっているはずだ。ここでも「実
利主義」がモノをいうのである。

 日本の協力が積極的に大きく動かなければ、ロシアは韓国や中国に頼ることに
なるだろうし、現にそうなりつつある。機を逸してはならない。

 さて残る問題は、政治家のリーダーシップである。すべての国境問題では、然
るべき地位と力と知恵のある政治家が役割を担うべきなのだが、いまのところ筆
者の脳裏には浮かんでこない。戦前、「小日本主義」を唱えた石橋湛山氏のよう
な勇気と洞察力のある政治家は、今日の日本に現われないのだろうか。

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2)『論点整理 北方領土問題』 石郷岡建 著 東洋書店刊
          ユーラシア・ブックレット NO.175


 著者、石郷岡氏はモスクワ大学で学んだジャーナリスト出身のロシア通である。
毎日新聞の記者として在外経験が長く、特にロシアには二度にわたって特派員を
務め、2006年からは日本大学の教授として研究・評論活動に当たっておられ
る。

 北方領土問題にかかわるこの本の論旨は前掲の孫崎氏の著述と基本的に重な
っていて、より詳細に、しかも分かりやすいドキュメンタリーとしてまとめられ
ている。
 とりわけ、北方4島をめぐる日ロ双方の歴代首脳間での応酬、相互の思惑の揺
れについて、写実的な筆致で生きいきと描写されていることに強い関心を引かれ
る。まさに「実事求是」である。

 内容の主旨は孫崎氏の本について述べたところと重なるので紹介を省くが、前
掲書との併読によって問題の理解がいっそう深まると思うので、お勧めしたい。

 また筆者の所見も前掲書について述べた通りだが、特に共感した、この本の結
語の部分の一節だけを引用して責めを果たすことにしたい。

 「領土問題解決による戦略的利益を見出すような道をロシア側に示すことが肝
心であり、日露間の国家戦略が一致した時に、北方領土問題の解決の扉が開く」。
 (評者は元横浜市参与)

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■【米国大統領選挙報告】
  オバマとロムニーの討論                 武田 尚子
  ― 民主・共和両党のコンベンションから ―
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 前号で主なスピーチのあらましをお伝えした全国党大会―コンベンションが終
わり、テレビの視聴者を含む聴衆の反応が示された。コンベンション後の成績投
票にはいつもバウンスと呼ばれる、聴衆の興奮を反映する跳ね返り人気が伴う。
コンベンション以前のCBSの投票では、ロムニーとオバマは48%の同点だっ
たが、コンベンション直後の投票では、オバマの53%にたいして、ロムニーの
点数は48%にとどまった。いずれにしてもオバマとロムニーが僅差で大統領戦
を争っているという点では、いずれの投票でも一致していた。

 ところが、ロムニーが5月の大統領選挙キャンペーンで、醵金のために催した
富裕者向けの1人5万ドルの晩餐会でのスピーチが、秘密裡にとらえられ、それ
がソーシャルメディアからメインメディアに公表されるという、思いがけない一
幕があった。

 そのなかでロムニーは“アメリカ市民の47%は、連邦税を払わず、メディケ
アから失業保険、老齢年金に至る政府の社会保障制度に頼って生きる moocher
(たかり、乞食)である。彼等は自らを社会の犠牲者とみなし、働いて市民とし
ての義務をはたす事など考えていない。だから彼等は私に投票する事などあり得
ないから、私は、既に安全ネットで保護されている此の連中のことなど考慮に入
れる必要はない”というスピーチをしているのだ。

 これはいうまでもなく大問題になり、オバマ・キャンペーンにとってだけでな
く、多くの市民の反響反感をよんだ。何らかの形で、政府の援助の恩恵を受ける
ことのないアメリカ人はほとんど存在しないのである。あわてたのはロムニーは
もとより、彼のキャンペーンである。
 ロムニーは、事態を何とか好転させようとして“私の言葉の使い方が野暮だっ
た事は認めるが、これはオバマの支持するアメリカ市民の政府依存(社会保障ほ
かへの)、さらにオバマの(富の)再分配政策を徹底して討議するには良い機会
だ”と居直った。折しも彼は、イスラエルとパレスチナの2国共存は不可能だと
いう、これまでのアメリカの政策に真っ向から反対するスピーチで物議をかもし、
減点してもいたから、彼のキャンペーンがこの47%スピーチのもみ消しに躍起
になったのは無理もないが、もみ消しは無理だった。

 共和党支持の知識人のなかにも、連邦税を支払わない47%のなかには、ロム
ニーを支持する可能性のある高齢者もいるだろうし、彼等は自分をたかりなどと
は思わず、政府の健康保険を受ける資格は十分あると思っているはずだとロムニ
ーを批判する人もいた。やはり選挙を目前にした共和党の上院議員候補者のなか
には、政治的な被害を避けようとして、ロムニーの政策には賛成できないと表明
する者、ロムニーに距離を置く者もでてきた。

 民主党側は此の棚ぼたの幸運をしっかと捉え、キャンペーンは論じた。“ロム
ニーはこれまでの言動で知る通り、平均的なアメリカ人の生活に社会保障や健康
保険がどれほど重要かを知らない、要するに庶民には無縁の人なのだ”と。共和
党員の多数もこの事件では動揺し反発してロムニーを批判した。    
 こうして、オバマとロムニーの最初の討論の行われる10月3日がやってきた。
場所はデンバー大学であり、2人の討論には90分が充てられる。当日の議題は
アメリカの国内政策であり、司会はPBS公共放送のベテラン、ジム・レーラー。
ロムニーの最も自信ありとする経済政策が論じられるとあって、オバマに続いて
ロムニーは、意気揚々とステージに上ってくる。

 敵味方は微笑をたたえ、握手を交わした。司会者のレーラーは失業者、赤字、
税金、社会保障、メディケアなどの経済政策だけでなく、アメリカ社会における
政府の役割を今夜のトピックとして選んだことを発表した。
 政府の役割は両党の対立する政府観に切り込む重要な主題であリ、今回の論争
の中心といえる。オバマは“政府が全ての問題に対する解答を与える事はできな
いが、経済の成長を促進し、アメリカ人口を形成するさまざまな階層に、確実に
公平な法令や規則を与える役割がある”と述べる。

 一方、ロムニーは、政府の基本的な価値を認めながらも、彼の考える“政府の
最大の目標は、自由なアメリカ人の活動の妨げにならぬよう、できるだけ規制を
少なくし、アメリカ企業精神の自由な発露に任せれば、経済は自ずから立ち直り、
万事うまくいくようになる”という。

 オバマはそれに“富者優遇の政策で彼等の税金を削減し、現在の混乱に陥れた
原因の一つである従来のトップダウンの方式をまたもや繰り返すことが正しいの
か、それともミドルクラスが繁栄してはじめて、アメリカは繁栄するという新し
い経済愛国主義を擁護するべきではないのか”と応酬する。

 ロムニーはいう。“4年前の大統領選挙キャンペーンでも、オバマ氏は予算費
消の莫大な、より多くの税金を徴収する、規制だらけの大きな政府を提唱してい
られた。いうならば、トリックル・ダウン政府といいましょうか”(共和党の擁
護する、上層に手厚くすれば、金は大衆にぽとりぽとりと滴り落ちるトリックル・
ダウン・エコノミーの語呂合わせだが、彼のいう意味は明白ではない。ロムニー
が非難する、オバマの考えるような大きな政府に采配を任せれば、政府からトリ
ックル・ダウンする恩恵が、全社会を潤すとオバマは考えているのだろう、と皮
肉っているらしい。筆者)。

 しかしロムニーは“トリックル・ダウン政府はアメリカにとっての正しい道で
はない。私のやり方に従えば、アメリカは本来のバイタリテイーを回復して、以
前のように元気に機能するようになるでしょう。”と論じた。
 
 オバマは、市場経済の絶対を信じて疑わないロムニー陣営からはしばしば社会
主義者呼ばわりをされているが、社会主義者の現実からはほど遠い。
 この論争では若干のキャンペーンで見られたような卑劣な、あるいは底意地悪
い応酬こそなかったが、アメリカのあり方についての両党のイデオロギー分裂の
深淵を明るみに出してあまりあった。
 
 両人とも、アメリカの庶民の生活について心配しているというが、その心配は
反対の極からなされる。オバマは政府のプログラムがカットされたら、生活でき
なくなるミドルクラスの人々を憂い、ロムニーの方は、政府の課税や規制をいや
がる富裕者やビズネスを心配しているのである。

(ここで明記しておきたいが、ロムニーもオバマもしばしばミドルクラスの福祉
を訴える。ロムニーのミドルクラスはかなりの収入者層をさしていて便宜的にだ
ろうが、ドナルド・トランプさえいれるが、オバマのミドルクラスは平均的なサ
ラリーマンや小売商を中心にした、いわゆる中産階級をさす。従ってロムニーが
オバマはミドルクラスの税金をあげたというとき、両者は全く異なった対象をさ
していて、オバマはミドルクラスからは税金を減らしているのである。筆者)

 例えばオバマは、メディケイドがカットされたらどうなるかに言及していう。
“紙の上で見れば、なんでもない数字に見えるでしょう。しかし我々の問題にし
ているのは、たとえば自閉症の子供を持った家庭なのであり、彼等はメディケイ
ドに深く頼っているのです。それは彼等には深刻な問題なのです。”

 ノーベル受賞経済学者のクルーグマンはいう。“ロムニーはいったん大統領に
なったら、何度も彼が言明したように現在のオバマの健康保険を廃棄する。その
後、彼の新しい健康保険では 現在既に病気を持っている人も保険でカバーされ
るとロムニーはいうが、それは偽りである”と。そしてそれが偽りである理由を
NY Times の論説で明快に詳述した。そして共和党のキャンペーン・スタッフも
ロムニーのその主張の偽りを認めている。

 クルーグマンはまた、保険の買えない人をどうするか、にたいしてロムニーが
“保険があろうとなかろうと病院の緊急病室に駆け込むことができる。”と答え
たことをあげて、緊急病室は無料からほど遠く、その費用は莫大であることを明
言した。筆者も体験してその額の大きさに驚いたことがある。費用の高額を恐れ
て緊急口に駆け込まず、結果として死をはやめる人は多数なのだ。この事実もロ
ムニーの庶民離れの一例として彼の保険政策への批判を招いている。
 
 またロムニーの健康保険をオバマ陣営はバウチャーシステムと呼ぶ。政府に与
えられたバウチャーが使い果たされたときには、最も医療に金のかかる老齢にな
って、全て自前の支払いになること(ただし現在56歳以上の高齢者には従来の
保険が適用される)あるいは“希望者には選択として残す”というこれまでと同
じ政府の健保を買っても、自前で支払う点では同じなのだ。またその費用などは
全く明らかにされていない。

 オバマは、ロムニーの健康保険になると1人平均年間6400ドルの負担にな
るというが、ロムニー側はそれをオバマの脅しだという。共和党は今、バウチャ
ーという言葉をキャンペーンで使うことを避けさせているというが、彼等自身こ
の保険の国民への広い利益などを信用していないからだろう。

 オバマはアブラハム・リンカーンが創設した大陸横断鉄道やアメリカ科学者ア
カデミー設立の財政努力を引用していった。“それは民主、共和両党の協力で生
まれ、進歩の機会を作リ出して、アメリカを偉大な国にしました。もし全てのア
メリカ人が機会を得ることができたなら、我々は皆、よりよい暮らしができるで
しょう。そしてそれは(ロムニーのいうように、筆者)人々の自由を制限するの
ではなく、自由を強化するのです。だから私は大統領として此の同じ原則を適用
しようとしているのです。”

 ロムニーはオバマの太陽エネルギーへの協力過程で、ソリンドラが結果的には
倒産して税金の浪費になったことをあげ、“政府がこんなことつまり経済ゲーム
のプレイヤーになって、勝者と敗者を出したりしてはならない、あるいは私立の
医療保険システムに口出しして、人々にどれを選べというようなまねをすべきで
はない”と述べる。“だから政府への適切な答えは、保険会社による医療保険を
いかに効率のよいものにするべきかを述べること(だけ)なのです”と。

 そうすれば、市場の原理が働いて、企業の競争が価格を安くするというのが彼
の言い分である。果たして競争が政府の保険価格を下回るかどうかについては、
“おおいに疑問がある、それどころかそうはならない”といわれているが、経験
的に、政府の操業の方が、私立企業のそれよりもかなり低額になること以外には
未だわからない。

 この討論会で目立ったのは、ロムニーが過去1年間のキャンペーンで示した自
分の立場を、デンバーの聴衆に受け入れられようと何度も平気で変えたことであ
る。一方オバマは、セミナーの講義をするプロフェッサーよろしく、礼儀正しく
終始控えめであり、間髪を入れず反論してロムニーの不正直や混乱を導く言説を
摘発しなかった為に、冴えた討議者とはならず、この第1回論争では、リベラル
側からもオバマに対するかなりの苦情がでた。

 このオバマの低姿勢が、大統領の品位を崩さぬよう計算されたものなのか、大
統領職の繁忙が彼を疲れさせていたのか、堅実なオバマ人気の継続が、ロムニー
をみくびらせたのか、あるいはその複合だったのかもしれないが、結果的には失
敗だった。彼は選挙予想投票で、このあと数ポイントを失った。

 ロムニーの政策には、例えば税金問題がある。ロムニーは富裕者を含め、アメ
リカ人すべてに20%の税金控除をするといいまくっている(富裕者の税金控除
は他にもいくつかあるがその上に彼等にも20%を控除する)。富裕者に厚い2
0%の控除を計算すると、それは5兆ドルの高額に上る。ロムニーは論争の場で
それをつかれると、5兆ドルの税金など自分の計画にはないととぼけてしまう。
それが正確に5兆ドルきっかりではないことを、否定の根拠にしているらしい。

 いずれにしても、彼は富裕者にもミドルクラスにも低額の所得者にも、けっし
て税金を上げないというので、それで収支のバランスのとれるはずはない。具体
的にはどんな方法で、ロムニーは予算をバランスさせるのかときかれると、その
内容はなんど聞かれても絶対に明らかにしない。オバマは“ロムニー氏が具体的
な点を決して明らかにされないのはミドルクラスがそれを聞いて喜びすぎるため
でしょうか”と皮肉ってさえいる。

 ともあれ、有権者に訴える最大の機会をフルに使って、ロムニーは平然と過去
の自説をいくつも雄弁にくつがえした。そのいくつかは11日の副大統領バイデ
ン、副大統領候補ライアンの論争で、必ず問題にされるにちがいない。

 第1回の論争後オバマは“あれはほんとうにロムニーだったのだろうか。昨夜
の論争での彼の言説は、過去1年のロムニー・キャンペーンの主張からは、到底
同一人とは思えないものだった”とコメントしたが、正直言ってそれは筆者の感
想でもあった。筆者は、ひょっとしたらロムニーは自己革命を起こしたのではな
いかとさえ疑ったのである。

 共和党ながらインデペンデントに近い著名なジャーナリスト、デヴィド・ブル
ックスは、ロムニーが、ライアンと組んだ極右路線から“マサチューセッツ知事
時代に見せた共和党中央よりの穏健派に戻った”と喜んだ寄稿論説をニューヨー
クタイムズに発表した。

 その後、10月13日の社説で、ニューヨークタイムズは『穏健派ミットの神
話』で、果たしてロムニーが穏健な政見を抱くようになったかどうかを論じた。
ロムニーの人柄を分析した重要な文章なので、ざっとご紹介しよう。

 『大統領選挙のキャンぺーンは、国家にとっての重要事である。キャンペーン
はその目的がまじめであること、候補者の一連の信念の核心を広く国民に示さな
くてはならない。それはまた投票者に、候補者が信頼に値し、判断力を備えてい
ることをも示さねばならない。しかしロムニーにとってはそんなことは重要でな
いものと見える。

 共和党の指名戦のはじめから、ミット・ロムニーは、自分の狙う権力を得るた
め、聴衆の望むままに自分をどんな形にでも変貌させてきた。大量の群衆やテレ
ビの聴衆の前では、右にも左にも偏らない中心派になる。厳しい保守的な政策や、
国内の多数者にたいする軽蔑は、党派心の強い彼の一味、選挙資金の献金者など
党派内部にとどめられた。この両極性はしばしば『フリップフロッピング』と評
されてはいるが、この言葉では、彼が同時に保有する正反対の両極を描写するに
はやさしすぎる。

 候補者を判断する最良の方法は、キャンペーンの末期近くなって彼等が述べる
政策プランによってではない。そうではなく、キャンペーンの初期から提示され
る分裂した彼等自身のあり方にこそ頼るべきなのだ。初期の、より少数の聴衆を
相手になされる政治的な計算は、彼等自身の人柄について、スポットライトを浴
び、投票ポイントで試しずみの快適な言葉よりよほど率直で意味がある。それこ
そ、最近のスピーチや大統領候補論争に登場した‘穏健なミット’像が不正直で
あるゆえんなのだ。

 オバマとの論争でのロムニーは大統領候補指名を与えた共和党の厳しい立場か
ら、フリツプフロップしたわけでも、その立場を放棄したわけでもない。それは
彼のキャンペーンや、彼のウェブサイトや彼の意見書の中核として現に存在する。
彼のやっていることはただ、投票者に受け入れられるために、上塗りをかけてい
るだけなのだが、それが時に、彼自身よく見張っていないときにこぼれでている
のだ。極右の好意に恵まれた彼の過度な政策を、偽り通すわけに行かない。

 今週彼は、スイング州であるアイオワで、彼自身のかん高い堕胎反対の叫びを
隠そうと試みた。“私の知っている堕胎についての法律で、私の政策議題として
とりあげるようなものは存在しません。”と、彼はデモイン・レジスターズの編
集会議に告げた。だがその注意深く組み立てられた言葉は、混乱を招くべく企図
されている。なぜなら女性の権利への脅威は必ずしも法律によってもたらされる
のではない。

 彼はPLANNED PARENTHOOD(女性の再生器関係の健康相談や治療をする政府の
機関)の費用をカットしてこの制度をなくすというし、女性の権利とすでに認め
られて久しい ROE & WADE(1973年に生まれた堕胎を認める歴史的な法律)
を廃棄するために、それをする法律家(最高裁判事)を任命するという。また都
合よく彼は忘れてはいるが、2011年のエッセーでは胎児は痛みを感じること
ができるのだからと、全ての堕胎に反対していた。

 “穏健なミット”など事実存在しないのだ。今我々に示されているのは“便宜
主義ミット”と表現した方が妥当である。極右を擁護して金を集めたかったら、
皆この方法に訴えるだろう。』(ニューヨーク・タイムズ)

 初回のオバマ、ロムニー討論は、スタイル(見かけ)では断然ロムニーが上だ
が、主張の内容ではオバマの勝ちだということに、ほぼリベラル側は落ち着いた。
共和党側はロムニーのパフォーマンスに俄然狂喜した。事実、直後の投票では、
ロムニーはほぼ5-6%という、かなりの跳ね返りポイントを稼いだ。それは残
すところ30日の選挙戦で、ロムニー流のねつ造をしたたかに交えたこれまでの
オバマ非難を何倍にもして現れることだろう。


●現職副大統領バイデンと共和党副大統領候補ライアンの討論会

 この後10月11日には、ジョー・バイデンとポール・ライアンの討論が行わ
れ、ケンタッキー、ダンヴィルのセンターカレッジで、外交政策、国内政策が論
じられた。司会は、ABC ニュースのマーサ・ラダツが担当した。

 オバマは、初回の論争パフォーマンスの批判に応えて、その翌日からエネルギ
ッシュなキャンペーンを再開した。ロムニーの誠実さを疑うことは重要なテーマ
である。両者の初回の論争はすでに、“聞き手次第で主張をかえるロムニー”と
いう芳しくない評判を、オープンマインドの視聴者には確認させたのではないだ
ろうか。

 キャンペーンでなされる約束がどんな理由にせよ果たされないことは、オバマ
を含め、しばしばある。しかしこの変貌自在のロムニーがする約束を、国民はど
こまで信じられるだろう。

 ロムニーとの初回の討論で見せたオバマの礼儀正しい低姿勢は、実は卑小な言
い争いで討論を無駄にしない、討議は政策に限るというという民主党の方針であ
ったことが明らかにされたものの、数ポイントを稼いだそれまで不調のロムニー
陣営には大きな朗報である。オバマはそれでもロムニーをしのいでいるとはいえ、
その差が狭まったことは彼の陣営にも大きな打撃である。

 ところが、そこにまたちょっとした幸運が舞い込んだ。毎月発表される失業者
の数が、7-8月の数字を下回り、8.1%から7.8%に落ちたのである。

 オバマは就任以来着実にわずかずつ失職者を減らしてはいたが、厳しいリセシ
ョンに入った経済の回復は容易でない。しかもオバマを1期だけの大統領にとど
めよという共和党主導の議会の抵抗は強く、アメリカ全体の利益になる仕事口増
加のためのオバマの提案はことごとく拒否されてきた。オバマ自身の反省にある
通り、就任直後失業対策に一番に手を付けなかった彼のやり方にも責任はあるの
だろう。

 初回のオバマ・ロムニー論争でロムニーのポイントの上昇を喜んだ共和党にと
って、アメリカの勤労者にはどれほど喜ばれようと、選挙直前の今になって失職
者数が減るというのは何とも腹立たしい。経済誌フォーブスに、GEの元CEO
ジャック・ウェルチ氏はこう書いた。“あのシカゴ野郎ども(オバマとその周辺
の人)は全く何をしでかすか知れたものではない。大統領論争で失点したために
奴らは失業者数をちょろまかすという手に訴えているのだ”
 
 これがGEのCEOの言葉だろうかと、驚かされる。失業や就職数の表示は、
政府の重要な職務の一つであり、決して外部の手でごまかしたり歪曲したりでき
ない体制が整っているのである。MSNBCチャネルのアンカー、クリス・マシ
ューは、ウェルチ氏をスタジオに招いて、あの言葉にはどんな論拠があるのか。
もしそれを証明できないなら、あの言葉を撤回していただきたいと迫った。
 
 ウェルチ氏は、いや絶対撤回しないという。では誰にもタッチできないシステ
ムの数字をごまかしたなどと勘ぐりでいわれたのは大きな虚言ではないかと追求
されて、彼は“いやあれはただ疑問を持ったので質問しただけだ”と逃げようと
した。疑問ならば疑問であるとはっきり言うべきだろう。

 その後ウェルチ氏はフォーブス誌への寄稿を中止して、ウォールストリートジ
ャーナルに切り替えると発表した。総選挙を前にした両陣営の思い入れと憂慮が
いかほどであるかをおわかりいただけるだろう。
 


●10月11日 副大統領の討論

 10月11日、オバマの副大統領バイデンは、オバマが初回の討論であえてと
りあげなかった諸点をきちんと論争してほしいという民主党の希望を双肩ににな
い、長い政治家歴とライアンの年長者であるゆとりをみせて席に着く。一方、ロ
ムニーのパフォーマンスでやっと得た共和党のモメンタムを失うまいと、緊張気
味のポール・ライアンは42歳、バイデンは11月に70歳を迎える。さながら、
体験の豊富さと湧出するエネルギーといいたい組み合わせであるが、バイデンの
活力もしたたかなものだった。
 
 今回の討論は、1週間前のオバマとロムニーの論争ではぼやけていた争点の輪
郭を克明にしたといわれる。主要なトピックは、メディケアと、女性問題、こと
に堕胎の是非、さらに外交問題としてアフガニスタンからの軍隊撤退、イランの
核兵器、リビアの大使館攻撃が中心テーマになった。
 
 メディケアについてはこれまで何度か既に説明した。この討論でバイデンはロ
ムニーが大統領になって、現在のオバマケアが失われたら、庶民が困窮すること
をあげ、“共和党の人々は元々メディケアなぞにあまり関心は持たなかったのだ。
あなた方は(とカメラを見つめながら聴衆に向かい)“いったい2つの政策のど
ちらを信用されますか?”とストレートに聞いた。

 そしてライアンに向かっていった。“あなた方は医療保険を危機に陥れようと
しているのだ。”ライアンは応じた。“これが、これまで立派な業績の記録を持
たない政治家のよくやる手なのです。つまり彼等は人々を脅して投票させまいと
しているのです。”

 2人ともカソリックの信者であるが、彼等自身の信仰が堕胎については大きく
異なった見方を与えていることを明らかにした。すなわちバイデンは教会の立場
を尊敬する。つまり受胎と同時に生命が始まることを受け入れる。“しかし私は
それを、私自身と同じように敬虔なクリスチャンやイスラム教徒やユダヤ人に押
し付けることは拒否します。また女性に対して、彼女らが肉体を自分でコントロ
ールできないなどという権利はないと信じます。”

 ライアン自身の考えは、実は堕胎反対はレイプや近親相姦にまで及ぶので、危
険なトピックではある。だが彼はロムニーに習っていくらか中央よりの妥協を見
せ、“ロムニー政府はレイプ、近親相姦、母親の生命の危険のケースを例外とし
て、堕胎に反対します”と述べた。

 アメリカ女性の多数は、堕胎反対を唱える共和党の考えには賛同しない。女性
はオバマを支持する人数が勝っていたが、このところいくらか低調である。

 ロムニー側はオバマの最も強力な資産である外交政策への評判をなし崩しにし
ようと懸命である。オバマ政府はアフガン政府との話し合いで、2014年以後
はアフガニスタン自体が自国を守れるように訓練を与えている。ロムニーはアフ
ガニスタンにいるアメリカ軍の撤退時期が早すぎること、その時期をを公表した
のはオバマのミスだという。オバマは彼らに責任を持たせもるためにはどうして
も時期を知らせる必要があるという。

 イランについては、彼等の核兵器が今にも登場しようというのに、オバマは弱
腰で、何もしないとロムニーは言い続けていた。しかし最近、ナタ二ヤフ自身が、
イランの核兵器完成時期の予想を先延ばしにしたので、今直ぐ行動を起こさない、
とオバマの弱腰をいわなくなった。シリアについてもロムニーは、なぜアメリカ
は軍隊で援助しないかという示唆をしていたのに、この討論ではほとんどオバマ
の政策と似たものになった。

 オバマの業績を擁護して、バイデンは“ロムニー・ライアン政府なら、どれほ
どオバマと異なった政策をとるのかとライアンに質問した。イランの核兵器製造
をいかにしてストップさせるのか、シリアの抵抗者たちをどう援助するのがベス
トかについてのライアンの答えを“軽すぎる”と2度批判した。そして民主党が
既にやったこと以上に彼等が付け加えられるものは何もないと言い切った。事実、
共和党は、ほとんど、上記のオバマの政策に反対しなかったのである。

 リビアで起った最近の大使館襲撃でアメリカは大使と3人の大使館スタッフを
殺害された。ロムニー側は、警備の責任問題として、強くオバマを責めている。
リビアのアメリカ人が警護の増強を望んだがオバマ政府はその要請を拒否したと
いう議会の証言にも関わらず、バイデンはその要請を“知らされていなかった”
といったことを、ライアン・ロムニーはオバマチームの粉飾だと決めつけた。

 事実は警護費用の増額要請はそれまでにも何度かなされたが、国務省が常にそ
れを拒否してきた。ライアンは警備費増強への議会の反対者の1人だったことが
わかったので、皮肉なことになった。そして警護要請はホワイトハウスに届かな
かったというバイデンの報告も事実だと知れた。アメリカ政府の長年のシステム
として、大使館の警護問題はホワイトハウスでなく国務省の警備関係のプロが処
理することになっているためだという。

 もうひとつ共和党が問題にしているのは、オバマ側が事件の直後、今回の襲撃
を、一アメリカ人の制作した反イスラム映画にたいする散発的な抵抗の一つと規
定したことである。ほぼ2週間後にそれはアルカイダの所業であったことが発表
された。

 ではなぜこれがテロリズムであることをそれまで隠していたのか、と共和党は
いう。これについて未だ結論は出ていないので、今後の論争にも持ち出されるの
ではないだろうか。おそらくロムニーの真意は、アルカイダの親分、ビン・ラデ
ンをオバマが殺害させた後も、アルカイダは機能しているじゃないか、だからあ
れはオバマの功績にならないと。筆者の憶測である。

 失業率が7.8%に落ちるというのは共和党のもくろみにはなかったことで、
わずかずつでも仕事口は増えつづけていたことを正直に認めるなら、ロムニーも
これまでのように、オバマの経済的無能ばかりを叫ぶわけにはいかなくなった。
その焦燥が、リビアのベンガジ問題をオバマ非難に利用して誇大な騒ぎにしたと
いう批評もある。両党間の主権争いではなく、むしろ今後のアルカイダのテロリ
ズム対策をどうするかが、超派閥で論議されるべきではないだろうか。

 オバマが盟友イスラエルの安全に冷淡で、国連まできたナタニヤフ首相との会
見を他の用件のために断ったことをライアンはあげて、オバマを非難する。

 オバマのイスラエル理解に根ざした、口だけでない同国への大きなコミットメ
ントを、ロムニー・ライアンは全く理解していないか、知らないかに見える。イ
スラエルの国防相、エヒューダ・バラクは、オバマ政府のイスラエルのための国
防援助は、これまでのどの時代のどの政治家にも勝るといい、ナタニヤフも個人
的にオバマの貢献を高く評価しているという。

 イランの核兵器製造に対してオバマが何もしないと大声で言い続けていたロム
ニー側は、ナタニヤフ自身がイランの核兵器製造までの予想時間を最近ひきのば
したためか、いまはその点では声を潜めている。オバマの対外政策の弱さを述べ
るライアンに、ではイランに対して、あるいはアフガニスタンにたいして、ロム
ニー政府はどんな政策をとるのかというと、今彼等はオバマとちがったことは何
もしないのである。

 この討論では初回の礼儀正しいオバマと違って、バイデンは始終“してやった
り”という優越感、“さあ、おいでなすったその質問”という満足感、親子ほど
も離れた年齢と、大統領の傍らで、何しろ現実の政府の内外事情に通じている強
さで、終始笑みを浮かべていた。ライアンは礼儀正しく耳を傾け、互いの言葉に
口を挟んで妨害するのはバイデンの方が多かった。事実共和党の批評家や支持者
の多くは、バイデンのこのスタイルに酷評を加えた。

 しかし例えばインデペンデント派のロバート・ケイサーという批評家のように、
“なるほど礼儀正しいというのは快い。しかし、政治とは元々無礼なもの。無礼
はわが国民性の一部なのだ”という人もいるし、スタイルや見かけの良さで政治
家を選んだら、大間違いをするぞと警告する人もある。筆者も同感である。

 バイデンは、彼に期待されていたことを立派にやり遂げた。オバマがミスした
点を全てまな板にのせ、オバマの言い分を明らかにしたのである。いずれにせよ、
この討論はバイデンの勝利に終わったと民主党は大満足した。

 そして共和党はライアンの勝利をいう人と、ライアンとバイデンの互角と評す
る人に分かれている。ただニューヨークタイムズの世論調査で、11月6日の総
選挙のオバマの勝利の予想率は59%、ロムニーは31%という、バイデン-ラ
イアン対決1週間後の数字がでていることをお知らせしておこう。

 10月16日には、オバマとロムニーの第2回目の論争があり、国内政策、外
交政策が、市民との非公式な質疑応答を交えて、タウンホールミーティングの形
で行われる。場所はニューヨーク州ヘンプステッドのホフストラ大学である。

 10月22日にはフロリダのボカラトンで、オバマとロムニーが外交政策を論
じる。司会はCBSニュースのボブ・シーファーである。そして11月6日をほ
ぼ2週間後に控えて、大統領と候補者討論はこの日完全に終結する。

 実はこれを書いているのは10月16日である。オルタの締め切りに少し余裕
をいただいたので今夜の大統領論争を聞いて、ごく簡単でもその報告をすること
にした。選挙まで3週間、今夜の論争は全3回の大統領討論のなかで最重要とい
われているからである。

 オバマは、初回の論争パフォーマンスの批判に応えて、その翌日からエネルギ
ッシュなキャンペーンを再開した。ロムニーの正直さ誠実さに疑問を投げること
は重要なテーマである。キャンペーンでなされる約束が果たされないことはオバ
マを含め、しばしばある。しかし魔術師のように偽装し変貌するかのロムニーが
する約束を、国民はどこまで信じられるだろう。

 ところで共和党は、33州で投票妨害を行なおうとしている。基本的には投票
時に、政府発行の写真付き身分証明書(運転免許証、パスポート、出生証明書、
軍隊証明書など)を持参せよというものである。だが、州によって必携の書類他
の規則には違いがあリ、政府の証明書でなくともよい場合や、写真が不要な場合
などもある。

 投票権のない人間が他人の名前を使って投票するのを防ぐためだという建前で
はあるが、現実には選挙投票のための詐称はまれで、全米で5年間に120件と
いう数字があることでもわかる。こうした身分証明書を持たないのは黒人やイス
パニック、学生、高齢者などの低所得層が多く、しかも彼等の多くはオバマに投
票する傾向がある。この階層はほとんど車を持たず、政府の役所にいって証明書
を得る便宜にも、州によっては25ドルもするその証明書の費用にも欠けるのだ。

 この選挙はまことに接戦で両陣営とも楽観は許されない。オバマが僅差でロム
ニーを抜いてはいても、共和党の選挙広告に使う莫大な金や、33州での選挙妨
害の影響は計り知れない。今夜の論争で、アメリカが、健全な中産階級の国とし
て、万人を潤す理想に立ち戻ってくれること、オバマの知力とビジョンと誠実さ
と、そしてなによりもロムニーにない大きなハートを、夢見る多くの人々に感じ
させてくれることを切に祈る。


●10月16日  第2回 オバマとロムニーの討論

 この後10月16日、オバマとロムニーの2回目の討論がニューヨーク州ヘン
プステッド、ホフストラ大学で行われた。ここでは未だ誰に投票するかを決めて
いない82名の市民が招かれて、直接大統領とその候補者ロムニーに質問し、答
えを得るという形がとられた。トピックはジョブ(働き口)、エネルギー、国家
赤字、国家予算、税金、移民、女性、移民、中国との貿易、リビア問題など10
項目が選ばれ、性別、支持する党、年齢など、質問者をその背景によってバラン
スよくあらかじめ分類してあった。

 オバマは初回のロムニーとの論争時とはまるで別人のように生き生きとし、そ
の論争にも力があった。ロムニーも準備十分で、これまた万全の自信をみなぎら
せていた。

 オバマはことにロムニーの経済政策を、金持ちだけを助ける“1点政策”で、
それはミドルクラスの犠牲で行われるのだと評した。ロムニーはそれは事実とは
ほど遠い。事実は、過去4年間、ミドルクラスは押しつぶされていたという。

 オバマはロムニーのエネルギー政策にも挑戦し、彼が立場を変え抜くことをあ
げて、ロムニーのプランは綿密に考え抜かれたものでなく素描のようなモノだか
ら、拒否するようにと聴衆に告げる。

 エネルギーでも、女性への平等な賃金でも、健康保険でも、移民政策でも両者
はぶつかった。ロムニーは、W・ブッシュが約束した“広範な移民政策”が実現
していないではないかという。オバマは、共和党議会の頑固な抵抗が、どうして
も議案を通させないからだと応えた。誠にその通り。議会が協力していたら、ア
メリカの経済はもっと早期に快方に向かっていただろう。

 ほとんどは国内政策に関してであったが、リビアのベンガジの大使館襲撃事件
で、オバマがそれをテロリストの仕業だと認めるまでにひどく時間がかかったと
ロムニーがいう。オバマは事件の翌日、ホワイトハウスのローズガーデンで、自
分は“これはテロリズムだ”といったではないかという。

 折しも司会者のキャンデイ・コウリーが、“確かにその通りだった”と口を挟
む。オバマは、“キャンデイ、もうすこし大きな声でそれをいってくれ”という
シーンもあった。そして彼はロムニーがニュースの直後、検証もしないでプレス
リリースをしたことをなじった。

 ロムニーの1200万ジョブの計画についてオバマは、“それが私立分野に経
済を任せろというロムニーの哲学である。知事としても同じ、大統領としても同
じだ。そのやり方で、金を沢山稼ぎ、トップの収入者には税率を安くする。ジョ
ブを海外に送り出し、税金逃れをする。ある国に投資をして破産させる、従業員
の首を切る。過去10年、我々の見てきたのはその哲学だ。”

 論争のルールで、長い反駁はできないので、ロムニーはただ“的外れも甚だし
い”とだけいった。しかし立ち直って、いった。“2300万の人が職を求めて
苦しんでいる。大統領の政策は過去4年間実施されて証明済みだ、この国では彼
が就任したときより、より少ない人間が働いているのが実情だ”

 また、彼ブッシュはできなかったが、私は予算の収支をバランスする、といっ
た。オバマは飛びついて“ブッシュ大統領は PLANNED PARENTHOOD の連邦予算を
カットもしなければ、メディケアをバウチャーシステムに変えもしなかった。”
と、ロムニーの痛いところをついた。

 オバマはこの数日、ロムニーが共和党の指名を得るためにとっていた税金や堕
胎にたいするいくつかの保守的な立場を非難していた。選挙直前になって、彼は
かなり中央に近い政策で、有権者に媚びようとしているのだ。

 ロムニーはオバマの経済の緩慢な回復失業率の高さ、最近の失業率の7.8%
への低下が遅きにすぎるとテレビ広告で批判している。

 第3回目、最後の討論会は10月22日に行われるが、11月のオルタに報告
するには遅すぎる。これまでの材料で、読者諸氏にもご判断をいただき、筆者と
ともに、オバマの幸運を願って下さる方に感謝いたします。

 なお、現在の投票予想(世論調査)ではオバマは各州とワシントンDCで23
7人、ロムニーは191人の代議員を得ると予想されています。代議員取得には
各党ともそれぞれ290票必要です。

 スイングステイトと呼ばれる未決断の人達の多い州での投票が、この選挙の結
果を左右するのですが、そのなかアイオワとウイスコンシンでは、今のところ、
オバマ票が、ロムニー票を6-8%は上回っています。選挙妨害の影響は未知数
なので、それが一番の心配です。

 (筆者は米国ニュージャシー州在住・翻訳家)

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■【エッセー】
  最高の人生の見つけ方                  高沢 英子
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 9月29日、明治大学紫紺館での加藤宣幸・矢野凱也両氏の88歳米寿のお祝
いの会のご案内を頂いて、久しぶりに神田に出かけた。列席者の方で溢れている
会場入り口で、まごまごしていたら、思いがけず、加藤宣幸氏が、晴れ晴れした
お顔で挨拶をしてくださり、ほっと心がほどけた。

 盟友、知人、親族の方々、総勢百数十人という盛会。広々と明るく華やいだ雰
囲気の会場に入る。大きく取られた窓から、午後の日差しがふりそそぎ、矍鑠と
して談笑される往年の社会運動の闘士のかたがたの姿があった。

 戦後の日本で、東京を拠点に、信じる道一筋に歩まれた人たちの交歓は、ほの
ぼのした暖かい熱気に包まれていた。私事ながら、ほぼ同じ世代に属しているも
のの、これまでの生涯の大半を、東京からはやや距離のあった関西で、傍観者と
して過ごしてきたわたしにとっては眩しいような世界だ。

 いずれにしても、秋に入って早々少し体調を崩し、落ち込んでいたわたしのこ
ころに熱い灯がともされたような一日となった。加藤宣幸氏と俳人富田昌宏氏が
ここ数年主宰、編集してこられたメールマガジン・オルタの常連の執筆者であり、
加藤氏のかけがえのないよきカマラドでもあられる気鋭の初岡昌一郎氏の司会で
開会。88歳とは到底信じられない若々しい主賓のお2人のご挨拶のあと、往時
を振り返りながら、多くの方が日本の社会運動や政治の歴史と切っても切れない
お2人の生い立ち、長年のお交りの思い出などを語られながら祝辞を述べられ、
会は私のような政治に門外漢の者にとっても、愉しいものであった。

 多くの方々のお祝いの言葉や貴重な証言が集められた「莫逆の友とともに」と
題された文集と、加藤氏がこの年月、精魂傾けて編集に当たられ、100号を数
えるまでに成長したメールマガジン「オルタ」の「編集後記集」を頂き、帰宅し
てから2、3日はそれらをゆっくり昧読し、余韻を噛み締めながら過ごした。

 けれども、同じ時期、加藤宣幸氏の、よき盟友であり、メールマガジンオルタ
のオピニオンリーダーのおひとりでもあられ、執筆その他全面的に協力してこら
れた元社会党国会議員の東海大学名誉教授河上民雄先生が、1週間前の22日、
天に召されたというお知らせも受け、人生の諸相についてしみじみ考えずにいら
れない日々でもあった。

 いつも柔和な笑顔を絶やされなかった河上先生の、生前の俤をお偲びしつつ、
また、生涯、献身的に先生に尽くされ、私たち仲間の端くれにも常になにかと心
配りの行届いた京子夫人の、悲しみとお寂しさも思いはかりつつ胸締め付けられ
る思いも味わったのである。わたしは夫人とは年頃も近く、出身が伊賀と伊勢で、
同じ三重県の隣同士のくに、ということもあり、かつて加藤氏がわざわざ一席を
設けてご紹介してくださり、以来親しくお付き合いを頂いてきた。

 心からご冥福をお祈りしたい。思い返せば、五十数年前、大学を卒業したばか
りの私が、始めて伯父の中井徳次郎によび出されて上京したのも、当時伯父が、
河上民雄先生の父上、丈太郎先生と同じ社会党に所属する議員として国会にあり、
その私設秘書のような形で、よばれたためだった。

 しかし、当時の現実の政治状況にとんと無智で、役立たずだったわたしは、間
もなく職を離れ、やがて、その当時東大の社会科学研究所で助手を勤めていた阪
本仁作と結婚。翌昭和33年春に、関西学院大学に転じた夫に従って関西に舞い
戻った。

 関西学院大学はプロテスタントのメソジスト系ミッション大学で、奇しくも河
上丈太郎先生が、かつて教鞭を取られた大学であり、河上先生がそうであられた
ように、夫もクリスチャンだった、という因縁もあった。夫は西洋宗教政治思想
史が専門で、おもにヨーロッパの宗教改革前後の思想史を専攻し、昭和65年世
を去るまで、関西学院大学に勤めていた。

 夫の死後も関西に住み続けていた私に転機が訪れたのは、6年前、関節リュウ
マチのため可なり重度の障害を持っている娘が、40歳を過ぎて子供に恵まれて
間もなく、その夫が突然東京転勤を命じられるという事態が起こり、1歳にもな
らぬ幼童の育児支援を求められ、2005年、俄かに娘一家と東京で同居するこ
とになった為だった。

 久しぶりの東京生活は、それなりに活気があり、充実していたといえなくはな
いが、相も変わらず、世のしがらみに忙殺され、焦点定まらず、うろうろしてい
た処、翌年の夏ごろ、私とは若いころ、互いに近所同志という誼もあった畏友で、
偶然四高で夫の学友でもあられた西村徹先生のご紹介を頂き、2006年夏から、
オルタに拙い文を寄稿する、という幸いな機会に恵まれた。

 以後、毎月のオルタ発行は、大きな励みとよりどころになったが相変わらず、
日常のしがらみに足を取られ、休みがちの申し訳ない状態のまま年月だけがどん
どん過ぎ、気がついたら立派な後期高齢者の仲間入りをしてしまっている。
 
 めずらしく家の者が不在の昼下がり、たまたまテレビをつけたら、映画の画面
が出た。アメリカ映画で日本語の題名が「最高の人生の見つけ方」という。そん
なものがあるなら、教わりたいものだ、と見ていたら、久しぶりにジャック・ニ
コルソンが登場した。ニコルソンは「かっこうの巣の上で」以来、好きな俳優の
ひとりである。

 2007年の映画ということで、少し古い。うろ覚えの中身を紹介させていた
だくと、最初の場面は、病院かどこかの会議室。ニコルソン演じる主人公のひと
りエドワードは、病院の経営実権を握っている実業家で大富豪という設定。病室
には個室などは要らない、と力説している。一同、不承不承押し切られた形で、
その場は終わる。

 続いてそのエドワードに、脳の腫瘍がみつかり、すでに末期で、余命半年から
1年の宣告が下る。手術を受け、自分の経営する病院に入院、手術を受けて治療
を始めることになった。当然個室はないから、簡単なカーテンで仕切った部屋に、
隣り合わせた患者は、これがまた“ドライビング・ミス・デイージー”の黒人名
優モーガン・フリーマン演じるところの自動車修理工で、年はエドワードよりひ
とまわりくらい若く、60代後半という設定で、同じく、余命半年から1年と宣
告されている。

 すっかり開き直っているエドワードと、落ち着き払って運命を受け入れている
信仰篤い自動車修理工の2人は、どちらも率直なところがとりえ、というキャラ
クターの持ち主で、いつのまにか自然に意気投合する。このあたり、さすが名優
の貫禄充分で、いつのまにか観ているほうも、自然に惹きこまれている。

 まず、互いにそれまでの人生を、包まず簡潔に、紹介しあう。ニコルソン演じ
る実業家は、これまで4回結婚したが、いずれも破綻し、現在は気楽な独り暮ら
し、2度目の結婚で女の子がいるが、妻に連れ去られ、成人してから、結婚のト
ラブルに父親ぶりを発揮して強引に介入したのが裏目に出て、いまは付き合いも
絶たれている。

 一方のフリーマンは、もともと歴史学者になりたかった、ということだが、子
供ができて大学を中退、「若い、資産もなし、技術も持たず、黒人、どんな仕事
がありますかね?」と、さらりと言ってのけ、ようやく見つけた修理工の仕事を
黙々と勤め上げ、家族のよき父で夫というつつましい境遇に満足しているという
役柄。夫婦仲は申し分ないようだ。歴史学者を志していたというだけあって、博
覧強記、テレビのクイズは殆んど百発百中という知識の持ち主だ。

 さて、ベットに並んで、これまでの人生をひととおりふりかえったあとで、2
人は残された生存期間中に、この人生でやっておきたかったことのリストを作成
する仕事に夢中になって取り掛かる。まず、互いに別々に拵えたリストを検討し
あい、討議を重ね、いよいよ実行、ということになる。みながみな同じというわ
けではないのは勿論である。

 こうして、ある日、この老人2人は書き連ねたリストをポケットに、子供のよ
うに胸弾ませて、病院をあとにして、旅に出るのである。人生のおとぎ話の始ま
り、というわけだ。

 カーター憧れの車マスタングに乗ってのカーレースあり、スカイダイビングあ
り、ヒマラヤ登頂あり、花の都の巴里の歓楽、エジプトでピラミッドを目のあた
りにし、うっとり歴史の壮大さを味わい、万里の長城をバイクで駆け抜け、サフ
ァリパークでは猛獣狩りに参加、奇想天外とも、ありきたりのナンセンスとも云
わば云え、とばかり、彼らの夢が、次々と華々しく、ときには騒々しく実行に移
され、展開してゆく。末期の病人と思えぬ元気さだ。

 両名優の演技と個性から滲みでる、なんともいえない豊かで暖かい人間味と、
華麗でパノラマテイックな景観、金に糸目をつけないパリの豪奢なホテルのたた
ずまい、フリーマン演じるところの老修理工が、「あんたは、いったいどのくら
い金を持ってるんだね」と呆れながら、自分より老体の孤独な企業家が、次々提
示する計画に乗り、落ち着き払って、心ゆくまで、人生最高の贅沢を受け入れて
楽しむすがたが、これまた見ていて不思議に気持ちがいい。

 インターネットでは薄っぺら、とか深みがない、とか叩いている人もいたが、
それほど真面目に取り組むほどのこともない。そろそろ終わり方を考えねばなら
ない年齢にある私などは、それはそれで、なかなか面白いみものだった。

 2人ともとりたてて立派な思想や崇高な信念など持ち合わせているわけではな
い、おそらく映画の中で、ふと口をついた2人の会話から察しるに、彼らが愛読
していたと思われるサローヤン言うところの、humann race、つまり正真正銘の
ただの人であり、まことのひとであっただけだ。

 信仰篤いカーターと対照的にどちらかというと、日頃信仰からは遠いと見受け
られるエドワードだが、会議中に、カーター死すの報せを受けるや、突然彼の口
から「『神曲』を知っているか」という言葉が飛び出したりするが、そのかれも
カーターの葬儀でスピーチし、間もなく後を追う。

 実はこの映画、原題は“The Bucket list”という。
 インターネットのコメントでは、この原題を「棺桶リスト」と訳しているが、
これには注釈がいるかもしれない。

 すべてが終わり、2人の遺骨をそれぞれ納めた2つの Bucket は、終始この2
人に付き添って、かれらの計画実行を蔭で助けたエドワードの秘書の手で、雪深
い冬山の頂きにある岩に穿った、彼ら2人だけの小さな納骨所?に収められる、
というのが最後のシーンなのだが、そもそも2人の遺骨を納めたこの Bucket の
本体が、ここでは、棺桶ならぬ彼らの1人カーターが生前愛飲していたインスタ
ントコーヒーの空き缶だった、というばかりか、これについて、物知りカーター
が、かつて知り合ったばかりのとき、講釈して曰く、そもそも、コーヒーなるも
のは、エチオピアの羊飼いが、ヤギがその豆を食べると、俄然元気になるのを見
て、真似して飲用したのが始まり、と説明していたのだが、最後のところで、再
びその話に付け加え、実を云うと、そもそも、その豆を食ったジャコウネコの糞
が、とてもいい薫りを放ったからそこから取り出した種を使って煎って炊いて飲
んだのさ、と言い放って、大笑いするシーン(ジョークで大笑いするという計画
もリストに組まれていて、ここで消去される)というおまけのついた曰く因縁つ
きの Bucket だからだ。

 今の時代、自由を求めて勝手仕放題の男性の行動描写だけでは、話の納まりが
つきにくいというわけか、家族愛と人間愛という落ちも用意され、女性視点から
のサービスも配して、最後は家に帰ったカーターは、ご機嫌斜めの妻をなだめ、
家族水入らずの団欒と、妻と2人、愛を確かめあうしっとりしたシーンのあと、
妻が席をはずしたすきに床に身を横たえて息絶え、エドワードは別れて暮してい
る娘との誤解を解き、和解するシーンが付け足されている。

 女性の私の観点からして、ややセンチメンタルではあるが、ほっとさせられる
場面ではある。真の自由というものが、サローヤンが言うように「人間の生活と
虚妄を秩序や、美や、善意や、意義に少しずつ近づけてくれるものであり・・・」
(古沢安二郎訳)とするならばなおさら、これをもって薄手とかセンチメンタル、
とかと、簡単にいえないであろう。

 サローヤンが出たついでに、次の言葉も引用させていただく。―世界を支配し
ているものは、生命である。個性のない、自由な生命である。名もない生き物が、
日夜、職業作家や素人作家の助けをかりて、それぞれの物語りを語っている。そ
の中で、最も偉大な語り手は時と変化、或いは死である。しかし、死は私たちの
滅亡でもないし、敵でもない。生命の誕生に次いで、死は私たちへの最高の賜物
であり、真理に次いで、死は私たちの最良の友である。―(古沢安二郎訳「作家
の宣言」より)

 (筆者はエッセーイスト・東京都在住)

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■【闘病記】
  ガンと向き合って7年                  貴志 八郎
  ―負けるもんか! 肺癌との闘いを綴る―(その2)
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●「術後の行動」 外の空気に触れよう、海外の旅も

 左肺上葉部を切り取られた私は、術後のダメージも殆ど取るに足らないと言え
るだろう。「尿閉」や「便秘」なら、差し迫って死の恐怖におののくことはなか
ったからだ。
 私の「対肺癌」の第1幕はこうして降ろされた。

 後は4年後に新たな肺尖癌が見つかるまで、1ヶ月検診から3ヶ月検診に間隔
が空いていき、その度に胸部のCT撮影やレントゲン検査と血液検査で、PSA
(前立腺癌)・ヘモグロビンA1C(糖尿)のほか癌マーカーの数値を診て貰う
わけだ。そして、その都度「異常なし」と無事通過を知らされ、安堵の胸を撫で
下ろしたものだ。

 「もはや私の体内には癌は存在しないのだ。」という安心感が広がっていった
が、風邪引きだけにはなるまいと、外出先から帰ったときの手洗いと、うがいだ
けは丹念にやってきた。夜中に目覚めたときにも、必ず「うがい」だけは実行し
たものだ。
 お蔭で術後4年間は、風邪も引かずに過ごすことができた。

 その間に私は、連れ合いと、随分、旅行をしている。
 まず、術後約4ヶ月の5月11日より和歌山県の南部にある「湯の峯温泉」周
参見の温泉旅館ベルベデーレに2泊3日、それも自家用車を自分で運転し、約4
00キロを走破している。引き続いて、同月の16日から、東京での旧制中学同
窓会へ出席、この時も連れ合いと娘の住む所沢まで一緒に出かけ、翌日、私だけ
が東京銀座の三笠会館に出席、という案配だ。

 その上、その年の10月19日より訪中の途についている。勿論、連れ合いも
同伴している。当時の日記によれば、「『青島市を構成している膠南市と和歌山
県内の白浜町との友好提携を進めて欲しい』との要請を受け、山東省の栄誉省民
の称号をいただいている私に先鞭をつけてもらいたい」というわけだ。

 当日は、白浜町の町会議員5名と商工会会長らと共に、かねて手配していたよ
うに、膠南市の副市長以下、各部局の代表者の出迎えを受け、友好提携の協議を
行い、後は発展途上の工業地帯造成地の見学や、伝説の徐福出航の地で等身大の
始皇帝像や徐福の石像で、和歌山県新宮市の徐福の墓に思いを馳せることができ
た。

 その後は、レセプション、歓迎会、乾杯と続いたが、幸い、大した疲労感に襲
われることもなく、無事に役目を果たすことができた。


●「術後の日常」 無理はしないが、予定はこなす

 以上、述べてきた術後の私の行動は、「癌は治った!」という自信と、「前向
きな日常活動こそ自己免疫力を高めてくれる、家に籠って消極的な生活を送れば、
肉体的にも精神的にも落ち込んでいく」という考えが前提にあるからだ。

 ついでに申し述べると、私の日常は、決して真面目一方の仕事マンではない。
週2~3回は、自宅で麻雀台を囲む。メンバーは、私の小・中学の同期生や、少
し年下の高齢者で、ローテーションを組んでいる。勿論、時間は午後1時より6
時迄で、5時間を超えることはまずない。また、毎週火曜日には、5人の仲間と
カラオケルームを借り切って、半日を過ごしている。

 このほか、中小企業団体の会議や、ライオンズクラブの奉仕活動や例会へも極
力参加するし、卒後60年にもなる小学校や中学校の同窓会のお世話や記念誌作
成にも、先頭になって取り組んでいる。
 結構、忙しい。

 旅行の方は、「連れ合いの献身的な協力や看護に対する感謝の気持ちを行動で
示す」という一面と、「あと何年の寿命か、せめて生きているうちに」という気
持ちも働き、安価で立地の良い公共の宿などを探しては旅することにしている。
 家計の方は、連れ合い任せだが、年金が主要な収入源である。

 このように、相当に忙しい毎日を過ごしながら4年間、その間に、3ヶ月毎の
検診は欠かさず受け、過労にならぬよう、風邪を引かぬよう、転ばぬよう、イラ
イラせぬよう、飲み過ぎぬよう、運動不足にならぬよう……。
 特に睡眠は、1日8時間以上取るように工夫するなど、細心の注意を払ってき
た。

 術後4年を迎える迄、私の生活は、あらまし術後の1年間と変わりはない。強
いて言うならば、精神障害者のための施設建設についての苦労話を映画にした
『故郷を下さい』の撮影に協力すると共に、この映画を通じて中国の障害者団体
や、施設、学校等との友好交流を進めたいという思いが募り、事前打ち合わせや
中国での上映会のため、再三にわたり訪中したことだ。


●「青天の霹靂」 肺尖に新しい癌

 順調に経過し、癌の再発に対する恐れも殆どなくなった2009年12月の検
診で、肺尖に新たな癌の発症が認められた。癌マーカーの上昇とCT検査の結果
を見た担当の吉増先生は、ペット(PET)検診を受けるようにと紹介状を書い
てくれた。

 例によってペット検診では、ブドー糖と或る種の放射性物質を静脈注射し、癌
に集まるブドー糖の性質を生かして陽子線撮影を行う。併せてMRI検査が実施
される。そしてこの結果は、1週間後、和歌山医大の呼吸器外科の吉増先生から
申し渡されるという手順である。

 ペット検診の結果、私の左肺上部の肺尖に新しい癌が確認された。不幸中の幸
いというべきか、他の臓器には癌の痕跡はないということである。
 治療については、吉増先生が「薬品による化学療法か、放射線による治療が考
えられる。手術の前歴がある左肺にメスを入れるにはリスクが高い。」と説明し
てくれた。


●「技術の進歩」 新しい癌に放射線治療(ピンポイント)

 私は、即座に「放射線治療を選択して欲しい。」と申し出て、先生のお考えを
尋ねた。
 先生は、「私も同じ考えだ。」とのことで、私の身柄は放射線科に移され、2
010年1月22日より、約1ヶ月の間に10回の治療を受けるというスケジュ
ールが決まった。

 聞く処によると、この頃、放射線治療が普及し、数ヶ所から癌に向かってピン
ポイントの放射線治療を行えるようになったので、従前のように癌周辺の組織が
破壊されるなど、術後に悪い影響が殆どみられなくなったというのである。

 癌の位置をピンポイントで正しく捉え、1mmの誤差も許されないということ
である。当然、その位置を確認し固定するために私の左胸に幾つも線を引き、印
を入れられた。
 こうして綿密に位置を確定し、今度は実際に寝台に乗り、腕を伸ばして支柱の
上部を握りしめるようにと指示される。

 このような作業を入念に行った上、癌の位置を綿密に確定して治療が始まるわ
けだが、腕を伸ばして握りしめたままのその体形を1mmでも動かさないでくれ、
というのである。動けば、ポイントがずれ、治療効果がなくなる上、障害が生じ
る恐れがあるというのだ。

 放射線そのものの照射時間は、1回10分以内であるので、痛くも痒くもない
が、両腕を上に挙げ、支柱を握ってそのままピリッとも動けない苦痛は、大変な
ものである。

 私はこの治療作業の間、心の中で童謡や子守唄を歌った。睡魔と闘い、動けな
いという腕のだるさとストレスに対抗するには効果的だったと思っている。
 3番目まで歌えば約3分、4曲も歌えば、時間がやってくる。動かないという
苦しみのほかは、ダメージのないのが有難い。

 こうして1月から2月にかけて「1ヶ月の間に10回、放射線治療」というス
ケジュール通りの治療が行われた。この間、入院をせず通院、自家用車を自分で
運転、殆ど毎回、連れ合いは私に付き添ってくれた。
 また、「自分で運転する場合、治療後30分位で眠くなることがあるので、早
く帰宅するように。」と指示されていたことを記憶している。

 幸いというべきか、10回の放射線治療の結果は、3月5日の検診で、癌マー
カーの数値は見事に下がり、CTは、肺尖の放射線照射で黒くなった影が見える
だけで、主治医の吉増先生も、放射線科の先生も、この治療が成功したことを告
げてくれた。

 「早速、御先祖様のお墓へ、報告とお礼にお参りしなければ」と尻を叩かれる、
という嬉しい始末。


●「左肺に第3の癌」 生きていた第2の癌

 だが、癌はそう甘くはなかった。
 それから1年後の検診で、死んだ筈の肺尖癌は生きており、そしてさらに第3
の癌が、左肺下葉部に発生していることが、癌マーカー数値の上昇をきっかけに
行った通算3回目のPET検診の結果、判明したのである。

 1年前のあの喜びは、全くのぬか喜びであったのだ。
 考えてみれば、放射線によるピンポイントの治療がようやく一般化され、軌道
に乗って間もない時期だっただけに、その成果を検証する方法が現場で充分に消
化されていなかったのかも知れない。

 いつぞや、かつての医大内科教授が私に、「病気を治すには、『選ぶ』(病院
と医師)、『知る』(自分の病気のすべて)、そして『共に(医師・看護師・家
族)前向きに治療に当たることが肝要』、『運』とあるが、最後は自分の意志で
決まる。」と教えてくれたが、私は既に病院も医師も決めているし、家族も私の
ために献身してくれている。

 文句は言うまい。
 新たにできた癌を含めて、上手に付き合っていこう。そんなわけで今の処、セ
カンドオピニオンは考えていない。しかし、絶対に負けないぞ。

 (筆者は和歌山市在住・元国会議員)

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■俳句  富田 昌宏
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  被災地の 石に声あり 曼珠沙華

  紅き帯 畦に解きけり 曼珠沙華

  刀身に 粉打つ無我の 夜長かな

  縄文顔 弥生顔あり 新酒酌む

  求愛も 晩夏もありて 虫しぐれ

  栗落つや 絶叫のごと 口裂いて

  助さんの 肩から咲きて 菊人形

  石仏の 掌は憩ひの座 赤とんぼ

  烏瓜 夕日の色を 深くせり

  今年米 積みて農夫の ひとり言

         (月刊俳誌「渋柿」代表同人)

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■川柳  横 風 人
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  感想で 解けぬ国際 次々に

  大飯稼動 需要のウソは 誰が負う

  復元は 不能と思え 日本力

  そっと死を メディアがさわぎ 値を上げる

  増加止まぬ いじめの認定 なぜ校長

  オスプレイ 揚って進んで 又落ちそう

  想定外 この政治こそが 想定外

  ワークロボ ゲームロボへと 患うヒト

  官僚化と 派ばつ抗争が 閉ざす民意

  過去の政治 消していいのか 自民党

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■【追悼】
 細島泉氏を偲ぶ             加藤 宣幸
 河上先生の思い出            堀内 慎一郎
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■【追悼】
 細島泉氏を偲ぶ      メールマガジン「オルタ」代表  加藤 宣幸
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 9月17日元毎日新聞編集局長・オルタ執筆者細島泉氏が逝去(行年88才)
され、東京・調布市西つつじが丘・延淨寺で20日通夜21日告別式があった。
心から哀悼の意を表します。

 私が細島さんと面識を得たのは、1960年6月15日に日米安保条約が強行
採決された直後の頃であったと思う。当時、安保条約の国会審議では社会党安保
7人衆といわれた横道節雄・松本七郎・飛鳥田一雄・岡田春夫・石橋政嗣・黒田
寿男・西村力弥氏らの精鋭チームが「極東の範囲」などで政府を鋭く追及してい
た。これら社会党議員の活動を裏から支えていたのが新聞・TVなどマスコミ各
社の霞クラブ(外務省記者クラブ)メンバ-の有志だった。

 彼らは共同・毎日・朝日・読売・東京・ジャパンタイムスなど各社の枠を超え
て、連日集まり、その日の審議を検証し、翌日の質疑に必要な資料・情報の収集
に協力したのだ。その中に中心メンバーの一人として細島泉氏がいた。安保反対
の大デモが国会を包む中、安保条約が自然成立したあと、共に戦ったジャーナリ
ストたちはそれぞれの持ち場に帰った。しかし、細島さんを含む何人かは社会党
書記長江田三郎のブレ-ンになって、アジアの平和や日本社会の改革に情熱を燃
やし続けた。

 そのころ、私は社会党本部で働いていて細島さんとお会いしたのだが、いまで
も強烈な記憶にあるのは、後に江田三郎が亡くなった時、名文家の細島さんが毎
日新聞に署名入りで書かれた江田三郎追悼の辞である。細島さんの文章が切々と
して私たちの胸を打ち、心を揺さぶるのは、健筆の内に秘められた熱情と行動力
を感じるからだ。

 細島さんは1924年生まれだが、その生涯は単に筆先だけで生きた人ではな
い。戦時中は陸軍士官学校を卒業し近衛師団将校になった陸軍のエリートだった
が、敗戦後、なぜ日本が誤った戦争に進んだかを解くため、東大の史学科に進み
毎日新聞の記者になった。細島さんは亡くなるまで「日中友好8.15の会」=
(日中友好元軍人の会)で活発に活動されたが戦争の不条理と闘う信念は非常に
固かった。

 私は細島さんが毎日新聞やその後に勤めたジヤーナリスト専門学校校長や昭和
音楽大学教授などの教職を終えられた後、ご夫妻と私ども夫婦は何回か中国旅行
をご一緒したのだが彼が日中友好に懸ける思いは強烈なものがあった。

 細島さんは毎年、年賀状を下さるが決まって熱烈に時局を憂える文言で埋めら
れていた。石原都知事の策謀によって引き起こされた最近の尖閣を巡る日中の動
きには、墓場に入られても、きっと慨嘆・激怒されておられるに違いない。体調
を崩されるまではオルタにいろいろとお力添えを頂いたことを心から感謝する共
に、私たちは細島さんのアジアの平和にかける遺志を継いで進むことをお誓いし
たい。                             (了)

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■【追悼】
 河上先生の思い出                    堀内 慎一郎
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 日頃から大変お世話になっている加藤宣幸さんから、「河上先生に一番世話に
なった君が追悼文を書け」という命を受けたのは、銀座教会で行われた河上民雄
先生の前夜式でのことでした。

 後に述べさせていただきますが、私は、約9年前、大学院修士課程在籍中に、
河上先生の御宅にお伺いしてから、1、2ヶ月に1度という頻度で先生にお会い
いただき、さまざまな貴重なお話を伺ってまいりました。数年前からは丈太郎先
生からの父子2代に渡る関連資料の整理もお任せいただき、また、先生が外出を
される際には何度か随行の任を賜っておりました。

 河上先生と私との間には以上のような経緯があったわけですが、しかし、河上
先生と長きに渡って道を同じくされてきた大先輩の皆様を差し置いて、私のよう
な者が追悼文などを書いてよい訳がありません。一度はお断りしようとも思いま
したが、真っ先にお声を掛けていただいた加藤さんに対し、それも大変失礼なこ
とではないかと思い直し、では私に何ができるのかを自問いたしました。

 結論として、ご家族の皆様を除けば、恐らく(このような言葉は使いたくあり
ませんが)晩年の河上先生に最も頻繁にお会いした一人として、徐々にご体調を
崩されながらも、先生が最後まで充実した、実に先生らしい日々を送られていた
ことを皆様にご報告すること、このことが私の務めではないか、と思うに至りま
した。

 したがいまして、以下、「追悼文」ということではなしに、私の河上先生との
9年間の思い出を皆様にご報告させていただく、ということで、どうかご容赦を
いただきたいと思います。
 
■【河上先生との出会い】

 河上先生に初めてお会いしたのは、先生の著書『社会党の外交』にサインして
いただいた日付を見ますと、2003年11月5日のことであり、当時、目黒稲
門会の副会長をされていた中沢さんという方から紹介され、お手紙を差し上げた
のがきっかけだったと記憶しています。

 内容は今思い出しても、冷や汗の出る、若さに任せた内容だったのですが、む
しろそれが良かったのか、ご自宅での面会を許され、私にとって河上先生はまさ
に雲の上の人でしたが、以降、定期的に先生のご自宅にお伺いし、丈太郎先生時
代からの日労系を中心とした戦前無産政党、社会党の話、あるいは国際政治など、
様々な事柄についてレクチャーをしていただくようになりました。

 さらに、修士課程卒業後の就職先が、偶然にも、丈太郎先生によって設立され
た河上美村法律事務所(現・美村法律事務所)が、当時より顧問弁護士を務める
企業であったことなど、不思議なご縁が重なりまして、ダンボール詰めの状態で
あった丈太郎先生の関連資料、そして河上先生ご自身の議員時代の資料の整理を
お任せいただいておりました。

 これらの資料について、それまで河上先生は他人に触れさせることはほとんど
なかったようですが、にもかかわらず、一介の大学院生に過ぎない私にこのよう
な大任をお任せいただいたのは、ひとつは資料の長期的保存と若い研究者に活用
してもらうための方策を検討されていたこと、もうひとつは、『社会党の外交』
執筆時、先生は、主に国際局長時代に様々な交渉を行った海外の要人への配慮か
ら、核心について曖昧な表現をされた部分がありましたが、関係者の多くが一部
の方を除いて第一線を退かれる中、ご自身の集大成として、その決定版を出され
たい、というお気持ちを持っておられたことがありました。

 しかしながら、結果として、河上先生がお元気なうちに、その整理の任を全う
できなかったことが大変申し訳なく、悔やまれてなりません。お許しいただける
ならば、関係者の皆様にご協力いただき、責任を持ってその任を果たしたいと考
えております。
 
■【河上先生随行記】

 先生が外出された際の随行の思い出といたしましては、2年ほど前、河上派出
身で衆院議員を務められた方のご葬儀があり、電車と徒歩で参列されるというこ
とで、私が随行させていただいたことがありました。

 新宿駅で先生と合流し、中央線に乗り込んだものの、あいにくと電車が混んで
おり、やっと空いた席に先生をご案内したのですが、席を譲ってくださった方や
私に、「あなたたちに悪い」となかなか座っていただけず、座っていただくのに
苦労いたしました。しばらくして、電車が郊外に進むにつれて空席が出始め、先
生の隣が空きますと、「私のような後期高齢者が乗ってきたら譲ればいいのだか
ら、とりあえず座りなさい」と、私を立たせていたことが相当に気になっておら
れたようでした。

 お父上の丈太郎先生も混んでいる電車の中で、書記や秘書が席を確保しても、
頑として座ろうとされなかったそうですが、私も当時の書記や秘書の皆様と同様、
そのような先生のお姿に、偉い方の姿を学ばせていただき、尊敬の念を強くする
とともに、また先生のお姿を通して丈太郎先生の存在をも感じたことを覚えてお
ります。

 また、葬儀の帰路、大変お恥ずかしい話ですが、未婚の私のことを母親が心配
し、どうやら先生に相談のお手紙を差し上げていたようで、「晩婚の方が仲のい
い夫婦が多いようだから、焦る必要はない」などと励ましていただき、本当に顔
から火が出る思いをいたしました。一方、「あなたは私の最後の私設秘書だね」
と望外のお言葉も頂戴し、大変感動いたしまして、先生には内緒ですが、政策秘
書など政治関係の仕事をしている友人に、自慢げに触れ回ったことを覚えており
ます。
 
■【先生へのお誓い】

 河上先生はここ数年間、確かに体調を崩されることが徐々に多くなっておられ
たのですが、それでもご自宅にお伺いいたしますと、時間を忘れて話が弾んでし
まい、先生を疲れさせてしまうことが多々ありました。

 最後にご自宅にお伺いしたのは7月28日のことで、当日は、加藤宣幸さんよ
り、いくつかの重要なミッションを与えられており、そのことに関連して、加藤
さんからの先生へのメッセージをお伝えすると、先生は感じ入られたようで、暫
く黙っておられました。私などには思いの及ばない、お2人にしか分からない部
分がおありになるのだろうと思われました。

 そして、亡くなられた9月22日は、実は本来であれば、資料整理のために先
生の留守宅にお伺いする予定だったのですが、容態が良くないとのことで前日に
キャンセルとなり、7月にお会いしたのが最後となってしまいました。

 尊敬する、そして何より本当に大好きだった河上先生。先生が天に召されて早
1ヶ月、先生のいらっしゃらない人生を生きていくことに、言いようのない寂し
さと不安を感じておりますが、先生に教えていただいたこと、先生との日々は一
生の宝物です。そして、この宝物を自分だけのものとせず、若い世代にしっかり
と伝えていくこと、このことをこの場をお借りして先生にお誓い申し上げ、日々
精進して参りたいと考えております。
 河上先生、本当にありがとうございました。
      (慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科 後期博士課程)

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【編集後記】
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◎尖閣騒ぎが始まってからのマスメデイアは東京新聞など一部を除き、好戦的・
挑発的な同工異曲の記事や広告で溢れ、自民党総裁候補5人も改憲・集団自衛権
容認の大合唱で応えた。肝心の野田政権も「毅然として」と「固有の領土」を繰
り返すだけの無策である。

◎戦前の愚を繰り返すのかと暗然とするが、救いは中国の反日デモが荒れても日
本の国民が至って静かなことだ。毎週金曜日の反原発官邸デモは続くが、右翼
「在特会」の常連メンバー200人ほどの行進があったのを除き、全国に反中デ
モはない。また日本側から日中草の根交流を断った話も聞かない。

 3・11以後、政府やマスコミの原発報道に欺瞞性を感じた日本国民は、自ら
の意思でデモをする市民に変わりつつある。これは日本社会が変わる予兆ともと
れる。平和憲法下、67年間も国際紛争に武力を使わない道を選んだ国民の意識
と改憲を意図する勢力とは明らかに乖離がある。

◎とはいえ今年国交正常化40年を迎えても日中関係は明らかに悪化している。
私たち善隣友好を願う者にも「尖閣」は避けて通れない。「領土問題」はどこの
国民をも論理的でなく感情的にさせ、思考停止に落とし込む。基本的には2国間
の問題でありながら多国間の利害がからむ。

 冷戦時代の日本が北方領土をソ連と2島返還で妥結しようとしたとき、米国の
ダレス国務長官が猛反対したのはよく知られている。尖閣・竹島もサンフラシス
コ条約で米国が意図的にその帰属を曖昧にしたことが今日の紛争の主因である。
日本が隣国と火種を抱え米国依存を強めるのは、まさに米国の国益に適う。

◎4月16日に石原都知事が米国・共和党系シンクタンク・ヘルテージ財団の講
演に招かれ尖閣買収をぶち上げたのが今回の騒動の始まりである。それは元国務
副長官アーミテージやハーバ-ド大学教授ジョセフ・ナイなど日米安保マヒヤま
たはジャパン・ハンドラーズと言われる彼らの思惑と完全に一致する。

 米国政府はしばしば実質的にこのグループがつくった「年次改革要望書」なる
ものを日本政府に提出する。すると日本の政・官・財・学・報あらゆるものが、
それに沿って驚くほど忠実に動き出す。右翼評論家西部氏は、これを「アメリカ
が鼻歌を歌えば日本が大合唱する」というが、まさに「主権在米」である。

◎安保マヒヤの一人で沖縄県民侮蔑発言がとがめられ更迭された元国務省日本部
長ケビン・メアは、尖閣について『自衛隊や海上保安庁の能力を向上させ中国に
対する抑止力を高める。これを抽象的でなく具体的に言えば、制空権をとるため
にF-35戦闘機の調達計画を加速、拡大してイージス艦を増やし、先島諸島に
自衛隊の駐屯地を作って海上保安庁の偵察能力を向上することです』と莫大な価
格のイージス艦や1機100億円ともいわれる戦闘機の売り込みを隠さない。

 日本の軍事力強化は米国の戦略(オフショアー・バランシング)である。これ
は「想定される敵国が力をつけてくるのを、自分に好意的な国を利用して抑制さ
せる」(孫崎亨・『世界』11月号)ことで米国にとって尖閣は好機なのだ。早
速これを受けて野田改造内閣の長島昭久防衛副大臣は10月6日付HPで『自民
党政権以来11年連続で減少してきた国防予算を増額に反転させることが先ず何
よりも緊急の課題です』と決意を述べている。

◎先号では岡田充氏が『国有化と「棚上げ」は均衡化するか? ―領土は空洞化
するシンボル―』として領土問題の本質を論じたが、今号では岡田氏に石郷岡
建・篠原令両氏を加えた3人の専門家に、オルタが主催する勉強会で『今、領土
問題を考える』としてそれぞれの立場から報告して頂いた。

◎【運動資料】9月22日に作家大江健三郎・坂本義和東大名誉教授など127
0名が署名する「『領土問題』の悪循環を止めよう!日本の市民のアピール」の
記者会見があった。その全文を紹介した。
【書評】「日本の国境問題」(孫崎亨著)「論点整理北方領土」(石郷岡建著)
は私たちが領土問題を考えるとき前提となる必読文献である。

◎【日誌】9月20日新宿で岩根邦雄サロン出席。21日11時調布市・延淨寺
で細島泉氏葬儀。18時半蔵門ホテルで小島弘氏傘寿祝の会出席。22日13時
30分明治大学で大内秀明東北大学名誉教授の「ウイリアム・モリスのマルクス
主義」を聞く。25日18時東京・銀座教会で河上民雄氏前夜式26日10時葬
儀・幡ヶ谷斎場で最後のお別れをする。斎場で河上夫人の紹介で葬儀に参加する
ためはるばる北京から駆け付けられた李建華・楊晶夫妻に挨拶。28日仏教に親
しむ会参加あと竹中一雄氏と懇談。29日14時神田駿河台・明大紫紺館で「矢
野凱也・加藤宣幸米寿を祝う会」。10月10日13時横浜・オルタ館で参加型
システム研究所理事長後藤仁氏の「3・11の衝撃―私の反省点」を聞く。11
日神楽坂で渡辺靖郎夫妻に招かれ会食。