【沖縄・砂川・三里塚通信】

6・15 樺美智子事件と朝日新聞主導の暴力排除共同宣言

仲井 富

 はじめに:「6月15日(月)13時から南通用門にて樺美智子さん追悼の集会を今年も行います。是非、参加ください。会の終了後には近くで参加していただいたみなさんの交流会を予定しています。9条改憲阻止の会(文責:三上治)」
 上記のような案内が届いた。最近はほぼ毎年、国会南通用門での追悼集会に参加しているが。安保条約改定60周年の今年、改めてあの日の出来事を振り返ってみたくなった。当時27歳の若輩者は、いまや87歳の老耄となったが、思い出すことなど以下に記してみたい。

◆全学連の非暴力闘争が社会党総評との共闘をひろげた

 60年安保闘争について11・27国会突入事件とか、6・15樺美智子死亡事件とかを取り上げるが、それは必ずしも闘争全体を表現していない。安保闘争以前の砂川闘争における労農学共闘の成功、1957年の岸政権による警職法改正反対闘争の勝利などの積み重ね、さらに沖縄返還闘争が日本青年団協議会などを中心として全国的に盛り上がって来たのも大きい。
 それが全国的な安保改定阻止共闘の広がりにつながった。70年全共闘は究極のところ、当派の暴力闘争が殺し合いにまでなった。しかし砂川闘争から60年安保までは全学連指導部は丸腰でデモに参加し、暴力闘争にはならなかった。それが国民的支持を得たのだ。無抵抗の労働者や学生に警視庁機動隊がヘルメットに警棒で襲い掛かったが故に、砂川闘争は勝利したと言える。

 全学連全体を引っ張って来た、香山委員長、小島副委員長、森田平和部長と総評、社会党などとの信頼関係が醸成され一体感を持った闘いとなった。安保闘争における共産党の「トロツキスト攻撃」が空振りに終わったのは、そういう砂川闘争からの積み重ねの実績がなかったからだ。当時の状況を森田実さんが1980年に書いている。

 ――私は当時、学生連動を大衆的な基盤をもつものにするためには、孤立してはダメで、そのためには学生運動は、共産党から離れて社会党と結びつくことが大衆化の必要条件だと考えていたのです。学生連動の歴史の中で、大衆的な学生運動が社会党・総評ブロックと結びついたのは、昭和31年から35年までの5年間だけです。その他の時期には、一貫して左翼孤立主義の立場に立って、観念的で非現実的な立場から抜け出ることはできませんでした。――(『戦後左翼の秘密 60年安保世代からの証言』潮文社刊)

 1955年7月の六全協以降の、歌って躍るという共産党の路線が、当時の砂川闘争以降の大衆運動に対する認識不足を露わにした。砂川闘争では、すでに1955年夏と秋、機動隊と反対派の激突がはじまり、強制測量が始まっていた。にもかかわらず機関紙赤旗は1955年11月5日付けで、「「政府の挑発と分裂の政策に乗ぜられることなく、いわゆる『条件派』の人々をも含め、一切の住民の具体的要求を統一するよう」主張した。全学連指導部は当時すべて共産党員だったが、宮本中央本部の方針と鋭く対立した。それが1958年の共産党本部に対するデモ事件となって決定的な対立となり、全学連指導部は全員共産党から除名された。

◆樺美智子さん死亡と現場に居た高見圭司青年部副部長の証言

 安保闘争の終盤における安保反対青年学生共闘会議と樺美智子死亡前後の状況について、当時社会党青年部副部長として6・15の現場にいて、その後の救援活動にあたった高見圭司さんの貴重な証言がある。

 ――六・一五闘争は、安保改定阻止第一八次統一行動として闘われ、民衆が国会を包囲する大実力闘争となった。全学連、労働組合はもとより新劇人、キリスト者など宗教団体、婦人団体、農民団体の手を引いた主婦もいた。そうしたデモ隊に「維新行動隊」などを名乗る右翼が釘の出た棒を振るって殴り込みをかけ、デモ参加者に大けがを負わせた。警官隊は見て見ぬ振りをして市民の憤激を買った。やがて国会構内における抗議集会を目指す全学連主流派の部隊が国会南通用門を突破。これに対して機動隊が襲撃し、午後七時過ぎ、東大生の樺美智子さんが殺された。その後も、機動隊は数次にわたって襲撃を繰り返し、多数の学生が負傷し、重傷者は国会構内に取り残された。

 その報道を聞いて現場に駆けつけた各大学の教授団にも警官は警棒をふりかざし、喚声をあげて襲いかかった。機動隊の指揮系統も混乱、興奮した機動隊員が右翼と共に国会通用門内外で無抵抗の人々を襲撃し、一六日未明まで各所で流血の惨事を生んだ。

 私が樺さんの死を知らされたのは別の場所で会議を開いている時だった。人が殺されたという噂も飛び交い、国会の議員面会所に駆けつけると、一帯には負傷者が放置され、まさに修羅場であった。江田三郎さんなど社会党の国会議員団約六○人は、機動隊の放水を浴びながら、議員面会所地下に設置された臨時留置場にいる多くの重傷者の即時釈放を要求して闘っていた。
 江田さんが白髪を振り乱して闘う姿は、今も私の記憶に生々しい。国会内外に放置されたけが人を病院に運ぶのが先決問題であった。我々は、そのために全力を挙げ、駆けつけた青医連をはじめとする医者は、負傷者の応急手当に当たった。

◆日共系民医連けが人を識別 トロツキストは治療を拒否

 ところが、日共系民医連の医者、看護婦は、けが人を識別し、それが全学連主流派「トロツキスト」だとわかると血を流して苦しんでいる学生の治療を拒否するのである。「戦場」における彼らのこの非人道的な態度に接し、私は心底から怒りを覚えた。それまで、青年共闘会議などを通じて日共・民青系の諸君ともある程度関係を維持しており、彼らのセクト主義がそれほどひどいものとは思っていなかったから、その衝撃は大きかった。

 六月一五日深夜、社会党中央本部に特別対策本部が設置され、ただちに六・一五救援本部の立ち上げが決まった。社会党の坂本昭参議院議員が本部長になり、私が事務局長を務めることになった。共産党系を除く超党派の取り組みとなった。まずやらなければならないのが数百人にのぼる負傷者を病院に送り届けることだった。けが人を都内十数カ所の病院に運び、江田さんを先頭に、何人もの国会議員が病院に張りついた。刑事が病院に行くのに対して、学生たちを防衛するためだ。当時学生たちは健康保険証をもっていなかったから、治療費を全額現金で払わなければならなかったわけだが、すべて社会党議員が保証人になって治療を受けさせた。

 追悼と抗議のため、南通用門には翌日から樺さんの写真を置いた。国会を取り囲む抗議デモが引きも切らず続いた。ところが共産党が南通用門のそばでカンパ活動をするものだから、デモに来た人々は樺さんと同じだと思ってカンパをする。日共はそれを救援本部に渡さず自分たちの資金に回してしまった。

◆中国からの一万元のカンパは日共系が独占 救援カンパで凌ぐ

 中国共産党から「樺さんを先頭とする日本人民の英雄的な闘い」に対して一万元のカンパが寄せられたときも同様だった。現在の貨幣価値で一○○○万円以上になると思う。そのカンパが日共系のイニシアチブが強い国民救援会に行った。私たちは、救援本部によこせと要求した。国民救援会の代表は難波さんという人だったが、絶対によこさなかった。彼らはのらりくらりと逃げ回り、結局最後までカンパを渡さなかった。だから当時、私たちは日共を「香典泥棒」と呼んだものだ。

 一方私たちは、学者・文化人を含めて救援カンパを呼びかけた。瞬く間に二〇〇万近く、今で言えば四〇〇〇万円以上の金が集まった。高見順さんとか広津和郎さんのような方が「使ってくれ」と書いて、一万円を送ってくる。当時は、銀行口座とか郵便振替とかが普及していなかったから、みんな現金を封筒で送ってきた。集まった二〇〇万円は、病院の支払いにすべて使った。一番長い人で一年以上入院したと思うが、保険証のない学生には一円も払わせていない。―― 「六〇年安保闘争と六・一五樺美智子死亡」(『砂川・安保・そして沖縄へ』社青同結成50周年記念旧社会党青年部旧社青同OB会/刊 2010・10・1)

 個人的感懐で言えば、まことに楽しい5年間だった。東京に22歳で出てきて偶然、社会党軍事基地委員会という場所に配属された。55年11月の激突で死ぬ思いをした。そして56年の全学連参加による10月闘争では、雨と泥のなかで叩きのめされた。以降は57年からの百里原自衛隊基地反対闘争、そして勤評、警職法、安保と駆け抜けた青春だった。警職法闘争では青年学生共闘会議のデモの指揮者として警視庁玄関にまで突入して逮捕された。

 60年5月20日の安保強行採決によって、さらにデモの波がひろがった。
 6月4日、小林トミさんが呼びかけた「声なき声の会」のデモが起こった。私たちもそれをやった。ボール紙の看板に「声なき声の会」という看板を掲げて築地あたりで2、3人で歩き出すと、いつの間にか1人、2人と参加者が増えてくる。国会に近づくとそれが数百人に膨れ上がった。忘れがたいい楽しいデモだった。当時は子供たちが全国で「アンポハンタイ、アンポハンタイ」叫んで遊んでいた。

<参考文献>
『エコノミスト』別冊「安保に揺れた日本の記録~右翼・反共団体あばれる」他(毎日新聞社 1960年5月~7月)

◆7社共同宣言で安保闘争に冷水、朝日首筆笠信太郎が主導

 60年安保の最大の山場は全学連の国会突入と樺美智子の死であった。これを契機にさらに運動は広がりをみせた。しかし水をぶっかけたのが、朝日新聞の笠信太郎主筆が音頭をとった、朝日、毎日、読売、産経、日経、東京、東京タイムズの在京7社による暴力非難の共同宣言である。これに全国の地方紙も同調して宣言を掲載した。笠信太郎は、当初は1960年の第1次安保闘争においては安保条約の改定反対、岸内閣退陣の論陣を張った(1960年5月21日付の朝日新聞社説「岸退陣と総選挙を要求す」)。だが6月15日に安保反対デモ隊と警官隊の衝突で東大女子学生樺美智子が死亡すると、一転して「暴力を排し 議会主義を守れ」という7社共同宣言(6月17日付)を発する中心的役割を担い、反対運動に冷水を浴びせた。
 孫崎亨氏は「新聞と従米」と題して要旨以下のように述べている。

 ――大手新聞の最大の問題は政治問題で米国に操られていること。安保闘争の60年6月17日極めて異例な七社共同宣言、「暴力を排し議会主義を守れ」を発表した。「民主主義は言論をもって争われるべき。その事の倚って来たる所以は別として、議会主義を危機に陥れる痛恨事であった。その理由のいかんを問わず暴力を用いて事を運ばんとする事は、断じて許されるべきではない」。
 当時、安保騒動に関与した人は一様にこの七社共同宣言で流れ変わったと発言。
 では、この七社共同宣言は新聞社独自で書いたか。米国の圧力か。朝日新聞の主筆、笠信太郎がこの宣言を書く中心だった。
 笠信太郎は1943年10月スイス、その地に滞在中の情報機関OSS(CIAの前身)の欧州総局長であったアレン・ダレス(安保騒動時のCIA長官)と協力。戦後は1948年2月帰社。同年5月論説委員、同年12月東京本社論説主幹。
 朝日新聞は一見リベラルを装いながら、重要局面で従米ですから、読売新聞より時に深刻な被害を日本に与える―学者とマスコミが人類を破滅に導く。――(孫崎享の twitter より)

 7社共同宣言を掲載しなかったのは北海道新聞だけだった。北海道新聞は「卓上四季」で痛烈に批判した。「“よってきたるゆえん”を別として、頭痛がするからと頭にコウヤクをはり、腰痛がするからと腰にコウヤクをはるのはヤブ医者である。政治の医学はターヘル・アナトミア(解体新書)以前に逆行せねばならないのかしら」(1960年6月18日)
 56年砂川闘争で無抵抗の労働者農民学生に棍棒を振るい一千名の重軽傷者を出したが、国家権力の暴力行為にはマスコミ各社は共同声明など出していない。

 戦前には朝日新聞社など新聞・通信社132社が出した共同声明が1回ある。1932年12月19日、「満州の政治的安定は、極東の平和を維持する絶対の条件である」「満州国の独立とその健全なる発達とは、同地域を安定せしむる唯一最善の途である」と強調。3月1日の「満州国」の建国を国際連盟が承認しないという動きに対して「断じて受諾すべきものに非ざることを、日本言論機関の名に於いてこゝに明確に声明するものである」と述べた。

 そして戦後は1960年6月16日の「暴力排除宣言」の2つである。畏敬する朝日新聞記者だった石川真澄氏の『戦後政治史』を読み直したが、6・15樺美智子事件の記述はあったが、朝日新聞などの「暴力を排し議会主義を守れ」の共同宣言の記述はない。おそらく無視したのだろう。歴史の節目に朝日新聞など大手マスコミ各社が果たした事実を忘れてはならない。

画像の説明
  <資料1>「暴力を排し 議会主義を守れ」という7社共同宣言(朝日新聞 1960年6月17日付)

画像の説明
  <資料2>「大阪朝日」(1932年12月19日付)1面に載った「満州国」を支持する新聞・通信132社の「共同宣言」

 (公害問題研究会代表・『オルタ広場』編集委員)

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