オルタのこだま

123号『3年目の3月11日に思う』 コメント

武田 尚子

 リヒテルズ直子さんのオルタ123号『3年目の3月11日に思う』を、何度も首肯しつつ読みました。日本にとってはもとより、民主主義の衰退が憂慮されるアメリカにおいてさえ、議会を握る政治家たちをふくむ全ての人達に読んでもらい、初心に帰って、民主主義とはなにか、なぜそれが重要かを考えてもらいたい卓抜な論稿でした。

 リヒテルズさんが以前オランダの民主主義教育のことを書かれたときも、たいそう感心して読みました。それは民主主義というものが、時間をかけて一人一人が学び、身につけなくてはならないシステムであること、そしてオランダの教育が、小さなこどものころから、機会を捉えてはそれを学ばせる様々な工夫をしている事を知らせて下さったからでした。

 翻って日本を考えますと、1945年の敗戦に伴って、私たちはいわば一夜にして、民主主義への移行を余儀なくされました。昨日まで天皇を父とよび、神と崇める事を強いられた先生たちが、同じ教壇に立って、もはや天皇ではなく、我々自身が我々の主君になったのだと、子供たちに教えなくてはならなくなったときの混乱と困難はいかほどだったことでしょう。

 リヒテルズさんの論考に照らしても、選挙への国民一般の熱の低さといい、同じリベラルの陣営内で共闘をはかれなかった今回の都知事選の結果といい、敗戦からほぼ70年を経て、日本は民主主義を消化して、一人前の民主主義国になれたとはけっして思えません。なぜでしょう?

 其の一端は、リヒテルズさんによるオランダの教育の紹介はもとより、アメリカの民主主義との取り組み方を瞥見しただけでも、有る程度の事情がわかるように思います。
 例えば、CHILDREN’S PROGRAM というウエブサイトが有ります。
少しだけ拾い読みしてみましょう。

・市民権、公民権:
 生まれたときからよき市民である人間など一人も居ない。また、最初からから民主主義制度で生きるべく呱々の声を上げた国家など一国もない。人間にとっても国家にとっても、民主主義はそれぞれの生涯を通して進化してゆくプロセスだといった方が適切だろう。若人たちは、生まれたときから民主主義のシステムにくみこまれてそだつべきだ。幼少者—若者から切り離された社会は、其の社会の生命線を断ち切って居るのだ。 コフィ・アナン;国連長官(1997−2006)

・民主主義:
 私は、弱者にも、強者にも、同等の機会を与えるのが民主主義だと理解している。 モハンダス・ガンデイ(マハトマ)

・公立学校:
 歴史を振り返ってみるなら、アメリカの公衆教育の中心任務は、わが国の子供たちと社会の両方に、公民道徳のゆきわたる空間—場所を創りだすことであった。教育がきびしい再点検にさらされ、新しい方策が要求されている今、公立学校の最重要任務とは民主主義を保持する事であり、我々教育者がいかに世間の悪評にさらされようと、我々の任務はこの国の未来にとって、かけがえのない重要さをもっている事を、決して忘れてならない。 ポール・ハウストン;アメリカ学校自治連合会長

・教育の目的:
 教育の目的とは何だろう。この問いは、学者、教師、政治家ほか、思考する人々をゆさぶってきた。従来の考え方では、知識を獲得する事、読書して事実を学ぶ事だった。しかし書籍は無限となり、枝分かれする事実の学習はあまりにも膨大になった。教育の機能とは、子供たちに学習の意欲を与え、彼等の好奇心がかき立てられたとき、頭を使って、事実をどこに探索すべきかを教える事だという声をしきりにきくようになった。それよりもっと包括的に表現されたのは、ヨークの大司教が英国の校長たちに述べられた次の言葉である。『教育の真の目的とは、公民をうみだすことである。』 エリノア・ルーズベルト(1930年)

 何世代も移民を受け入れてきたアメリカが、未来のアメリカ人に民主主義を教える事を大きな任務にしたのは当然です。現在子供たちに民主主義の受け入れを準備させるための民間の協力グループはいくつも有りますが、主として公立学校が、民主主義社会のありかたと、そこでの考え方や行動の仕方を子供達に教える事から始めるのが、アメリカでの公民教育の出発点であると思います。

 また、アメリカは成人した移民を受け入れて民主主義になじませ、公民権の理念を教えるために、まず多数の大人の移民の英語教育からはじめなくてはならないというハンデイも背負っています。多くの場合、それはコミュにティの成人学級で行われています。

 オランダのような4歳児からの民主主義教育の足下に及ばなくとも、多くの公立学校は、社会科、歴史、時事問題の時間を公民権の学習にあてています。私自身の子供は、地元の公立学校で小学校レベルを終えましたが、既に成人した彼等に、長距離電話で、ちょっとその体験をきいてみました。

 長男はハイテクのエンジニアで、幼児時代から技術的なことばかりに目を向けていたせいでしょうか、“社会科の時間ほど面白くない授業はなかった。自分が公民権と其の義務を学習したと思うのは、教室ではなく、高校まで続けたボーイスカウトだった。アパラチア山脈を8人の仲間がリーダーに率いられ、一人35ポンドの背嚢を背負って歩く。落後する者は助ける。キャンプの夜、疲れきった一人の仲間が、食事もとらないで眠り込んでしまった。食料は既に乏しくなっていて、みな食事の後も腹を空かせていた。リーダーが、これはあいつの分だが、寝てるから皆で分けるか、ときいた。皆顔を見合わせ、一人が脊をかがめて手をだすまねをした。リーダーが大いそぎでいった。いや冗談だ。誰も手を付けちゃいかんぞ、と。満腹はしていなかったが、文句なくおかしく、皆で大笑いをした。”と長男の話です。

 次男は、民主主義教育について、特別輝いた授業の記憶はないといいます。しかし、小学校4年ごろから学校では例えば、“時事問題の時間に先生がテーマを引きだして、みなで疑似論争をやった。これはとても面白く、自分は、話者のいい分のあら探しをするのが得意で、中学へ行くまでには、友達が問題の引き分けを頼みにくるようになったくらいだ。”と、コメントをくれました。

 この二つの話は、たいした意味は持たないとしても、公民道徳に関わる小さなレッスンにはなりそうです。
 長男のアパラチア山脈踏破は、小学校1年生からのボーイスカウト実習の最後を飾るいわば彼にとっての大事業でした。
 チームワークのありがたさや、精神的肉体的な忍耐力のみずからへのテストであったのはむろんですが、私がありがたく思ったのは、平和なアメリカの郊外暮らしの中で、ごく普通の中産階級のアメリカの子供が、ぶっ倒れるほどの疲労と空腹、さらに弱者への思いやりを現実に体験する機会を与えられた事でした。

 私の世代は空襲も、疎開も、戦中戦後の食料不足も経験していますが、それは話してきかせてわからせる事のできる体験ではありません。アメリカや日本そのほかの、戦争をしたがる、あるいは貧しい人への思いやりに欠けた政治家をみるたびに、どうしたらあの人たちに、他人のひもじさや苦しみをわからせることができるだろうとよく考えます。アメリカの大統領候補は、少なくともハーレムに3ヶ月以上暮らしてから立候補すべきではないかと、私は本気で思って居るのです。

 次男の疑似論争の話では、彼が相手の論点のあら探しをするのが好きという、あまり自慢にもならない事が、実は反論の重要さを指摘している事で、これも民主主義教育には不可欠です。いいたい事をどこまでも主張できる次男を、私は内心、誇っています。

 リヒテルズさんの論考でなんども触れていられる重要な問題のひとつは、民主主義を理解し、人々が民主化する事を学ぶには非常な時間がかかるという事だと思います。だからこそオランダは4歳という早期から民主主義教育を行い、システムへの成熟した理解を持った成人を育てようとし、事実、成功しているのでしょう。

 アメリカにしても、かなり最近まではどんなに民主党と共和党の意見に差があっても、議会での論争の後は、互いに相手を尊敬する人間としての礼儀を持っていたと思います。人の和を重んじ、貧しい人を痛めつける食料切符(フードスタンプ)の予算を減らしたり、社会保障金を減らしたりするまねはしませんでした。すくなくとも最低線の、他人への思いやりは守られていました。
 人種差別を表面にだす無礼は慎しまれていました。今は違います

 公民権への尊敬、つまり公民道徳が地に落ちようとしているのです。それは民主主義の退歩、堕落に他なりません。アメリカでさえこうなのです。

 一方日本は、民主主義を咀嚼さえしないうちに、放棄しようとしているのでしょうか。

 『それでは一体、このもはや行き詰まってしまったと思える日本の状況を、私たちはどうやって打ち破ることができるのでしょう。この問いについて、今日の討論のなかで話し合って行ければ、と思います。』とリヒテルズさんは結ばれました。ぜひともその討論を又読ませて下さい。         

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 『生活困窮者支援15年の歳月から見えるもの』を読み、ふかく感動いたしました。脱帽のほかありません。よくも15年という困難にちがいない歳月を、投げ出さないで、見捨てられたに等しい人達に寄り添ってこられました。本当のやさしさがないと、できない事です。これからも、皆さんがお元気でお仕事を続けられる事を、心から願っています。アメリカから、チアを送ります。

 (筆者は米国ニュージャーシー州在住・翻訳家)


 (筆者は米国ニュージャーシー州在住・翻訳家)
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