■臆子妄論                     西村 徹

--有朋自遠方来不亦楽乎--

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[まえせつ]
 前号から拙文に固定位置が与えられ、地名表示が必要となった。性懲りもなく
毎号書くので、いつまでも住所不定では落ち着きがわるいということであろう。
そこで、このような「臆子妄論」という表札になった。いうまでもなく、その意
は「臆病者のたわごと」。表札によって玄関が狭くなっては困るので、できるだけ
間口を広くとれるようにとの魂胆から、あってないような横着な表札になった。
「臆子」は辞書的には存在しなくて私の造語かもしれない。なお「子」という文
字は、この場では前後の文字に比べて印象はなはだ薄く、いまひとつ冴えない。
もっと収まりのよい文字があればと思うが、浅学にして適当な文字が見当たらな
い。修辞学の用語oxymoron(撞着語法)との語呂合わせということに免じて貧弱
な造語をお許しいただきたい。

●遠来の客
 まえせつに乗じて今回はとりとめもなく身辺の雑記に多少の時評のごときもの
を織り交ぜてお茶を濁す。また時系列には従わず散漫に道草をする。
 十月の下旬に遠来の客が来た。まさしく有朋自遠方来である。客とは1966年以
来四十年の付き合いになる。1967年夏には英国南部エセックスの彼の家に一週間
を過ごした。コッツウォルドのように衆目を集めないが満目緑の海に森が点在し
て平野の単調を破る。平野といってもイーストアングリアにくらべれば起伏もあ
る。風景もこまやかに思える。父君は銀行の支店長であったが、多忙を嫌って比
較的暇な支店を選んだという。夕刻にはときに骨董というより古道具のごときを
買って戻る。その折は木製のタイプライターを持ち帰り、思うように動かないの
に首をかしげていてほのぼのと可笑しかった。千坪ほどの芝の奥は林で隣家と隔
てている。芝庭の両側は花壇とハーブ園だ。いうまでもなく母堂はgreen thumb
(あるいはgreen fingers)の人である。常に指が緑に染まっている園芸家である。

 三月末から四月まるまる、四十日間の雨続き、骨の髄までずぶ濡れのエディン
バラでほとんど発狂寸前だったから、うそのように晴れた五月に続いての日差し
の柔らかい夏のエセックスは、癒しの域を超えて桃源郷と言いたい程のものだっ
た。いたって瀟洒な屋敷を訪ねた。小ぶりで優しいながらに入口にNoblesse
Obligeと掲げてあったからやはり貴族ではあるのかと思ってしまうが、じつは豊
かな商人・船主の別荘であった。薄暗く威圧的で、ときにsavageなものを隠して
いる封建領主の城館とは対照的な、明るい十八世紀の平和と繁栄と、あえていえ
ば人懐っこさ、あるいはcivilなものの感じられるたたずまいであった。Noblesse
Obligeはむしろ新しい市民階級自身の自負を示すものであったらしい。
 
 1989年にはニュージーランド南島ダネーディンの彼の家にやはり同じくらいの
日時を過ごした。南島は島の北半分カンタベリーと南半分オタゴの二州に分かれ
前者はイングランド人が入植、行政は主としてオックスフォードのクライストチ
ャーチというカレッジの出身者が担ったところから州都の名は採られた。平坦で
イングランドよりイングランド的といわれるゆえんだ。

 後者のオタゴ州はスコットランド人が入植、州都のダネーディンもエディンの
丘の意である。エディンバラをゲール語に言い換えただけだ。地形もローマのよ
うに七つの丘といわれるほどに起伏の多いエディンバラに似ているばかりか市街
の設計もエディンバラをなぞっている。ゴールドラッシュの時代には捕鯨の基地
でもあったから当初は国の首府も置かれるほど豊かな、国の中心であったらしい。
それゆえ大学もオタゴが最も古い。友人はオックスフォードのクライストチャー
チ出身だが博士号を取ったのはエディンバラだからかオタゴ大学におさまったら
しい。

 いささかくどくどと旅行案内めいたことを書いたが、ペンギンやローヤルアル
バトロスなどの見られる、南極も目近の地が日本人旅行客の定番コースから外れ
ているのは惜しまれる気がするので蛇足を加えた。OECDの調査結果(2000年)
によると中学生の総合読解力はフィンランドが首位、カナダが二位に続いてNZ
は三位と国語の教育水準も高い国であることも知られてよいだろう。ちなみに韓
国が六位、日本は八位である。食料自給率は日本40%に対してNZは300%である。
住んでちょっと深入りする気ならマオリ研究は充実している。
 もし核攻撃が加えられて生き残ったら、加えられなくても危険が迫ったら、一
も二もなく私はこの地に逃れる心積もりをしている。ここでドンパチはまずあり
えまい。おそらく地球上最安全地帯であろう。殊に南島は清潔だ。どこかのなら
ず者大国が南太平洋上で核実験などしなければではあるが。

●再会

 むこうから来るのは80年代以降これが三度目。最初は一人だったが二度目の88
年には夫婦で来た。今回は日本ミルトン・センターの招聘によって東京と京都、
合計4回の講演の後やってきた。本人がいうごとくhard working visitのはずが
疲れた様子もない。夫婦一緒だから嵩張る。個体的にも我ら夫婦とサイズがちが
う。本人たち自身がいうごとくcapaciousである。彼は67歳と引退したとはいえ
まだ若いが、こちらはもうトシ。彼らの標準では客として留まれば一週間が単位
だが、今は我が家に泊める体力がもはやこちらにない。ホテルに泊めることにし
たが、一週間は体力のみならず財布がもたない。折角の京都滞在をいま少しく延
ばすべしとして、いささか友諠に欠けることにはなるが4日に値切って付きあっ
た。
 
 泊めておくだけではすまない。何度来ても皆目日本語を解さぬ客を放ってはお
けない。朝から晩までこっちからホテルに出勤して連れて回ることになる。どこ
に連れて行って何を見せ何を食わすか、なんだか旅行業者の添乗員みたいな4日
間になった。日本語ダメで食い物はきわめて保守的、好奇心だけはやたらと強い
から、ひっきりなしに問いかけてくる。こっちの英語は、もとより心もとない耳
も口もいまやさらに錆びついていて、基本的には目だけが辛うじてという非力だ
から、強いられる緊張は尋常でない。
 
 前に来たとき文楽を見せた。「菅原伝授手習鑑」を事前に解説する羽目となり大
いに窮した。あのややこしい話しを日本語でも説明はやっかいだが、これを英語
でとなると、ややこしさはこれまた尋常でない。ところが結果は予想をはるかに
上回って彼はいたく感じた。後に大学の彼の研究室に立ち寄ったとき壁に文楽の
大きなポスターが貼ってあって驚いた。最近没した人間国宝の吉田玉男を見ると
いう幸運を徒にはしなかったことになる。博士号取得はシェイクスピア研究によ
るものであり、オックスフォードの卒業学部は古典専攻だからギリシャ悲劇には
詳しく、それとの類比が働くのでもあるらしい。

 今度は能を見たいと前もってのメールにあった。ちょうど10月22日は観世会
館で年一度の大きな催しがある。同志社のミルトン学者が京都では世話人らしい
から、その仁に手配を頼めばよかろうと書いてやった。「京都育ちのミルトン学
者ならば能に明るくないなどはありえない。京都人でありながら能も分からない
で仮面劇コーマスを書いたミルトンが分かるはずがあろうか」と、ちょっと京都
勢を挑発した。

●能と湯豆腐

 能を見るには見たらしい。大曲が三つもあって間に狂言が入る午前に始まり午
後まで続く全部ではなく、どういう手を使ったのか一つだけ見たらしい。そうで
なければ狂言のことを言うはず。狂言にはまったく触れず「おまえと同じ名前の
能だった」というから「融」を見たものらしい。こんどは文楽のようにはいかな
くてbewildering と言っていた。何がなんだか分からなかったらしい。
前もっての解説を案内人はしなかったらしい。したとしても文楽とちがって写実
の要素はきわめて希薄だからたぶん効果はなかったろう。案内人はそれを見越し
て無駄な努力は省いたのでもあろう。

 そのかわり後で食った湯豆腐にすこぶる感心していた。あちらのスーパーにも
豆腐は売っているが「ゴムのようだ」(冷凍すれば当然そうなる)そうで、豆腐が
こんなに味わい深いものとは知らなかった、スープはあえかに芳しいという。半
ば本当であろう。「ゴムのような」のとの比較においては真実であろう。しかし積
極評価であるかどうかはわからない。ピアフだったか、日本に着いたらトンカツ
屋に直行するというほどに、湯豆腐に直行するかどうかはわからない。なぜなら
ば彼らはなにを食ってもかならず華麗な文学的修辞を駆使して称揚することを作
法としているからだ。個人の資質にすぎないのかもしれないが、私の経験のかぎ
りでは広く教養人に一般化していいことのようにも思う。どんなひどいワインに
ついてもなんとかして褒め言葉をひねり出すソムリエの場合から推してそう思う。
空海の四六駢儷体のようなもので、そのまま鵜呑みにはできない。

 イギリス人は味盲だとか、味覚に関しては野蛮人に近いといわれたりする。確
かにその側面はある。なにしろ彼は夫人から夕食の調理を託されるとクルマを走
らせてフィッシュアンドチップスを買ってきたという。しかし、結局はただ習慣
について保守的なだけで、つまりは調理についての情熱に乏しく、ものぐさで食
わず嫌いなだけであって、経験による啓発の余地は十分であるらしい。英国もEU
加盟以後大きい変化があったようにもある。能についても同じであろうと思う。

●能と私との距離

 私も能は、とても分かるなどという段にはとどかないが、いっとき割りとしげ
しげ能楽堂に通ったことがある。初めて謡曲に接したのは1943年。高校の所在地
が加賀宝生の地元だったから昼の休み時間に「竹生島」を習った。習ったといっ
ても茶寮のうどん一杯を急いですませて直ぐだから直ぐ腹が減るので間もなくや
めた。本格の能舞台を見たのは1951年ごろ野口兼資の「松風」であった。結局は
「融」を見た遠来の客と似たり寄ったりの受容力であったろうが、野口兼資の名
にしおう悪声、こっちまで苦しくなってくるような、搾り出すような悪声がはら
わたに伝わり、はらわたをしみ通って背筋のあたりにまで響くのが不思議だった。
以来退屈を耐え忍ぶことを含めて、その雰囲気は好きになったが巧拙は分からな
いまま今日に到っている。
 
 能にのめりこんで実際に演じたりしている人にそれを言ったら「上手を見て分
からなくても下手を見ると下手と分かる」と言う。それはそうだ。仏像でも焼き
物でも、いいものをたくさん見ておくのはいいことだ。だから豚に真珠というわ
けでもない。ガイジンなんかに分からないから見せてもむだというのでなく、あ
れはあれで見ただけのことはあったのだと思う。日本人でも能には拒否反応を持
ち続けている人が多い。本を見なければ何を言っているのか分かるものではない。
外国人であってもなくても最初は誰でもそんなものだ。

 品位の高い芸術は敷居の高い場合が多い。惹きつける前に、あるいは惹きつけ
ながら同時に人を寄せ付けぬところがしばしばある。大衆芸能でも、殊に噺家な
ど名人ともなると狷介で却って客が値踏みされるようなこともある。見巧者、聞
き巧者というものが振り分けられる。逆にガイジンであっても、どこでどんなは
ずみでクールジャパンなどといって日本にハマらないとも限らない。わがNZのイ
ギリス人一家も、じわじわと日本に親近しつつある気配だ。娘が日本に来たがっ
ていると、しきりに言っていて、我が方としては少々恐慌をきたしている。

●能楽堂から遠ざかる

 ところで私が能楽堂から遠ざかったのはものぐさもあったが、他の理由の一つ
は能楽堂常連の無作法にあった。指定席でなくて自由席だから、常連仲間の先発
隊が先回りして座席にカバンや信玄袋など置いてまわって席を大量に分捕ってし
まう。更に先回りしないかぎり丁度の時間に行ったのではろくな席がない。それ
どころか席もなくて立見になる。座席数より多い切符を売っているらしい。

 休憩時間のトイレもひどい。入口の敷居際に立って待っていると横をするりと
すり抜けて入ってしまう人が多い。朝顔の前で目下プログラム実行中の人の背に
くっつくように立つのは無神経ではないか。銀行や郵便局のATMでも少し離れて
仕切り線とか靴型が描いてある。こういうものが描かれねばならぬところに一般
の未熟はあるのでもあるが、描かれていないからといって、いやしくも高尚な能
に縁のある人の作法がこれかとげんなりしてしまう。

 どうも日本人の情操というか教養というか文化感覚は社会感覚と整合しないチ
グハグが気になる。個人主義が確立していない証拠だ。だから逆に社会意識の欠
如が生じる。群れると破廉恥になるのは、安倍が言うように規範が教えられてい
ないからではなくて基本の一身独立に欠けるところがあるからだろう。
 こういうたぶん中の上ぐらいの階級が、表題からしてぬけぬけと嘘臭い『美し
い国へ』(注1)の醜さに鈍感で、基本を捨てて規範を押し付けようとする改憲と
か教育基本法改正を、一身独立を欠いたままに、むしろ欠いているがゆえに支持
したりするのではあるまいかと、勘ぐってしまって嫌気がさして、それで遠ざか
ってしまった。

●私がもっとも愛国的になるとき

 じつは私がもっとも強烈に国を意識するのはこのときである。もっとも愛国的
あるいは国粋的になるときといってもよいし、もっとも嫌日的あるいは反日的に
なるときといってもよい。日本について平静さを失うときである。能を含めて、
この国に固有の、永く培われれ、磨かれてきた、優れて美しいもの、国の文化の
粋、cream of the creamというべきものに強く惹かれれば惹かれるほどに、それ
と並んで、それを受け継ぐこの国びとの個の欠如、社会的未成熟がため息の出る
ほどもどかしいものとして浮かび上がって、その粋と澱との乖離にはたと当惑す
るときである。

 そのもどかしさ、いらだちから、自己相対化に堪えられなくなってこの国に愛
想が尽きるとき、あるいは逆に一挙に国粋主義へと飛躍する危うさを直接肌えに
感じるときでもある。自己嫌悪が一転して自己陶酔に陥るいちばん危ない瀬戸際
はそのときのもののように思う。目をつむって跳躍してしまえばさぞや爽快なカ
タルシスがありもしよう。さもあろう、そのときなにか麻薬のようなものが働い
て中枢が痺れ、たとえ擬似的にせよ自同律の不快から自由になるのであろうから。
私自身息を凝らせばその域の手前ぎりぎりまでエンパシーをひろげることはでき
る。

 いま人々がナショナリズムに傾いているのもひとえに対米劣等意識に堪えかね
ての短絡のように思う。その劣等意識は、ずいぶん古くからこの東海の小島に棲
む人々が西の大陸に対して抱き続け、明治開国以降それはいじらしいほどの恋情
となって欧米に向かい、明治人は身をよじるようにもして欧米に同化しようとさ
えした。日清戦争以後は西の大陸に対しては倨傲に変質した(注2)が、15年戦争に
大敗して以後アメリカに対してその劣等感は抜きがたいものとなった。金満にな
って近隣にはふたたび倨傲となったが、とりわけ冷戦終結後、アメリカに対する
一辺倒はますます抜きがたく骨の髄まで染み透って続いているものである。靖国
神社遊就館すら、その展示がアジア人に与える印象については一顧だにすること
なく、岡崎久彦の抗議に応じて、そそくさと太平洋戦争原因のローズベルト陰謀
説は取り下げるという。遊就館の言い分にいくらかの分があるとすれば、むしろ
取り下げる方の部分についてではあっても、中国大陸での日本軍の蛮行について
ではない。

 強者に対する劣等の意識が裏返って近隣に対する倨傲に、挙句は当初の事大慕
夏が夜郎自大にまで変ずる病理は、合理主義一点張りで、あたかも自分を局外に
置くかのようにして、あるいは勝者の立場に置くかのようにして、冷ややかに裁
断自足しているのでは治癒克服の道はない。もっと寄り添ってぎりぎり感情を共
有するところまで近づいて、理を分け情を尽くして一枚一枚そろりと薄皮を剥ぐ
ようにして話し合うのでなければ埒が明かないことに思う。いま取沙汰されてい
る「いじめ」問題との取り組みに、ずいぶん似たところがありはせぬかとひそか
に思う。

 愛国と嫌国は紙一重である。いずれでもない、国を超えて平衡の取れた立ち位
置を確かなものにするには、互いに左右に背中を向け合っているのでなく、胸襟
を開いて向かい合い、相抱くほどにも近づいて、あるいは抱きしめるほどにもし
て、その倒錯の病理を共にわがものとして見つめ、大和解への道を探ることから
始めるべきではないかと思う。かつて三島由紀夫と林房雄が丸山真男に論争を呼
びかけたところ、丸山は「軽蔑をもって黙殺する」と答えたという。丸山の拒否
反応は生理的に理解できるが、せめて三島とだけでも対話があればと、かえすが
えすも惜しまれる。
 怨憎会苦はかくも超えがたいさだめであるかと歎ぜざるをえない。

●人の交わりは国を解毒する

 筆がすべって道草としてはいささか上ずった長広舌になった。これはまた別途
に稿を起こすとして、遠来の客に話しを戻してしめくくることにする。
 外国人と応接して、一方的に相手方の言語を用いざるをえないとき、言いたい
ことの半分どころかその半分をも表現できないもどかしさに、なんだか割りを食
って不公平だと思うことはある。それは、しかし、多数と少数の間には常にある
ことで、日本の中でも都市と地方の間にもある。東京人以外は国内的にバイリン
ガルであることを余儀なくされている。東京語をしか話せずじまいの東京人にと
っては、それは言語的損失でしかないことであろう。

 大阪で生涯を送った東京人で、「私のこどもは大阪弁になっちゃったが私は少し
も大阪弁じゃないでしょう」と、公の席のスピーチで自慢げに言う人がいて苦笑
させられたことがある。誰だか忘れたが、東京出身の京都学派で、ムスコが京都
弁を発するたびに拳固で頭を小突いたという人の話しを林達夫の本で読んだ記憶
がある。前者は損失を誇り後者は損失に苛立っているのであろう。前者には俗、
さらには田臭を感じたが、後者には稚気を感じておもしろかった。

 わが遠来の友にその類比は及ばない。彼の英語および外国語に対する姿勢は調
理あるいは家事に対する場合にひとしいように思われる。英語の世界語としての
勢いは高まる一方である。唐代における華語、中世ヨーロッパにおけるラテン語
以上かもしれない。調理あるいは家事の場合、それの苦手な男には損失の色合い
が濃くなりつつあるが、英語とそれ以外の言語との関係についてはそれはない。
英語のみでなんらの痛痒はないからものぐさはものぐさのままに留まることがで
きる。読む分にはヨーロッパ諸語に不自由はない。この年になって何ぞあえて極
東の夷語を学ばんというところであろう。

 その身になればそれはそうだろうと思う。自分たちが言語の面でいささか不当
に有利な立場にあることは知ってはいるし、その不当を積極的に穴埋めすること
への怠慢も先刻十分承知のうえで、自分たちには出来ない相手の言語が当方には
まがりなりにもできるということに、旅の身はさしあたり依存することでよろし
くという気分。

 それで納得ではあるが、なにせ手紙を書くにもこちらはむこうの何倍もエネル
ギーを要する。つい皮肉のひとつも言いたくなる。調理のずぼら、フィッシュア
ンドチップスで誤魔化すについて夫人がいやみを言うごとく私もちょっと斜めに
ものを言う。ところがである。国民性なのか個人的資質なのか、ともかくその皮
肉にいたく興じる風である。私の日々送ったメールについてsarcasticという語を
二人してあたかも賛辞であるかのように目を輝かせ破顏して言うのである。十八
年ぶりに会って抱擁の後にそのように言うのである。

 退屈は敵で、なにがし興じることのできるものならば、たとえ自分がサカナに
なってもその方を選ぶ。それは自己相対化の知恵と一つであろうと思う。こちら
もこのような折に日本国というものが遠景に退いて一つの風景として捉らえなお
されることが、このような友と会うことの大きな功徳のように思う。たとえばタ
クシーに乗る。運転手は景観を顧慮することなく走りやすい道を選ぶ。高架下な
ど見るも無残な道を走る。にぎやかだった客人はぴたりと口を緘じる。そのとき
私の目は遠来の客の目になってその醜悪を再発見することになる。日本国のまと
う衣裳の裏側を改めて見ることになる。日ごろもそれに気づかぬではないが、直
ちに日本国を相対化するところまで届かずじまいになっている。遠来の客の目で
見るとき初めて、いやでもさめた目でこの国を相対化しなければならなくなる。
その種の経験は日常得がたい功徳でもあろうと思う。逆に自分も他の地からの旅
人として、つまりはエトランジェとして日本を見て回っているような自分を見出
すことになる。

(注1)
 『美しい国へ』の胡散臭さについて一つだけ注釈をくわえる。はじめに2ペー
ジ前後の短い「はしがき」だかがある。そこに1939年9月1日ドイツ軍のポーラ
ンド侵入があっての翌2日イギリス下院においてチェンバレン首相がなおも開戦
をためらっているのに対して、野党労働党の党首アトリーが欠席していたのでア
ーサー・グリーンウッドが代理として開戦を促す演説に立ったこと、たじろぐ風
のあったグリーンウッドに、すかさずフロアから首相と同じ保守党のアメリーが
Speak for England, Arthur!(安倍は縦書きの本だからカタカナで書いている)と
檄を飛ばしたことを書き、それに励まされてグリーンウッドの演説が功を奏し翌3
日英国は宣戦布告したのだと、そういう闘う政治家、戦争する政治家に自分はな
りたいのだと書いている。

 まるでアメリーが檄を飛ばさなかったら宣戦布告には到らなかったかのような
言い方であるが、演説をしたのはグリーンウッドであってアメリーではない。安
倍本人はグリーンウッドになりたいのかアメリーになりたいのかはっきりしてい
ないが、どうやらアメリーのfor Englandがめっぽう気に入ったのであるらしい。
ありていは、グリーンウッドが「労働党を代表して発言する」(speaking for
Labour)と宣したのは党首アトリーの代理である立場から言わざるをえなかった
までである。わざわざfor Englandなど、いやしくも政治家ならば言わずもがな
のことである。

 グリーンウッドにとってアメリーの発言が檄になったことはなったであろうが、
なってもならなくても肝心の「歴史的名演説」をしたグリーンウッドのことより
も、アメリーの当意即妙の突っ込みばかりが有名になってしまった。アメリーが
抜きんでた名演説家で、チャーチルに拮抗する政治家であったことはまちがいな
い。

 しかしアメリーがグリーンウッドを盛りたてて演説を成功させたとか、それゆ
えにチェンバレンは開戦に踏み切らざるをえなくなったとかいうようなところに
力点を置くのはグリーンウッドならびに労働党に対していささか公平を欠くであ
ろう。もしアメリーを正しく評価するとすれば、チェンバレンの選択、すなわち
保守党の選択をそのまま保守党員として容認すれば国の運命を誤るという危機感
を、党派を超え、私を超えて強調しようとした点であろう。そこが党議拘束など
という憲法にも抵触するような幼稚な後進性を脱皮できずにいるこの国が学ぶべ
き眼目である。それをこそ強調すべきであるのに、そこを安倍はまったく見ない
で我田引水している。

 またアメリーが「英国のために」というときfor Englandは正しくないであろ
う。英国はEngland ではない。Scotland人はけっしてEngland人ではない。Wales
人もけっしてEngland人ではない。今日ではどんな頭の古い政治家でも公的な場
で英国をいうときEnglandなどとはけっして言わない。Britainと言うだろう。
もちろん安倍がそのような初歩的なことを知らなかったわけではなかろうし、そ
れに触れなかったことをとやかく言うつもりはない。アメリーについても、当時
はそのような、England人以外のイギリス人に対して不遜なもの言いがまかり通
っていただけであってアメリーに固有のことではない。しかしもはやアメリーは
現代の政治家がモデルとするには古いことを示す一つの証拠にはなるであろう。
アメリーが戦った相手のヒトラーと組んだ彼の祖父をモデルにすることと同じく
古いであろう。

 チェンバレンは対独宥和策を取ってヒトラーのズデーデンラント領有を黙認し
たが、アメリーはそれ以前にイタリア宥和策を主張してムッソリーニのエチオピ
ア侵攻を黙認する立場を取っていた。ところが英国政府は彼の宥和策を取らずイ
タリアに対して強硬策を取って経済封鎖に踏み切った。そのためにムッソリーニ
はヒトラーに急接近する結果を招いたのだと彼は考えた。必ずしも常に一本調子
に大見得を切る好戦派ではではなかった。それどころか二枚舌外交の悪名高い、
今日に到るまで中東を泥沼に陥れることになったバルフォア宣言の起草にも参画
した。

 ある特定の局面での好戦的と見える側面だけを取り上げて、ただ「戦う」だ
けの政治家の鑑とするのはむしろ老練な政治家には礼を欠く。圧力と宥和と、
緩急硬軟自在な老獪さをこそ範とすべきだというのならそれはそれで話しは別
である。政治家は強硬策を取るときだけ闘っているのではない。宥和策を取る
ときも同じように闘っている。戦いの形が違うだけで、肩怒らして戦いを呼号
するだけが戦いではない。威勢のいいやつほどいざというとき腰を抜かす。空
疎な掛け声をわざわざ聞こえよがしにかける必要などない。真の勇者は恥じて
そんな面映い掛け声を発しないものだ。闘っているいないは人様が、そして結
果がこれを判定する。
『美しい国へ』の薄さ浅さ未熟さはこの一端を見ても明らかであろう。

(注2)
 日清戦争以前にひらかれた「日支文人大会」では。日本と中国は対等であるべ
きなのに、日本の文化人の、中国文化とその文化人に対する崇拝の態度は卑屈で
あった。その日本の態度を逆転させたのは日清戦争である。卑屈感に代って根の
ない優越感があらわれる。(尾崎秀樹『近代文学の傷痕』・岩波書店・39ページ)

               (筆者は大阪女子大学名誉教授)
                                                  目次へ