■ 宗教・民族から見た同時代世界    荒木 重雄

~タイ政治を動かす国王と仏教は現在の混迷を救えるか~

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  バンコクで1500人を超える死傷者を出した5月の騒乱はひとまず終息したもの
の、2006年9月、軍がクーデターでタクシン政権を倒して以来のタイの政治的混
乱の行方はいまだ予断を許さない。多数の死傷者を出しながら混迷を深める政局
に、国王はどうしているのかとの声が国の内外から挙がっていた。併せて、仏教
界はどう動くのかとの声も聞かれた。タイでは国王と仏教が軍と並ぶ重要な政治
的要素であった。

 とりわけ国王は、危機のたびに大きな影響力を発揮してきた。
  たとえば、1992年5月、スチンダー陸軍司令官の軍事政権に反対する市民の集
会に軍・警察が無差別発砲を加えて多数の死傷者を出した「流血の5月」事件に
際しては、国王はスチンダーと市民側リーダーのチャムロン元バンコク市長を王
宮に呼びつけ、拝跪する両名に直ちに事態の収拾を図るよう指示した。世界中を
駆けめぐったそのときのテレビ映像をご記憶の読者も多いことだろう。

 国王と仏教は現在の混乱にどうかかわれるのか振り返ってみたい。


◇◇国家原理は民族・宗教・国王


  現代タイ政治において国王と仏教を復権させたのは、1957年、西欧型民主主義
に倣ったピブーン政権をクーデターで追い落としたサリット陸軍司令官であった。
彼は、議会制民主主義はタイに腐敗・汚職と政治的混乱をもたらし、共産主義
者の跋扈を許しただけであるとし、替わりに、「タイ式民主主義」として、かつ
てスコータイ王朝のラームカムヘーン王(13世紀)が理想とした「ポー・クンの
政治」の復活を唱えた。ポーとはタイ語で「父」、クンは「王」であり、国王と
国民は、「支配する者・される者」ではなく、親子のような「庇護する者・され
る者」の関係と説く。

 その「ポー・クンの政治」を支える理念が「民族・宗教・国王」の三位一体論
である。ラーマ6世王(治世1910‐25年)が唱えたこの三原理論を、サリットは
新たな国民統合の中心イデオロギーに据えなおした。すなわち、タイ民族のアイ
デンティティを構成する要素は仏教と国王であり、仏教の最高の擁護者として民
族を代表する国王を守るのが政治指導者および国民の最大の責務である、とする。

 サリットは、32年の立憲革命以来、低下していた国王の権威の回復を図るとと
もに、仏教界の抜本的な改革に着手した。すなわち、サンガ(仏教界)を内務省
の組織に照応した中央集権的組織に改変すると同時に、「僧侶は国家の建設と国
民の繁栄に貢献すべし」として、村々の住職を村落開発委員会の顧問に任命した
り、バンコクの青年僧侶を地方の開発に大量動員したりした。共産主義勢力の浸
透防止がその目的である。

 サリットといえば、読者の多くは、すべての権力を自らに集中し、当時のアメ
リカの反共世界戦略に協力してタイの経済開発政策を推進した独裁者、そしてま
た、権力を利用して莫大な不正蓄財を図った人物として記憶に残ろう。そう、当
時の東南アジアに典型的な開発独裁者の一人である。


◇◇世俗化した仏教界


サリットの後を継いだ、ともに彼の腹心の部下で陸軍司令官を兼任したタノー
ム首相、プラパート副首相の政権下で、仏教界の世俗化は一層拡大され、僧侶は、
軍人や内務省の地方官吏、村民が結成する自警団とともに、地方における反共
政策の要となり、「仏教信仰に消極的な村民は非国民であり共産主義支持者であ
る」とのキャンペーンが展開された。

 タノーム=プラパート政権は、やがて、そのあまりの独裁・強権ぶりと不正蓄
財から、学生・市民の激しい反対運動に遭遇し、ついに73年10月、学生・市民と
軍・警察が衝突して多数の死傷者を出す事態となった。すると国王はテレビ・ラ
ジオを通じて声明を発して、文民のサンヤーを新首相を任命し、タノーム、プラ
パートらの国外脱出を指示した。いわゆる「10月14日政変」である。以後、現プ
ーミポン国王は政治的な主導権を発揮して、新憲法の制定やクーデターの承認な
どの政治の節目には必ず登場するようになる。

 束の間、享受された民主主義体制はしかし、ベトナム戦争下、そのさらなる進
展に危機感を抱いた王室の支持のもと、軍・警察と右派勢力による民主派攻撃が
開始され、軍服から僧衣に姿を変えたタノーム、プラパートの帰国を機に、つい
に76年10月、「血の水曜日事件」として歴史に残るきわめて残虐なしかたで民主
化勢力が徹底的に壊滅させられたことによって幕を閉じた。紆余曲折の後、タイ
政権は王党主義者プレーム陸軍司令官に引き継がれていった。

 この短い民主体制の間、世俗化した仏教界は二極に分裂した。一部の青年僧侶
たちは農民や労働者のデモの先頭に立ち、しかし一方、サンガ組織の中心にいた
僧侶の多くは民主化運動を敵視して、「共産主義者は人間ではない。だから仏教
徒が彼らを殺しても悪行ではない」などの説法をくりかえしていた。


◇◇「タイ式民主主義」の変容


  このような歴史的背景から、現在の状況に対しても国王や仏教界の動向に注目
が集まる。しかし時代には大きな変化もある。

 現在の混乱の引き金をひいた06年のクーデターが国王の承認のもとに行われた
ことは、実行者ソンティ陸軍司令官が国王の謁見を許されているところからも確
かである。しかし、82歳の高齢に達し、健康問題や後継者問題を抱える国王には、
それ以上踏み込んだ意思表示は困難であった。しかもタクシン派から「クーデ
ターの指示は国王側近のプレーム枢密院議長」と名指しで非難されるところまで
王室の威信は低下している。
 
  仏教についても、80年代以降の経済成長と都市化のなかで、ストレスの解消や
精神の安定を瞑想などによって求めようとする内向的・功利的傾向が人々の嗜好
に適い、伝統的な社会的システムとしての権威は低下して、社会的影響力を減じ
つつある。
  だが、「タイ式民主主義」が消滅したわけではない。

 タイの政治は、ある循環形態をもっているといわれる。すなわち、政治が行き
詰ると軍によってクーデターが実施される。クーデターで権力を掌握した軍は、
憲法・国会・政党活動を停止するが、状況が鎮静化すると暫定議会において新た
な憲法を制定し、それにもとづいて総選挙が実施され、政党活動と議会が復活す
る。しかし、その議会政治が再び行き詰まりをみせたり軍の利害に抵触するとみ
られると、軍は、「共産主義者の脅威」や「政党政治の腐敗」を理由に再度クー
デターを断行し、サイクルを振り出しに戻す。

 このようなパターンから、タイでは、第二次大戦後からだけでも10回を超える
クーデターを経験し、失敗したものや計画にとどまったものを加えればほぼ毎年
のようにクーデター騒ぎがあった。タイはこの循環をようやく脱したかと思われ
たところでの、06年のクーデターであった。
  しかし、そのクーデターで追放されたタクシン元首相はじめ同派の政党政治家
および同派を支持する住民が、この循環に逆らう政治的な力を蓄えていたことが、
現在の長期に亙る政治的混迷の背景といえよう。

 上に述べた「タイ政治の循環」には、それを回転させる二つの重要な要因があ
った。一つは国王である。クーデターであれ新憲法の制定であれ、それには国王
の承認が不可欠の要件である。そしてもう一つは、政治指導者には国民の利益の
実現、すなわち社会的公正(タイ語で「タム」)の実現が要請されていることで
ある。それゆえ人々は、タムに適っているか否かで、ときにクーデターを支持し、
また、ときに軍事政権に反対もしてきた。

 では、現在のタムはどちらにあるのだろうか。
  グローバリゼーションのもと急速な経済成長を遂げてきたタイには、都市部の
中間層と地方の農民など貧困層との格差があまりに大きい。

 経済発展から置き去りにされ、機会の不平等や貧富の差を肌で感じていた地方
住民や都市貧困層に手厚い政策を施し、しかし一方、汚職疑惑の絶えなかったタ
クシン元首相や彼の支持派と、経済発展の受益者でありながら貧困層には一顧だ
に与えず、むしろ貧困対策に反発してタクシンの汚職体質や強権姿勢を糾弾し、
軍や司法当局の力を借りて政権を握った都市中間層や官僚を主とする反タクシン
派およびその政府との、はたしてどちらに「タム」があると国民の大勢が判断す
るのか。そこに今後のタイの行方はかかっているのであろう。

            (筆者は社会環境フオーラム21代表)

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