【オルタ広場の視点】

<海峡両岸論>

強権政府待望する時代が始まった
〜五輪を全てに優先した安倍失政


岡田 充

 コロナ・パンデミックは、世界を1929年の世界大恐慌以来の不況に陥れた。ポスト・パンデミックの時代には、閉じられた国境が再開され、破断されたサプライチェーン(部品供給網)の再構築が始まる。だが、グローバル化によって弱体化した主権国家と政府が息を吹き返し、国民が強権政府を待望する時代が始まる。強権化した政府がいったん手にした権力を手放すとは考えにくい。「民主か独裁か」からガバナンスを論じる時代は終わり、国民国家を形成する伝統・文化の特殊性こそがガバナンスの性格を決定する。

 爆発的に感染拡大した米、英、仏が緊急経済・雇用対策を打ち出す中、安倍政権はコロナ・緊急経済対策で完全に出遅れた。東京五輪(写真)の実現をすべてに優先させたためである。「一年延期」させたが、パンデミックも恐慌も1年では到底収まらない。東京五輪が「完全な形」で行われる保証はなく、結局中止に追い込まれる可能性がある。30年に及ぶ「ポスト冷戦時代」の終結という歴史的転換期に、メディア・世論を共犯に「五輪狂騒曲」のタクトを振った安倍晋三首相の失政は、長く語り継がれるだろう。

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  東京オリパラのロゴ

◆ 国民救えるのは政府のみ

 20世紀の「大恐慌」で米国をはじめ各国が採用したのは、ケインズの「有効需要論」に基づく「社会主義的」経済政策だった。経済を引っ張るのは需要であり、景気回復のためには、国家・政府が減税や失業者の雇用、通貨の大量発行などの国家主導政策を行うべきである。
 今回はトランプ政権が、大人に最大13万円を4月に現金支給するなど計2兆2千億ドル(約238兆円)の経済対策を成立させた。英国のジョンソン政権も、政府が賃金の85%(最大35万円)を保証する方針を決め、フランスは一時帰休の従業員が給与の約84%を受け取れる制度を打ち出した。一方日本は、新年度の4月初めになっても、緊急経済対策の検討段階にとどまり完全に出遅れた。

 欧米主要国の政策は、グローバル化によって弱まった国民国家と政府の役割の復権を意味する。パンデミック対策と世界経済の再構築には、国際協力は不可欠だとしても、その前に「国民」が死んでしまえば元も子もない。グローバルな多国籍企業は経済をリードするチカラはあっても、救いの手は差し伸べてくれない。企業倒産と失業者に金銭支援できるのは「政府」だけである。
 少なくとも数年以上にわたる経済不況に対処できるのは「強い政府」であり、国民もまたそれに期待する新たな構造ができるだろう。いまや市場という「見えざる手」に委ねるなどという声は皆無、どこからも聞こえない。

◆ 通用しない「独裁か民主か」

 中国政府が2月末、「武漢封鎖」という荒療治に出た時、世界で「中国は独裁国家だから」という見方が溢れた。では米、英、イタリアを含め西側各国が、罰金を含め強制力を伴うロックダウン(都市封鎖)に出ているのをどう説明するのか。私権を制限する、「改正新型インフルエンザ特別措置法」の成立に立憲民主、国民など主要野党が賛成し、「緊急事態法」に踏み切れない安倍に対し、「反安倍」勢力が発動を促す「構図」は、強権政府への期待論が日本でも高まっているのを裏付ける。

 「アジア最大の民主国家」、インドのモディ政権は3月25日から全土封鎖という強権を発動。ハンガリーのオルバン政権も政府権限を強化する「非常事態法」を成立させた。中欧・東欧諸国では既にあるポピュリズムの土台の上に、コロナウイルス対策を理由にした強権政治が進むはずだ。統治システムをめぐる「民主か独裁か」というアジェンダ設定は、本当に有効なのか改めて試されていると言っていい。

◆ 感染症対策は二の次

 五輪を全てに優先させた安倍政治を振り返る。
 「半世紀ぶりにあの感動が、再びわが国にやってきます。本年の五輪・パラリンピックもまた、日本全体が力を合わせて、世界中に感動を与える最高の大会とする。そして、そこから、国民一丸となって、新しい時代へと、皆さん、共に、踏み出していこうではありませんか」。安倍が今年1月20日行った施政方針演説の冒頭部分である。
 演説は「外交・安全保障」部分でも「五輪・パラリンピックが開催される本年、わが国は、積極的平和主義の旗の下、戦後外交を総決算し、新しい時代の日本外交を確立する。その正念場となる1年であります」と、外交のプライオリティとして五輪を明確に据えた。

 ウイルス感染は2月に入るとあっという間に世界に拡大した。国際オリンピック委員会(IOC)の有力委員が、開催の是非のデッドラインに言及(2月25日)すると、安倍は大慌てで火消しに走った。その具体例を挙げる。
 安倍は「(イベントなどについて)全国一律の自粛要請を行うものではない」とした2月25日の政府対策会議の決定を、翌26日になって自ら覆し「イベントの一斉自粛」を求めた。さらに27日にはあの「小中高の一斉休校」を突如発表する。この流れは海峡両岸論第112号[注1]に詳述した。突如、厳格な方針に転換したのは、「五輪を予定通り実施する」ためであった。

◆ 延期に舵切る

 3月に入るとイタリア、スペインそして米国で感染が爆発した。世界保健機関(WHO)は11日パンデミック宣言を出し、米ダウ工業株は12日、過去最大の下げ幅を記録する。大恐慌の足音が聞こえ始めた。さすがのトランプですら東京五輪について「観客なしの開催は想像できない。1年間延期すべき」(12日)と言いきる。これを受け、安倍も「中止」に追い込まれないよう「次善の策」として延期へと舵を切るのである。
 安倍が16日の主要7カ国(G7)の首脳テレビ会議終了後、記者団に「東京オリンピック・パラリンピックを完全な形で実現するということについて、G7の支持を得た」と語ったのは「完全な形」で実現できなければ、延期に応じるとのヒントだった。
 そして24日、バッハIOC会長との電話会談で「1年程度延期することで合意」した。電話会談後に記者のぶら下がり会見で安倍は「中止はないということについて、バッハ会長と確認いたしました」[注2]と、ほっとした表情を見せた。(写真)分かりやすい人だ。感情がすぐ顔に出る。

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  延期を発表する安倍首相〜首相官邸HPより

◆ 予定通りの開催という「空気」
 この電話会談には疑問がある。延期を提案したのがなぜ安倍なのか。電話会談には、五輪主催者の小池百合子・東京都知事も森喜朗・大会組織委員会会長も出席したが、二人は添え物に過ぎない。主役は直接当事者とは言えない安倍だった。
 その理由について、スポーツ社会学が専門の坂上康博・一橋大教授は、五輪が開催都市の利益になるという神話が崩れ、IOCが開催を後押ししてもらうため各国の政治リーダーに「こびを売るようになった」と指摘する。そして「安倍首相が決断したという形をとり、花を持たせるかのようでした」(朝日 3月28日朝刊)と読み込む。森は電話会談の直前の安倍との会談で、「一年延期」を主張したという(「朝日」4月1日朝刊)。

 もう一つの疑問は、安倍が「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証しとして、完全な形で東京五輪・パラリンピックを開催する」と記者会見で発した言葉。スピーチライターの原稿だと思うが、安倍はいつも内容の薄さを歯が浮くような「大言」と「美辞」で飾る。
 ライターの武田砂鉄氏は安倍発言について「主語は何と『人類』。話が大きすぎるのに具体策はない。ウイルス対策も東京五輪も、「気持ち」で実現させようとしている」(「朝日」同上)と看破する。
 武田の言う「気持ち」は「空気」に置き替えてもいい。IOC理事の山口香が延期を主張(3月20日)すると、山下泰裕会長が「みんなで力を尽くしていこうというときに、そういう発言をするのは極めて残念」と批判した。これについて武田は「予定通り開催すべき理由を説明するのではなく、持ち出されたのは『みんなの気持ち』でした」と評する。武田は「延期より『中止』のほうが経済的損失はすくないのではないか」「『復興五輪』ならこのタイミングで中止してその分のお金を復興に回す」と提言する。賛成だ。

政権・メディア・国民の三位一体
 五輪実施では、メディアの加担も目立つ。感染拡大の防止と経済対策が最大の課題になったG20テレビ首脳会談(3月26日)。経済的な打撃に対処するために「5兆ドル(約550兆円)超の投入」で合意したのだが、ここでも安倍は、もはや多くの加盟国には全く関心外の東京五輪の延期開催を持ち出した。
 この首脳会談を報じる日本経済新聞の記事は「安倍晋三首相は今夏に予定していた東京五輪・パラリンピックを1年程度延期すると説明した上で『完全な形で実施する』と決意を表明した」と書き、「声明にも五輪の延期を歓迎すると盛り込んだ」と、安倍主張が受け入れられた「成果」を強調するのだ。他の全国紙も似たり寄ったり。欧米の主要紙には「五輪」などもはや一言も登場しない。30日の米紙USAトゥデー(電子版)は、東京五輪の新たな大会日程が発表されたことについて「無神経の極みだ」とIOCを批判する始末。

 政治リーダーの主張を大メディアが無批判に支え、結果的にそれが「主流民意」を形成するプロセスは、2019年の「改元狂騒曲」から顕著になった。この時、著者は次のように書いたことがある。
 「指揮者は『一丸となって』が大好きな安倍。彼が振るタクトにメディアが合奏し、多くの人々が踊りまくった。 政権・メディア・国民の三者が、うまくシンクロナイズしたのである。〜中略〜自信喪失状態にあるはずの日本人が、その裏返しとして『日本人としての誇り』や『一体感』を“共有”できる絶好の機会を得た、ということなのだろう。だとすれば、こんな安上がりな『ナショナリズム』製造装置は、ほかに見当たらない」[注3]。 五輪あるべしの 「空気」は、政権・メディア・国民の「三位一体」が作った。

◆ 「事実究明しない」日本的特殊性

 安倍が、改元狂騒曲の先に見ていたのが東京五輪の開催だった。パンデミック対策と恐慌対策は、東京五輪の犠牲にされた、と言っていい。この「理に叶わない」政策決定の責任は、果たして安倍一人が背負うべきものだろうか。むしろ、決定した政策を無批判に受け入れるわれわれの伝統的意識にも問題が潜んではいないか。冒頭で「国民国家を形成する伝統・文化の特殊性こそがガバナンスの性格を決定する」と書いた。日本のガバナンスの性格を決定する「伝統・文化」とはどのようなものだろう。

 英「エコノミスト」のデイビッド・マクニール東京特派員は、そんな「日本的特殊性」を次のように解析した。彼は、森友学園の国有地売却問題に絡み自殺した近畿財務局の官僚が残した遺書に関連し「『忖度』という言葉に代表されるように、日本語には、言葉によらないコミュニケーションが存在します。同時に社会の摩擦を和らげるため、事実を明らかにしないという手法を取るのも日本人の特徴です。そうした日本社会の恩恵を最大限に受けているのが安倍首相です」(「週刊文春」4月2日号)。
 「言葉によらないコミュニケーション」と「摩擦を和らげるために事実を究明しない手法」。天皇制から永田町政治、会社や組織という中間共同体、さらには家族に至るまで二つの「日本的特徴」が意思決定過程に影響を及ぼしているのは認めざるを得ない。組織にいれば誰も、この特殊性によって作り出された「空気」こそが同調圧力として機能し、明快な論理や説明抜きに組織の意思が決められることを経験しているはずだ。

◆ 制度より重要な文化・伝統意識

 多くの西側諸国は「代表民主制」を採用している。しかし「言葉によらないコミュニケーション」「摩擦を和らげるために事実を究明しない手法」が、集団的な社会意識として機能する社会と、「知、情、意」を尽くして「理」を求めることが、政策決定プロセスに決定的な役割を果たす社会とでは、同じ民主国家でも雲泥の差がある。
 前者の場合、「民主的手続き」とは名ばかり。これほど為政者にとって統治しやすい国民もない。国民の自律性が日本より格段に高い中国から見れば、強圧姿勢をとらなくても「摩擦を和らげるため」決定に従う日本人は、羨ましい限りであろう。「民主」という統治システムに普遍性があるとしても、その内容を決定するのは文化と伝統という特殊性によって規定された国民的意識であることがわかる。隣国を「独裁国だから」などとしたり顔に言う資格はない。

◆ 「知、情、意」から「理」説くメルケル演説
 官僚が作ったプロンプター原稿を読む安倍演説とは、対極にある演説を紹介したい。メルケル・ドイツ首相が3月18日、個人の行動を大幅に制限するウイルス対策を打ち出すにあたってのTV演説[注4]である。日本語翻訳はドイツ在住の翻訳家、林美佳子さんのブログを無断引用した。素晴らしい翻訳を是非お読みただきたい。
 メルケル演説は「知、情、意」のバランスがよくとれ、個人行動を制限する「理」を説く。言葉に力があることを改めて教えてくれる。説明抜きで突然「小中高の一斉休校」を発表し、子育て家庭をパニックに陥れた国とは大違いだ。
 演説の一部を紹介する。

 「何百万人という方々が出勤できず、子どもたちは学校あるいはまた保育所に行けず、劇場や映画館やお店は閉まっています。そして何よりも困難なことはおそらく、いつもなら当たり前の触れ合いがなくなっているということでしょう。もちろんこのような状況で私たちはみな、これからどうなるのか疑問や心配事でいっぱいです」
 「開かれた民主主義に必要なことは、私たちが政治的決断を透明にし、説明すること、私たちの行動の根拠をできる限り示して、それを伝達することで、理解を得られるようにすることです」

 困難な生活を強いられる市民の目線で、政治決断に至った過程を説明する。そして、「買いだめ」などのパニックを想定しながらこう続ける。

 「皆様は、食料品供給が常時確保されること、たとえ1日棚が空になったとしても補充されること信じて安心してください。スーパーに行くすべての方にお伝えしたいのですが、備蓄は意味があります」「日々スーパーのレジに座っている方、商品棚を補充している方は、現在ある中でも最も困難な仕事のひとつを担っています。同胞のために尽力し、言葉通りの意味でお店の営業を維持してくださりありがとうございます」

 「美辞」も「大言」もない。だが細かな心配りは「情」に満ち、政治的な立場を越えて人々の「腑に落ちる」説得力を持っている。
 この演説の後、スーパーに1人で買い物に出かけワインとトイレットペーパーが入ったカートを引く彼女の姿を撮った写真がSNSで拡散したことも付け加えよう。

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◆ 「社会的合意」の有無の自覚を

 もう一点だけ引用したい。

 「旅行および移動の自由が苦労して勝ち取った権利であるという私のようなものにとっては、このような制限は絶対的に必要な場合のみ正当化されるものです。そうしたことは民主主義社会において決して軽々しく、一時的であっても決められるべきではありません。しかし、それは今、命を救うために不可欠なのです」

 どうだろう。メルケルが東独出身者として「自由な移動ができなかった」自身の体験を踏まえて、厳しい制限を強いるのは「命を救うために不可欠」と丁寧に説明する。「知」に基づく明快な「意思」。
 下手な説明はこれぐらいにする。

 ドイツ在住経験のある旧知のジャーナリストは「いつもはメルケルに対してもとても批判的な友人が、『この演説はタイミングも内容もとてもよかったと思う』と言っていました」と述べ、その理由として「彼女は、とにかくおおげさなことがきらい。人前でかっこうつけるのもきらいだし下手。淡々と、でも明確な意思と内容で、市民の上からではなく、市民とともにある目線だったので、好感が持てたのだと思う」と解説してくれた。
 そして日本とドイツとの大きな違いについて、「国の政策がゆきすぎた人権無視になってはならないという社会的同意がある。さらに権力の暴走を厳しくチェックするメディアがあり、情報の透明性や市民参加の原則を守ろうという意志は政治家(もちろん全員ではないけど)たちの中にもあり、市民社会の中にもそうした意識が深く根付いている」

 日本には、政治決定に対する「社会的合意」はあるだろうか。本当に「チェックアンドバランス」機能は働いているだろうか。「メルケルに見習え」と言っているのではない。同じ民主制度といっても、これほどの違いがあることを自覚する必要があるだろう。

◆ 「好事魔多し」

 伝統と文化に支えられた社会意識をすぐに変えろといったって、それは無理筋というものだ。ただ、何が何でも五輪を優先して、丁寧な説明もせずに多くの人を「一斉休校パニック」に陥らせた責任は問うべきだ。安倍が五輪の一年延期を決めた時、それを「政治的遺産」の花道として退陣するのかと考えたが、浅はかだったようだ。
 彼には「9条改憲」の果たせぬ「夢」がある。2021年の延期五輪が予定通り実施されれば、終了後の9月には自民党総裁の任期が迫る。党内の空気を読みつつ場合によっては「4選」も視野に入れているのかもしれない。「独り勝ち」を地で行く趣があるが、そこに突然強力なライバルが出現した。小池百合子・都知事である。「好事魔多し」かもしれない。

 小池には、人々を動員する抜群のアジテーター能力があると思う。彼女は3月25日夜の緊急記者会見で「週末の外出を控えるよう」要請した際、フリップ(写真)を掲げた。それには緑色の地に白抜きで「感染爆発 重大局面」と8文字が目立つように印字されている。この8文字ほど、忍び寄るコロナウイルスに漠たる不安を感じていた多くの市民の危機感を煽ったメッセージはなかったのではないか。漢字の持つ迫力、危機を利用し指導力を見せつけようとするアピールの力だ。

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  記者会見の YouTube から

 当日夜、東京はもちろん首都圏のスーパーに多くの人が行列を作り、食料品を中心に買い占めが始まり、棚から品が消えた店もあった。8文字メッセージは、「小中高一斉休校」がもたらしたパニックを超える破壊力があった。

◆ 「小池劇場」の始まり

 自民党都連は、五輪の1年延期が決まったその日に、7月5日投開票の知事選での独自候補見送りを決定した。二階自民党幹事長のバックは大きい。小池圧勝は確実になった。「希望の党」でミスり、蟄居してきた小池の目の色が俄然変わり、目の奥からメラメラと炎が燃え上がる。権力の生臭いにおいを敏感にかぎとり、居ても立ってもいられない— 典型的な「権力亡者」。

 小池は26日夜に安倍を訪ね、成立した特別措置法に基づく対応を検討し、速やかに情報提供を行うよう要望した。会談に先立ち小池が要望書を提出する様子をみると、小池はすっかり安倍の株を奪ってしまった。3月31日の安倍・小池会談では、緊急事態宣言を出しあぐねる安倍に「早く決めなさいよ」といわんばかりの迫力をみせた。もはやどちらが首相か分からない、そんな光景だった。
 仮に来年五輪が中止に追い込まれれば、安倍の引責退陣は必至。一方の小池は、五輪には最初からかかわっていないから責任は問われない。「小池劇場」の始まりである。ポスト安倍の自民党に手を突っ込み、日本のトップを目指す工作が始まる。小池は怖い。強権的な政府を作り、国民から喝さいを浴びる術をよく知っているからだ。

 「モリ・カケ疑惑」で見えた「私利私欲」の安倍政治とは異なり、国家権力を最大限に発揮する本格的なファッショ政権が登場するかもしれない。「安倍ちゃん? かわいい時代でした」となりかねない。強権政府を待望する時代に注意しなければならないのは「指導者待望論」である。「ジャパン・ファースト」の旗が振られ、東アジア政治と日中関係にも大変化が訪れる。延期された習近平訪日は振り出しに戻り、日中関係も仕切り直しだ。

 ポスト・パンデミックの時代、恐らく中国だけが「国際主義・国際協調」の旗を振り、新時代の秩序再編の指導権を握ろうとするだろう。もはや「中国脅威」「中国崩壊」などと甘いことを言っている場合ではない。強権国家同士がぶつかり合う火花をどうさばくか。世界は経験したことがない時代に入る。

[注1]海峡両岸論
  http://21ccs.jp/ryougan_okada/ryougan_114.html
[注2]首相官邸HP
  https://www.kantei.go.jp/jp/98_abe/actions/202003/24bura.html
[注3]「imidas オピニオン」自信喪失が生み出す現状肯定意識
  https://imidas.jp/jijikaitai/C-40-127-19-06-G771
[注4]Mikako Hayashi-Husel 3月19日
  https://www.mikako-deutschservice.com/blog

 (共同通信客員論説委員)

※この記事は著者の許諾を得て「海峡両岸論」113号(2020/4/3発行)から転載したものですが文責は『オルタ広場』編集部にあります。

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