【アフリカ大湖地域について考える】

(7)アフリカの長州

大賀 敏子

 ◆ カッパーベルトとビクトリア・フォールズの国

 2021年6月17日、ザンビアの元大統領ケネス・カウンダ氏が、97歳で首都ルサカの病院で亡くなった。入院は亡くなるほんの数日前のことだそうだから、高齢になっても頑強な人だったのだろう。1964年、イギリス管理下にあった北ローデシアの独立を指導し、1991年までの27年間、ザンビア大統領だった。1924年生まれで、父と母は二アサランド(現・マラウィ)出身の、それぞれ牧師、教師だった。

 ザンビアは南部アフリカの内陸国で、752.61千平方キロメートルの国土に1,800万人が暮らす。北にコンゴ民主共和国(DRC)とタンザニア、南にボツワナ、モザンビーク、ナミビア、ジンバブエ、東にマラウィ、西にアンゴラとそれぞれ国境を接する(地図参照)。世界有数の銅の産地で、カッパーベルトはDRC南部とザンビア北部をまたがる。ジンバブエとの国境にあるビクトリア・フォールズは、幅約2,000メートル、落差108メートルの大瀑布で、ナイアガラ、イグアスに匹敵する絶景だ。1855年、イギリス人宣教師デービッド・リビングストンがこれを「発見した」とされ、当時のイギリス女王にちなんで命名された。

画像の説明
  ザンビア共和国~外務省ホームページより

 第二次世界大戦中の連合軍には、100万人のアフリカ人兵士がいた。日本と関係ある史実としては、インパール作戦をくじいたイギリス軍の兵士の多くは、イギリス領東・南アフリカ出身だったとのことだ。イギリス人兵士と同じように武器をとり、戦い、多くの戦友を見送った経験は、アフリカ人たちを「白人も自分たちも同じ人間ではないか」と覚醒させ、それが健全な権利意識を育み、のちの独立運動へつながったと言われる。

 ◆ アフリカの誇り

 カウンダ氏の訃報を受け各国が弔辞を発した。亡くなった人を悪く言う必要はない。ほめたたえる美辞麗句が並んだ。そのうち目を引いたのは、南アフリカのアフリカ民族会議(ANC)の声明だ。ANCはノーベル平和賞受賞者で、あの有名な故ネルソン・マンデラ元大統領の母体であり、同国の現与党である。

 「南部アフリカ解放の歴史は、ザンビアとその指導者であったカウンダ氏が果たした中心的な役割なしでは、けっして語れない」「カウンダ氏は、クワメ・エンクルマ(ガーナ)、ジュリアス・ニエレレ(タンザニア)、ネルソン・マンデラらと並ぶアフリカの誇りだ」ANCは故人に称賛を惜しまない。

 「アフリカの年」と言われる1960年とこれに前後する数年間に、相当数のアフリカの国がそれぞれ宗主国からの独立を果たした。たとえばガーナ、DRC、ケニアは、それぞれ1957年、60年、63年に独立した。これに対し南部諸国の独立は、アンゴラとモザンビークが1975年、ジンバブエ(旧・ローデシア)が1980年、ナミビアが1990年と、やや時間がかかった。白人政権の支配が長引いたからだ。そこでは人種差別が制度として堂々と運営されていて、反対する者は投獄された。
 一足先に独立を達成したザンビアは周りの国を助けた。ANCをはじめ、本国で非合法化された解放勢力のリーダーたちをかくまい、和平交渉を仲介し、必要に応じて武器を援助した。

 ◆ タンザム鉄道

 ザンビアは内陸国だ。白人政権の国々を通らずに、銅を輸出するルートを緊急に確保する必要があった。このとき建設されたのが、タンザニアのダルエスサラームとザンビアのカプリムポシをつなぐ、タンザム鉄道だ。1976年の開通まで、1,859キロメートルの難工事を支援したのは中国だ。60~70年代、中国もけっして豊かではなかったが、中国のアフリカ支援は最近始まったものではない。
 こうしてカウンダ氏は「南部アフリカの国々はいまだに植民者のくびきにつながれている。彼らが解放されないかぎり、ザンビアの自由はない」と確信し、植民地主義とアパルトヘイトに立ち向かった。
 その心意気とルサカの熱気は、幕末の志士たちが集まった長州もかくやと思わせる。

 ◆ 国民を貧乏にした大統領

 残念なことに熱気だけではお腹は膨れない。国家経済は低迷した。
 60年代、ザンビアは、サブサハラ(サハラ砂漠より南の地域)で一人当たり所得がもっとも高い国だった。銅のおかげだ。しかし、銅に過度に依存(カウンダ時代を通じて、総輸出額に占める銅の割合はおおむね90パーセント)した産業構造は、銅国際価格の低迷にぜい弱で、人口増加も相まって、独立から90年まで通算の一人当たり経済成長率はマイナス1.9パーセントだ。

 オイルショック、世界経済の低迷、累積債務などのため、アフリカの80年代は「失われた10年」と言われるが、ザンビアはなかでも深刻だった。HIV/エイズ感染の広がりも、発展の足を引っ張った。こうして数字を見るかぎり、カウンダ氏は国を貧しくしてしまった。
 一般に、長期政権は独裁政権になりやすい。カウンダ氏の在任27年は短くない。80年代には腐敗とスキャンダルにまみれ、都合の悪い者には残酷だったという記録もある。食料価格の高騰を受け、ついに1990年には首都で暴動が起きた。1991年、複数政党制が導入され、その初めての選挙で同氏は落選した。

 ◆ 外敵にたちむかう

 冷戦時代の内戦の多くは、両大国がそれぞれに武器を送って、後押しした東西代理戦争だった。ルワンダのジェノサイドの陰には、エスニック意識と仲たがいを巧妙に仕組んで分割統治するという、植民者の政治的操作があった。DRCではいまも100以上の武装勢力が密林のなかでいがみあい、一般市民に乱暴をはたらいているが、それぞれの勢力が外国からの支援を受けていると言われる。モザンビークのテロ・グループは、貧しい若者、少数エスニック・グループをあえて選別してリクルートし、ジハーディストへと訓練する。これまで「アフリカ大湖地域について考える」このシリーズを通して、微力ながら述べてきた(『オルタ広場』第33~38号)ように、流血の紛争にはいつも外的要因がある。

 ならばどうすればいいのか。有効な対策のひとつは、団結することだ。内部分裂の兆しをほんのちょっとでも見せたら、たちどころに、もっと強力な、外からの勢力に翻弄されるからだ。カウンダ氏は、おおきな犠牲を払って、文字どおりこれを実行した。
 これを書くいまこの瞬間も紛争は続いている。このようななか、今日にもそのまま当てはめられる、普遍的な教訓ではないだろうか。

 ◆ 生き証人が消えていく

 アフリカ連合は、毎年5月25日を「アフリカ・デー」として祝う。その前身であるアフリカ統一機構が、1963年のこの日に生まれたことを記念するものだ。
 今年5月の式典でアフリカ連合は、カウンダ氏のことを特筆し「アフリカ統一機構の誕生に立ちあった指導者のうち、生存している唯一の人物(ザンビアのムワンバAU大使談)」とその功績をたたえた。この式典から一ヶ月もせずにカウンダ氏が亡くなった。ということは、20世紀のアフリカ史の指導者は、もう誰もいないのだ。

 これらの指導者のなかには、当初の支持を失い、クーデターや革命で失脚した者も少なくない。カウンダ氏のことも、「畳の上で死んだ」だけラッキーという見方もあるくらいだから、過度に美化すべきではないかもしれない。ザンビア人の目で見た相場観を何人かに尋ねてみたが、みな若くて、カウンダ時代のことはまた聞き以上のことは知らないと言っていた。亡くなった人のことも、古い時代のことも、記憶から少しずつ消えていく。

 経験ある生き証人たちがどんどん姿を消している。聞くべきことをきちんと聞きおいているのだろうか。学ぶことをきちんと学び取っているだろうか。少なからず焦りを覚える。

 (ナイロビ在住・元国連職員)

<参考文献>
・ANC Statement on the Passing of Former Zambian President Kenneth Kaunda, 17 June 2021
・The New York Times “Kenneth Kaunda, Patriarch of African Independence, Is Dead at 97” 17 June 2021
・BBC “Kenneth Kaunda: Zambia’s independence hero”, 17 June 2021
・Daily Nation Zambia “Farewell Dr. Kenneth David Buchizya Kaunda”, 18 June 2021
・U.S. Department of State Background Notes: Zambia, September 1997
・Lusaka Times “Why the Truth about KK’s 27 Year Brutal Reign is Critical to His Greatness”, 26 June 2021
・Lusaka Times “Remembering Kenneth Kaunda”, 22 June 2021
・Daily Nation Zambia “AU Honours Kenneth Kaunda”, 26 May 2021

                          (2021.07.20)
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