■落穂拾記(13) 羽原 清雅
鴎外 通俗ばなし <上>
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今年は森鴎外生誕150年。各種のイベントが各地で開かれている。
たまたま、筆者の母方の17世紀以降の墓が津和野にあり、さきごろ『「津和
野」を生きる―四〇〇年の歴史と人びと』(文藝春秋企画部刊)を書いたことも
あって、森鴎外研究には門外漢の筆者も少しだけ参加してみたい気持ちがある。
ただ、正面からの研究などは出来ないので、『通俗』といった下世話な話を書い
てみたい。
≪鴎外は津和野の土を踏んでいたか≫
森鴎外は10歳で上京、以来没するまで1度も帰郷したことはなかった・・・
という定説を覆す地元津和野での有力な証言が、かつて新聞記事に掲載されてい
る。だが、その真偽は研究者の間で今も追及されていない。この定説どおりであ
るのか、あるいは黙殺されたこの証言が正しいのか、どなたか説得力ある実証を
していただければと思い、生誕150年を機に古い話ながらあえて一筆した。
:小倉勤務の鴎外
1862(文久2)年生まれの鴎外森林太郎は、10歳になった1872(明
治5)年6月26日上京する。余談だが、9歳の夏ころの鴎外にドイツ語文典の
手ほどきをしたのは、蘭医の室研(むろ・きわめ、良悦)で、これは筆者の曽祖
父である。くわしくは筆者の前述の著作で触れている。
鴎外が第12師団軍医部長として小倉に着任したのは1899(明治32)年
6月19日。帰郷するのは1902(同35)年3月28日なので、2年10ヵ
月の小倉生活だった。
その間に、津和野にお忍びで帰郷していた、というもので、その証言者は元津
和野町長財間淳氏(当時70歳)、地元でも人望を集めた人物が若いころに目撃
したという内容である。
:信頼できる証言記事
その報道は1954(昭和29)年7月13日の毎日新聞の島根版に掲載され
た。
「鴎外は故郷の土を踏んでいた」「定説覆す新たな話題」「財間氏、少年時代
の記憶を発表」というトップ記事である。肝心の一部を引用しよう。
「(この年の7月)12日、詩人佐藤春夫氏夫妻、鴎外の子息森於菟博士を迎え
て行われた鴎外忌(33回忌)に際し、(財間淳)氏の少年時代の思い出話によ
ると鴎外は明治32年秋小倉師団の軍医部長時代に漂然と28年ぶりの郷土訪問
を行い、幼な友だちである財間善一郎氏(淳氏の養父)をひさびさに訪ねている。
善一郎氏は鴎外より10才年上で当時16才の少年だった淳氏の記憶にはっき
り残っていることは、鴎外は黒の背広の服を着ていたこと、時めく軍医部長に出
世した幼な友だちを郷里を出てから初めて迎えた善一郎氏は鴎外と同家屋敷の庭
園に面した縁側に腰をかけ四方山話を交した。
その時、たまたま風邪を引いていた善一郎氏は医学博士になった鴎外から脈を
とってもらいたさに診察を求めたが、鴎外は同じ博士でも特別な研究で学位をも
らったので、診るほうは不得手だと松尾君(津和野在住の医師で松尾熊太郎氏、
いまは故人)に診てもらった方がよかろうと、断ったという。
帰郷の目的は墓参だったらしく、汽車もなかった当時とはいえ、郷里に近い小
倉に32年6月赴任した鴎外の郷土訪問は忙しい軍務の余暇をさき微行の形で行
われたのではないかと見られる。
しかし以上の事実は今日まで鴎外が出郷以来一度も郷里を訪れなかったという
ことが鴎外研究家の間に定説になっており、郷里でもすでにそう信じられている
ので、財間氏は強いてこの定説の反論を発表する必要もなく今日まで沈黙を守っ
ていたもの。
財間淳氏談 私の記憶は絶対に間違いない。一番いいことは物的裏付であるが
父の日記手紙類が蔵に保存されているのでこれを整理すれば鴎外の手紙などとと
もに裏付になる資料が発見されるかも知れない。」
以上である。筆者の40年間の記者経験からみても、取材内容はしっかりして
いる。そこで、信憑性を思わせる点をいくつか挙げてみたい。
1>明治32年秋
鴎外の小倉日記の8、9月はほぼ連日書かれているが、10月になると6、7
日(金・土)、20、21日(金・土)、23-26日(月・火・水・木)、
11月は16、17日(木・金)、22-24日(水・木・金)は記述されてい
ない。その前後に、体調不良や病気などの記載はない。
2>交通事情
東京-三田尻(防府)間の鉄道は鴎外の赴任前の1898(明治31)年3月
に開通していたので、三田尻から人力車(腕車)に乗れば12時間ほどで津和野
入りできる。東京の帰途はどうか。小倉から行くとすれば、小倉から馬関(下関・
赤間関)に出て海路三田尻か徳山で下船、そこから人力車または馬車に乗るかす
ることになる。馬関-三田尻間の汽車の開通は1901(明治34)年5月なの
で、このほうは間にあわない。
お忍び、の旅行とはいっても、名だたる軍医部長なので、普及し始めた軍用の
車は使えただろう。とすれば、行動は容易である。
3>津和野への「動機」
自ら「石見人」といい、また東京での津和野人との親交ぶりからすると、強い
望郷の念があったことは否定できない。また、もっと緊迫した事情も伺われる。
ひとつは、次弟篤次郎からの手紙(8月27日)で、鴎外の漢籍の師米原綱善
が借金の保証人になって大審院で敗訴しそうだ、と知ったこと。第2に、もう1
人の弟潤三郎が、米原の娘静(思都子)と結婚する段取りになっていた。弟思い
の鴎外が、窮地に立つ恩師とその娘とのかかわりに、津和野に行きたかったこと
は間違いあるまい。
4>財間淳氏の人物像
彼(1884~1967)は浜田市に生まれ、酒造業の財間家に養子入りし、
のちにトミエさんと結婚、戦前戦後を通じて2回町長に選ばれている。島根県議
を兼ね、鹿足郡町村会長、同郡畜産組合長、同郡青少年団長を務め、「郷土館」
を設けて文化財保護にも尽くすなど、人望あっての役職である。
当時16歳であった財間氏の証言は細やかで臨場感が示されている。まずは信
頼できる人物の発言といえよう。16歳といえば、思い違いをする年齢ではない
し、つくりごとを公言するような立場の人ではなく、その程度なら、名家の跡継
ぎにはされなかっただろう。
5>その他の事情
津和野町にはかつて、優れた郷土史家沖本常吉氏がいた。文藝春秋、東京日日
新聞(いまの毎日新聞)の記者をしたあと、津和野に戻った人。津和野に常駐し
ていない後輩記者が、沖本先輩を訪ねて財間発言を信じていいかと尋ねたり、沖
本氏が財間氏から聞いた話を後輩に伝えたりしても新聞記者の世界では普通でも
ある。その沖本氏は久々に佐藤春夫と会い、旧交を暖めたとの記事もあるので、
接点があってもおかしくはあるまい。
それなら、なぜずっと沈黙を守っていたのか。筆者の想像だが、津和野の町や
鴎外研究者の間では、鴎外は一度も帰郷しなかったとの定説が信じられており、
日頃はあえて覆すこともあるまいと思っていたが、33回忌を迎えて真相を述べ
ておこう、と決断したのではなかったか。
さらに、何年か前に、筆者が墓参で津和野入りした際に、これも信頼できる津
和野人から「かつて、鴎外が突然戻ってきて、馬車に乗せたと聞いたことがある」
と耳にしている。その後、新聞記事に出ていた、との話を漏れ聞いて、何年も探
し続けた結果、この毎日新聞島根版にたどりついたのだ。
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財間氏の発言の信頼性を軸に傍証を挙げたが、その真偽は五分五分と思ってい
る。だからこそ、どなたかの今後の研究で定説自体も疑いつつ、もういちど真相
に迫り直して欲しいと感じている。
※【この稿は「北九州森鴎外記念会だより」(第76号・2012年7月25日)か
ら転載したものです】
(筆者は元朝日新聞政治部長)
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