【コラム】神社の源流を訪ねて(43)

高御魂神社(たかみむすび)、神御魂神社(かみむすび)

栗原 猛

◆対馬に多い記紀神話と同名の神々

 対馬の神社を訪ねて驚いたのは、記紀神話で知られる神々が多いことだった。皇室の祖神では高御魂、神御魂、天照魂(あまてるみたま)、彦火火出見(ひこほほでみ)、側近では中臣氏の祖神、天児屋根(あめのこやね)、忌部氏の祖神、天太玉(あめのふとだま)がいる。
 出雲系では素戔嗚、大己貴(おおなむじ)、少彦名(すくなひこな)、海神系では大綿津見(おおわたつみ)、豊玉姫などを祭る和多都美系、住吉系、宗像系など、建国神話に登場する神々が、朝鮮半島に近い対馬に大勢そろっている。次に尋ねた壱岐も同じである。

 高御魂神社は、島の南西部の厳原町豆酘(つつ)の多久頭魂神社の境内にある。高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)とあるが高御魂神のことで、「むすひ」とは、生命を生成することとされる。皇室の神々を祀る「八神殿」には、高御魂神以下の八神が祀られ、アマテルの名はないことから、本来の祖神は高御魂だったとの見方がある。当初は豆酘中学校の校地にあったが1957(昭和32)年、学校建設用地の拡大のためにこの地に移される。

 日本書紀の顕宗天皇三年の条に、興味深い記事が載っている。「日神、人に著(かかり)て、阿閇臣事代(あべのおみことしろ)に謂て曰く。磐余の田を以て我が祖高皇産霊に献れ、便ち奏す。神の乞いの依(まま)に田十四町を献る。対馬の下県直祠に侍る」という記録である。この「日神」とは、対馬を訪れて最初に尋ねた阿麻氐留神のこととされ、阿閇臣事代が任那に使いした際、日神がある人に神懸って託宣した。それは高御魂神が天地を作った功績に対して「磐余(いわれ、奈良県桜井市・橿原市)」の田を以て、我が祖の高皇産霊に献れ」というもので、日神の要求通りに田十四町を献上し、対馬の下県直が祠として仕えたという。

 郷土史家の永留久恵氏は、「対馬に祭られていた高御魂が大和に移り、対馬の下県直が祠官として仕えたということは本来、高御魂と神御魂の神は、八百万神の上位に立つ神とされているが、対馬県直といわれた古代の為政者は、皇室と同じ祖神(天照魂と高皇産霊)を祭っていたことになる」という。

 一方 神御魂神社は、北部の上県町佐護の佐護川河口の森にある天神多久頭魂神社の敷地内にある。神御魂神社には木造のご神体があって、日輪を抱いていることから女神とされる。ここも豆酘と同じ天道信仰の地で、厳原町豆酘の高御魂神社は男神で、神御魂神社は女房神で男女対になっている。

 大和朝廷発足の地である磐余と対馬、それに壱岐にも似た名の神社が多いのはなぜだろうか。記紀には5世紀に対馬と壱岐の神社を奈良と京都に遷座させたとある。亀朴、占いなどは中国、朝鮮半島が進んでおり、国づくりをしている大和政権は、半島との交流の接点にある対馬や壱岐の亀朴や占いなどの先端技術に強い関心を持ったのだろう。
 したがってすべて移ったのではないとしても、神社に携わったり亀朴をする人、対馬や壱岐に伝わる古い海神系の神話などが一緒に中央に伝えられ、そして記紀神話に反映されたと思われる。

 『対州神社誌』によると、高御魂神社のご神体石は、「うつろ船」に載って海の向こうから漂着した霊石とされる。また記紀には天(あま)は、「海」(あま)とも書かれるケースがある。「カナグラサマ」と呼ばれる祭祀遺跡は、社のない古神道の祭祀で、「神座」とも「磐座」とも書かれ、祭神に流れ着いた甕を祭っているところが少なくない。高御魂、神御魂も海の向こうからの由来がうかがえる。

 (元共同通信編集委員)

(2022.6.20)
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