【オルタの視点】
韓国に対する最近の日本政府とメディアのバッシングは異常
― 私的な交流経験の回顧から見た日韓関係
◆◇ 私にとっての代表的韓国人、権重東との出逢い
10月下旬、ソウルに旧友の権重東さんを見舞った。彼は2年前に日本でのソーシャルアジアフォーラムから帰国した直後、金浦空港で脳梗塞のために倒れ、そのまま入院。最近になって自宅からリハビリに通えるようになったとのことで、今夏から2回の電話をもらった。昨年5月に彼をソウル市内の病院に見舞った時には、会話もままならなかったので、86歳の高齢者にしては驚くべき回復力だ。だが、仮住まいとはいえ、古びたアパートのワンルームに奥さんと住む彼の生活から、初代労働長官や国会議員を歴任した人の暮らしぶりとはとても思えなかった。アップダウンの激しかった、政治家というよりも社会労働運動家としての彼の人生の一端を垣間見て心が痛んだ。
権重東と初めて出会ったのは1965年12月、ニュージランドの首都ウエリントンで開催された国際郵便電信電話労連(PTTI)第2回アジア会議であった。私が全逓労組本部政治国際部で働き始めてから2年目。軍事政権下で結成された韓国逓信労組委員長として初めて国外に出た権さんはもちろん通訳を伴っていない。日本の朝鮮支配の終結を小学校6年生で迎えるまで日本語で教育を受けた権さんが、限られた日本語表現力で発言したのを私が通訳する羽目になった。
権さんが初めて日本に来たのは、その2年後の全逓労組全国大会(金沢)に来賓としてであった。ところが帰国直後から彼との連絡が取れなくなった。手を尽くして状況を探ると、反共法違反で逮捕され拘留中だという。その容疑が、全逓大会への出席だとのこと。全逓は総評の中では数少ない国際自由労連加盟組合で、「右寄り」の代表的な組合と国内では見られていただけに、そのロジックに唖然とした。つまり、「全逓は容共団体である総評に所属」というものだった。その当時、総評系の組合で韓国の組合と交流しているところは、全逓の他にはほとんどなかった。
権さんは韓国の高級官僚の多くと同じくソウル大学出身。だが、卒業後に入った逓信部(省)で持ち前の正義感から労働組合結成を主導し、その初代書記長を経て、委員長となった。しかし、この拘留と留置を理由に逓信省から解雇され、自分の組合に所属する資格も奪われた。その後、彼は苦しい浪人生活の雌伏を長く強いられた。しかし、韓国は軍事政権下にあっても必ずしも全体主義国家とはならなかったので、その市民社会には自由な空間が一定程度存在し続けた。議会や、組合など市民的団体が制約付きで許容されただけでなく、市民社会の中に脈々と流れる自主的な批判精神と行動があらゆる間隙をぬって随所に噴出していた。
この市民的自立的な社会構造は日本植民地時代にも潜在的に維持されていたし、軍事政権下でも根を張っていた。この点が、軍国主義下で全体主義的支配が貫徹した日本社会とはかなり異なっていた。全体主義の特質とは、公式な機構と公認組織の他に一切の政治的社会的な自立組織を許容せず、社会の単位としては家族と地域共同体を認めるだけであった。韓国だけでなく、インドネシアやタイ、チリやブラジルなど、多くの開発途上国における軍事政権は、ナチス・ドイツやソ連型の全体主義国家に比較すれば、上部の政治構造の支配は独裁で、顕在的な反体制派は徹底的に弾圧したが、社会を全体主義的に支配する組織的イデオロギー的な支配は貫徹できなかった。それらの国では独裁下であっても、絶えず下からの抵抗と改革の動きが有効に組織される余地があった。
盧泰愚大統領による民主化宣言が1986年6月に出され、それを契機に社会労働運動が燎原の火のごとく燃え広がった。しかし、民主化運動はそれ以前から活性化しており、外部からは御用組合視されていた韓国労働組合総同盟(FKTU)内部でも指導部が安定せず、下部での政府批判と民主化の胎動が続いていた。ポスト朴正煕の軍事政権下では、特にそのうねりが次第に高まり、表面化した。この流れの中で、穏健なリベラル派とみられていた権重東は、労働組合の職能代表として国会議員に選出され、その後労働部(省)創設と共に初代労働長官に就任した。だが、比較的短期間在任しただけで、彼は大統領によって突如解任された。その時、カトリック系の西江大学労使関係研究所の協力を得て開催されていた国際郵便電信電話労連主催労働講座のために、私はソウル訪問中だった。彼が労働長官としての最後となった夜、奇しくも私は彼に招待され、夕食を共にしながら談笑していた。
再び浪人となった権さんの希望は、国際的な視野から労働問題を文献の豊富な日本でしばらく研究してみたいとのことだった。帰国後、国際郵便電信電話労連に加盟する全逓、全電通、KDD労組の協力を得て、権さんを日本に1年間招待することにした。その頃は容易でなかった長期滞在ビザを取得するために、彼の個人保証人を日本労働協会会長だった隅谷三喜男東大教授・公労委公益委員(当時)にお願いした。先生は即座に快諾され、労働協会に特別研究員として机まで用意してくださった。私は隅谷先生の弟子でもないのに、名著『ヨーロッパ労働運動の悲劇』(岩波書店)の著者であるシュトルムタールの『工場委員会』(日本評論社)共訳者にして頂いたご縁で、先生の声咳に接する機会があり、ノブレス・オブリージュ(指導的地位にあるものの高貴な責任感)とはこのようなものかと感銘を受けていた。特に、先生はその戦争体験から中国人と朝鮮・韓国人のために常に尽力されていた。
権さんは当時の韓国には多くなかった知日・親日的知識人であった。その原点は、彼の故郷安東における小学校時代の体験にあった。朝鮮全土におけるすべての学校は、日本統治下では日本語のみによる教育を強制されていた。権さんの日本語力はこの6年間に養われた。彼はその間常にトップの成績を維持したが、彼のライバルは日本人校長の息子だった。彼が強く印象づけられたのは、その日本人校長が常に公平で、自分の息子を彼の上に恣意的に置こうとしなかったことだった。権さんはこの長期東京滞在中に、恩師の校長先生に再会しようと所在を懸命に探し、ついに仙台の住所を探し当てた。だが、先生はすでに他界されており、かつてのライバルだった息子さんに再会できただけだった。
1990年代初頭、韓国西江大学朴栄基教授(故人)、台湾文化大学陳継盛教授と私の3人が代表となって立ち上げたソーシャルアジアフォーラムにとっても、権さんは強力な後援者であった。このフォーラムには間もなく北京の労使関係学者仲間が加わった。東アジアの労働組合関係者と研究者を中心に、各地を持ち回りで開催されることになったこのフォーラムは、現在も毎年継続されている。
◆◇ 「安東自由大学」という実験から
2005年10月、ソーシャルアジアフォーラムが東京青山の公立教職員共済組合所有の小さなホテルで開催中に、毎日新聞朝刊人物欄に、日本人として初めて韓国地方公務員に採用された緒方恵子さんのプロフィールが紹介されていた。彼女を採用した安東市は、権重東の出身地なので、早速、出席中の彼にその記事を見せたところ、安東を一緒に訪問する話がすぐまとまった。同じ会議に出ていた小島正剛(国際金属労連前アジア代表)、中嶋滋(ILO理事)や山中正和(日中国際教育交流協会常務委理事)なども賛同、翌年正月明け、6名の仲間と共に、ソウルから高速バスで約4時間、慶尚北道安東市を訪問した。
この時、ソウルの私大教授となっていた梁世勲さんがコーディネーターとして同行してくださり、スムースな意思疎通に協力していただいた。梁さんとは彼が韓国大使館に在勤中、アメリカ大使館イマーマン労働担当官を通じて知り合った。私が姫路獨協大学に移ったと同時期、梁さんが神戸に総領事に赴任されたので親交を深めることになった。子どものころ父親に連れられ北朝鮮から朝鮮戦争中に韓国に避難してきた梁さんはカトリックのクリスチャンで、戦争孤児4人を養子として立派に育て上げた人であることを、その後家族ぐるみで付き合うようになって初めて知った。彼は神戸在勤時代、日本をたびたび留守にしては北京に飛び、密命を帯びて韓中国交樹立の根回しをしていたことも最近になって知った。
韓国オリンピック委員会国際局長としてソウルオリンピックの誘致、ノルウェイ大使として金大中大統領のノーベル平和賞受賞に奔走、内外で高い評価を得ていた著名な外交官である彼は、個人としてはまったく肩肘を張らない人柄で、私の友人多くに「ヤンさん」として親しまれている貴重な存在だ。梁さんは安東自由大学の開校と運営にアドバイザー役としてだけでなく、韓国では周知の「誇り高く、頑固な安東人」との意思疎通をスムースに図るためのコミュニケーターとして毎回安東に同行してくださり、お骨折りを頂いた。
この一行が安東バスセンターに到着すると、市役所差し回しのバスに出迎えられ、さっそくわれわれは市長室に案内された。当時の金煕東市長から温い歓迎を受け、われわれの提案した「安東自由大学」構想に即座に協力を表明された。話し合いの中で、金市長が「権重東先輩」を再三立てたのには理由があった。権さんは安東高校(旧安東中学)同窓会会長を四半世紀以上も務めており、市長をはじめ、同市役所役職員の3分の2が後輩にあたるという。
人口18万程度の安東は韓国随一の河川である洛東江の上流に位置している。市域の大半は山岳地帯だが、歴史的に韓国屈指の教育中心地として名高い。儒学の都といわれる安東で最も著名なのは李退渓で、その朱子学は徳川時代の日本の学者にも影響を及ぼした。政治的には「両班」(ヤンバン)の街として知られ、多くの中央政府高級官僚を輩出した。伊学準『両班』(中公新書)を読むと、安東の両班に半分近い紙数が割かれており、特に最も多くの両班を出した権氏族の歴史について詳述している。両班の悪弊を厳しく批判する、われらの権さんもこの一族の出身だ。
安東は秀吉による侵略(壬申倭乱)と朝鮮戦争の激戦地であり、旧市街の多くが失われたが、郊外にある歴史的な寺院や儒学私塾学舎がよく保存されている。その代表的なものが最近、ユネスコ世界遺産に指定された河回(ハフェ)村で、柳氏の村といわれる。秀吉が侵略した当時の政権の宰相であった柳成龍はこの村の出身。彼の当時の日誌『懲毖(しっぴ)録』は日本語訳で東洋文庫に収録されている。これはシーザーの『ガリア戦記』と並び、指導者による戦誌の最高峰に位置すると私は評価している。前者が勝者の傑出した記録であるのに対し、後者は敗者による透徹した観察である。柳成龍の評価を高めた一因は、海戦で秀吉軍を壊滅させ、護国の英雄となった名将李舜臣を無実の罪で服役中の監獄から解放し、海軍総司令に任命したことだ。
安東自由大学当時の安東市長金煕東は内務官僚であったが、視野が広く優れた指導力を発揮した人だ。安東の地理的歴史的な位置から見て安東を「歴史文化教育都市」として発展させることを目指し、国際仮面舞踊フェスティバルの開催、国学(儒学)研究院などの研究所と十指を越える各種博物館の誘致・建設、道庁の誘致などによって独特な街づくりに成果をあげた。農業と環境を重視して、工業化を目指さないという、韓国だけでなく世界的に見てもユニークな道を都市として選択した。洛東江を利用した水利ダムは韓国最大の水甕であると同時に観光名所にもなっている。名匠キム・キドク監督の映画『春夏秋冬そして春』はこのダムに浮かべた寺を舞台として撮影された。また、多くの時代劇の水上戦闘場面はこのダム湖に係留されている戦隻を利用して撮影されている。
金市長の強力な後援、崔ヨンソブ安東観光事務所長と市役所の緒方さんの献身的な助力、安東文化院と地元大学や農協などの協力により、「安東自由大学」を2007年より足掛け9年間に7回開催することができた。毎回日本から30人前後の参加者を得て、「すべての参加者が教師であり、学生」をモットーとして、「人間関係論としての儒学」、「東アジアにおける教育と社会」、「環境」、「地方自治体と住民参加」などをテーマに取り上げ、地元参加者と意見と経験の交流をおこなった。座学と意見交換に当てた2日間には、日韓同時通訳の第一人者であるチョウ・ヨンジュ梨花女子大教授のお力添えにより、彼女の高弟であるプロ通訳者たちのボラティア協力を幸いにも毎回得ることができ、言葉の壁を乗り越えた。安東の実験に参加した中国の友人たちが、これを3国に拡大して継続することを提案してくれたが、どうも「自由大学」構想は現下の中国思潮に馴染まないようで、残念ながら頓挫したままになっている。
安東自由大学準備中には、「竹島」や「従軍慰安婦」など日韓関係に横たわる微妙な問題や、歴史問題が提起されたときにどうするかなどを懸念する声もあったが、実際はこうした問題が対立的な論議になることはなかった。安東人は知的水準が高く、論争好きで、かつ自己主張が強いことで韓国内に知られている。実際に、韓国の友人から「なぜ安東で」と聞かれたことが何回もあった。「あんな物分かりの良くない人たちを相手にして」という言外の声が聞こえてきそうだった。島根県が竹島をめぐって論争を繰り広げている直接のカウンターパートは、竹島を管轄するとする慶尚北道であり、その道庁は現在安東に所在している。だが、われわれが友人として対話するときに、障害は全く感じなかった
イギリスの歴史家E・H・カーは、意見や論争の形は知識や知見よりも「動機と目的」によって決定されることを指摘している。個人や市民社会レベルで理解・和解の雰囲気が醸成するために、国家間の解決を助けるために非政府アクターのほうが効果的に対応できることもある。従軍慰安婦や徴用工問題は、国家間イシューというより人間的な被害の問題として和解的解決が図られるべきものだ。人間も国家も過ちを犯しやすい。その過ちを糊塗せず、非を認め謝罪することは恥ずべきことではない。善意だけで問題は必ずしも解決しないが、善意がなければ解決の糸口を見つけることが困難だ。安東自由大学では、日韓和解などの目的を正面から掲げることをしなかったために、友人としてお互いの個人的な経験と意見を自由に交換し、現代の共通課題への取り組みを率直に議論できた。
◆◇ 前政権が締結した国際条約や約束を反故にした国は少なくない
従軍慰安婦問題に関し、朴槿恵前政権が結んだ約束を文在寅現政権が順守しない(実際は、独立した司法機関である最高裁の決定が行われただけであるが)として、「日韓関係が根本から崩れた」として日本政府がヒステリックに批判している。また、マスコミもこれをそのまま大きく報道することで、結果的に韓国人と韓国政府に対する不信を煽っている。
これまでの韓国との賠償を取り扱った条約・協定類は経済協力を名目とした包括的なもので、植民地統治下や戦時中の個人の人権や経済被害の救済を主たる目的としたものではない。この点は、個人補償を主目的にしたドイツが行った戦後処理措置とは根本的に異なる。国家間の条約・協定によって個人に対する国際的人権侵害を救済する方法が他の国によってどのように実行され、どの程度の実効をあげてきたかが検証の対象にされているとは思えない。韓国の場合、問題となっている人権侵害や強制労働は当時の日本政府の直接的な統治下で行われたものであり、現在の韓国政府はその統治行為に直接的な責任を負っているものではない。その意味で、被害の救済は本質的に被害を受けた韓国人と日本国との直接的な関係という性格を持っている。今日の韓国政府との合意をもって、日本政府が当該韓国人に対する非違行為を免責されると主張することは、人権擁護が国境の枠を超えて国際社会の責任であることを明確にした、世界人権宣言と国連憲章に照らしてみて無理がある。
一般論としてみて、前政権がコミットした約束や国際条約を、交代した政権が無効・無視した前例は少なくない。革命によって改正変革があった時には、これは当然視されているが、それほどの劇的な変動ではなくとも、民主的な選挙による結果として与野党逆転による政権交代があった時でも、こうした変更や調整が生ずることは珍しくない。卑近な例では、トランプ政権によるTPP交渉打ち切りや環境保護のパリ協定からの離脱、前政権が約束した種々の国際公約の破棄などが挙げられる。トランプ政権による過去の国際的な条約・協定や約束の否定に対しては、それらを唯々諾々と容認しながら、目下を見下すように韓国政府に対して高圧的な批判を日本政府・与党が声高に繰り返すのは見苦しい。
「遠交近攻」的な日本の外交と国際関係を是正するためには、市民による重層的かつ多様な国際連帯と民間交流による基盤作りが不可欠だ。現代の国際関係は国家と外交によって担われる比重が低下しており、国会以外の非政府アクターの役割と影響力が増大している。アメリカの行政学者チャドウィック・アルジャーは『地域からの国際化』(日本評論社、1987)で、二つの三角形の関係を例示して現代の国際関係を上手に例示している。すなわち、二つの三角形の頂点のとがった部分の接点が国家間の伝統的な関係で、利害対立を鋭角的に示している。一方、三角形の底辺は市民社会を示す。この面は伝統的には国際関係と無縁であったが、利害が共通している。ところが、現代はこの広い底辺部分が直接に国家を越えて相互に繋がり、これがますます主要な国際関係を形成しつつあると分析している。
国内労働組合の国際関係を7年間担当した後、国際労働団体の専従として25年間活動してきた経験と知見から、私にはアルジャーの指摘が素直に首肯できた。国際関係論は元来軍事的安全保障目的から出発したものであり、国家が依然として最大最強の国際関係の主体であることから目を背けるわけに行かないが、現実の動きはそれを越えて国家の壁を破る方向に進んでいる。経済オンリーで先進国中心のグローバリズムの破綻は、グローバリズム自体の否定ではなく、国境を越えた市民的な国際関係と国際関係の社会的側面の重要性とその欠落を浮き彫りにしているとみるべきではなかろうか。
(姫路独協大学名誉教授、元国際郵便電信電話労連東京事務所長)
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