【コラム】大原雄の『流儀』

面(おもて)・首(かしら)・隈(くま)~続/マスク・考~

大原 雄

★ 専門家は、オリンピック開催に警鐘も

国会では、6・2、衆議院厚生労働委員会と6・3、参議院厚生労働委員会の席上、コロナ禍問題を専門とする政府の分科会の尾身茂会長が、「パンデミックの中で、オリンピック・パラリンピック開催は、普通はない」という趣旨の発言をして、オリンピック開催への警鐘を鳴らした、とマスメディア各社が報じたことは、既に周知のことだろう。感染症対策や公衆衛生の専門家集団を束ねる責任者としての矜持をベースにした発言で、内容も理性的、合理的、抑制的で、判りやすいものであったと思う。この発言については、政権の責任者やそのグループからは、感情的な反発も含めて、低レベルの発言もあった。さらに、自民党の中でも「賛否両論」の波が、広まっているので、ここでは詳細には触れなくても、自然に流れて行くのではないか。

ただし、たとえ政権の責任者が、権力を行使して、尾身会長らを今後は、「黙らせた」としても、オリンピックに対する国民の思いの多くは、既に尾身会長らの「判断」に寄り添っているだろうし、新型コロナウイルスの変異株、中でも強力なインド型ウイルスは、菅政権のいうことなど簡単には聞かないのではないか。ウイルスを黙らせ、立ち止まらせ、引き返させることなど、簡単にはできないだろう。日本以外の諸外国の中には、念仏のように「安全安心」と同じお経を読み上げるばかりで、具体的な対策を示せない菅政権の方針を危惧する動きを見せているところが出ているのは、事実である。

★「緊急事態宣言」拡大・延長

コロナ禍は、第四波襲来。4・25に、東京・大阪・兵庫・京都の4都府県に発出された緊急事態宣言は、予定(見込み)の5・11に終結できず、12日以降も延長され、さらに、新たに愛知、福岡の2県が加わった。さらに、16日以降は、北海道、岡山、広島も追加された。宣言期間は、9都道府県とも、5・31まで。

さらに動きが続く。5・22からは、沖縄が追加され(5・23から6・20まで緊急事態宣言発出)、この結果、緊急事態宣言は、合計で10都道府県になった。5・31の期限は、6・1以降6・20まで延長となったが、今後ともこの状態が続くのか。また、「まん延防止等重点措置」も、随時追加拡大されている。まさに、日本列島は、北から南まで、風雲急を告げており、今も、コロナ禍変異株ウイルス第四波襲来・蔓延中。

例えば、全国的な蔓延の指標となる東京の新しい感染者は、漸減傾向とはいえ、少なくても200人から500人というゾーンからは下がらず、高止まり状態が続いていることは、周知のことだろう。宣言解除後のリバウンドが心配され、オリンピック・パラリンピック期間中の人の流れが、リバウンドを一層加速し、第五波に繋がりかねないという専門家の警鐘も新たに聞こえてきたのが、6月の日本列島の状況ではないのか。

従って、それぞれ異なる事情もあり、解除の時期など専門家の精査が必要になることは必死だ。これまでの経緯を見てくると、政治家の判断は信用できない。特に、政権の主、菅義偉という政治家。菅首相は、自分の判断にとらわれずに、医療関係者など専門家の意見、判断に真摯に耳を傾けて政治家の責任を果たすべきであろう。ところが、日本の首相は、会見や「ぶら下がり」(マスメディアの業界用語)というメディアの記者対応の場で、そういうポーズを取っているだけではないのか。実のある発言は、この政治家からは、発せられたことがない。

「緊急事態宣言」を整理しておこう。
 4・25− 6・20:東京都、京都府、大阪府、兵庫県
    5・12— 6・20:愛知県、福岡県
     5・16— 6・20:北海道、岡山県、広島県
      5・23— 6・20:沖縄県

5・28。感染症の専門家らによる政府の「基本的対処方針分科会」(尾身茂会長)は、5・31で解除見込みだった9都道府県の「緊急事態宣言」を延長すべきだという方針を決めた(沖縄は、6・20まで)。これを受けて、菅首相は、「緊急事態宣言」を追加された沖縄県同様に、全てを6・20まで延長することを決めた。10都道府県は、6・20まで、緊急事態宣言下という状態が続くことになる(見込み)。

ところで、「緊急事態宣言」の「拡大」とか、「延長」とは?
どういう意味なのだろうか。「緊急事態宣言」は、行政側が打ち立てた、いくつかの指標(感染率や病床の利用率など、コロナ禍の医療的なデータから算出)を元に、コロナ禍の被災(今や、コロナ禍は足掛け3年も継続となる「災害」である)の度合いを判定し、ランク付けされた「ステージ4」などに区分けされる。

災害ゆえ、自衛隊という軍隊も出動し、東京、大阪という大都会の真ん中に野戦病院ならぬ大規模なワクチン接種施設が開設された。その後、自治体独自でも、大規模接種施設開設が相次いだ。それは、恰も、国民の間にワクチン接種を済ませる(あるいは、接種者を増やす)ことで、オリンピック・パラリンピック開催へ向けて、国民から通行手形が発行される、というような勘違いをベースにした「同床異夢」でも、てんでんばらばらに見ているという「錯覚」を悪用しようという菅政権の悪巧みの湯に思えてならない。

「拡大」は、空間的なもの。対象となるのは、全国の都道府県(各自治体)が、自分たちの行政範囲の政策を実施し、人の流れ、社会の企業活動などを規制し、コロナ禍による患者、特に重症患者や死亡者の対応(これらを総じて「緊急事態」と呼んでいる)を担当する。
「延長」とは、人の流れや社会の企業活動などの規制で、国民生活への影響が甚大であるとともに、経済的影響も甚大であることから、規制期間は、できるだけ、効率的、効果的、合理的にしたいわけだが、相手がウイルスだけに、人間の思うようには、措置ができないのが現状である。

「緊急事態宣言」は、政権の試行錯誤の上に飛行機ならば「ダッチロール」(飛行中の航空機の制御が不安定になり、横揺れをしながら、蛇行する現象)のような軌跡を描きながら、安倍政権・菅政権では、3回も試みられてきた。「延長」は、そういう国や自治体のコロナ禍対応の施策の期間を当初の見込みより長くすること。緊急事態対応の行政側の措置の一つであるが、これの効率を上げることが、なかなか難しいところである。

★ 専門家は、オリンピック強行のリバウンド警戒

NHKのニュースによると、
*「5月末までが期限となっている東京都の緊急事態宣言について、京都大学の西浦博教授は『今月(5月)末までに国が示す感染状況のステージ2相当に到達するのは到底難しいと考えている』と述べ、変異ウイルスの影響などもあわせて考えた場合、予定どおりの解除は厳しいのではないかという認識を示しました」、という。

NHKのニュース原稿は、このように話し言葉で書かれている。300字から350字分をアナウンサーが1分間に読む。それが、NHKスタイルである。さて以下も、引き続き、NHKニュースから引用を続ける。

*東京都の感染状況や繁華街の人の流れの分析などを続けている東京都の専門家は19日、記者団の取材に応じました。

*この中で、数理モデルを使った感染症の分析が専門の京都大学の西浦博教授は、今の都内の感染状況について「1日の感染の確認はちょっと減少している兆しが捉えられるが、その評価がとても難しく、ちょうど過渡期にある。本当に下がるのか、再度増加するのかは、もう少し見ないといけない」と述べました。

*そして「減少のペースはものすごくゆっくりだが、緊急事態宣言でこのレベルだ。今の措置で本当にいいのかどうか考えるうえで極めて重要な時期ではないか」と述べました。

*そのうえで「東京都では『まん延防止等重点措置』を早めに打つことができたので感染の急増は避けられているが、減少傾向に向かっているわけではない。より感染力が強いとされるインド株が、ほかの国や日本でもまん延すれば、これまでどおりの対策で感染を制御するのは厳しい」と述べました。

*そのうえで「緊急事態宣言が出ているのに、実効再生産数が1未満になるかどうか明確にわからないのは初めてなのでドキドキしている」と述べました。

*さらに、別の専門家の意見。
開幕までおよそ2か月となった東京オリンピック・パラリンピックについて、東北医科薬科大学の賀来満夫特任教授は、「どういう感染状況であれば(開催)できるのかを示すのは難しい。1日の感染確認が1,000人、2,000人になってくると、医療体制としてはとても難しい。対策をして開催自体はできたとしても、何かが起きたときのオペレーションは非常に大変だ」と述べました。

以上で、引用終わり。
このニュースは、緊急事態宣言の「解除」の仕方の難しさを伝えている。日本政府は、解除に2回失敗している。その経験を生かして、3回目こそ、失敗は許されない。
医療供給体制がギリギリ、パンパンの状況下で、東京オリンピック・パラリンピック開催を強行しても、開催期間中に想定外のことが起これば、パンクしてしまう、という懸念は誰だって、拭いきれないだろう。マスメディアが随時実施する世論調査の結果などを見れば、国民の多くは、そう思っている、と考えて間違いないということだろう。このような想定は、誰にとっても常識的だと思うが、そういう発想をしない人たちが、いま政権を担っているから、困るのだ。

さらに、NHKは、そういう状況の実像を視聴者にきちんと伝えているか。

閑話休題。NHKで報道局のニュースの取材記者とデスク活動を長年やってきた身には、ニュースの報道原稿を見ていると、原稿を耳だけで聴いても理解しやすい文体になっているかなど、チェックしたくなるが、ここは、「老婆心」(これは、女性差別にならないか。ならば「老爺心」か? だが、この言葉は、実際には使われないので、社会的に通用しない。「昔取った杵柄」か? これなら男女とも、若いころ身につけた技能や知識が、今も通用する、という意味だから、これは良いか)を発揮せず、見て見ぬ振りをするだけの度量を発揮しなければならないだろう。

とはいえ、先のNHKニュース原稿では、接続語として、「そのうえで」が、続けて出てくるなど安易に乱用されているのは、改めた方が良い。重箱の隅を突っつくようで恐縮だが、ニュース原稿は、何より、視聴者に正しいイメージを抱かせる表現に努めてほしい。

とにかく、緊急事態宣言は、相次いで、拡大・延長された。まだ、続く可能性がある。およそ2ヶ月後に迫った東京オリンピック・パラリンピックは、日本国民の多くの声(世論調査の結果など)、世界各国からの声をよそに、準備が進められているように見える。

ローカル放送のテレビが時折伝えているように、聖火リレーの動画ニュースは、開催準備派の「狼煙」のように、テレビ画面に出てくる。菅政権のように、一方で、「緊急事態宣言」というアドバルーンを掲げながら、その隣で、観客のいない公道で繰り広がられる各地の「聖火リレー」という、もう、ほとんど典型的なフェイクニュースになってしまっているアドバルーンを並べて掲げている。

こういうやり方では、政権と国民の間に求心力を生まないだろう。求心力の中心が見えないのだ。これでは求心力を生まないどころか、反発力が強まり、求心力とは真逆の乱気流が生まれてくる。伝えるべき本質的なイメージが伝えられていないのではないか。菅政権は、いくつもの渦巻きの中で、迷走する。税金を使って、全く無駄なことをしている。

菅首相よ! ここは、あなたにとってだけではなく、日本国民にとっても、まさに国家の浮沈をかける「正念場」なのではないのか。オリンピックを開催するか、延期するか、中止するか。政権責任者として政治生命をかけて決断する時期が近づいている。「正念場」に差し掛かっているが、そういう認識が感じられない。

★「正念場」ということ

言葉の意味において、分析しておこう。
「正念場」とは、歌舞伎(かぶき)などで上演される演目の要の場面、芝居の主人公が、その役の本質・性根(しょうね)・役柄を発揮する演技をする、最も重要な場面(山場。人形浄瑠璃なら「一曲」、歌舞伎なら「一場」の最も大切な見せ場のことである)ということになるだろう。

正念場の「正念」とは、「性念」(しょうねん)、あるいは、「性根」(しょうね)ということである。「性」とは、「せい、さが、しょう」。仏教の教えでは、本来具わっている(正しい)性質。生まれつきの固有の性質を肯定する思想。性善説に基づく「本性」(ほんせい、ほんしょう。英語では、 Human Nature)は、人間が普遍的に持つ思考、感覚、行動などを肯定する概念。

歌舞伎の役者たち、あるいは芝居の作者たちは、この「性(しょう)」の演技の是非を観客と共有化するべく、およそ400年間も苦闘してきたし、現在も未来も、未来永劫、苦闘して行くことだろう。菅首相、あるいは、菅政権を牛耳っている人たち(政治家や官僚、財界人など)は、歌舞伎役者のような苦労をしているのだろうか。多分してはいないだろう。いや、しているはずがない。

菅政権やそれを支える人たちが気を遣って情報を発信している姿、つまり、記者を通じて国民に向かって情報を発信する「総理会見」「記者会見」という方式や、(マスメディアの業界用語で)「ぶら下がり」という、立ち話で、即席、臨機に情報を発信する方式を見れば、よく判ると思うが、自分たちの思惑通りにことを操って行こうという「野心」は、見えてくるだろう。しかし、そこに国民の生命や財産、暮らしを優先して守って行こうという意思は、全く感じられない。

情感の伴わない言葉や話し方で、ひたすら「低姿勢」を装って、「丁寧に」(自分らが勝手に思い込んでいる丁寧語なるものを駆使して)、「きちんと」、あるいは、「しっかりと」、「スピード感を持って」(拙速最優先)、「国民の皆さんのご協力をお願いしたい」と、菅も某大臣も、繰り返すばかり。その挙句、中途半端な政策を振り回しても、実効はない。そういう結果を精査もせずに、やはり、また、これも繰り返すばかりではないか。これで、変異株ウイルスのような曲者の対策に勝てるわけがない。

そもそも正念場には、2度目とか、3度目とか、いう場面はないはずである。歌舞伎や人形浄瑠璃の「性根」を演じる場面同様に、「ここぞ」という大事な場面・局面(「政局」というのも、大事な局面)がある。今年中にある「任期満了」を前に、さらに、「総選挙」を前に、ウイルスの息の根を止めて終息させたい。あるいは、コロナ禍を収束させたい。それを選挙に有利になるように使いたい。安倍前首相を軸に自民党から発信されている情念には、それしかないのかもしれない。

今、伝えられている自民党の戦略では、7月以降の東京オリンピック・パラリンピックの「成功」(何があれば、成功というのだろうか。曖昧である)による余韻が冷めないうちに、衆議院解散 → 総選挙で与党勝利を果たし、その後の自民党総裁選挙は、無投票で菅総裁続投を維持する、ということらしい。そういうドリームは、己の当選・落選がはっきり出る場面だから、正夢になるか、逆夢になるか、政治家の皆さんが、身に染みて実感されていることなのだろう。

ここぞ(政治家冥利に尽きるような大事な場面で)、政治家になった真意を発揮する場だと覚悟を決めて、職に殉じるような人物が与党であれ、野党であれ、出てこなければならない場面こそが、「今」ではないのか。

★「インド株」! 最強の変異株ウイルスか

新型コロナウイルスは、目下、難敵は、「インド株」(L452R)と呼ばれるウイルスである。感染力が高く(あるいは、強く)、世代を超えて(老いも若きも)、症状が「重症化」しやすい、という特徴を持つという。コロナウイルスの仲間ながら、従来型のコロナウイルスとは、「全く別のウイルス」という判断を示す専門家も多い。老人(高齢者)や、基礎疾患のある人が重症化しやすい、あるいは、死亡しやすい、と言われた、これまでのウイルスは、「従来型」と呼ばれるようになって、いわば「ランク」を下げることができるようになったらしい。

世代を超えて襲来してくるL452Rコロナウイルスは、最初に確認された国・地域名をとって、「インド株」とか「インド型」と呼ばれる。この変異ウイルスが、日本国内でも確認されるようになってきた、という。今まで猛威を振るっていたN501Yコロナウイルスは、「イギリス型」(あるいは、「イギリス株」)と呼ばれていた。老人などに襲いかかっていた従来型は、退場しつつあり、代わりにインド株(インド型)が、「早替り」(歌舞伎の演出としても、良く使われる)を急いでいるらしいのである。

インド株(型)は、イギリス型より感染力が、1.5倍も強いという。従来型から比べれば、2倍以上の強さだという。

従来株ウイルス罹患でできた免疫の効果もインド株に襲われると、弱まってしまう、という。インド株は、それほどの厄介者であるらしい。さらに怖いことには、人類の側の対応が遅れれば、今はインド株抑制に有効なワクチンも効きにくくなる、新たな変異ウイルスが出現してくるかもしれない、という状況もある、という。

マスメディアは、伝える。新型コロナウイルス 「ベトナム型」が、確認されたという。「ベトナム型」は、「インド型」より、さらに感染力が強い可能性がある、という。「ベトナム型」は、「イギリス型」と「インド型」の変異ウイルスが混ざった形の新たな変異ウイルスで、この新たな変異ウイルスは「インド型にイギリス型の変異が加わったもので、空気中での感染力が強く非常に危険だ」という。
目下、検証中だというから、早晩、実相が見えてくるのではないか。

WHO(世界保健機関)は、「懸念される変異株(VOC)」のリストに、既にインド型を追加し、監視を強めている。

国立感染症研究所の「新型コロナウイルスの新規変異株について」(第7報)を引用したい(2021年3月3日14:00時点)。いわゆるインド株の新型コロナウイルス について、コンパクトながら、判り易く説明していると思う。以下、引用。

ウイルスのヒトへの感染性・伝播のしやすさや、すでに感染した者・ワクチン接種者が獲得した免疫の効果に影響を与える可能性のある遺伝子変異を有する複数の新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)の新規変異株として、特にVOC-202012/01、501Y.V2、501Y.V3の流行が懸念されている。これら3つの変異株を本文書では"VOC"と総称する。いずれも感染性・伝播のしやすさに影響があるとされるN501Y変異を有するが、特にVOC-202012/01については、2次感染率の増加や、死亡リスクの増加の可能性が疫学データから示唆されている。501Y.V2と501Y.V3については、さらに抗原性に影響を与える可能性があるE484K変異も有する。特に501Y.V2については、過去の感染によって得られた免疫や承認されているワクチンによって得られた免疫を回避する可能性が指摘されており、暫定結果ではあるが数社のワクチンでは有効性の低下を認めている。さらには、VOC-202012/01にE484K変異が加わった株も報告されている。これらのVOCの感染者が世界各地から報告され、いくつかの国ではVOCがかなりの割合を占めつつある。
国内においても、VOCの感染者やクラスターの報告が増加しつつあり、VOC感染者の大半は渡航歴が無い。大都市圏を中心に緊急事態宣言が発出され新規感染者が減少傾向の中、VOCの感染者は増加傾向にあり、諸外国と同様に国内でもVOC-202012/01の占める割合が増加していく可能性がある。これらVOCはウイルスの感染・伝播性が増加している可能性があることから、主流株としてまん延した場合には、従来と同様の対策では、これまで以上の患者数や重症者数の増加につながり、医療・公衆衛生体制を急速に圧迫するおそれがある。
以上、引用終わり。

★ 菅政権の問題性

これまでにも、何度か菅政権の問題性を随時書いてきたが、ここまでのところで、菅政権の問題性について、分析をまとめておきたい。

菅首相の説明の特徴は、説明の判りやすさ、具体性を提示することなく、「安心安全」とか「全力を尽くす」とか、抽象的で、その実、中身の無い体育会系の決意表明(これも差別語か?)みたいな言葉をひたすら羅列することである。菅首相から、返信されてくるメッセージは、こうだ。彼は、他人に耳を貸さない。何を言われようと、何が何でも、オリンピック・パラリンピックは、やるんだ。それは決まっている。私が決めたからだ。国民相手に説明する必要はない。既になんども言ったことだ、今更説明なんて、不要だ。皆、なんで判らないのだ。きっと、独りでそう思い込んでいるのだろう。

「為政者は有権者に説明責任を果たさなければならない」(井上達夫東京大学名誉教授・法哲学者。朝日新聞5・27付け朝刊インタビュー記事)、という問いかけは、普通の人に言う時の言葉だ。菅首相に言っても、聞く耳を持っていないだろう。彼は抽象的な言葉で逃げ、説明責任を果たさない。後手後手の施策を繰り返しながらも、間違った前の手(施策)の欠点を分析して見せるようなことはせず、ひたすら、新たな対象に向かって、繰り返し、抽象的な言葉を羅列して、恬として懲りない。

PCR検査を「出し渋り」、結果としてコロナ禍の実態把握を遅らせてしまった。緊急事態宣言を早々と解除し、解除後の、「リバウンド」を大きくさせてしまった。また、逆に、宣言期間だけを延長しただけで、特別の施策は追加せず、宣言の延長効果を有効に活用できなかった。過去のパンデミックの歴史的な経験を辿れば、第一波の後には、第二波が、第二波の後には、第三波が、第三波の後には、第四波が、襲来するし、そのたんびに厄介な性質を強化させている、ということは、容易に想定できたであろうに、先の危機に学ばず、ゴテゴテ(後手後手)で、中途半端な措置を平気でしていた。何度か直面した筈の危機を管理しきれず、毎回、オタオタした態度、表情で、記者会見や「ぶら下がり」の場では、「国民の皆さんのご協力をお願いします」と同じような説明を続けている。自分たちの失敗を認めず、言い訳だけを繰り返している。

井上教授は、専門の「正義論」を持ち出し、次のように述べている。「正義は、(略)自分の他者に対する行動が、たとえ相手の視点に立ったとしても正当化できるか、その反転可能性を自己批判的に吟味してみることである」(前掲、朝日新聞記事)。菅首相の説明は、自分の都合の良いことを、ひたすら彼なりの価値観で「丁寧な説明」と誤解している話法で繰り返し自分勝手に語っているだけに過ぎず、他者の批判を峻拒する、極めて不実な論法の持ち主なのである。「互いに批判し合い、変わってゆく寛容さ」(井上教授、前掲記事)に欠けることばかりやっているから、何度やっても、何をやっても、「ゴテゴテ(後手後手)スガエモン」が、金太郎飴のように顔を出すのである。今回は、菅話法から、菅政権の問題性を書いてみた。

★「面・首・隈 ~続/マスク・考~」

さて、ここで、このコラムの場面は、大きく場面展開をする。
つまり、「道具(注:回り舞台のこと)、鷹揚に回る」(鶴屋南北)というわけだ。

ワクチン接種を済ませれば、マスク無しでも、暮らして行ける、というのは、アメリカのバイデン大統領のスピーチの文句であった。これからマスク無しでも暮らせる国が、増えて行くだろうが、今の日本では、まだ、まだ望みようがない。先の号でも触れたように、日本では、従来の生活慣習から、マスクには、親近性を感じている人が欧米人らよりも多く、ファッショナブルなマスクを含めて、あっと言う間に、それこそ、コロナウイルス よりも、手早く「蔓延」ではなかった、「流行」してきた。

私も、不織布を使った「紙マスク」よりも、洗って、繰り返し使える「布マスク」を愛用していた。しかし、「インド株」の新型コロナウイルスの予防には、布マスクより、紙マスクの方が、効果的だと言う。それも、二枚重ねが効果的らしい。紙マスクなら、医療従事者用の防毒マスクスタイルの紙マスクが、オススメだと言う。「二重マスク」では、息苦しくならないのか。息苦しいといえば、能の面(おもて)は、紐なしで顔を覆うようにつけるため、視界がきかない(面の目の部分に穴が空いているだけ)上に、息苦しいらしい。

さて、ここからは、「大原雄の流儀」。前々号で予告したように、「面・首・隈 ~続/マスク・考~」と題して、能楽や人形浄瑠璃と仮面についてもコロナ禍の中で、考えてみたい。ウイルスの感染を恐れて、顔の口や鼻を覆うマスク。そのマスク論議から始まったこのコラムも、マスクから、仮面(マスク)へ、そして再びマスクへと、話が展開して行く。鬱陶しいコロナ禍から抑圧されぬために、敢えて、横道道草之助(よこみちみちくさのすけ)を気取って、読者の皆さんを「非コロナ社会」も私たちの隣にあるのだと、認識して、敢えて別世界へと迷い込んで戴きたのである。さあ、今回は、どうぞ、こちらの迷い道へも入り込んでください。

★ マスクから仮面(マスク)へ、そしてマスクへ

演者が面(おもて)をつける古典芸能で、私がまず思いついたのは、能である。私は、能に詳しいわけでは無いが、なぜか、能面(のうめん)が脳裏に浮かんできたのである。そう、能は、実は、仮面劇なのである。

仮面劇で使う能面には、次のようなものがある。
能面は、およそ250種類あると言われている。さらに、基本となる能面を絞り込むと、およそ60種類が残る。このうち、室町時代から安土桃山時代に打たれた能面を「本面」と呼ぶ。その後に打たれた面は、この基本形を模倣・再現した能面である。観世、金春、金剛、宝生、喜多など、能の各流派によって、同じ曲でも使われる能面が違う場合もあるが、ここでは、それについては触れない。もっと初歩的な、概説的なことだけを書く。能、歌舞伎、人形浄瑠璃関係のインターネットに溢れる、この種の情報を勝手ながら、いろいろ参考にさせてもらった。いちいち、具体名は挙げないが、ここで、謝意を表しておきたい。

能面は、代表的な「翁」(おきな。能面の中で、最初に作られた面と言われる)、女系の「小面」(こおもて。これ一つで喜怒哀楽という感情を全て表現できる)、男系の「童子」(どうじ)、尉系の「小尉」(こじょう。男の老人。神や精霊の具象化)、怨霊系の「般若」(はんにゃ。死霊、生霊)。神霊系の「怪士」(あやかし。神)、鬼神系の「獅子口」(ししぐち。鬼)など。そのほかは、省略するが、能面は限りある人智を類型化し、有限を無限にかえる面々である。有限は、「幽玄」に通じ、無限は、「夢幻」に通じる、ように思う。

能面をつけた演者が、ひとたび舞台の上に立つと、豊富極まりない表情を表す。例えば、「増女」(ぞうおんな。「小面」、「若女」などのような明るさや愛らしさは無い。神や仏の相の面。曲の主人公は、女神・天女・神仙女など)の場合、うつむいて手で涙を拭くような仕草をすれば、面が泣いているように見える。逆に、面を少し上向き加減にすれば、喜びの表情が浮かび上がるから不思議だ。

自由自在に、微妙ながら心の「裏」の陰影を「表」に表すことができる能面は、まさに裏の心を表の面に描き出す装置というわけである。

能では、面をつけずに演じることもある。全ての役が面をつけるわけではない。「シテ」(主役)と「ツレ」(助演役)の一部だけが面をつけていて、「ワキ」(脇役)は面をつけない。「ワキ」は、観客と同じ立ち位置になるので、面をつけないのである。しかし、主役の「シテ」であっても、面をつけず舞台に立つことがある。これは、「直面(ひためん)」といい、役者は「直面」という面をつけたつもりで演じることになっている。従って、演者の顔は素顔のままで、化粧などはしない。顔も、面の一種というわけだ。それゆえ、顔の表情で何かを表現することも禁じられている。

能では、人間が、ヒトから超能力者に変わるために面をつける、ヒトを強調するために面をつけない、というわけだ。能にとって、「面(マスク)」とは、そういう変身の「装置」なのである。心の裏を表に表す「装置」にあの頃の日本人は、「面(おもて)」という呼び名を与えた。

室町中期から末期にかけて演出が演練されてきた能において、能面は、象徴的で、宗教的な意味をもつ役柄にだけ使用されるのではなく、実在の人間を演じる場合にも使われるようになった。 これは、能の演出で、「幽玄美」を重く扱い、美的表現を強く表すことが求められるようになったからである。このため、演者は、顔の表情の変化や顔の衰えの醜さを隠すことが求められるようになったと言える。

一方、能から生まれた歌舞伎は、なぜ、顔を隠さないのだろうか。
能面という仮面を重視した能に比べると能から生まれたと言える歌舞伎は、仮面を拒否した。武士たちの芸能として権力者に揉まれながら発達した能をアンチとして、歌舞伎は、まず、女たちだけで生まれた。エロチズムを軸に、それを否定する能の対抗装置として、遊女歌舞伎と言われた踊り手の若い女たちの色気を利用した。色気の危険性を危惧した当時の権力者は、遊女歌舞伎を禁止した。
次に生まれたのが、若衆歌舞伎である。これもエロチズムを反権力の装置に使っていたので、若い男たちの色気の発揮は、抑制された。最後に生まれたのが、野郎歌舞伎である。成人男性の役者(オヤジたち)しか認めなければ、色気は出てこないだろうという思惑が権力側にあった。

特に、徳川幕府は、歌舞伎の中に紛れ込むご政道批判の芝居に目を光らせて、取り締まった。芝居の演目も、ご政道批判に通じるお家騒動ものが、取締りの対象となった。武士たちが愛好する能の仮面と違って、歌舞伎では、観客の庶民が仮面を好まなかったのだろう。芝居のストーリーの流れの中で、趣向として仮面を用いる場面は、あったかもしれないが、ほとんどなかったのでは無いか。私の印象では、仮面を使った歌舞伎の場面は、瞬時には思い浮かばない。

その代わり、歌舞伎の隈取の場面なら、いくつも浮かび上がる。「隈取」は、「くまどり」と読む。人間が、生活や人間関係の中で、異様に興奮したり、高揚したりしたときに、顔に血管や筋肉が浮き上がってくる。そういう様を表現するのに、歌舞伎では、化粧を使うのである。

隈取の色は役柄によっておおむね決まっている。「赤色(紅色)」は、荒事の基本である勇気・正義・強さをもった主役に使われ、「藍色」は、スケールの大きな敵役に用いられ、「茶色」は、鬼や妖怪といった人間以外の怪奇な脇役に使われている。隈取の筋は、化粧筆ではなく、役者自身の指でぼかして仕上げる。隈は、同じ演目の中で、時系列で変化する場合もある。仮面より便利だ。

主な隈は、以下の通り。主に、若きヒーローたちの紅隈を紹介しよう。

「むきみ隈」:若々しく色気があり正義感にあふれた役に用いる紅隈。簡素な形が貝のむいた身に似ていることから、名付けられた。『助六由縁江戸桜』の助六が、代表的な役柄。
「一本隈」:力強くて頼りになるが、暴れん坊的な役柄に用いる紅隈。縦に一本の隈を取る。『菅原伝授手習鑑』・「賀の祝」の梅王丸など。
「二本隈」:落ち着きがあり、堂々として力強い大人の役に用いる紅隈。二本の隈を跳ね上げるように「取る」(描く)。あごに青で髭を描き、目尻や唇の内側へは墨を入れる。
「筋隈」:激しい怒りに満ちた、超人的な力を持つ勇者の役に用いる紅隈。いくつもの紅の筋を跳ね上げるように隈を取る。あごに三角形の紅を描き、口角へは墨を入れる。
「赤っ面」:大悪人の家来や手下で、考えの浅い滑稽な乱暴者の役に用いる隈。地色を白ではなく赤(紅)で塗るので、この名が付いた。紅でむきみ隈を取り、あごの下にも紅で隈を取る。

このほかにも、「景清の隈」、「公家荒」、「茶隈」、「猿隈」、「鯰隈」などがある。仮面のように、役柄を表す。

赤色で血管の膨張を表し、青色で筋肉の盛り上がりを表現する。この化粧方法を「隈(くま)」と呼ぶ。普通の化粧をした歌舞伎劇の中で、一味違う極端な化粧の隈取は、「荒事(あらごと)」と呼ばれる江戸歌舞伎の演目の大きな柱となっている。

︎荒事は、歌舞伎独特の演出法。豪傑、神仏、妖魔(ようま)などの超人的な登場人物の強さを表現するために、顔や手足に隈取(くまどり)という化粧を施し、衣装、鬘(かつら)、小道具、所作・動作、発声など、すべて荒事独特の様式性を重視する表現をする。荒事という演目の化粧方法としての隈取は、江戸歌舞伎の宗家と言われる初代團十郎が人形浄瑠璃の人形の首(かしら)にヒントを得て創作したものと言われ、顔の血管や筋肉を誇張するために描かれた。

また、荒事は、通説では、初代市川團十郎が当時流行した金平浄瑠璃(きんぴらじょうるり)にヒントを得て、1673(延宝元)年9月、江戸・中村座上演の『四天王稚立(してんのうおさなだち)』で初めて演じたと言われる。荒事発想の土台には、初期の江戸歌舞伎に多くみられた武士、男伊達(おとこだて)、奴(やっこ)、敵(かたき)などが用いる荒々しい演技があったと言われる。「荒事」の語源には、単に荒っぽいという意味のほか、神が「現れる」ことを意味する「あれる」があると言われ、それが團十郎家の「家の芸」として継承されることになり、ますます演出が洗練され、明瞭になり上方歌舞伎の「和事」、江戸歌舞伎の「荒事」と並び称されるようになり、江戸歌舞伎の大きな特色として定着して行った。

「荒事」の演目のうち、主なものは、以下の通り。
『暫(しばらく)』、『矢の根』など後世の團十郎によって、「歌舞伎十八番」として、演目が整理されたほか、『国性爺(こくせんや)合戦』の和藤内(わとうない)、『菅原伝授手習鑑』・「車引(くるまびき)」の梅王丸・松王丸、『義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)』・「鳥居前(とりいまえ)」の狐忠信(きつねただのぶ)、『伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』・「床下(ゆかした)」の男之助(おとこのすけ)など、多くの役の演出にも、荒事の演出は、利用されている。

なぜ、歌舞伎では、顔に直接「絵」(線描が主)を描くのか。武士に保護されていた能の仮面劇に対抗して、歌舞伎は、庶民の力をバックアップにして、役者の素顔を売り物にして人気を集めて行った、のでは無いか。従って、時折、演じられる荒事は、顔に直接絵を描いた歌舞伎の演目として、能との違いを強調し、観客に認められるようになって行ったものと思われる。

ところで、歌舞伎の隈取という化粧方法は、なぜ、化粧を「隈」というのだろうか。「隈」という字は、本来は「熊」と同じだという。そもそも「熊」という字は、大きく口をあけた動物(特に、クマ)の象形が元になっていると言われる。熊 → 隈。そこから「クマ」は、熊の動作を示す意味を持つようになり、さらに「動作」をするための「能力」を示す漢字(隈)になった、という説があった。おもしろいと思った。歌舞伎では、役者の顔に隈を取ることで、熊にも並ぶ能力を身につけるという願望を込めたのであろう。

こうしてみてくると、マスクは、仮面となり、仮面は、再び、マスクへと変身する。コロナ禍に対抗して長い期間私たちは、マスクをつける生活に慣れてしまったが、マスクは、仮面の一種なのかもしれない。

紙数が尽きようとしている。
今回の最後のテーマは、人形浄瑠璃だ。人形浄瑠璃は、3人の人形遣いが一体の人形を操り、まるで、生きているように、感情を表現する。3人の人形遣いのうち、人形の首を操るのは、主遣いと呼ばれる。人形遣いのリーダー役が担当する。人形の首と右手を操る。残りは、左手を操る左遣い、足を動かす足遣い。

今回の問題設定。人形浄瑠璃にとって、首(かしら)とは何か?
なぜ、「首」という字を「かしら」と読ませるのか。

調べてみたが、判らない。私の推理では、人形の首(かしら)を操る主遣いは、人形の頭だけを動かしているわけではなく、首だけを動かしているわけではなく、首から上と右手を同時に操っている。人形の頭には、鬘(かづら)が、載っているだけで、頭を振るぐらいしか、操る部分がほとんどないのではないか。つまり、人形遣いは、そうすることで、人形の心臓を動かし、左遣いや足遣いに合図(いわば、血流)を送り、人形の全身を動かしているのだろう、と思う。従って、主遣いは、首ではなく、心臓(かしら)を操る、というわけだが、いちいち心臓(かしら)と呼ばせるより、首(かしら)の方が、ピッタとくるので、昔の人たちは、首という字を使って、「かしら」と読ませたのではないか、と思うが、いかがであろうか。

現在、人形浄瑠璃の公演で使用している首は、およそ400だという。そのほとんどが「四代目 大江巳之助」が、戦後に製作したものだ、という。
品位があり、人形遣いの手に合う素晴らしい作品だ、というが、補修管理、製作後継者の育成は、どうなっているのだろうか。

人形浄瑠璃の首は、およそ80種類に分類されている、という。身分、階級、役柄に応じて鬘(かづら)を付け替え、顔色を塗り替えたりして、1つの首でいくつもの役を演じられるようにしている、という。

顔色は、「白」、「薄卵(うすたま)」、「卵(たまご)」、「濃卵(こいたま)」、「猩臙脂(しょうえんじ)」という色を使う。胡粉(ごふん:貝殻を原料とした白い水性の顔料)に混ぜる紅殻(ベんがら:水性の赤い顔料)の割合で色合いが決まってくる、という。

人形は、作り置きをしない、という。公演ごとに役柄に応じ人形師が首を整え、床山(とこやま)さんが髪を結い直し、衣裳方が用意した衣装を人形遣いが着せ付けて、人形を仕上げている、という。

人形浄瑠璃の女形の首は、種類が少なく、20歳代から40歳代までの女性は、「老女形(ふけおやま)」という首で、全てをまかなう。足らざる部部分は、人形遣いの力量でカバーする、という。今年の4月末で、女形遣いの第一人者だった吉田簑助が引退してしまった。4月の最後の舞台は、大阪の国立文楽劇場の舞台であった。簑助は、引退の舞台を東京の国立劇場では、やらないのだろうか。

5月の国立劇場では、コロナ禍の緊急事態宣言を受けて、当初予定していた初日を延期して、五月の人形浄瑠璃公演を5・12に開演した。つまり、公演の前半を休演した。さらに、出演者(人形遣い:玉佳)がコロナに感染していることが確認され、16日の公演が休止となり、さらに以降の上演は中止となってしまった。

女形の首と違って、男を演じる立役の首は、種類が多い。役柄に応じ造作や色をさまざまに変化させることができる、という。

立役の首は、主な役柄は、以下の通り。
文七(ぶんひち)、検非違使(けんびし)、源太(げんた)、若男(わかおとこ)、鬼若(おにわか)、孔明(こうめい)、団七(だんひち)、金時(きんとき)、陀羅助(だらすけ)ほか。このほか、その役専用に作られた首、特殊な仕掛けを施した首などがある。

菅首相の表情は、演説している場面でも、無表情が多く、能の面のように思えるかもしれない。そこで、能の面一覧を探してみたら、雰囲気が似ているものに「鬼神(きじん)面」というのがあった。疫病その他の災難を起こす「災いの鬼」として、ヒトから追い払われる鬼の面と、真逆に、ヒト側に寄り添い、災難を「追い払う方の鬼面」があった。菅首相は、どっちの役割を果たしてくれるだろうか。

私には、菅首相の遠景(ロングショット)は、人形浄瑠璃の、衣装から切り離された時の、孤独な首(かしら)のようにも見える。

付記:
中村吉右衛門。東京・歌舞伎座の出演を終えて、東京のホテルで食事中に吉右衛門は、心臓発作を起こしたが、救急搬送されて、命拾いしたことは、この連載の中でも、既に触れてきた。松竹の予告では、歌舞伎座の七月歌舞伎の第二部で錦之助と一日交代で出演し、舞台復帰する予定だった。「御存鈴ヶ森」で、婿の菊之助(菊五郎の嫡男)の白井権八を相手に、幡随院長兵衛を演じる予定だったのである。しかし、その後も療養中の状況から、今回の舞台復帰を断念したと、松竹は、発表している。松竹の発表文は、次の通り。

*中村吉右衛門は、歌舞伎座「七月大歌舞伎」からの舞台復帰を目指し、都内病院にて療養に専念しておりましたが、その後の経過観察および医師による診察などを総合的に協議した結果、7月以降も引き続き、当面の間、療養に専念する必要があるとの判断にいたりました。

 つきましては、出演を予定しておりました歌舞伎座「七月大歌舞伎」は休演し」ます。以上引用終わり。

「ゆるりと、歌舞伎座(こや)で、あいやしょう」。吉右衛門さん。どうぞ、ご養生を。

人間国宝・上方歌舞伎の代表的な女形役者片岡秀太郎が5・23、大阪・吹田市の自宅において病気で亡くなった。十三代目片岡仁左衛門の次男として生まれ、兄は片岡我當、弟は十五代目片岡仁左衛門。十三代目の薫陶を受けて、はんなりした上方の味わいを身につけ、2019年には、人間国宝となった。例えば、「吉田屋」の奥座敷、秀太郎が舞台に出てくると、秀太郎は、既に男ではなくなっており、「吉田屋」女将・おきさは、まさに、女将そのもの。秀太郎亡き後、私たちは、おきさに、もう出会えなくなった。

七月歌舞伎の予告演目。
第一部:「あんまと泥棒」(異色の歌舞伎役者・中車と松緑。中堅役者の科白のやり取りの妙味)「蜘蛛の絲宿直噺」(猿之助の早替り五役。松緑、中車、梅玉)
第二部:「身替座禅」(白鸚、芝翫による歌舞伎では、珍しい喜劇)「御存鈴ヶ森」(菊之助の白井権八。ゆるりと、江戸で、あいやしょう)
第三部:「雷神不動北山桜」(海老蔵の五役早替り。腰元巻絹・雀右衛門)

 (ジャーナリスト(元NHK社会部記者)、日本ペンクラブ理事、『オルタ広場』編集委員)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧