【コラム】『論語』のわき道(30)

離合

竹本 泰則

 嵯峨野をひとり歩いていた。
 住宅地にさしかかると、道端に立て札が見えた。その中に「離合困難」という文字が少し大きめに朱書きされていた。一瞬「京都でもそうなのか」と驚きのようなものを感じ、それまで休眠状態であったあたまが急に冴えてきた。

 リタイア間際の時期、大分を拠点とする子会社にかかわっていたために、JR日豊本線にはなじみ深くなっていた。この線を走る特急電車に「ソニック」号がある。一日三十本余り運転されているが、下りのほとんどは大分が終点となる。電車が別府を過ぎて大分の手前あたりまで来ると車内に観光案内のような放送が流れていた。ナレーションを担当するのは地元出身の男性俳優だが、その放送の中で「離合」という言葉が紹介されていた。狭い道で自動車同士がすれ違う(行き違う)ことをいう言葉で、これは「大分の方言」だと解説していた。このくだりにはちと問題がある。

 細君は生まれも育ちも北九州市であり、運転免許も同地で得ている。彼女から「離合」という用語を聞いたのは一緒になってからあまり時間も経っていない頃であった。聞きとがめたわたしにむかって彼女は北九州ではそういうと主張した。
 その後、この言葉は交通の分野では全国的に使われる用語らしいことも知った。

 日本の鉄道は単線運転がさほど珍しくない。単線の場合、列車同士の正面衝突を避けるためには対向する列車をうまく行き違うようにしなければならない。駅がそのための場所となることが多く、一方の列車が駅にしばらく停車し、反対方向の列車の到着を待って出発するといったやり方がとられる。しかし駅だけでは間に合わないようなときは、途中に部分的な複線の区間を設けて信号操作などと組み合わせ、上り・下りの混用による衝突を回避している。
 山の上とふもととを結ぶケーブルカーなどに乗ると、中ほどに突然線路が複線となり車両が行き違うようにしている箇所を見ることがある。一般の列車の場合も同様な仕掛けであり、こうした行き違いを「離合」と呼び、そのための機器などを離合設備と呼んでいるようである(列車交換設備ということも)。

 目の前の立て札は京都でも「離合」がごく普通に使われていることを裏づけている。やはり「大分の方言」とする彼の口上は間違っている、そんな気持ちを新たにしながら細君と合うために宿に向かった。

 「離合」は古くからある熟語で『三国志』にも出てくるとのこと。『三国志』は紀元三世紀の中国で、魏・呉・蜀という三つの国が覇を競った時代の歴史をまとめた書物。編者である陳(ちん)寿(じゅ)という人は、邪馬台国の女王・卑弥呼とほぼ同時代といえるのではないかと思えるほど昔の人である。
 言葉としては、文字通り離れたり合ったりすること、分裂と統一といったことを意味するようだ。離合集散という熟語もある。

 この語は『論語』には見かけない。
 孔子さまとお弟子さんたちはずっと離れることなく集い合っていたのだろうか。
 そのことに直接答えてくれるような記述はないが、何となくかするような章句がある。

  子曰く、我に陳(ちん)・蔡(さい)に従いし者は、皆門に及ばざるなり、と

 陳や蔡は、孔子が故国を追われて流浪の旅をする中で訪れた国々で、そこでは孔子たち一行は危機的な目にもあっている。そのような苦難を共にしてきた弟子たちについて孔子が述懐した言葉だと解されている。
 「朱子学」で知られる十二世紀の学者である朱熹は「陳や蔡にまで同行し、ともに苦労した弟子たちは、今やすっかりいなくなった」と解釈しているらしい。一方、朱熹よりずっと古い時代の学者たちは「長い間、一緒に行動してくれた弟子たちは、そのせいで就職、あるいは出世の機会を逃してしまったなぁ」と孔子が詠嘆する言葉にとっているという。

 孔子の弟子は三千人にのぼったとする説がある。この数字が誇大だとしても、一門がそれなりの成長を遂げたのは事実だろう。孔子の死後も、その思想の系譜は途絶えることなく続いているし、枝分かれにつながるような動きや仲間内での勢力争いといったような話題も思い当たらない。そんなことをあれこれ考え合わせると、孔子一門で離合集散がしばしばみられたとは想像しにくい。

 細君との二人旅で、特に行き先が京都となると離合がつきものとなる。
 この都市は人を惹きつける要素をいくつか持っている。ところが細君とわたしでは食いつく餌が全く違う。
 喜々として店内(なか)をのぞき、品物を手に取りながら、店の人と話し込んでいる後ろから「いい加減に切り上げろよ」、「帰るぞ」などとわめくオヤジがいては彼女も楽しいはずがない。もちろん、こちらも興味がないことに長い時間つきあわされてうれしいわけはない。そうこうするうちに離合が珍しくなくなった。朝、宿を出ると離れ離れになり、昼の食事で合う。そのあとはまた離れて、夕食で合うなんていうことをやる。

 この度の京都行きでは、時間が半端なこともあって、初日の行先を二尊院というお寺に絞っていた。
 千二百年も昔に開かれたお寺で、場所は小倉山のふもと。彼の百人一首の宣伝効果で、峰のもみぢ葉が色づくころは観光客が引きも切らぬことだろうが、正月十日過ぎとあれば閑散としていようとの計算だった。
 珍しく細君がつきあうという。嵯峨嵐山の駅を出て歩き始めたが、道のりは結構ありそうだ。余り遠くまでは歩けない彼女は無理と覚ったらしい。幸い、通りにはバス停があった。ここからなら中心部まで難無く帰れる。彼女と離れ一人になった。

 二尊院には嵯峨天皇をはじめ三代の天皇の分骨をおさめる三帝陵があり、ほかに二条家、三条家、鷹司家など、往時の高級貴族一族の墓所も並ぶ。
 社寺仏閣への興味が格別深いわけではない。たとえ有名な人のものであっても、他人のお墓をわざわざ見てまわるなどという趣味もない。それでもこのお寺を訪れたのは伊藤仁斎の墓があるという理由からだった。

 伊藤仁斎は江戸時代前期に生きた人で、商家の生まれながら儒学に通達し、孔子を尊び、こよなく『論語』を愛した人。小林秀雄は『考えるヒント』シリーズの中で「読書の達人」と評している。京都・堀川通の屋敷を私塾にして儒学を講義し、「古義派」と呼ばれる一派をなした(生家の跡地は「古義堂」のあった場所として国指定の史跡になっており、いまもご子孫が住まわれているようだ)。
 その著作は没後間もなく子息の手によって刊行されている。代表作といえる『論語古義』をキーワードにして、地元の図書館の蔵書検索を試すと四種ほどがあがってくる。わが家の本棚にもそのうちの二つが入っている。

 この人のお墓が二尊院にあるということを知って、何かの機会があれば、このお寺を訪れるのもいいなとかねて思っていた。
 予想通り門前には拝観の客はほとんどいなかった。受付で券をちぎるおじさんも、暇をもてあまし気味とみえて、たいそう愛想がいい。
 仁斎の墓所を含めてゆっくりと境内をめぐることができた。

 ホテルに帰って細君と合い、予約しておいた店にゆく。酒を飲みながら、彼女の市内漫歩の話やら、食事を運ぶ亭主の話などを聞くうちに、酒精がまわってしまって離合という言葉のことなどは頭から離れてしまった。

 (「随想を書く会」メンバー)

(2021.11.20)
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