【コラム】
風と土のカルテ(77)

院内で「発掘」された70年前の若月先生の脚本

色平 哲郎

 先ごろ、筆者が勤める佐久総合病院の名誉総長、故・若月俊一が書いた脚本『村のうた』のガリ版刷りが出てきた。1950年に、院内劇団の公演用に書かれたものだ。ガリ版刷りといってもピンとこないかもしれないが、「ロウ紙」と呼ばれる原紙に先が硬い鉄筆で一文字、一文字手で刻み、輪転謄写機で印刷する手法のことだ。1960年代にコピー機が普及するまでは軽印刷の主流だった。

 当時、40歳だった外科医の若月は、既に院長のポストにあり、何年か前に火事で焼け落ちた病棟の再建祝賀会での上演に向けて『村のうた』を書き下ろしていた。若月にとって演劇は、まだ医療との縁が薄く、知識も少なかった山村の人々に、楽しみつつ公衆衛生や保健の知識を伝える大切な手段だった。

 若月は生涯で30本以上の脚本を書いたというが、著作集にも収録されていない脚本がある。『村のうた』もその1つだ。現役の病院劇団部員たちが、佐久総合病院本院の書庫に眠っていた『村のうた』のガリ版刷の、かすれて読めない文字などを補い、台本の形で復刻させた。

 脚本のテーマは、まさにコロナ禍の今にぴったり。赤痢や腸チフスなどの伝染病=感染症がまん延している中、いかに「伝染病棟」を建設するか、というものだ。これら細菌性の感染症は、現代の日本では大きく減ったが、感染症が流行したときの人々の反応や偏見、差別の横行は70年前も現在もあまり変わらない。

●脚本に凝縮された信念

 あらすじはこうだ。戦前から感染者の隔離には「避病舎」が使われてきた。しかし、「近代的設備がない、荒屋にすぎないんですからね。十分に消毒もできない中で、患者は只寝て居るだけ。一日に一回、医者が見廻りに来てブドウ糖をうってくれるだけじゃあ、どうにもならないわね」と看護婦が嘆くほど粗末なもの。そこで院長は、病院の敷地内に「伝染病棟」を建設し、本格的な感染症治療に乗り出そうとする。

 だが、村人は大反対だ。伝染病棟は感染者を集め、わざわざ災厄を呼び込むようなもの。用水路の川上に伝染病棟ができれば、川下の自分たちに害毒が及ぶ、と憤慨する。そんな村人の中にあって、夏季脳炎にかかった弟を避病舎に隔離されたまま亡くした井出という青年は、伝染病棟の建設に賛成する。

 すると、反対の急先鋒、よろず屋の息子が「きさま、村を賣(う)るつもりか」「診療所が大切か。村が大切か」と井出に迫り、仲間を使って殴る蹴るの暴行を加える。古い殻に覆われた村に伝染病棟は無理かと、諦めムードが漂う。

 ところが、よろず屋の一番下の子どもがジフテリアで呼吸困難に陥り、院長に気管切開をしてもらわないと命が危うくなる。よろず屋は平身低頭、「お願いします」と院長に手術を頼む。院長は、避病舎に向かい……。

 場面が変わって、伝染病棟の上棟式。よろず屋は「おめでとうごわすなあ。こんなに早く伝染病棟ができ上るなんで、まるで夢のようですな」と上機嫌だ。院長の手術で末子は助かり、すっかり近代医学の威力に心服。伝染病棟の推進派に変わったのである。

 この脚本には、若月の信念が凝縮されている。脚本の冒頭、東京からきた医師に「あーあー本当に田舎っていやだなあー。本当に百姓の利己心にあー全く、くさらされるよ」と言わせている。

 劇の観客は、当の村人たちである。反発を買っても、とにかく、医療の民主化、近代化を進めたいという思いが、こうした台詞を吐かせたのだろう。それは信念の表出だ。

 (長野県佐久総合病院医師・『オルタ広場』編集委員)

※この記事は著者の許諾を得て『日経メディカル』2020年9月29日号から転載したものですが、文責は『オルタ広場』編集部にあります。
 https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/irohira/202009/567334.html

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