【コラム】槿と桜(26)
金英蘭法とは?
「金英蘭法」とは何か? つい先頃、日本のマスコミでも取り上げられていましたが、あまり大きな反響を呼ばなかったようで、日本ではご存じの方はそう多くないと思います。
一方、韓国ではかなりセンセーショナルに取り上げられてきていて、現在もまだその余波は続いています。でもこうした法律が今になって韓国で定められなければならなくなっていることが日本と韓国の社会・文化風土の違いをよく教えてくれているように思います。
まず「金英蘭法」ですが、この呼び方は実は通称で、「不正請託および金品など授受禁止に関する法律」のことです。わかりやすく言えば、“贈収賄禁止法”あるいは“腐敗防止法”のことです。
韓国では公職についている者の不正、しかもその不正が半端でない事件が頻発していて、2011年当時、国民権益委員長だった、元最高裁判事の金英蘭(김영란)が「公務員の不正な金品授受を防ぐ目的」とした法案を提案しました。当初は「公務員の不正な金品授受」を防ぐことが主たる目的でしたから、公務員の綱紀粛正、腐敗防止法案として一般国民からは理解されていました。
ところがこの法案に対して真っ向から反対したのは公務員たちではなく、法務省でした。結果的にはこの法案はいったん立ち消えとなってしまいました。日本の方には信じられないと思いますが、韓国の公務員は酒食の接待を受けることは、もちろんその程度はありますが、基本的には合法とされてきていました。
金英蘭が2011年に提案した法案では、ある事を成し遂げるために金品を使う代価性や仕事や取引に関係なくても公務員が100万ウォン(現在のレートで約9万2000円)以上の金品や供応を受けた場合は刑事処罰を科すというものでした。
法務省が猛反対した理由が、簡単に言えば「現実的ではない」というものだったのですが、これは私などはよく理解できます。つまり韓国の社会・文化風土をよく示しているからで、韓国はなんと言っても接待文化社会だからです。
日本でもよく“飲みニケーション”などと言われ、職場の上司と部下、あるいは仲間同士が酒食を共にしながら人間関係や仕事を円滑に進める手段としてよく使われます。ただ日本ではこうした場合、たいてい“割り勘”で、上司が多少、多めの金額を出すというのが一般的で、誰もがそれを当然と受けとめています。
でも韓国では違います。
なによりも韓国には伝統的な生活・文化風土に基本的に“割り勘”という考え方がありません。職場での“飲みニケーション”の機会は、日本より多いかもしれません。最近は仲間同士の場合、“割り勘”もありだと聞いたこともありますが、通常はその席でいちばん年長か、肩書がいちばん上の人が全額支払います。もし全額を払わないような上司ですと、部下からは相手にされなくなってしまいます。
ましてや接待を“割り勘”や会費制にするなどというのは、これまでの韓国人の生活習慣からして、あり得ない事柄に映ってしまうというわけです。
それでも政府はいったん立ち消えとなった金英蘭法を基にした法案を、2013年に再度、国会に提出しました。それは韓国にも贈収賄を取り締まる法律はあるにはあるのですが、「賄賂」「供応」の犯罪として処罰されるには、特定の案件で巨額の金銭授受などがあった場合や、政治的、あるいは社会的な大事件に関連して金銭授受があった場合などで、しかもそれがはっきりと確定した時だけに限られていたからです。要するに有って無きがごとき法律だったのです。
こうしてこの法案、すべての公務員と公立企業、国公立の教職員が対象だったはずなのですが、審議が進むにしたがって、いつの間にか社会に与える影響力が大きいとの理由から、マスコミ関係者、私立学校教員とその配偶者までが追加されていきました。さらには個人的な食事の接待や贈り物、慶弔費にまで厳しい制限が加えられてしまいました。
要するに公務員に止まらず、一部の民間人にまで規制対象者が広げられ、かなり徹底した規制枠が設けられることになりました。なんでもこの法律の適用対象者は、国民権益委員会の推計では約400万人。およそ国民の1割に近い人びとになるようです。
それではこの法案、どのような規制を定めているのでしょうか。
公職者が1回100万ウォン(約9万2,000円)、年間合計300万ウォン(約27万円)を超える金品や接待を受けた場合、たとえ職務との関連性はなくても処罰されることになりました。また会食費なら3万ウォン(約2,760円)、贈り物なら5万ウォン(約4,600円)、慶弔費なら10万ウォン(約9,200円)までとされ、それ以上の金額になると処罰対象となります。違反した場合は3年以下の懲役か、3000万ウォン(約270万円)以下の罰金が科せられます。
韓国の物価は日本とほとんど変わりませんから、以上の定められた金額を守るのはかなり大変だろうと思います。
日本の生活に慣れた私でも、贈り物が日本円で約4,500円以下、慶弔費が約9,000円以下となりますと、精一杯のことをしようとする韓国人の精神文化では、相当“うしろめたさ”を感じてしまうだろうと思っています。私自身は韓国に接待文化が根付いていることに対して、それが悪用されない限り、決して悪いものだと思っていません。韓国人の精神の根底には長い間に培われた“助け合いの心”が息づいていて、そこから生まれたものだと思っていますから。
規制対象者がマスコミ関係者、私立学校教員にまで拡大されたため、大韓民国弁護士協会や韓国記者協会などが憲法裁判所に違憲の訴えを起こしましたが、2016年7月28日、韓国の憲法裁判所はこの法律を合憲としました。こうして2カ月後の9月28日に金英蘭法は施行されました。韓国はみずからの伝統的な精神文化に挑戦する新たな戦いを始めたのかもしれません。一部の巨悪を生みだす接待文化を破壊し、新たな社会習慣を建設するために。
韓国経済研究院の試算では、年間約11兆6,000億ウォン(1兆44億円)の経済損失が生じるとし、韓国銀行総裁も「消費にマイナス影響を与える」とし、韓国の経済活動を低下させる可能性を否定していません。それにもかかわらず、この法律を徹底させるためなのでしょう、違反する者を通知する申告制度までが設けられていることに驚かされます。
政府の腐敗防止への断固とした姿勢が窺えます。私は政治家や一部の特権階層の人びとが不正な方法で権力とお金を手にしてきた韓国の接待文化には常々、苦々しい思いを抱いてきましたから、政府が本気でこの法律を徹底させることに賛成です。
ただ一方で、韓国人が接待文化に代わって日本のような“割り勘”文化に転換するにはかなりの時間が必要だと思っています。
その長い道のりの過程で、悪しき接待文化が「上に政策あれば、下に対策あり」式に浸透していくのではないかと心配になります。それと同時に、伝統的な“助け合いの心”に満ちた接待文化は残って欲しいと、やや欲張った思いも抱いています。
いずれにしましても今回のこの法律、どのような効果をもたらすのか、しばらく見守っていくしかないようです。
(大妻女子大学准教授)