【フランスから】

近年のILOを生きた安藤奠之さんの死を悼む

  ジュネ-ブのILO本部で大活躍した紳士(1950-1980年代)
  ~1960年代のILO活動から未来への考察
鈴木 宏昌

 ILO協議会からの通知で、ジュネ-ブのILO本部で活躍され、最近まで元気にILO関連の会議に足を運んでいた安藤奠之さんが97歳で亡くなったことを知った。個人的にショックだった。今年の正月に電話で話をしたときには、昔と少しも変わらず、高齢にもかかわらず元気だなと思い、今年の秋に再会することを楽しみにしていた。死因は老衰と友達が教えてくれたのは救いだった。
 安藤さんは1950年代後半にILO本部の使用者関係局に勤務、1980年代終り(1988年?)に同局の次長の地位で退職し、日本に帰国、その後、数年間、当時の日経連で発展途上国向けの技術援助のアドバイザーを担当した。その後は、悠々自適の年金生活を送っていたが、2000年の初めまでは、ILO関係の会議には頻繁に顔を出し、ILOの活動を見守っていた。
 私が聞いた話では、東大在学当初から国際畑の仕事に就くことを望んでいたそうで、短い期間、ILO東京支局を努めた後、戦後最初の日本人職員の一人として、本部に就職したという。私が初めてILO本部で働きだしたとき(1970年)には、安藤さんはもうすでに使用者関係局のベテラン職員として理事会やILO総会で活躍中であった。私の所属していた局と使用者関係局は、全く異なる職務だったので、仕事の上での接点はなかったが、困ったことがあったときなど安藤さんに助言を求めたりした。安藤さんは、当時10人に満たない日本人職員の中心的存在で、安藤さんのお宅で知り合った労働関係者(年1回開かれるILO総会などへの日本人参加や研究者)も多く、私のその後のキャリアを助けてくれた。

 安藤さんは、何と言っても、紳士で人格者だった。決して自分を自慢することはなく、いつも謙虚ながら、話が上手だった。いつも要点を手短に説明してくれ、実に説得的だった。英語も上手で、フランス語の会話もある程度できたようだ。安藤さんの主な職務は、ILO総会や理事会に参加する使用者代表と連絡をとり、理事会やILO総会の場で使用者代表がグル-プとして行動するのを助ける役であった。守備範囲は主にアジア・パシフィックの使用者代表と連絡をとり、あるときは議論し、あるときにはILO事務局の意向を伝え、説得することだった。日本、インド、フィリッピン、パキスタン、フィジなど多様な背景を持ち、個性の強い人たちを一つにまとめ上げるのは大変な仕事だったと思われる。安藤さんは、そのような仕事をいつも謙虚に、しかも効率的に行っていた。ILOの内部でも、彼の能力を評価する職員が多く、誰からも信頼されていた。

 今回の稿では、安藤さんの死を悼みながら、私が見た1960-1980年代のILOの活動における使用者関代表の役割の変化などを書いてみたい。ただ、安藤さんは自分の仕事に関して話をしない人だったので、使用者関係局の仕事、使用者グル-プの行動などは私の推察なので、かなりバイアスがありうることを許してほしい。

 ILOの3者構成の原則と使用者関係局
 周知のように、ILOは第1次大戦後の1919年に労働者の労働・生活条件の改善を目標として創設された。にもかかわらず、使用者代表が労働者代表と同等の立場でILOの活動に参加するのはなぜだろうか?今ではILO流の3者構成の審議会や会議は一般化しているが、20世紀初めに、国の重要な政策決定に労使代表が加わった例はないと思われる。確かに、当時の西ヨーロッパで大きな労働争議が起きた場合、政府(主に警察)が介入することはあったが、それは個別の労働争議を終わらせるための仲裁の役割でしかなかった。また、多くの産業で、同業者組合などが産業内の競争条件や労働条件を定めていたのも事実だったが、そこには国は直接参加していない。従って、ILOの創設以前に国際労働基準という一種の立法過程に3者構成という枠組みを考えたり、議論した人はないと言える。
 しかし、19世紀後半から20世紀初めにかけて、次第に盛り上がりを見せる国際労働運動があり、また、大戦中国は労働者に大きな犠牲を強いたこともあり、戦後の平和のために、労働者に一種の譲歩が必要という考え方は、西欧諸国のエリ-トが共有していた。さらに、ロシアではボルシェヴィキ革命があり、各国ともその波及を恐れていた。
 ILOを創立するベルサイユ条約の第13編の起草委員会の座長はサムエル・ゴンパ-スであったが、実際に原案を作成したのは英国・フランス代表と言われ、彼らがILOの活動に労働者代表とともに使用者代表の参加を求める草案を書いたと思われている。労働者代表の参加は一種の譲歩だったが、それとのバランスで使用者代表の参加が認められた。その裏には、政治に太いパイプを持つ経営者や経営者団体の働きもあったのだろう(吾郷眞一、「なぜILOは三者構成なのか」、日本労働研究雑誌、2009年4月号〈No.585〉。この結果、ILO総会への参加資格は、必ず政府代表とともに使用者代表と労働者代表からなるとする3者構成が原則となる。
 ILOが活動を始めると、ILOの理事会やILO総会で各国の使用者代表の意見をまとめ、使用者グループとして行動する必要が出てくる。そのため、1920年に国際使用者連盟が設立され、そのパイプ役として、ILO本部内に使用者団体関係局が設けられる。
 国際使用者連盟の主な役割には、ILO理事会における使用者代表の選挙の調整(各地域への配慮、個人の資質と経験)、事務局の提案に対する理事会の使用者グループの対応を定める、ILO総会の場などで、条約案や勧告案に対する使用者グル-プの態度を決める、などがある。パイプ役の使用者関係局は、絶えずILO首脳の考え方と国際使用者連との調整に追われる。この労使関係局の対として、労働者関係局がILO本部に置かれている。
 よく言われているように、労働代表がILOのモーターなのに対し、使用者代表はブレーキの役割を果たす。つまり、理想が先行し、高い水準の国際労働基準を設定すれば、必ずその副作用として、犠牲になる企業や労働者が出てくる。そこで、現実の経済状況をよく知る使用者代表が、事務局がまとめる条約・勧告案に是々非々の対応することになる。

 近年のILOの活動と使用者代表
 私がILO事務局で勤めていた時代(1970-1986年)から比べて、ILOの活動範囲はかなり大きく変化しているようだ。振り返ってみると、歴史的には、ILOは2つの高揚期があった。まず、1919年から1921年へかけてのすさまじい国際労働基準設定の動き、そして1945年から1950年初めまでの時代となる。
 第一期には8時間労働で有名な1号条約、週休、失業などの大量の条約が採択され、当時としてはかなり影響力を持った(その後、労働時間条約は、使用者と政府側の反対が強く、改正が進まない)。第二期には、アメリカの労働組合の強い後押しなどがあり、ILO活動のかなめである結社の自由(87号条約)や団体交渉に関する条約(98号条約)が採択された。
 その後も1950-1960年代にかけては、男女平等賃金、雇用における差別禁止、社会保障の最低基準などの注目すべき国際条約が生まれている。しかし、この時期以降、国際労働基準の動きは鈍くなり、安全衛生とか職業訓練といった技術的な分野が主になる。ILO総会の議題を決めるILO理事会において、政・労・使の立場が鋭く対立する議題を避ける傾向が強くなる。
 この背景には、1960年代から多くの発展途上国が独立し、次第にILOの加盟国の力関係に変化が起きたことがある。もっとも、ILOの活動の方向性に重要な影響を持つ理事会は重要産業国に常任のポストが用意されているので、他の国連機関とは異なり、第三世界が主導権をとることはなかった。それでも発展途上国の増加で、ILO活動の方向は変わってゆく。1960年後半あたりから、ILOの活動、とくに事務局の活動の中心は、国際労働基準設定とその適用の問題から技術援助に移行した。
 1970年代の初めには、世界雇用計画などの花火が打ち上げられ、外部資金を集め、大型ミッションを発展途上国に派遣した(花火は一過性なので、その成果はほとんど残っていない)。さらに、1980年代には、児童労働の廃止に外部資金が集まり、技術援助の大きな項目になったりした。その集大成となったのが1999年の最悪形態の児童労働の廃止条約と言える。

 また、このようなILO活動の技術援助への移行は、先進国(とくにアメリカとイギリス)における経済思想の転換とも関係があるように思われる。サッチャー政権、レーガン大統領が自由主義と市場メカニズムへ回帰を強く主張する中で、ILOの場でも、使用者グループが次第にその流れに乗り、規制色の強い国際労働基準の設定には強く反対することになる。
 私がまだILOに勤めていた時に、雇用終了に関する条約、勧告案が総会の議題にかかり、私たちの課がその責任であったので、ILO総会での議論を聞く機会を持ったが、使用者グループやかなりの政府から条約案に反対の声があったのを憶えている。とくに、解雇の際の立証責任を使用者に課すことに対し、使用者グループの反対が強硬だった。長い議論の上、これらの案は採択される(182号条約・166勧告、1982年)が、この条約をほぼ最後として、先進国の労働市場に直接介入するような案件はILO総会の議題になることはなくなったように思っている。
 今世紀に入ると、アメリカなどの使用者代表が、結社の自由委員会の伝統的な解釈に挑戦し、結社の自由の原則にはストライキ権は含まれないと挑戦するまでになっている(その後、使用者グル-プは停戦を受け入れ、結社の自由委員会は活動を続けているが、問題は解決したわけではない)。その昔、西ヨーロッパの使用者代表が労働者保護に一定の理解を示していたのが、より強硬なアメリカなどの使用者代表が使用者グループ内で多数派になった証であろう。

 ILOの将来に関する期待と危惧
 安藤さんはILOの100周年記念に出された「世界の労働」の記念号にILOへの期待と心配をつづった文を寄稿されたが、私の手元にはないので、再読はできなかった。そこで、安藤さんの回想のために、ここ50年のILOの動きを眺めてきた私の感想をまとめてみたい。多分、そのかなりの部分は安藤さんの考えと重なるのではと考えている。
 振り返り、1970年代のことを思い起こせば、ILOはまだ国際的に一定の影響力を持っていたように思われる。先進国の労働組合は、戦後のピークを過ぎたとはいえ、イギリス、アメリカ、ドイツ,フランスなどで政治的な発言力を持っていた。日本でも、毎年の春闘の成り行きが多くの関係者の関心を集めていた。このような労働界の動きを反映し、ILO内部の労働グループはかなりの発言権を持っていた。使用者側も進歩的な経営者(英・仏・独・北欧)が多く、ILOの場での議論はかみ合っていた。

 それから50年経たILOを取り巻く世界は大きく変化した。まず、アメリカでは、共和党の時代が長く、全体的に保守化し、市場主義の思想が支配している。EUも今世紀になると保守政権がEU委員会などの主流となり、域内の市場統合を推し進め、社会的側面に関する関心は低くなる。
 先進国の労働組合活動は停滞または弱体化した。これまで、ILOの労働側の牽引車だった先進国の労働組合運動は、伝統的な組合の中心だった製造業や公務セクターが雇用を減らしていることもあり、組織率が傾向的に減っている。それに伴い、団体交渉の範囲や影響力が低下している。その反映で、ILOの場でも、労働側の発信力が落ちていると言える。
 使用者代表も難しい問題を抱えている。インターネット関連や多国籍企業は国の枠にとらわれないので、使用者団体自体の統制力は弱くなっている。このように、ILOを取り巻く状況は変化し、一昔前のように、国際労働基準の設定を軸とした伝統的なILO活動は困難となっていると考えざるを得ない。

 では、ILOは今後先細りの将来しかないのだろうか?私はそうは考えない。まず、現在存在している国際労働基準関連の仕事(とくに適用の監視)は今後も継続してゆくだろうし、発展途上国への技術援助(職業訓練、社会的保護や労働分野でアドバイス)も需要が減ることはないだろう。

 しかし、今後ILOが考えるべきことは、3者構成の利を有効に活用することだろうと考える。ILOには労使の代表が政府代表と同等の資格でILOの理事会や総会に直接参加しているという他の国際機関にない利点を今後大いに活用することが必要ではないかと考える。
 ただし、その道は簡単ではないだろう。世界を見渡すと、中国モデルの経済発展にひかれる国が多く、一党独裁の国が発展途上国で増えている。3者構成はそれに対峙する原則である。個人の自由が保障され、複数の価値観を認める民主主義がその根底にある。独裁国は、個人の自由や民主主義を西欧文化の特徴として排斥する傾向があるが、私はそれは普遍的な価値と考える。民主主義を尊重しない限り、結社の自由はなく、国から独立した労働組合や使用者団体は存在できない。

 歴史の置き土産である3者構成の利点を十分に活用するには、いくつかの条件があると考える。まず、多くの国で、労働組合が活気を取り戻し、現実的な提言ができるようになる必要がある。フランスの最近のCGTやFOのように、絶えず改革反対では、ILOでの提言につながらない。使用者側に目を向けると、今後GAFAMに象徴されるインターネット関連の巨大企業をどうILOの枠組みの中に取り込むかという難しい問題がある。これには、アメリカとEUがスクラムを組まなければ実現が難しかろう。

 最後に、ILO自体、3者構成に関する理論武装をする必要があると思われる。100年以上前に、現実的な策として採用された3者構成だが、今日ではなぜ労働者の代表が労働組合なのか、大きなNGOやアソシエーションと労働組合はどう違うのかという疑問に明確に答える必要がある。わが国でも、年々組合組織率が減っているので、なぜ連合がすべての労働者の代表になるのかを深刻に考えるべきだろう。
 とはいえ、ILOが今後発言力を高めるには、3者構成を前面に出すほかないと私は考えている。それなしには、ILOは国連の1専門機関になり、世界に発信する力がなくなる可能性が高い。

 安藤さんの訃報に触発されてこの稿を書き始めたが、大分安藤さんの考え方から逸れたかもしれない。私にとって幸いなのは、安藤さんは温厚な人柄で、人を叱責することはなかったことだろう。

 2023年8月13日、パリ近郊にて、鈴木宏昌(早稲田大学名誉教授、元ILO本部職員)

(2023.8.20)
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