【オルタ広場の視点】

足尾鉱毒事件と女性の闘い 自由民権運動の挫折と海外侵略

仲井 富

◆ 大逆事件と谷中村抹殺 田中カツ夫人やキリスト教矯風会の女たち
◆ 自由民権運動の挫折と女権運動 福田英子など平民社の女
◆ 核燃料処理場を拒否した女性の闘争と原田英祐『土佐路の江藤新平』
◆ 勝海舟が田中正造に与えた書き付けと海舟の非戦論
◆ 日清戦争反対の勝海舟の非戦論と田中正造の日露戦争亡国論

 
●はしがき
 私が社会党本部を辞めたのは1970年4月、公害問題研究会をつくり月刊『環境破壊』を発行してから半世紀になる。以降、公害予防闘争の先駆となった大分県臼杵市の「大阪セメント反対運動」、新潟県上越市の「東北電力発電所反対運動」に深く関わった。幸い二つの闘争は23年の経過を経て勝利した。

 そこで私がみたのは、臼杵市の風成漁民のおっかさんたちの強烈な反対闘争の姿だった。大阪セメントと臼杵市の工事強行に対して、命綱で身体を船に縛り付けて一昼夜、命がけで反対運動を続けた。また上越市の黒井火力反対運動では、婦人行動隊と老人行動隊が主力だった。なぜなら、ここではすでにコンビナートが出来上がっており、男たちはそこで働いていた。婦人と老人が主力になる必然性があったのだ。

 そして2007年ころから、私は明治の自由民権運動と足尾鉱毒事件の現場に赴くようになった。明治の初期から戦後の今日まで続く足尾鉱毒事件こそ、日本の公害問題の原点であることを勉強した。国家権力は戦争と侵略を遂行するために、たとえ反対運動を圧殺しても、農民を殺しても、足尾銅山の利益を守ったのである。さらにこの時代においても、田中正造を支えた多くの女性活動家が存在していたことを知った。

 それは戦後の砂川基地反対闘争、三里塚空港反対闘争にもつながる。たとえ住民を殺しても、政治権力は国益・公益と称し、国家権力、警察権力を総動員して圧殺するものなのである。以下は明治の足尾鉱毒事件以降の出来事の中で私が学んだことである。そしていずれもそこには女性たちの抵抗の歴史があった。明治、大正、昭和、平成、令和と年代は変わったが、明治以降の150年の民衆の抵抗の歴史、とりわけ女の抵抗の歴史を追ってみたい。本稿はその出発点でもある。

◆ 大逆事件と谷中村抹殺 田中カツ夫人やキリスト教矯風会の女たち

 昨年来、あるきっかけで明治の女たちの女権運動、ひいては自由民権運動に興味を抱いた。その理由は二つある。一つは、かねてから考えていた戦後の住民運動の中における女性の闘いの歴史をきちんと位置づけたいということ。もう一つは、戦後の住民運動なるものを考えるうえで、公害問題と住民運動の原点たる明治の足尾鉱毒事件をもう一度自分自身のなかできちんと捉えなおしたいということ、とりわけ、その中における明治の女性の闘いを探ってみたという思いが強くなった。

 九段の千代田区立図書館の男女共同参画室(MIW)を中心として、資料集めや文献の収集にあたっているうちに、どんどん深みにはまっていった。同時に、田中正造の生地である栃木県佐野市などの、足尾鉱毒事件の現地にも、もう一度足を運んでみることにした。旧知の田中正造大学の事務局長・坂原辰男氏を訪ねて、友人の女性研究者とともに、田中の生家や佐野市の記念館、さらに足利市の田中を祀る寺や、足尾鉱毒の救済に奔走したキリスト教矯風会の潮田千勢子の碑などにもお参りした。

 足尾鉱毒事件において、田中正造の妻として生涯、正造の闘いを支え、正造亡き後も毅然たる人生を全うした田中カツ夫人のこと、谷中村が国家権力によって完全に破壊されたあともとどまって戦った少数の農民たち、それを最後まで支えたと言われる、弁護士や福田英子のことなども、改めて掘り起こしてみたいと思うようになった。

◆ 自由民権運動の挫折と女権運動 福田英子など平民社の女たち

 足尾鉱毒事件の歴史を追っていくと、田中正造や女たちのたたかいを抹殺したのは、明治藩閥政権だけでなく、かつての自由民権運動の大隈重信、板垣退助、あるいは平民宰相と言われた原敬たちまで、古河財閥擁護に関与していたことがわかる。田中正造は自由民権運動の出身で、立憲改進党所属の代議士として1890年(明治23年)第一回の帝国議会で当選した。しかし議会では全く孤立した闘いであった。絶望した田中は1901年(明治34年)議員を辞職、同年12月10日、命懸けの明治天皇への直訴を行った。

 自由民権運動の政治家たちが、藩閥政府と財閥の手先となって、足尾銅山の古河市兵衛と結託し、財閥の権益擁護のために民衆運動の唯一の担い手だった田中正造を排除し、足尾鉱毒事件に苦しむ農民を北海道などに追放するという強権政治を行った。谷中村残留農民16戸に対する強制破壊が1907年(明治40年)7月、それと時を同じくして、大逆事件のでっち上げによって、幸徳秋水など社会主義者、無政府主義者を一網打尽にとらえて、死刑12人、無期12人の極刑によって、息の根を止めた。同年12月のことである。
 明治の民衆運動も無産運動も、符節を合わせたように、警察権力と、ときには軍隊の出動をよって鎮圧した。いわば明治の富国強兵と近代化なるものはこのような、民衆運動に対する強権的な圧殺によって成り立ったのである。

 田中正造の明治天皇への直訴は、まさに大事件であった。無関心だったマスコミや世論は沸騰した。とりわけキリスト教矯風会の潮田千勢子などは、被災地の鉱毒を視察し、足尾鉱毒救済会を発足させ、鉱毒に苦しむ現地の農民へ衣類の提供や、子どもを東京に呼んで世話するなどの活動を積極的に行った。また平民社の福田英子などの女性群も同じように被災地救済に立ち上がった。これらは明治初期の自由民権運動に触発された明治の女権運動の系譜につながるものである。男たちの自由民権運動は挫折し、裏切り、権力に取り込まれたが、女権運動は独自の発展を遂げ、田中正造の唯一の援軍として存在し続けた。

・福田 英子[ふくだ ひでこ、慶応元年10月5日(1865年11月22日)-昭和2年(1927年)5月2日]は、江戸時代末期(幕末)から昭和初期にかけての社会運動家。婦人解放運動のさきがけとして知られ、「東洋のジャンヌ・ダルク」と称された。旧姓は景山。

◆ 核燃料処理場を拒否した女性の闘争と原田英祐『土佐路の江藤新平』

 歴史というものは、中央の学者や評論家が書くものだと思っていたが、住民運動で全国を回った経験から、地方にも独自の歴史研究を続ける民間史家の方が多くいることに気付く。2013年春、高知県東洋町の友人、原田英祐さんから『江藤新平の土佐路』なる自費出版の本を送呈された。300頁を超える力作である。原田さんとは、2007年春に全国に喧伝された東洋町の核燃料再処理場誘致問題で取材に行き、はじめてお会いした。
 彼を紹介したのは、かつて徳島県木頭村の村長だった友人の藤田恵さんである。藤田さんも村長時代の二期8年、最大のテーマであった細川内ダム反対の村長として、ついにダム中止という歴史的な勝利を勝ち取った。そういう縁で、東洋町の反対派のリーダーであった原田さんを紹介してくれたのである。

 原田さんに会った2007年は、誘致を決めた元共産党出身の現職町長のリコール闘争の最中だった。闘争の主役はここでも女性たちだった。町長選挙は東洋町の女性たちの立ち上がりを中心にひろがり、ついに町長を退陣に追い込み、選挙に持ち込んだ。ここで反対派が担いだのが元全共闘の沢山保太郎氏(元室戸市議)だった。そしてついに沢山氏が有効投票の7割を獲得する大勝で、核廃棄物処理場を誘致しようとした田島裕基氏を破った。

 その原田さんから前記の『土佐路の江藤新平』が送られてきた。読んで見ると実に面白い。とりわけ土佐の自由民権運動のリーダーたち、板垣退助、有村友造たちの、盟友江藤新平に対する態度が興味深い。彼らは援助を求めてきた江藤を一見、もてなすふりをしながら言を左右して相手にしない。江藤新平一行はやむなく、土佐路を東に向けて阿波徳島に逃れ、東京をめざすが、ついに東洋町甲浦で警吏の手によって捕縛される。江藤らは知らなかったが、高知県令と板垣らは連絡を取り合い、江藤の逃走経路はつぶさに知られていたのである。

 東京に出て一身の釈明をして公正な裁判にかけられることを期待した江藤の思惑は外れ、江藤一行は直ちに熊本に送り返された。佐賀に派遣された裁判長・河野敏謙は江藤新平の元書生だった。中央政府の三条太政大臣の意向を受けていた岩倉具視の密使が、江藤を死刑にするな、という意向を大久保利通に伝えようとしたが、大久保は密使との会見の前に、江藤の死刑判決を河野裁判長に命じたという。河野が「賊魁江藤その方は・・・」と言った時、江藤は「河野、きさまは何の面目あって余にまみゆるか!」と一喝、河野は顔を上げられず、かろうじてその日の裁判を続行したという。

 明治7年4月8日と9日の二日間だけの裁判で結審、13日に斬首のうえ梟首の判決を下し、当日の夕方処刑された。その日の大久保日記には「4月13日、今朝、裁判所へ出席、今朝江藤以下12人の斬刑に付罪文申聞を聞く、江藤醜態笑止なり。今日は都合よく相すみ大安心」と記している。

 最大の政敵を葬った大久保はその後、江藤の梟首の写真を中央政府各省の掲示板に貼らせたたいう。同時に大久保は料亭に行った際、江藤の梟首写真を持ち込んで、芸妓にその写真を買わせたという。新橋の料亭「しらがき」の芸者小禄は、かつて江藤新平にかわいがられていたことから、写真を売るのはやめてほしいと泣いて大久保に哀願したが「芸者の分際で小癪千万」とどなりつけた。
 それを隣りの部屋で聞いていた石川県士族出身の警視庁巡査の島田一郎は、はげしい怒りをもち大久保暗殺を決心した。明治11年5月14日朝、大久保は馬車で出勤途上、島田ら6名によって暗殺され49歳の生涯を閉じた。

・原田 英祐/著『江藤新平の土佐路』自費出版
 問合先:原田 英裕 〒781-7301 高知県東洋町野根丙9901-1
     電話番号 0887-28-1810

◆ 勝海舟が田中正造に与えた書き付けを都立図書館で発見

 2012年に亡くなった河上民雄さんからある会合で、面白い話を聞いたことある。晩年の勝海舟と足尾鉱毒事件に取り組んでいた田中正造との出会いがあった。このとき海舟は田中に対して「このものは百年後の総理大臣なり」という阿弥陀と閻魔にあてた書付を渡した。田中正造はそれを大切し、死の枕辺にも置いていたという。この話は勝海舟全集に出ているはずと教えられた。

 興味をもって広尾の都立図書館を訪ねた。司書の方に調べてもらうとなんと勝海舟全集(講談社刊)なるものは二十五巻もある。このなかから探さなければならない。勝海舟は明治三十二年(1899年)に亡くなっているから、その前あたりの一巻ともうひとつ全集二十二巻の「秘録と随想」の二冊を書庫から出してもらった。最初の一冊にはそれらしきものはない。これは気の遠くなるような作業だなあ、と思いつつ「秘録と随想」を開いた。あった。この本の533ページに載っていた。「百年の後、浄土又地獄江罷越候節は、屹度惣理(総理)に申付候也、半髪老翁請人 勝安芳 阿弥陀、閻魔両執事御中」となっていた。

 解説によるとこの話は雑誌『田中正造と足尾鉱毒事件研究』第四号に田村秀明氏によって紹介されているとあった。早速、国立国会図書館に出かけて借りてきた。田村氏によるとこれは巌本善治編『増補 海舟座談』(岩波文庫)、「明治三十一年六月三十日」(1898年)の項で、海舟は次のように語っている。「田中が夕べ来た。お前は何になるのだというたら、総理大臣というからそれは善い心がけだ、ワシが請判するといって、証文を書いてやった。名宛が、閻魔様、地藏様、勝安芳証としてやった。大層悦んで帰ったよ」。田村氏は「まぎれもなく、海舟がこの日、明治三十一年六月三十日の前日、つまり六月二十九日の夜に書いたのである」と述べている。

・河上 民雄[かわかみ たみお、1925年7月12日-2012年9月22日]は、日本の政治家、歴史学者。衆議院議員(7期)、日本社会党国際局長・東海大学政治経済学部教授を歴任。聖学院大学大学院客員教授、東海大学名誉教授。アメリカ史を専攻。

◆ 日清戦争反対の勝海舟と田中正造の日露戦争亡国論

 『氷川清話』に収録された、勝の発言を見てみると、明治二十七・八年(1894年)の日清戦争に反対の主張を述べている。「朝鮮をバカにするのも、ただ近来のことだヨ。昔は日本文明の種子は、みな朝鮮から輸入したのだからのう」「日清戦争は俺は大反対だったよ。なぜかって兄弟喧嘩だもの、犬も喰わないじゃないか。日本は支那と組んで、商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ」「支那は昔から日本の師ではないか。俺などは維新前から、日清韓三国合従の策を主張して、支那朝鮮の海軍は日本で引受くることを計画したものさ」と日清戦争を否定して日清韓による〈東洋三国同盟〉をと言っている。

 明治37年(1904年)の日露戦争のころには、田中正造も明確に非戦論に立っている。「陸海軍を全廃して軍事費を人民の福祉に振り向けるべきである。皇居からわずか八〇キロ離れた関東の沃野を足尾の鉱毒で荒廃せしめ、幾十万の人民に塗炭の苦しみをさせながら、満州を占領したとて何になる。力をもって得たものは、必ず後日、力をもって奪い返されることは必定である」。
 勝海舟や田中正造の予言は1898年の日清戦争から51年後の1945年の無条件降伏で的中した。日本軍国主義は、沖縄と二つの原爆とで完膚なきまでに叩きのめされ敗北した。この間に日本は台湾併合、朝鮮併合、そして満州国独立と領土拡大をつづけ、ついに1937年のシナ事変、1941年の太平洋戦争へ突入。大敗北で一挙にすべてを失う結果となった。シナ事変から太平洋戦争までの軍人・軍属・民間人の死者310万人余。そのなかで海外戦没者数は240万人(厚生労働省調べ)。

・勝 海舟[かつ かいしゅう、1823年3月12日〈文政6年1月30日〉-1899年〈明治32年〉1月19日]は、江戸時代末期(幕末)から明治時代初期の武士(幕臣)、政治家。位階は正二位、勲等は勲一等、爵位は伯爵。初代海軍卿。山岡鉄舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と呼ばれる。

 (公害問題研究会代表幹事 オルタ編集委員)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧